春の朝の光は、部屋の埃を一本一本照らし出していた。窓を三センチだけ開けると、薄く冷たい空気がじわりと流れ込んで、カーテンの裾がほとんど見えない幅で揺れた。机の上には黒と白のノート。どちらもページは塗りつぶされた地図みたいに文字で真っ黒で、角は柔らかくすり減っている。黒は観測の記録。白は役柄の指示。長い間、ふたつのノートは、世界と自分の間にある通訳だった。
安西直は、鏡の前に立ち、両肩を一度上げてから下ろした。喉の奥で声を鳴らしてみる。かすれ気味の高い声はすぐに、咳払いひとつで消える。胸の真ん中で、小さな圧が跳ねた。久しぶりに、あの音の練習をしようとした。語尾を柔らかく伸ばす、目線を指先に逃がす、笑いを一拍遅らせる。いくつかの筋肉が、昔の順番を思い出したがって動いたが、身体が先に止めた。
違う、と鏡の中の自分が言った。音にはならなかったが、口の形がそう告げた。仮面をかぶる練習じゃない。仮面を外したまま、生きる練習だ。
額の前で両手を軽く合わせ、息を吐く。机に座って、白いノートの最後のページに今日の予定を三行だけ書いた。小さな出版社の校正の面接。場所、時刻、持ち物。字は落ち着いている。落ち着いている字を見て、自分が少し落ち着く。黒いノートは閉じたままにしておく。今日は観測よりも、生活の側に寄りたい。
スマホが震えた。鈴木からだった。面接、がんばらないで。短い文章が、画面の白の上ですうっと光った。指が自然に返事を打つ。がんばらない練習中。送信してから、ほんの少しだけ笑った。この笑い方は、誰かに見せるための形じゃない。筋肉が勝手に選んだ動きだ。
アパートを出ると、桜が散り始めていた。ひらひら落ちる花びらは、空気の中で進路を迷っているように見える。昨日と同じ風が、今日も吹いているとは限らない。駅までの道、ベビーカーを押す人の横を通る。車輪が段差で一瞬止まり、持ち上げられて進む。持ち上げる力は、いつも誰かの手から出ている。見えないところで、たくさんの動きがかみ合って、朝になる。
電車の座席に腰を下ろすと、向かいの席の子どもがじっとこちらを見た。目はまっすぐで、まぶたの上に薄い影。子どもが首だけで母親の方を向いて、小さな声で聞く。女の人。母親は笑って、そうよ、と答えた。安西はうなずくでも否定するでもなく、視線を受け止めた。喉の奥に、昔なら即座に作られた言い訳の粒が転がったが、舌でそれを押しつぶした。誰の定義にも属さずにいる時間は、長くは続かない。それでも、その数秒を持ち歩くことならできる。
出版社は、線路沿いの古いビルの三階にあった。階段の踊り場に、印刷会社の匂いがうっすら残っている。紙とインクと、古い机の油の混ざった匂い。扉を押すと、小さな風鈴のような音が鳴った。受付はない。正面の棚には、背の高い校正ゲラが束で刺さっていて、手書きの付箋が色とりどりに揺れていた。
眼鏡の中年男性が奥から出てきた。薄いグレーのカーディガンを着て、赤い鉛筆を耳に挟んでいる。
「履歴書、拝見しました。前職は一般企業?」
「はい。…でも少し疲れてしまって」
「うちも小さい会社だから、無理はさせませんよ。校正は目と根気の仕事ですし」
声は低くやわらかい。適温の湯みたいに、耳の中で広がる。椅子に座ると、木の脚が床を軽く鳴らした。面接官は名刺を差し出し、自分の名前を名乗った。編集長ではなく、校了前の現場を取り仕切る人らしい。名刺の角はすこし丸まっていた。仕事中に何度も出し入れされた紙は、紙の形を失って、人に寄る。
「校正の経験は?」
「未経験です。…けど、書類の誤字脱字を探すのは、昔からよくやってました」
「いいですね。好きな作業は強い」
面接官は笑い、机の上に三枚のゲラを置いた。見開きの雑誌記事。地名や固有名詞が多い。本文の端に小さな丸が印刷されている。丸を辿ると、目が一段ずつ降りていく。降りていく間に、頭の中で微かな音階ができる。規則は音に変わると、覚えやすい。
「よかったら、五分。目に付いたところにチェックを。正解はひとつじゃありません」
赤い鉛筆を受け取った。手が震えない。震えない手に驚いて、もう一度、鉛筆を握り直す。指の腹が紙に乗る。紙は静かだ。静かだから、文字だけが立ち上がる。
一行目、町名の漢字が古い表記で印刷されていた。行政の表記は新しいはず。欄外に統一と書き、赤で二重線を引く。句読点の間隔がそこだけ広い。活版の名残を真似たレイアウトかもしれないが、他は現代の文だ。詰める。ふたつ目の段落で、人物名のふりがなが本文と違っている。本文はユウキ、ふりがなはユキ。赤の波線。三つ目、写真キャプションの西暦に桁の誤植。薄い数字の違和感は、昔から目の横で光る。桁を直す。……五分は、案外すぐだった。鉛筆を置くと、肩の力が少し抜けた。目の奥は疲れていない。むしろ、視界が新しい紙で掃除されたみたいにクリアだ。
「助かる指摘です。これは、たぶんお願いできますね」
面接官は言いながら、ふと何か思い出したように、眼鏡の位置を直した。
「もし差し支えなければ、勤務のペースとか、配慮してほしいことがあれば、最初に言ってください。うちは人数が少ないぶん、決めるのも早いので」
その言い方は、こちらの言葉を先回りしない。安西は一呼吸置いて、言った。
「電話は苦手です。着信が重なると頭が真っ白になってしまう。でも、メールやチャットに切り替えれば、たぶん大丈夫です。あと、空調の風が直接当たる場所は避けたいです」
面接官は頷いて、手元のメモにさらさらと書いた。
「オッケー。電話は基本的に編集が受けます。校正の連絡はほぼチャットですし、席も窓側なら風が穏やか。空調は好きに切り替えてください。温度でも人間関係でも」
温度でも、という一言に小さく救われた。話す自分の声が、自然に出ている。自然という言葉に、まだ抵抗はある。でも今日の声は、誰にも借りていない。
面接は短く終わった。採用云々の話は、その日のうちに連絡します、と言われた。玄関の風鈴がまた軽く鳴った。外へ出ると、風が髪を揺らした。春の匂いがした。甘い匂いと土の匂いの境目に、曖昧な線が引かれている。
駅に戻る途中、小さな喫茶店の前で立ち止まった。ガラス越しに、小皿に盛られたクッキーと、濃い色のコーヒーが見える。店内は静かで、椅子の背もたれが全部同じ方向を向いている。知らない場所の規則は怖いが、椅子の向きが揃っている店は、たいてい大丈夫だ。押し戸を静かに開け、カウンターのいちばん端に座る。
ブレンドを頼み、鞄から白いノートを出す。先ほどの面接の言葉を、流れに沿って短く並べる。無理はさせませんよ、の行に丸を付け、温度でも人間関係でも、に二本線。仮面という言葉が、頭の中でうっすらぼやける。ぼやけた輪郭は、嫌いじゃない。輪郭が曖昧なものは、許しやすい。
扉が開いて、年配の女性が入ってきた。店主と親しげに挨拶を交わし、新聞を取り、コーヒーを頼む。女性がこちらの方をちらりと見て、目が合った。昔なら、目を逸らす練習をしただろう。今は、そのまま頷いた。女性は少し驚いたようにしてから、小さく会釈した。それだけのやり取りで、胸の中のどこかが少し暖まる。あたたかいは、少し痛い。少し痛いは、生きてる。
コーヒーは苦く、後味にわずかな甘さが残った。舌の奥で、その甘さの線を指でなぞるように感じていると、スマホが震えた。見慣れない番号だった。脳が一瞬固まり、指の先まで冷える。でも、鳴り続ける着信のリズムに合わせて心拍を揃える。二コールを待ち、受ける。
「出版社の者です。先ほどはありがとうございました。もしよろしければ、来週から週三回、午前中四時間で始められますか。初日はオリエンテーションだけで」
「…はい」
声が高くならないようにゆっくり言う。嬉しいとき、昔の自分は高くなる癖があった。高い声は、演技に似る。今は低めに、短く。面接官は詳細を伝えてから、最後に言った。
「契約書の文言、気になるところがあれば赤を入れてください。校正さんの最初の仕事です」
笑いながら電話は切れた。通話を終えて、しばらく何も動けなかった。嬉しいは、静かにやって来るときがある。静かな嬉しさは、身体の形を変えない。そのまま、少しだけ中身を増やす。
外へ出ると、桜は昼の光の中で色を薄めて、風に混ざっていた。駅までの道を、わざと遠回りする。古本屋の前を通り、裏通りで小さな花屋の前を通る。店先に並んだ白いチューリップの花粉が、つぼみの奥で黄色く眠っている。花屋の女性が水を替え、茎を斜めに切る。その手つきは、鈴木の言う自然の定義に似ている。負担が少ない手つき。繰り返される手つき。
電車の座席に座ると、午前の子どもはいなかった。代わりに、老人が目を閉じている。頬に深い筋。手には紙袋。人はそれぞれの荷物を持って、乗り降りを繰り返す。駅に着くたび、誰かが消え、誰かが現れる。視界の端でその入れ替わりを見ていると、自分が大きな機械の歯車のひとつではないことが、少しだけ信じられる。
家に帰ると、部屋の匂いが迎えた。紙と鉛筆とコーヒー。それに、今日は新しく、印刷所のインクの影がうっすら混じっている気がする。靴を脱ぎ、コートを椅子の背に掛け、窓を三センチだけ開ける。風が頬に触れる。頬の内側の筋肉が、自然に緩む。
机に向かい、白いノートの最終ページを開く。ペン先が、紙に触れる。書く。生存戦略の終焉。生活の開始。仮面をかぶる練習=生きる練習。文字は、紙の上でゆっくり乾く。乾く間に、書いた自分と読んだ自分が少しずれる。そのズレに指を添える。ズレは、なくさなくていい。世界と自分の間には、いつも少し隙間があって、その隙間に風が通る。その風で、今日の言葉が冷えすぎない。
スマホが小さく鳴った。鈴木から、声のメッセージ。再生ボタンを押す。かすかな雑音の後に、落ち着いた声が流れた。
「おつかれさま。たぶん、うまくいってる。うまくいってなくても、うまくいくようになるやつだと思う。おやすみ」
短い言葉が、部屋の中で静かに広がる。録音された声には、今この瞬間の温度がない。けれど、そこにあった温度の痕跡はある。痕跡は、今の空気の中で別の形に変わる。安西はスマホを伏せ、窓の外を見た。夕方の色が、街の角からじわじわと侵入してきて、物の輪郭を柔らかくしていく。
黒いノートを開く。最後のページは空白だった。その空白は、昔の自分なら怖かっただろう。書くことがない、という恐怖。今は違う。書くことがないわけじゃない。書く順番が、生活の方に移っただけだ。黒いノートの端に、小さく書く。今日一日で経験した音。風鈴。鉛筆のこすれる音。紙袋のくしゃり。桜が窓枠に当たって落ちる、小さな擦過音。書いているうち、部屋の中の音が一度消えて、外の車の遠い音だけが残る。残った音を、今日の終わりの印にする。
キッチンで湯を沸かす。湯気は、相変わらず性格がない。安心する。マグにティーバッグを入れ、注ぐ。湯気の向こうで、自分の手がぼやける。ぼやけた手は、仮面をつけているようにも、外しているようにも見える。どちらでもいい。どちらでもない、がやっと選べるようになった。
落ち着いたところで、机に戻る。契約書のテンプレートのデータを開き、文字の間隔や表記ゆれに目を通す。初日までに、赤を入れて返したい。仕事の言葉は、生活の側にいる。それが嬉しい。嬉しさは、静かでいい。静かなものは、長く持つ。
窓の外、空が群青に変わり、遠くで救急車のサイレンが細く伸びた。どこかで誰かが助けを求めていて、どこかで誰かが向かっている。世界はいつも同時進行で、どちらかだけでできていない。安西は深く息を吸い、背もたれに体を預けた。背もたれは冷たく、布の下の木が固い。その固さが、今は安心を運ぶ。
ライトをひとつ落とす。部屋の明るさが半分になって、壁の色が夜に溶け始める。ノートのページはまだ白い。白は、眩しいときもあるが、今日は柔らかい。ペンを置き、窓の鍵に指をかける。ほんの少しだけ開きを広げて、すぐ戻す。外の風が頬を撫でた。その触れかたは、今まで知っていたどの感触にも似ていない。誰かが新しい仮面を差し出してくるみたいな、でも、その仮面は自分で選べるみたいな、曖昧な合図。
スマホをもう一度手に取り、録音アプリを起動する。マイクに向かって、声を出す。
「おやすみ」
録音を止める前に、ほんの少しだけ間を置く。間は、自分のための余白。再生はしない。送らない。その音は、今夜の部屋の中だけでいい。音を閉じて、画面を伏せる。カーテンの隙間から、ビルの窓がいくつか光っている。どの窓にも違う生活があって、違うふつうがある。ふつうは、毎日繰り返すこと。ふつうは、案外あたたかい。そして、少し痛い。
ベッドに横になり、天井を見上げる。白い天井の角は、昼よりも丸く見える。まぶたを閉じる。耳の奥に、昼間の風鈴、駅のアナウンス、面接官の低い声、鈴木の短いメッセージが順番に重なる。重なりは濁らない。濁らせない強さが、すこしだけ育っている。
眠る前、もう一度だけ窓の方に向かって、小さく言う。
おやすみ、世界。
言葉は風に混ざり、夜の街の灯が静かに滲んだ。滲んだ光は、仮面の形にはならない。形にはならないけれど、確かに頬を撫でていく。その撫で方が、今夜の呼吸の形になった。明日になれば、また違う形を選び直すだろう。選び直せることが、いちばんの練習だ。仮面をかぶる練習。仮面を外したまま生きる練習。どちらも、生活の中で、同じだけ続いていく。窓の隙間から入ってくる春の匂いが、部屋の空気とゆっくり混ざっていく。混ざる速度に合わせて、目の奥の緊張がほどけた。やがて音は遠のき、呼吸だけが残った。残った呼吸は、今日の終わりの印。印は薄く、でも確かだった。
安西直は、鏡の前に立ち、両肩を一度上げてから下ろした。喉の奥で声を鳴らしてみる。かすれ気味の高い声はすぐに、咳払いひとつで消える。胸の真ん中で、小さな圧が跳ねた。久しぶりに、あの音の練習をしようとした。語尾を柔らかく伸ばす、目線を指先に逃がす、笑いを一拍遅らせる。いくつかの筋肉が、昔の順番を思い出したがって動いたが、身体が先に止めた。
違う、と鏡の中の自分が言った。音にはならなかったが、口の形がそう告げた。仮面をかぶる練習じゃない。仮面を外したまま、生きる練習だ。
額の前で両手を軽く合わせ、息を吐く。机に座って、白いノートの最後のページに今日の予定を三行だけ書いた。小さな出版社の校正の面接。場所、時刻、持ち物。字は落ち着いている。落ち着いている字を見て、自分が少し落ち着く。黒いノートは閉じたままにしておく。今日は観測よりも、生活の側に寄りたい。
スマホが震えた。鈴木からだった。面接、がんばらないで。短い文章が、画面の白の上ですうっと光った。指が自然に返事を打つ。がんばらない練習中。送信してから、ほんの少しだけ笑った。この笑い方は、誰かに見せるための形じゃない。筋肉が勝手に選んだ動きだ。
アパートを出ると、桜が散り始めていた。ひらひら落ちる花びらは、空気の中で進路を迷っているように見える。昨日と同じ風が、今日も吹いているとは限らない。駅までの道、ベビーカーを押す人の横を通る。車輪が段差で一瞬止まり、持ち上げられて進む。持ち上げる力は、いつも誰かの手から出ている。見えないところで、たくさんの動きがかみ合って、朝になる。
電車の座席に腰を下ろすと、向かいの席の子どもがじっとこちらを見た。目はまっすぐで、まぶたの上に薄い影。子どもが首だけで母親の方を向いて、小さな声で聞く。女の人。母親は笑って、そうよ、と答えた。安西はうなずくでも否定するでもなく、視線を受け止めた。喉の奥に、昔なら即座に作られた言い訳の粒が転がったが、舌でそれを押しつぶした。誰の定義にも属さずにいる時間は、長くは続かない。それでも、その数秒を持ち歩くことならできる。
出版社は、線路沿いの古いビルの三階にあった。階段の踊り場に、印刷会社の匂いがうっすら残っている。紙とインクと、古い机の油の混ざった匂い。扉を押すと、小さな風鈴のような音が鳴った。受付はない。正面の棚には、背の高い校正ゲラが束で刺さっていて、手書きの付箋が色とりどりに揺れていた。
眼鏡の中年男性が奥から出てきた。薄いグレーのカーディガンを着て、赤い鉛筆を耳に挟んでいる。
「履歴書、拝見しました。前職は一般企業?」
「はい。…でも少し疲れてしまって」
「うちも小さい会社だから、無理はさせませんよ。校正は目と根気の仕事ですし」
声は低くやわらかい。適温の湯みたいに、耳の中で広がる。椅子に座ると、木の脚が床を軽く鳴らした。面接官は名刺を差し出し、自分の名前を名乗った。編集長ではなく、校了前の現場を取り仕切る人らしい。名刺の角はすこし丸まっていた。仕事中に何度も出し入れされた紙は、紙の形を失って、人に寄る。
「校正の経験は?」
「未経験です。…けど、書類の誤字脱字を探すのは、昔からよくやってました」
「いいですね。好きな作業は強い」
面接官は笑い、机の上に三枚のゲラを置いた。見開きの雑誌記事。地名や固有名詞が多い。本文の端に小さな丸が印刷されている。丸を辿ると、目が一段ずつ降りていく。降りていく間に、頭の中で微かな音階ができる。規則は音に変わると、覚えやすい。
「よかったら、五分。目に付いたところにチェックを。正解はひとつじゃありません」
赤い鉛筆を受け取った。手が震えない。震えない手に驚いて、もう一度、鉛筆を握り直す。指の腹が紙に乗る。紙は静かだ。静かだから、文字だけが立ち上がる。
一行目、町名の漢字が古い表記で印刷されていた。行政の表記は新しいはず。欄外に統一と書き、赤で二重線を引く。句読点の間隔がそこだけ広い。活版の名残を真似たレイアウトかもしれないが、他は現代の文だ。詰める。ふたつ目の段落で、人物名のふりがなが本文と違っている。本文はユウキ、ふりがなはユキ。赤の波線。三つ目、写真キャプションの西暦に桁の誤植。薄い数字の違和感は、昔から目の横で光る。桁を直す。……五分は、案外すぐだった。鉛筆を置くと、肩の力が少し抜けた。目の奥は疲れていない。むしろ、視界が新しい紙で掃除されたみたいにクリアだ。
「助かる指摘です。これは、たぶんお願いできますね」
面接官は言いながら、ふと何か思い出したように、眼鏡の位置を直した。
「もし差し支えなければ、勤務のペースとか、配慮してほしいことがあれば、最初に言ってください。うちは人数が少ないぶん、決めるのも早いので」
その言い方は、こちらの言葉を先回りしない。安西は一呼吸置いて、言った。
「電話は苦手です。着信が重なると頭が真っ白になってしまう。でも、メールやチャットに切り替えれば、たぶん大丈夫です。あと、空調の風が直接当たる場所は避けたいです」
面接官は頷いて、手元のメモにさらさらと書いた。
「オッケー。電話は基本的に編集が受けます。校正の連絡はほぼチャットですし、席も窓側なら風が穏やか。空調は好きに切り替えてください。温度でも人間関係でも」
温度でも、という一言に小さく救われた。話す自分の声が、自然に出ている。自然という言葉に、まだ抵抗はある。でも今日の声は、誰にも借りていない。
面接は短く終わった。採用云々の話は、その日のうちに連絡します、と言われた。玄関の風鈴がまた軽く鳴った。外へ出ると、風が髪を揺らした。春の匂いがした。甘い匂いと土の匂いの境目に、曖昧な線が引かれている。
駅に戻る途中、小さな喫茶店の前で立ち止まった。ガラス越しに、小皿に盛られたクッキーと、濃い色のコーヒーが見える。店内は静かで、椅子の背もたれが全部同じ方向を向いている。知らない場所の規則は怖いが、椅子の向きが揃っている店は、たいてい大丈夫だ。押し戸を静かに開け、カウンターのいちばん端に座る。
ブレンドを頼み、鞄から白いノートを出す。先ほどの面接の言葉を、流れに沿って短く並べる。無理はさせませんよ、の行に丸を付け、温度でも人間関係でも、に二本線。仮面という言葉が、頭の中でうっすらぼやける。ぼやけた輪郭は、嫌いじゃない。輪郭が曖昧なものは、許しやすい。
扉が開いて、年配の女性が入ってきた。店主と親しげに挨拶を交わし、新聞を取り、コーヒーを頼む。女性がこちらの方をちらりと見て、目が合った。昔なら、目を逸らす練習をしただろう。今は、そのまま頷いた。女性は少し驚いたようにしてから、小さく会釈した。それだけのやり取りで、胸の中のどこかが少し暖まる。あたたかいは、少し痛い。少し痛いは、生きてる。
コーヒーは苦く、後味にわずかな甘さが残った。舌の奥で、その甘さの線を指でなぞるように感じていると、スマホが震えた。見慣れない番号だった。脳が一瞬固まり、指の先まで冷える。でも、鳴り続ける着信のリズムに合わせて心拍を揃える。二コールを待ち、受ける。
「出版社の者です。先ほどはありがとうございました。もしよろしければ、来週から週三回、午前中四時間で始められますか。初日はオリエンテーションだけで」
「…はい」
声が高くならないようにゆっくり言う。嬉しいとき、昔の自分は高くなる癖があった。高い声は、演技に似る。今は低めに、短く。面接官は詳細を伝えてから、最後に言った。
「契約書の文言、気になるところがあれば赤を入れてください。校正さんの最初の仕事です」
笑いながら電話は切れた。通話を終えて、しばらく何も動けなかった。嬉しいは、静かにやって来るときがある。静かな嬉しさは、身体の形を変えない。そのまま、少しだけ中身を増やす。
外へ出ると、桜は昼の光の中で色を薄めて、風に混ざっていた。駅までの道を、わざと遠回りする。古本屋の前を通り、裏通りで小さな花屋の前を通る。店先に並んだ白いチューリップの花粉が、つぼみの奥で黄色く眠っている。花屋の女性が水を替え、茎を斜めに切る。その手つきは、鈴木の言う自然の定義に似ている。負担が少ない手つき。繰り返される手つき。
電車の座席に座ると、午前の子どもはいなかった。代わりに、老人が目を閉じている。頬に深い筋。手には紙袋。人はそれぞれの荷物を持って、乗り降りを繰り返す。駅に着くたび、誰かが消え、誰かが現れる。視界の端でその入れ替わりを見ていると、自分が大きな機械の歯車のひとつではないことが、少しだけ信じられる。
家に帰ると、部屋の匂いが迎えた。紙と鉛筆とコーヒー。それに、今日は新しく、印刷所のインクの影がうっすら混じっている気がする。靴を脱ぎ、コートを椅子の背に掛け、窓を三センチだけ開ける。風が頬に触れる。頬の内側の筋肉が、自然に緩む。
机に向かい、白いノートの最終ページを開く。ペン先が、紙に触れる。書く。生存戦略の終焉。生活の開始。仮面をかぶる練習=生きる練習。文字は、紙の上でゆっくり乾く。乾く間に、書いた自分と読んだ自分が少しずれる。そのズレに指を添える。ズレは、なくさなくていい。世界と自分の間には、いつも少し隙間があって、その隙間に風が通る。その風で、今日の言葉が冷えすぎない。
スマホが小さく鳴った。鈴木から、声のメッセージ。再生ボタンを押す。かすかな雑音の後に、落ち着いた声が流れた。
「おつかれさま。たぶん、うまくいってる。うまくいってなくても、うまくいくようになるやつだと思う。おやすみ」
短い言葉が、部屋の中で静かに広がる。録音された声には、今この瞬間の温度がない。けれど、そこにあった温度の痕跡はある。痕跡は、今の空気の中で別の形に変わる。安西はスマホを伏せ、窓の外を見た。夕方の色が、街の角からじわじわと侵入してきて、物の輪郭を柔らかくしていく。
黒いノートを開く。最後のページは空白だった。その空白は、昔の自分なら怖かっただろう。書くことがない、という恐怖。今は違う。書くことがないわけじゃない。書く順番が、生活の方に移っただけだ。黒いノートの端に、小さく書く。今日一日で経験した音。風鈴。鉛筆のこすれる音。紙袋のくしゃり。桜が窓枠に当たって落ちる、小さな擦過音。書いているうち、部屋の中の音が一度消えて、外の車の遠い音だけが残る。残った音を、今日の終わりの印にする。
キッチンで湯を沸かす。湯気は、相変わらず性格がない。安心する。マグにティーバッグを入れ、注ぐ。湯気の向こうで、自分の手がぼやける。ぼやけた手は、仮面をつけているようにも、外しているようにも見える。どちらでもいい。どちらでもない、がやっと選べるようになった。
落ち着いたところで、机に戻る。契約書のテンプレートのデータを開き、文字の間隔や表記ゆれに目を通す。初日までに、赤を入れて返したい。仕事の言葉は、生活の側にいる。それが嬉しい。嬉しさは、静かでいい。静かなものは、長く持つ。
窓の外、空が群青に変わり、遠くで救急車のサイレンが細く伸びた。どこかで誰かが助けを求めていて、どこかで誰かが向かっている。世界はいつも同時進行で、どちらかだけでできていない。安西は深く息を吸い、背もたれに体を預けた。背もたれは冷たく、布の下の木が固い。その固さが、今は安心を運ぶ。
ライトをひとつ落とす。部屋の明るさが半分になって、壁の色が夜に溶け始める。ノートのページはまだ白い。白は、眩しいときもあるが、今日は柔らかい。ペンを置き、窓の鍵に指をかける。ほんの少しだけ開きを広げて、すぐ戻す。外の風が頬を撫でた。その触れかたは、今まで知っていたどの感触にも似ていない。誰かが新しい仮面を差し出してくるみたいな、でも、その仮面は自分で選べるみたいな、曖昧な合図。
スマホをもう一度手に取り、録音アプリを起動する。マイクに向かって、声を出す。
「おやすみ」
録音を止める前に、ほんの少しだけ間を置く。間は、自分のための余白。再生はしない。送らない。その音は、今夜の部屋の中だけでいい。音を閉じて、画面を伏せる。カーテンの隙間から、ビルの窓がいくつか光っている。どの窓にも違う生活があって、違うふつうがある。ふつうは、毎日繰り返すこと。ふつうは、案外あたたかい。そして、少し痛い。
ベッドに横になり、天井を見上げる。白い天井の角は、昼よりも丸く見える。まぶたを閉じる。耳の奥に、昼間の風鈴、駅のアナウンス、面接官の低い声、鈴木の短いメッセージが順番に重なる。重なりは濁らない。濁らせない強さが、すこしだけ育っている。
眠る前、もう一度だけ窓の方に向かって、小さく言う。
おやすみ、世界。
言葉は風に混ざり、夜の街の灯が静かに滲んだ。滲んだ光は、仮面の形にはならない。形にはならないけれど、確かに頬を撫でていく。その撫で方が、今夜の呼吸の形になった。明日になれば、また違う形を選び直すだろう。選び直せることが、いちばんの練習だ。仮面をかぶる練習。仮面を外したまま生きる練習。どちらも、生活の中で、同じだけ続いていく。窓の隙間から入ってくる春の匂いが、部屋の空気とゆっくり混ざっていく。混ざる速度に合わせて、目の奥の緊張がほどけた。やがて音は遠のき、呼吸だけが残った。残った呼吸は、今日の終わりの印。印は薄く、でも確かだった。
