朝礼の輪は、いつも同じ速さで回る。掛け声、ラジオ体操の楽曲、笑うところで笑う人の位置。私は輪の外側に立つ。声出し担当に当たらない立ち位置は、床の模様で覚えた。非常口マークの三歩手前、柱の影の角度がちょうど顔を半分隠すあたり。そこだと、目が合わない。目が合わないのは、今日の私には都合がいい。
新任の課長が輪の中心で手を叩く。軽い音が天井へ跳ねて、また降りてくる。
「多様性の時代だからね」
課長はそう言う。声は明るく、言葉は軽やかに滑る。「誰でも活躍できる職場に」
拍手。周囲の掌の音に、私の掌も合わせる。音が合うと安心される。
そのすぐあと、冗談が飛ぶ。
「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」
笑いがひと呼吸遅れて波立つ。
私は笑って頷く。枠の内側に身体を畳む。枠の外に立つ姿勢は、今日の私には用意されていない。
メモを握る手に汗がにじむ。紙は湿ると強くなる。破れにくくなるのが、少し好きだ。
自席に戻ると、午前のメニューはデータ整理。整然と並ぶ行と列は、今日の私にやさしい。順番に従えば、たいていのものは収まる。収まらないのは、突発の電話。電話は私の耳から侵入して、頭の中の配線を少しだけ焼く。その焼け跡は、午後まで痛い。
片耳にイヤホンをさす。音楽は流さない。侵入経路を塞ぐための栓としてそこにある。画面の端に小さく付箋を貼る。「電話は二コール以内で取らない」。
二コールで取ると「機敏」に見える。機敏は次の期待を呼ぶ。期待は峰の位置を上げる。峰の位置が上がると、そこから転げ落ちたときの音も大きい。だから三コール目に柔らかい声で出る。すると「慎重で丁寧」に見える。ラベルは貼ってもらうより、自分で選びたい。選べるものが少ないほど、選んだラベルは強くなる。
画面の中の数字は、私に従順だ。セルを跨いで数式を引き、桁を揃え、端を整える。整う音はしないのに、耳の奥で確かに何かが「カチ」と鳴る。
「直ちゃん、体調どう?」
総務の古川理紗さんがデスクの淵に手を置いて覗く。
「大丈夫です。ありがとうございます」
語尾を柔らかく落とす。相手の目は眉間の一センチ下まで。二秒。
「無理しないでね」
理紗さんの「無理しないで」は、優しい。優しい言葉は檻の形をしている。金属ではない。肉眼で見えない柔らかな格子。肩にふわりとかけられるひざ掛けのふりをして、動ける範囲を静かに狭める。
「はい」
私は笑って頷く。笑って頷くと、檻はますます私にぴったり合う。“ぴったり”は安全の別名だ。
十時。電話が鳴る。一度目の呼び出しの間に、私はカーソルを保存ボタンの上で止める。二度目の呼び出しで、画面を閉じる。三度目、受話器を持ち上げる。
「お電話ありがとうございます。総務の安西です」
声の高さを半段落とす。
「あの書類、急ぎで……」
依頼者の早口の波を、メモの線で受け止める。復唱は一つ飛ばす。すべてを復唱すると、安心されすぎて、次からも電話が来る。安心は時々、呼び水だ。
「承知しました。お時間、少しいただいてもいいですか」
「いつまで?」
「本日中に」
“今すぐ”と言わない。言えばできる。できると、できる扱いが続く。できる扱いは、私の身体をゆっくりと削る。
受話器を置くと、心拍が二つ早い。椅子の背に一度もたれて、視界の端に観葉植物の緑を入れる。葉の縁は鋸のように波打っている。その規則が目を落ち着かせる。
昼。食堂は油と湯気の匂いで満ちている。席を選ぶとき、私は壁側に座る。背中を空間に向けるのは苦手だ。向けると、背中の皮膚に目が生えたみたいに騒がしい。
理紗さんがトレイを持って向かいに座る。
「直ちゃん、無理しないでね」
今日は朝にもらった言葉を、昼にもらう。
「ありがとうございます」
スプーンで味噌汁の表面を一度だけ撫でる。油が小さく割れて、またくっつく。
「今度、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」
「えっと……人前は苦手で」
台本の通りに断る。
「だよね」
理紗さんは笑って、納得する。
“納得の容易さ”が、演技の成功を証明してしまう。うまくやれている、と確認できる。うまくやれてしまう自分が、時々嫌いだ。嫌いは、でも、役に立つ。嫌いの正体を眺めると、危ない場所がわかる。そこを避けて歩くのが、今日の生き残り方だ。
食後の廊下は明るい。窓からの光で床に四角い列ができる。四角を踏まないように歩くと、気持ちが整う。
社内チャットが鳴る。若手のアイコンが小さく跳ねる。
安西さん、資料の精度すごいですね。
褒められることは嫌いではない。息が少しだけ温かくなる。
続けて一文。
障がいがあるのに、努力していて尊敬します。
“のに”。
平仮名三文字が膝の上に落ちる。落ちて、重さだけが残る。
「ありがとうございます、まだまだです」
返してから、膝の上で手を強く握る。強く握ると、人差し指の骨の角がはっきり分かる。骨の形は嘘をつかない。その硬さに、今だけ寄りかかる。
私が演じている“わかりやすい弱さ”は、相手の中にあるステレオタイプを健全化する危険を持っている。知っている。それでも、演じなければ「障がい者に甘えてる?」という刃が戻る。二択の拷問。刃と檻。どちらに触れても痛む。
午後三時。コピー機の前で紙を揃えていると、背後で誰かが小さく噂をする。
「直ちゃんって、落ち着いてていいよね」
「うん、控えめで優しい感じ」
優しい、という形容は、私の周囲にクッションを置く。クッションは転ばないように置かれる。転ばないのはいいことだ。けれど、走れない距離が増える。
私は紙束の角を揃えながら、呼吸の速度を落とす。角がぴたりと揃う瞬間の音を、耳の奥で聞く。音はしない。けれど私は聞く。自分が整えたという感覚は、耳に似ている。
定時。デスクの引き出しを閉める。机の上に付箋を残す。「明日:電話三コール」。この小さな字を明日の私が見つけることで、明日が少し安全になる。
帰路はバスを選ぶ。座席の布は、洗剤と古い日光の匂い。前方に公共広告が貼ってある。
障害は個性。
軽い標語に、苛立ちが走る。個性と言い換えられたとき、制度や構造の責任はどこへ行くのか。言葉が軽いと、誰かが楽になる。楽になる誰かの顔は、たいてい善良だ。
黒ノートを膝に開く。
#効用:攻撃回避。
#代償:偏見維持。
両者を天秤に置く。今日も前者を選んだ自分を責めるのはやめよう、と書き足す。
“やめよう”。
自己慰撫の言葉は柔らかい。柔らかいのに、どこか嘘の匂いがする。
窓の外、夕焼けの色が看板の角で折れる。折れ目に影が溜まる。影は、私の中にも同じ形で溜まる。
部屋に戻る。玄関で靴を脱ぐ時間を長めにとる。靴の縁に指をかけ、ゆっくり引き抜く。ゆっくりやると、身体が温度を取り戻す。
白ノートを開く。今日の作戦の欄に、新しい行を入れる。
明日は“ゆっくり話す”比率を下げ、言い切り文を一回だけ入れる。
小さな反逆。仮面の内側に、素顔が呼吸する隙間を一ミリだけ作る試み。
鉛筆で線を一本引く。線は短い。短い線でも、明日はそこを目指せる。目指す地点がある日は、夜が少し軽い。
冷蔵庫の中身は少ない。豆腐、卵、ポン酢。豆腐を皿に移し、ねぎを散らす。咀嚼の回数を数える。数えると、胃の中の気配が穏やかになる。
スマホのタイムラインに記事が流れてくる。
発達障害女性の成功体験。
眩しい見出しの中に、整った笑顔と達成の言葉。
彼女たちの努力は尊い。尊いのに、私はざわつく。
社会は“頑張ればできる”の物語だけを選んで増幅し、“できない日の現実”を切り捨てる。切り捨てられた現実は、雨の日に置き去りにされた傘みたいに、誰かの足元で静かに濡れている。
画面を閉じる。
窓を開ける。夜の空気が、部屋の壁紙の匂いを薄める。遠くで犬が吠える。風の音。
静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。
呼吸が少しだけ深くなる。
「俺は明日、言い切りを一回だけ言う」
暗闇に向かって、低く短い宣言。声は部屋の角でほどける。ほどけた音は、床に沈んで見えなくなる。見えないのに、たしかにそこにある。
翌朝。朝礼の輪は、やはり同じ速さで回る。私は外側に立つ。非常口マークの三歩手前。柱の影の角度。
「直ちゃん、声出しお願いしていい?」
いつもと違う声が飛ぶ。新任の課長がこちらを見る。
胸の奥の歯車が一つ、逆回転する。
「……はい」
声は少し震えた。震えたのに、私の足は前に出る。
全員の視線が一斉にこちらに集まる。光が反射して、瞳の中が明るい。
「おはようございます」
言い切りの形を探す。探しながら、見つける。
「今日の安全目標は、『確認を一度で終わらせず、二重に行う』です」
語尾を伸ばさず、まっすぐ置く。
空気が少しだけ揺れる。
「ありがとうございます」
課長の声が被る。
私は持ち場に戻る。心拍のリズムが乱れて、耳の奥が熱い。
でも、言えた。一回。
付箋に小さく書く。
言い切り×1。成功。
“成功”の二文字を、自分で与える。誰かからの評価ではなく、今日の私から今日の私へ。
午前の電話は、三回鳴った。私は三回目で出た。「安西です」
「至急、お願い」
「至急ですか。午後一でお持ちします」
“今すぐ”と言わないことを、今日も選ぶ。選ぶことそのものが、身体の体温を保つ。
エクセルのセルの端にカーソルを置く。角が黒く太る。小さな四角が、今日の私の四角だ。
昼、食堂の湯気。理紗さんがまた言う。
「直ちゃん、無理しないでね」
返事をする前に、私の舌の上に言い切りの形が乗る。
「大丈夫です。必要なときは、私から言います」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
理紗さんが少し目を丸くして、それから微笑んだ。
「うん、分かった」
椀の表面の油がまた割れて、くっつく。くっつく線が、さっきの言葉をなぞる。
言い切り×2。成功。
付箋に書く。指先が少し震える。震えは緊張だ。緊張は、まだ正しく生きているという証明に見える。
午後、社内チャットのDM。
安西さん、お願いしていた件、助かりました。
ありがとうございます、と返す前に、画面の向こうの誰かが続ける。
障がいがあるのに、ほんとに助かります。
“のに”。
私は一度だけ目を閉じる。まぶたの裏に血の色が広がる。
そして、タイピングする。
「こちらこそ。配慮をいただきながら成果を出せるよう、進めています」
“配慮”という語を自分の口から出す。自分の口から出すと、その言葉は少し私のものになる。他人の口から出された“のに”よりも、少しだけ重さを変えられる。
夕方、小さなミスを一つだけ見つける。小数点の桁が一つずれている。誰も気づかないだろう。気づかれないミスは、時々、必要だ。完璧に仕上げると、ラベルが外れる。外れたラベルの代わりに貼られるのは、素顔だ。素顔は、刃の前に立つには薄い。
私は桁を直す。直して、備考欄に「再確認済み」と書く。
今日は、演技で守るより、作業で守る。守り方は一つじゃない。守り方の種類を増やすことが、私の生存戦略の更新になる。
退勤時間。バスの窓に顔を映す。映る顔は“感じがいい”の角度から、ほんの少しだけずれている。ずれは、今日の言い切りの分だけだ。
広告の「障害は個性」が、夕日の色を吸って淡くなっている。
黒ノートをまた膝に開く。
#効用:攻撃回避。
#代償:偏見維持。
行の間に、一行を差し込む。
#微調整:自己定義の奪還(1ミリ)。
一ミリ。笑ってしまうほど小さい。けれど、一ミリずれると、次の日の立ち位置はもう同じ場所じゃない。非常口マークの三歩手前が、二歩半になる日がいつか来るかもしれない。私がそれを見落とさなければ。
夜。部屋の明かりは低い。白ノートに、明日の作戦を書く。
・ゆっくり比率をさらに下げる(二割→一割)。
・言い切り文をもう一回。
・「無理しないで」に対して「必要なときは伝えます」を固定文に。
・電話は三コール。
箇条書きの最後に、ひとつだけ線を引かない項目を置く。
・笑顔の回数、減らす。
笑顔は鍵。鍵を持つのは私。でも、鍵を回すのは、私だけじゃない日がある。鍵穴の位置を私が決められる日を、増やしたい。
シャワーを浴びる。三十八度。水滴の音がタイルの上で規則正しく跳ねる。数えない。数えないことを選ぶ夜もある。数えないと、身体のほうが勝手に数をやめる。
ベッドに入って、暗闇に向かって言う。
「俺は、明日も一回、言い切る」
今日は“俺”で言った。
カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に薄い四角を描く。四角は昼の床と違って、踏めない。踏めない四角を見るのは、案外安心する。
胸の真ん中で、小さな音がする。
それは、明日の合図みたいに聞こえた。
翌日、朝礼の輪は相変わらず回る。非常口マークの手前に立つ。私は二歩半で止まる。昨日より半歩、内側。
課長がまた言う。
「多様性の時代だからね」
言葉は、昨日と同じ速さで滑る。
私は、昨日とは違う速さで頷く。頷きの角度が、少しだけ小さい。
「安西さん、昨日の資料、助かったよ」
「いえ。次回は、確認の手順を最初から二重にします」
言い切り×3。成功。
誰も拍手はしない。しないけれど、私の内側で小さな拍手の音がした。耳の奥、骨の間。
“普通のふり”は今日も効いている。効いているからこそ、私は一ミリずつ配合を変える。ふりをやめる勇気は、まだない。やめない選択は、恥ではない。やめないことで生きられるなら、それでいい。
でも、一ミリのずれは、私が私に返す小さなプレゼントだ。
たとえそれが、誰の目にも見えないとしても。
見えないまま、明日の私を暖める種火になる。
私の胸の中で、火はまだ小さい。けれど、消えない。
消えない火の前で、私はノートを閉じ、ゆっくり息を吸う。
息を吐く。
それから、笑わずに廊下を歩く。
笑わない私を、誰も責めなかった。
誰も気づかなかった。
それでいい。今日は、それで十分だ。
十分という言葉を、私は今日の最後の付箋に書いた。
付箋は小さい。小さいけれど、紙は湿ると強い。
今日も少し汗を吸って、角がやわらかい。
やわらかい角は、指に馴染む。
その感触のまま、私は定時を越えない時間にパソコンを閉じた。
閉じた音が、やけにきれいに響いた。
きれいな音は、今日の終わりの合図だ。
合図に従って、私は帰る。
帰る場所が一つでもあるのは、やっぱり強い。
その強さに少しだけ甘えて、私はバスの席で目を閉じる。
目を閉じたまま、次の一ミリのことを考える。
明日も、言い切りを一回。
それだけ。
それだけを、私は今日の私に約束した。
新任の課長が輪の中心で手を叩く。軽い音が天井へ跳ねて、また降りてくる。
「多様性の時代だからね」
課長はそう言う。声は明るく、言葉は軽やかに滑る。「誰でも活躍できる職場に」
拍手。周囲の掌の音に、私の掌も合わせる。音が合うと安心される。
そのすぐあと、冗談が飛ぶ。
「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」
笑いがひと呼吸遅れて波立つ。
私は笑って頷く。枠の内側に身体を畳む。枠の外に立つ姿勢は、今日の私には用意されていない。
メモを握る手に汗がにじむ。紙は湿ると強くなる。破れにくくなるのが、少し好きだ。
自席に戻ると、午前のメニューはデータ整理。整然と並ぶ行と列は、今日の私にやさしい。順番に従えば、たいていのものは収まる。収まらないのは、突発の電話。電話は私の耳から侵入して、頭の中の配線を少しだけ焼く。その焼け跡は、午後まで痛い。
片耳にイヤホンをさす。音楽は流さない。侵入経路を塞ぐための栓としてそこにある。画面の端に小さく付箋を貼る。「電話は二コール以内で取らない」。
二コールで取ると「機敏」に見える。機敏は次の期待を呼ぶ。期待は峰の位置を上げる。峰の位置が上がると、そこから転げ落ちたときの音も大きい。だから三コール目に柔らかい声で出る。すると「慎重で丁寧」に見える。ラベルは貼ってもらうより、自分で選びたい。選べるものが少ないほど、選んだラベルは強くなる。
画面の中の数字は、私に従順だ。セルを跨いで数式を引き、桁を揃え、端を整える。整う音はしないのに、耳の奥で確かに何かが「カチ」と鳴る。
「直ちゃん、体調どう?」
総務の古川理紗さんがデスクの淵に手を置いて覗く。
「大丈夫です。ありがとうございます」
語尾を柔らかく落とす。相手の目は眉間の一センチ下まで。二秒。
「無理しないでね」
理紗さんの「無理しないで」は、優しい。優しい言葉は檻の形をしている。金属ではない。肉眼で見えない柔らかな格子。肩にふわりとかけられるひざ掛けのふりをして、動ける範囲を静かに狭める。
「はい」
私は笑って頷く。笑って頷くと、檻はますます私にぴったり合う。“ぴったり”は安全の別名だ。
十時。電話が鳴る。一度目の呼び出しの間に、私はカーソルを保存ボタンの上で止める。二度目の呼び出しで、画面を閉じる。三度目、受話器を持ち上げる。
「お電話ありがとうございます。総務の安西です」
声の高さを半段落とす。
「あの書類、急ぎで……」
依頼者の早口の波を、メモの線で受け止める。復唱は一つ飛ばす。すべてを復唱すると、安心されすぎて、次からも電話が来る。安心は時々、呼び水だ。
「承知しました。お時間、少しいただいてもいいですか」
「いつまで?」
「本日中に」
“今すぐ”と言わない。言えばできる。できると、できる扱いが続く。できる扱いは、私の身体をゆっくりと削る。
受話器を置くと、心拍が二つ早い。椅子の背に一度もたれて、視界の端に観葉植物の緑を入れる。葉の縁は鋸のように波打っている。その規則が目を落ち着かせる。
昼。食堂は油と湯気の匂いで満ちている。席を選ぶとき、私は壁側に座る。背中を空間に向けるのは苦手だ。向けると、背中の皮膚に目が生えたみたいに騒がしい。
理紗さんがトレイを持って向かいに座る。
「直ちゃん、無理しないでね」
今日は朝にもらった言葉を、昼にもらう。
「ありがとうございます」
スプーンで味噌汁の表面を一度だけ撫でる。油が小さく割れて、またくっつく。
「今度、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」
「えっと……人前は苦手で」
台本の通りに断る。
「だよね」
理紗さんは笑って、納得する。
“納得の容易さ”が、演技の成功を証明してしまう。うまくやれている、と確認できる。うまくやれてしまう自分が、時々嫌いだ。嫌いは、でも、役に立つ。嫌いの正体を眺めると、危ない場所がわかる。そこを避けて歩くのが、今日の生き残り方だ。
食後の廊下は明るい。窓からの光で床に四角い列ができる。四角を踏まないように歩くと、気持ちが整う。
社内チャットが鳴る。若手のアイコンが小さく跳ねる。
安西さん、資料の精度すごいですね。
褒められることは嫌いではない。息が少しだけ温かくなる。
続けて一文。
障がいがあるのに、努力していて尊敬します。
“のに”。
平仮名三文字が膝の上に落ちる。落ちて、重さだけが残る。
「ありがとうございます、まだまだです」
返してから、膝の上で手を強く握る。強く握ると、人差し指の骨の角がはっきり分かる。骨の形は嘘をつかない。その硬さに、今だけ寄りかかる。
私が演じている“わかりやすい弱さ”は、相手の中にあるステレオタイプを健全化する危険を持っている。知っている。それでも、演じなければ「障がい者に甘えてる?」という刃が戻る。二択の拷問。刃と檻。どちらに触れても痛む。
午後三時。コピー機の前で紙を揃えていると、背後で誰かが小さく噂をする。
「直ちゃんって、落ち着いてていいよね」
「うん、控えめで優しい感じ」
優しい、という形容は、私の周囲にクッションを置く。クッションは転ばないように置かれる。転ばないのはいいことだ。けれど、走れない距離が増える。
私は紙束の角を揃えながら、呼吸の速度を落とす。角がぴたりと揃う瞬間の音を、耳の奥で聞く。音はしない。けれど私は聞く。自分が整えたという感覚は、耳に似ている。
定時。デスクの引き出しを閉める。机の上に付箋を残す。「明日:電話三コール」。この小さな字を明日の私が見つけることで、明日が少し安全になる。
帰路はバスを選ぶ。座席の布は、洗剤と古い日光の匂い。前方に公共広告が貼ってある。
障害は個性。
軽い標語に、苛立ちが走る。個性と言い換えられたとき、制度や構造の責任はどこへ行くのか。言葉が軽いと、誰かが楽になる。楽になる誰かの顔は、たいてい善良だ。
黒ノートを膝に開く。
#効用:攻撃回避。
#代償:偏見維持。
両者を天秤に置く。今日も前者を選んだ自分を責めるのはやめよう、と書き足す。
“やめよう”。
自己慰撫の言葉は柔らかい。柔らかいのに、どこか嘘の匂いがする。
窓の外、夕焼けの色が看板の角で折れる。折れ目に影が溜まる。影は、私の中にも同じ形で溜まる。
部屋に戻る。玄関で靴を脱ぐ時間を長めにとる。靴の縁に指をかけ、ゆっくり引き抜く。ゆっくりやると、身体が温度を取り戻す。
白ノートを開く。今日の作戦の欄に、新しい行を入れる。
明日は“ゆっくり話す”比率を下げ、言い切り文を一回だけ入れる。
小さな反逆。仮面の内側に、素顔が呼吸する隙間を一ミリだけ作る試み。
鉛筆で線を一本引く。線は短い。短い線でも、明日はそこを目指せる。目指す地点がある日は、夜が少し軽い。
冷蔵庫の中身は少ない。豆腐、卵、ポン酢。豆腐を皿に移し、ねぎを散らす。咀嚼の回数を数える。数えると、胃の中の気配が穏やかになる。
スマホのタイムラインに記事が流れてくる。
発達障害女性の成功体験。
眩しい見出しの中に、整った笑顔と達成の言葉。
彼女たちの努力は尊い。尊いのに、私はざわつく。
社会は“頑張ればできる”の物語だけを選んで増幅し、“できない日の現実”を切り捨てる。切り捨てられた現実は、雨の日に置き去りにされた傘みたいに、誰かの足元で静かに濡れている。
画面を閉じる。
窓を開ける。夜の空気が、部屋の壁紙の匂いを薄める。遠くで犬が吠える。風の音。
静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。
呼吸が少しだけ深くなる。
「俺は明日、言い切りを一回だけ言う」
暗闇に向かって、低く短い宣言。声は部屋の角でほどける。ほどけた音は、床に沈んで見えなくなる。見えないのに、たしかにそこにある。
翌朝。朝礼の輪は、やはり同じ速さで回る。私は外側に立つ。非常口マークの三歩手前。柱の影の角度。
「直ちゃん、声出しお願いしていい?」
いつもと違う声が飛ぶ。新任の課長がこちらを見る。
胸の奥の歯車が一つ、逆回転する。
「……はい」
声は少し震えた。震えたのに、私の足は前に出る。
全員の視線が一斉にこちらに集まる。光が反射して、瞳の中が明るい。
「おはようございます」
言い切りの形を探す。探しながら、見つける。
「今日の安全目標は、『確認を一度で終わらせず、二重に行う』です」
語尾を伸ばさず、まっすぐ置く。
空気が少しだけ揺れる。
「ありがとうございます」
課長の声が被る。
私は持ち場に戻る。心拍のリズムが乱れて、耳の奥が熱い。
でも、言えた。一回。
付箋に小さく書く。
言い切り×1。成功。
“成功”の二文字を、自分で与える。誰かからの評価ではなく、今日の私から今日の私へ。
午前の電話は、三回鳴った。私は三回目で出た。「安西です」
「至急、お願い」
「至急ですか。午後一でお持ちします」
“今すぐ”と言わないことを、今日も選ぶ。選ぶことそのものが、身体の体温を保つ。
エクセルのセルの端にカーソルを置く。角が黒く太る。小さな四角が、今日の私の四角だ。
昼、食堂の湯気。理紗さんがまた言う。
「直ちゃん、無理しないでね」
返事をする前に、私の舌の上に言い切りの形が乗る。
「大丈夫です。必要なときは、私から言います」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
理紗さんが少し目を丸くして、それから微笑んだ。
「うん、分かった」
椀の表面の油がまた割れて、くっつく。くっつく線が、さっきの言葉をなぞる。
言い切り×2。成功。
付箋に書く。指先が少し震える。震えは緊張だ。緊張は、まだ正しく生きているという証明に見える。
午後、社内チャットのDM。
安西さん、お願いしていた件、助かりました。
ありがとうございます、と返す前に、画面の向こうの誰かが続ける。
障がいがあるのに、ほんとに助かります。
“のに”。
私は一度だけ目を閉じる。まぶたの裏に血の色が広がる。
そして、タイピングする。
「こちらこそ。配慮をいただきながら成果を出せるよう、進めています」
“配慮”という語を自分の口から出す。自分の口から出すと、その言葉は少し私のものになる。他人の口から出された“のに”よりも、少しだけ重さを変えられる。
夕方、小さなミスを一つだけ見つける。小数点の桁が一つずれている。誰も気づかないだろう。気づかれないミスは、時々、必要だ。完璧に仕上げると、ラベルが外れる。外れたラベルの代わりに貼られるのは、素顔だ。素顔は、刃の前に立つには薄い。
私は桁を直す。直して、備考欄に「再確認済み」と書く。
今日は、演技で守るより、作業で守る。守り方は一つじゃない。守り方の種類を増やすことが、私の生存戦略の更新になる。
退勤時間。バスの窓に顔を映す。映る顔は“感じがいい”の角度から、ほんの少しだけずれている。ずれは、今日の言い切りの分だけだ。
広告の「障害は個性」が、夕日の色を吸って淡くなっている。
黒ノートをまた膝に開く。
#効用:攻撃回避。
#代償:偏見維持。
行の間に、一行を差し込む。
#微調整:自己定義の奪還(1ミリ)。
一ミリ。笑ってしまうほど小さい。けれど、一ミリずれると、次の日の立ち位置はもう同じ場所じゃない。非常口マークの三歩手前が、二歩半になる日がいつか来るかもしれない。私がそれを見落とさなければ。
夜。部屋の明かりは低い。白ノートに、明日の作戦を書く。
・ゆっくり比率をさらに下げる(二割→一割)。
・言い切り文をもう一回。
・「無理しないで」に対して「必要なときは伝えます」を固定文に。
・電話は三コール。
箇条書きの最後に、ひとつだけ線を引かない項目を置く。
・笑顔の回数、減らす。
笑顔は鍵。鍵を持つのは私。でも、鍵を回すのは、私だけじゃない日がある。鍵穴の位置を私が決められる日を、増やしたい。
シャワーを浴びる。三十八度。水滴の音がタイルの上で規則正しく跳ねる。数えない。数えないことを選ぶ夜もある。数えないと、身体のほうが勝手に数をやめる。
ベッドに入って、暗闇に向かって言う。
「俺は、明日も一回、言い切る」
今日は“俺”で言った。
カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に薄い四角を描く。四角は昼の床と違って、踏めない。踏めない四角を見るのは、案外安心する。
胸の真ん中で、小さな音がする。
それは、明日の合図みたいに聞こえた。
翌日、朝礼の輪は相変わらず回る。非常口マークの手前に立つ。私は二歩半で止まる。昨日より半歩、内側。
課長がまた言う。
「多様性の時代だからね」
言葉は、昨日と同じ速さで滑る。
私は、昨日とは違う速さで頷く。頷きの角度が、少しだけ小さい。
「安西さん、昨日の資料、助かったよ」
「いえ。次回は、確認の手順を最初から二重にします」
言い切り×3。成功。
誰も拍手はしない。しないけれど、私の内側で小さな拍手の音がした。耳の奥、骨の間。
“普通のふり”は今日も効いている。効いているからこそ、私は一ミリずつ配合を変える。ふりをやめる勇気は、まだない。やめない選択は、恥ではない。やめないことで生きられるなら、それでいい。
でも、一ミリのずれは、私が私に返す小さなプレゼントだ。
たとえそれが、誰の目にも見えないとしても。
見えないまま、明日の私を暖める種火になる。
私の胸の中で、火はまだ小さい。けれど、消えない。
消えない火の前で、私はノートを閉じ、ゆっくり息を吸う。
息を吐く。
それから、笑わずに廊下を歩く。
笑わない私を、誰も責めなかった。
誰も気づかなかった。
それでいい。今日は、それで十分だ。
十分という言葉を、私は今日の最後の付箋に書いた。
付箋は小さい。小さいけれど、紙は湿ると強い。
今日も少し汗を吸って、角がやわらかい。
やわらかい角は、指に馴染む。
その感触のまま、私は定時を越えない時間にパソコンを閉じた。
閉じた音が、やけにきれいに響いた。
きれいな音は、今日の終わりの合図だ。
合図に従って、私は帰る。
帰る場所が一つでもあるのは、やっぱり強い。
その強さに少しだけ甘えて、私はバスの席で目を閉じる。
目を閉じたまま、次の一ミリのことを考える。
明日も、言い切りを一回。
それだけ。
それだけを、私は今日の私に約束した。
