できるふり、できないふり

 シャワーの温度を三十八度に合わせる。湯気はほどほどにしておく。熱すぎると皮膚の神経が暴走して、午前中いっぱいノイズが残る。肩に湯を落としながら、指先の感覚で温度をもう一度確かめる。これは迷信じゃない。昨日の三十九度は、背中の一点が一日中ざわついた。数字一つで、世界の手触りが変わる。

 歯ブラシはソフト毛。硬い毛先は口内の地獄を呼ぶ。昔、旅行先のコンビニで仕方なくハード毛を買って、口の中が紙やすりみたいに荒れた日を思い出す。今日は同じ失敗をしない。歯磨き粉も“刺激強め”は避ける。ミントの清涼感は、時に刃だ。鏡の隅に貼った付箋に小さく書いてある。「換えブラシ、今週中」。付箋は黄色。黄色は朝の自分にだけ効くサイン色だ。

 服はタグを切る。はさみでプラスチックの糸を静かに切る。縫い目が肩の骨に当たらないカットソーを選ぶ。布の裏側を指で撫でて、段差がないか確認する。誰かに言えば「わがまま」に見える項目は、言わない。言わないで調整する術を、私は習慣として身につけた。わがままじゃない。生存の手順だ。

 出勤前、鏡に向かう。今日の役柄を決める。役名は「オド」。もう一つの役「ナオ」は家に置いていく。両方を抱えたままだと、外の音で身体が裂ける。
 オド設定。声量六割。語尾伸ばし〇・三秒。まばたき遅延プラス〇・二。目線は相手の眉間。会話の先回りはしない。相槌は二拍遅らせる。
 それは“自然さ”の模倣ではない。“自然に見えるための計算”だ。仮面は見えない。けれど、表情筋と舌の位置と喉の開きに刻まれている。鏡の前で頬の筋肉を一度だけ震わせ、固定する。筋肉が「了解」と小さく答える感覚がある。

 玄関で靴を履く前、胸ポケットの確認。白ノートの切れ端が四つ折りで入っている。「三コール」「言い切り一回」「笑顔減らす」「ありがとうは必要な分だけ」。小さい紙のくせに、私の今日の範囲を決める。

 電車で立つ位置は、扉から三歩、壁の手前。誰かの鞄が当たりづらい地点。吊革は斜めに握る。肩が触れたら先に言う。「すみません」。二回で足りなければ三回。「大丈夫ですか?」と言われたら、微笑して「はい」を付ける。無闇に説明しない。説明は護身で、同時に消耗だ。体力は夕方まで持たせる。

 会社に入ると、ロビーの空気はまだ朝の冷たさを保っていた。受付のパネルに社員証をかざす時、端に光る緑のラインが一瞬だけ遅れる。ほんの〇・一秒。その遅れに心拍が触れる。私は一度深呼吸して、オドの肩を下げる。

 午前十時、突発の来客。事前に共有されていないスケジュールは、私にとって横から突然現れる穴だ。応接までの廊下を歩きながら、仮面の紐を指先で確かめる気持ちで顎の角度を調整する。笑顔を先に仕掛ける。沈黙を笑顔で埋める。それは逃げではない。緩衝材だ。

 「こんにちは。先ほどお電話した件で」
 名刺の角に指先を合わせて受け取る。軽い会釈。
 「彼女、可愛いね」
 客が上司に言う。耳の奥で乾いた音が鳴る。私は笑顔を保持したまま、内側で距離を測る。可愛いというラベルが生む扱いの軽さ。心は男性であること。言うべき場面と、今日の場面。
 今日は沈黙を選ぶ。説明の準備はある。けれど、消耗の予算は限られている。ここでは払わない。私は「お水、どうぞ」とだけ言って、テーブルにコップを置く。指の腹がガラスの縁でひんやりする。温度の差が、私に戻す境界線になる。

 用件は短く、しかし声は長かった。相槌は二拍遅れを守る。遅らせることで“落ち着き”のラベルを先に貼らせる。オドとしての私は、相手のペースに合わせるのではなく、相手のペースに「合わせているように見える」位置で止まる。
 会話の終わり、客がふとこちらを見る。「君、どこの部署?」
 「総務です」
 「へえ、丁寧だね」
 「ありがとうございます」
 語尾〇・三秒。笑顔は維持。目線は眉間。二秒。
 客が去ると、頬の筋肉の固定を外す。頬が軽い痙攣を起こす。筋肉は正直だ。張っていたものを戻すと、必ず小さく震える。震えは、働いた証拠。悪くない。

 昼前、空調の風向きが変わる。冷風が背中の一点に当たり始める。感覚過敏は、最初はさざなみくらいの強さで来る。放置すると、午後の前半で頭痛の芽が出る。芽は早めに摘む。
 「少し、席を外します」
 柔らかい声で担当に告げる。休憩室まで歩くあいだ、舌の位置を上顎の付け根に置く。心拍を落とす姿勢。自販機で冷たいお茶を買う。ペットボトルを額にあてる。目を閉じる。二分。
 黒ノートに短く書く。「#風:敵 #シェルター:冷」。
 戻る前に鏡を一度見る。顔色は悪くない。戻る。
 ――戻る、という語は嘘だ。元の場所は残っていない。いつも、似た場所を作り直して、そこに“現れる”。現れ直すたび、仮面は少しずつ上手になる。

 午後一番、電話が重なる。二コールをまたぐ。三つ目で受話器を取る。
 「総務の安西です」
 「至急確認したいことが」
 「承知しました。三十分ほどお時間をください」
 “今から”を避ける。避けるのは回避ではない。自分の歩幅で歩くための道路工事だ。
 受話器を置くと、上司が振り返る。
 「助かるよ、安西さん」
「いえ。二重確認で進めます」
 言い切り。オドの口でも、できるだけ簡潔に。
 上司は頷き、またモニターに戻った。こちらに残るのは、椅子のきしみと空調のわずかな唸りだけ。

 午後三時。Slackの雑談スレが賑わう。
 「近所のカフェの新作、うまい」
 「猫の写真」
 「今度の飲み会、どこ行く」
 オドは既読をつけて、反応スタンプを三つ選ぶ。言語参加はしない。“感じがいい”印象を損なわずに、エネルギー消費を抑える配慮。スタンプは笑顔、OK、コーヒー。コーヒーのスタンプを押しながら、カップの描き込みの丁寧さに一瞬だけ救われる。丁寧に描かれたものは、こちらの体温をほんの少し回復させる。

 夕方、定例のチャンネルに通知が落ちる。理紗さんからのメンション。
 「直ちゃん、この前言ってた交流会、やっぱり来てよ。顔出すだけでも」
 “ナオ”の声が喉まで上がる。行かない、と言いかける。けれど、飲み込む。オドの立場で返信する。
 「……緊張するけど、考えてみます」
 理紗さんのアイコンがすぐに「いいね」を返してくる。実物の顔も、たぶん今うれしそうにほころんでいる。善意に対して怒りを向けられない苦しさが、胸の中で氷みたいに軋む。怒りは誰かを傷つけるためにあるわけじゃないのに、向けた先でいつも誰かが傷つく気がして、私は矢印を自分に向け直す。

 帰り際、エレベーターの鏡に映る自分。仕事用の薄い口紅、整えた前髪。見慣れた顔。けれど、どこかで知らない表情が混ざっている。誰だ。鏡の中の私は、こちらに問い返すみたいに目を細める。
 「誰?」
 口には出さない。オドは答えを持たない。答えは家に置いてきた。エレベーターが一階に着くと、鏡の中の私はもう何も言わなかった。

 帰宅。靴を脱いで、手を洗って、電気を少し落とす。白ノートを開く。「演技の更新」と書かれたページ。今日の行動を反芻して、次の手を決める。
 ・来客応対時、声量+一〇%。
 ・「大丈夫ですか?」に「はい」だけで返さない。「ありがとうございます」を付与。
 ・名刺受け取りの角度、左四十五度→三十五度(丁寧すぎる印象を減らす)。
 ・笑顔のキープ時間、四秒→三秒。
 ・Slackの反応スタンプ、三つ→二つ(消費調整)。
 演技は鍛えられる。鍛えられてしまう。鍛えるほど、ナオの筋肉は落ちる。使っていない筋肉は、自然と痩せる。私はペン先で紙の端を軽く叩きながら、痩せる場所と鍛える場所の配分を考える。身体の話ではない。生き方の話だ。

 黒ノートにペンを移す。今日の言葉のトゲと、その時の身体反応を書き留める。
 「可愛いね」→頬の固定、心拍+三、呼吸浅く。
 「丁寧だね」→胸骨の内側が軽く熱い、手のひらに汗。
 「顔出すだけでも」→喉の奥が乾く、こめかみ鈍痛。
 短い記号で矢印を引く。「言葉→体」。わかる形にしておく。私の敵は、曖昧さだ。曖昧は時に優しいが、正確に対処できない。
 ページの下に、見出しだけ書く。
 「#君たちが思う障がい者って」
 そこから先の言葉は、今は刃が立ちすぎている。勢いで振れば、自分も切る。だから今日は見出しだけ。次の章への火種として温存する。火は、夜の明かりにもなるが、紙を食うのも速い。取り扱い注意。

 風が出てきたのか、窓の隙間が小さく鳴く。ソファに座って靴下を脱ぐ。指先が少しむくんでいて、糸の跡がくっきり残る。これも記録に値する身体の事実だ。明日は薄手の靴下にする。こうやって一つずつ、外界との摩擦を調整していく。
 調整は、わがままではない。生き延びるための図面だ。図面は他人に見せるためのものじゃない。施工する人間が読めればいい。私の現場監督は、私だ。

 夜も更けて、台所で湯を沸かす。湯気は性格がない。まっすぐ上って、どこかでほどける。湯気を見ていると、頭の中の線がいくつか整列する。
 湯呑みを両手で包む。温度は三十八度に似ている。朝決めた数字が、夜に返ってくるのは、少し笑える。笑うと、今日減らした回数のうちの一つが増える。増えた笑顔に意味をつけない。意味をつけるのは、明日のノートの役目だ。

 布団に入る前、鏡の前で一分だけ立つ。オドを外した顔の確認。頬の固定を解き、眉の角度を元に戻す。舌を下げ、喉を開く。
 「……」
 声は出さない。出さないまま、目を閉じる。
 仮面は今日も役に立った。役に立つたび、仮面は馴染む。馴染むたび、外し方を忘れる。忘れる前に、書く。
 白ノートの最後の行に小さく書く。
 「仮面=嘘ではない/合図。合図がないより、あるほうが迷わない」
 ペンを置くと、指の関節が軽く鳴った。骨は正直だ。骨の正直さに寄りかかって、電気を消す。

 翌朝。アラームの二分前に目が覚める。シャワーの温度は三十八度。歯ブラシはソフト毛。服のタグは切ってある。私は鏡の前に立ち、今日のオドをもう一度設定する。
 声量六割。語尾〇・三秒。まばたき遅延〇・二。眉間。相槌二拍。
 背後の窓の外、雲が薄く切れている。天気は良さそうだ。
 「行くよ」
 声に出す。ナオの声ではない。オドの、しかし少しだけ低い声。
 玄関のドアを閉める音が、いつもより柔らかく聞こえた。
 柔らかさの正体は分からない。分からないけれど、今日はそれでいい。分からないままでも歩けるようにするのが、仮面をかぶる技術の、いちばん大事なところだから。

 会社に着くと、午前の空調はちょうどいい。背中に風は当たらない。私は自席に座り、モニターをつける。今日のタスクを三つに分ける。三つが限界だ。四つは崩れる。崩れた自分を立て直すのに、明日の分の体力が要る。
 電話が鳴る。二コール。三コール。
 「総務の安西です」
 相手の声が、昨日より少し柔らかい。何がどう、とは言えない。ただ、柔らかい。
 「ありがとうございます」
 私はそう言って、メモに短く記す。
 「柔:相手の声」
 意味づけはしない。意味は急ぐと痛む。今日はただ、「柔らかかった」とだけ残す。柔らかさの記録は、明日の自分のための薄い毛布になる。毛布は、夏でも役に立つ夜がある。

 昼過ぎ、理紗さんが通りかかる。
 「直ちゃん、今日、顔色いいね」
 「そう見えますか」
 「うん。なんか、安心した」
 「ありがとうございます」
 語尾を〇・二秒に短くした。三から二へ。ほんの一呼吸。
 理紗さんは行ってしまう。背中に残るのは、靴音と香水の薄い残り香。善意の匂いは嫌いじゃない。檻の形をしている日もあるけれど、鍵にだって匂いはある。匂いがある鍵は、見つけやすい。

 夕方、日報を送る。送信の前に、一文を足す。
 「明日から、確認の手順をテンプレート化します」
 言い切り。今日の一回。
 送信ボタンを押す指は、震えない。震えない時は、震えさせない。震えが必要な場面は、自分で選ぶ。
 画面を閉じる。机を拭く。ペンをペン立てに戻す。
 帰り支度の最後に、黒ノートを開く。
 ページの上の見出しが目に入る。
 「#君たちが思う障がい者って」
 今夜は、その続きを書かない。書きたい衝動はある。あるけれど、刃の角度がまだ鋭い。研ぎすぎた刃は、鞘を裂く。今日の私は、鞘を大事にする。
 ノートを閉じる。
 閉じる音が、小さく、きれいだった。
 きれいな音は、今日の合図。
 合図に従い、私は立ち上がる。
 オドの肩をほんの少し下ろす。
 ナオの声は、玄関まで連れて行かない。
 明日の分だけ、喉の奥にしまっておく。
 喉の奥の小さな引き出しを、指先で確かめる。
 鍵は、今は私が持っている。
 そのことだけを確かめて、私はエレベーターに乗った。
 鏡の中の私は、こちらを見ていた。
 誰だろう、と問いかける目に、私は短く頷く。
 「私だよ」
 声は出さない。
 でも、鏡は分かってくれた気がした。
 それで今日は、十分だ。