雪は静かに積もる種類の雪だった。風は弱く、空は白く貼りついて、街全体が息をひそめている。鈴木優成は、福祉事務所の裏口から出て、吐いた息の白さをひとつ数えてから、再び扉を閉めた。昼休みの十五分延長は、先輩の計らいだ。食堂が混み合う日には、外で空気を変えた方がいいと、彼のペースに合わせてくれる人が少しずつ増えている。彼はその事実に、まだ慣れていなかった。
 午前中の窓口は、年末の各種手続きで混み合った。番号札のディスペンサーがたびたび詰まり、鈴木は呼び出しのマイクを同僚に任せて、機械の口に紙を押し込んだ。機械の唸りが耳の奥をくすぐる。蛍光灯の震える音は相変わらず気になるが、ここは会社のフロアより少し静かだ。ルールが多く、例外も多い。紙は書式を求め、相談は言葉にならない。彼が座る席は、入口から二番目。来る人の顔が全部見える位置だ。
 朝一番にやって来たのは、生活保護の継続に不安があるという年配の男性だった。声が大きく、マスク越しでも飛沫の気配がわかる。昔、自分が営業だった頃に受けたクレームの記憶が、反射的に背中を固くする。けれど、隣の席の先輩が軽く目配せする。「沈黙、待っていいからね」と、視線だけで言う。鈴木は頷き、メモ帳をひらいた。
 大きい声は、たいてい、どこかが怖い合図だ。それを、ここ数か月で学んだ。男性は書類のうち一枚だけを握りしめていて、それが指の汗でふやけていた。鈴木は、声の波が落ち着くのを待ってから、必要な用紙を静かに積み上げた。ペンの置き場所を、相手の手に近い側へずらす。自分の足は椅子の足と平行に置く。手の甲は机の面に近づける。そんな小さな所作を、ひとつひとつ並べていくと、不思議と心拍が均される。ふつうに働くことは、怖い。けれど、ふつうの定義を自分で作ってしまえば、怖さの形は少し見えやすくなる。
 彼がこの仕事を選んだのは、偶然ではなかった。就労支援センターで勧められた実習先のひとつが福祉事務所で、そこで彼は、自分の話し方を変えなくても会話が成立する場所があることを知った。沈黙は破るものではなく、待つものだと教えられた。待てばいい、と言われるのは初めてだった。笑顔の掟をやめてからの空白を、彼は「待つ」という技術で埋め始めた。
 昼前、若い母親が乳児を抱いてやってきた。子の泣き声は高く、室内に細い針をばら撒いたように響く。鈴木の頭の表面で、ざわざわと砂が走る。だが、彼は椅子に深く腰を下ろし、マスクの内側でゆっくり数を数えた。四まで吸って、四で止め、四で吐く。間に合わせの呼吸法。完全には効かないが、呼吸があることだけは思い出せる。母親は書類の半分をなくしていて、半分を記入していない。焦りの匂いが、袖口から立っていた。彼は、彼女の焦りを正すことより、線を引くことを先にした。
 ここからここまで、いっしょに書きましょう。彼は言葉を選ぶ。指示の文より提案の文のほうが、今はいい。母親の目の下のクマは濃く、爪は短く割れていた。彼女が子を揺らしているリズムに合わせて、鈴木もペンを走らせる。ふたりの手の動きが、机の上で一瞬だけ揃った。揃う、という感覚は、営業時代にはいつも恐怖だった。場に合わせるうち、自分が消える気がしたから。けれど今は、それが自分から滲んでいかない範囲で起きている。彼はその違いを、少しだけ信じてみる。
 昼休み、職場の休憩室は暖房が効き過ぎていて、鈴木の皮膚はざらざらした不快を拾う。彼はコートを羽織り直し、缶のココアを自販機で買う。手に持つと、熱さが骨へ伝わる。外へ出ると、雪が降っていた。粒は小さく、密度は薄い。白い点が、空から地面へ落ちるまでの短い旅を、目で追いかける。落ちる間だけ名前があるような雪だ。
 公園へ向かう道の電柱に、古いチラシがビニールで巻かれていた。就労相談、家計相談、親の会。いろんな文字が、風に擦られて滲んでいる。そのうちのひとつが、彼をここへ連れてきた。そう思うと、くしゃくしゃの紙が、やけに力強く見えた。
 公園のベンチに、人影があった。黒いダッフルコート、耳あて、掌に白い息。安西直だ。髪が少し伸び、前髪が眉の上で軽く波打っている。化粧は薄い。何かを隠すためではなく、何も足さないための薄さだ。彼女は立ち上がって、片手を振った。振り方が小さいのは、昔と同じ。でも、肩はあの頃ほどすぼまっていない。
 「久しぶり」
 「うん、生きてた?」
 「ギリギリ」
 安西は笑った。笑い方の形が変わっている。笑顔で何かを許さないための笑いというより、ただ表情がそこまで転がっていった感じ。鈴木は安堵し、同時に胸が痛む。痛みは悪い合図ではない。生理的な答え合わせみたいなものだ。
 自販機の前で、それぞれ温かいココアを買う。缶の開け口から上がる甘い匂いが、鼻腔に広がる。雪は止まない。ベンチの背もたれに薄く積もっていた粉が、ふたりの動きでさらりと落ちる。
 「最近、“ふつう”って言葉、嫌じゃなくなった」
 鈴木が切り出すと、安西は缶の縁を見つめた。
 「どうして?」
 「“ふつう”って、他人が決めるものだと思ってた。でも今は、自分の“毎日繰り返すこと”がふつうでいい気がして」
 「“毎日繰り返すこと”」
 「そう。ここで、番号札の紙をまっすぐ揃えるとか、入ってきた人の靴音のリズムに合わせて、心拍を少し落とすとか。きっと誰にも見えないけど、僕はそれを毎日やってる。それが僕のふつうで、それがあるから、急に来る大きな声にも耐えられる」
 安西は頷いた。頷き方は小さく、でも途中で止まらない。最後まで首が行く。そこが変わった。
 「“ふつう”を自分で作るってこと?」
 「うん。君は?」
 安西は缶を両手で包む。手袋はしていない。指先が少し赤い。
 「私は、“ふつう”って観測者の数だけあると思う。だから、誰かの視線を完全に断つことはできない。……でも、その中で呼吸する方法はある気がする」
 鈴木は笑いそうになって、笑うのをやめた。笑いの形が難しい話は、笑いで壊したくない。
 「君の言葉、難しいけど好き」
 「難しくしないと、怖いことが見えちゃうから」
 会話はすっと止まり、雪の音だけが続く。雪が音を持つのは、着地の一瞬だけだ。耳をすませば、世界の白が少しパラパラいっている。
 「私、まだ演じてるよ。完全には外せない」
 安西がそう言うと、鈴木はすぐには返さなかった。彼女の言葉は、彼女の重さを持っている。軽い返事を重ねると、形が崩れる。
 「いいじゃん。それも君の自然でしょ」
 「自然……か」
 「自然って、多数の中で平均値に近いことじゃなくて、自分の負担が少ない手つきのことだと思う。僕は最近、そう決めた」
 「負担が少ない手つき」
 「うん。例えば、電話を二コール目で取る。僕には一コール目で取るのが負担。二コール目なら、耳と心の準備が同時に間に合う。だからそれが僕の自然。逆に、君は一コール目で取る方が負担が少ない日があるかもしれないし、ないかもしれない。それを君が選べればいいんじゃないかな」
 安西はしばらく黙って、口角をほんの少しだけ上げた。
 「今、自然って言葉が、ちょっとだけ柔らかかった」
 「雪のせいだよ」
 「それ、使えるね。今度、便利な嘘として借りる」
 「使用料はココア一本」
 ふたりは同時に缶を持ち上げ、口へ運んだ。熱さが舌にふわっと乗り、甘さが喉の手前に溜まる。飲み込む前に一度ためらうのは、子どもの頃からの癖だ。ためらいがあると、飲み込むという行為が、身体の決断みたいになって、少し安心する。
 「ねえ」
 安西が缶を膝の間に置き、白い息を横へ流した。
 「ふつうって、案外あったかいね」
 鈴木は頷き、そして首を傾けた。
 「君の言う“あったかい”は、ちょっと痛いね」
 「うん。だって、あったかいって、冷えてた証拠だから」
 言葉が、雪の中で小さくひびいた。痛さが悪い合図ではないように、あたたかさもただの天気だ。鈴木はポケットから小さなメモ用紙を取り出し、二行だけ書いた。
 ふつう=毎日繰り返すこと
 自然=負担が少ない手つき
 書いた字は震えていない。これが今日のノートだ。黒いノートは今日は持ち歩かなかった。紙切れは、ノートの代わりにポケットの内側へ戻す。そこは冷えにくい場所だ。
 「アルバイト、どう?」
 安西が訊ねた。彼女の問い方は、昔よりも今をまっすぐ見ている。見られる側の鈴木が、勝手に過去を呼び出して話を濁す余地がない。
 「いい。いいって言っていいと思う。うるさい日もうるさくない日もあるし、僕が遅いせいで迷惑をかけることもある。でも、遅いなら遅い仕事を僕に割り振ってくれる流れが、少しできてきた。遅いのが役立つ日があるって、最近知った」
 「遅いのが役立つ日」
 「例えば、書類の誤字を探すとき。急いでる人は、見落としやすい。同じ行を何度もなぞる僕は、変なところの点を見つけたりする。今日も、町名に昔の字を使ってる人がいて、それに気づけた。誰も得しない注意深さって、どこかで誰かを助けるんだと思う」
 安西の目が、少し柔らぐ。彼女の視線は前よりもよく動くようになった。眉間ではなく、眉と目の間。相手の輪郭を荒く捉え、そこへ言葉を置く。演技の筋肉が、違う動き方を覚え始めている気配。
 「直さんは、どう」
 「まだ、演じてる」
 「うん」
 「完全には外せない。外した顔、鏡で見ても、まだ好きになれてない」
 「好きになれない顔でも、生活していいんだと思う」
 「生活」
 「うん。僕、最近、生活って言葉、よく使う。生き延びるための戦術より、洗濯物を干すとか、米を研ぐとか、同じことを繰り返す方が、今の僕には効く。戦術は必要だけど、戦術は心拍を上げる。生活は、心拍を下げる」
 安西は「へえ」と言って、雪を見上げた。雪片がまつげに乗り、溶ける前に小さく光った。彼女はウインクみたいに片目を閉じて、それをやり過ごす。
 「私、米を研ぐの、下手」
 「僕は水加減が苦手」
 「炊飯器がふつうを作ってくれる世界でよかった」
 「文明に感謝」
 ふたりの笑い声は小さい。けれど、雪はその小ささを吸って、少しだけ重く落ちた。
 公園の端で、小学生が雪玉を投げ合っていた。手袋がびしょびしょで、頬が赤い。ひとりが極端に投げるのがうまく、もうひとりが極端に下手だ。うまい方が笑って、下手な方が悔しそうに笑う。世界は、たぶんずっとこういう偏りでできている。偏りは残酷で、愛おしい。鈴木は足元の雪を軽く踏んだ。靴底の模様が、白に浅い影を落とす。
 「ふつうの話、まだ聞きたい?」
 鈴木が問うと、安西は頷いた。
 「聞く。怖いけど」
 「怖い話じゃないよ」
 「いや、私ね、ふつうって言葉、ずっと檻だったから。誰かに『ふつうはさ』って言われるのが怖い。ふつうの話を、あなたの口から、あなたのために聞くのは、たぶん平気。たぶん」
 「たぶんでいい」
 鈴木は缶を飲み干し、空にしたそれを両手で包んだ。冷たい缶は、急に軽くなる。軽さに、名残がない。名残がないものは、片づけやすい。
 「僕のふつうは、朝の眼鏡の拭き方から始まる。レンズを拭くとき、真ん中じゃなくて端を先にやる。端と端を拭いたあと、真ん中を軽く撫でる。そうすると、拭き残しが線じゃなくて面で残る。線だと目がそこに吸い寄せられるから、面の方が心が散らからない」
 安西は目を丸くして、それから少し笑った。
 「そういう話、好き」
 「他には、靴紐。左右で結ぶ力が違うから、右は一回、左は二回ひっぱる。僕の足は左の方が敏感だから、左の紐は少しだけゆるくする。そうすると、午前中の頭痛が三割減る」
 「三割って言えるのが、あなたっぽい」
 「数字を言うと安心するんだ。曖昧な世界に、曖昧じゃない切り込みを一本入れられる。切り込みがあると、そこから空気が少し抜ける」
 安西は頷き、すこし俯いた。彼女の頷きのたびに、耳あての毛がふわふわ揺れる。その揺れが、雪よりも柔らかかった。
 「私のふつうは……今は、窓を三センチだけ開けること。換気、って書いたらそれまでなんだけど、三センチって決めるのが大事。空気が入れ替わるけど、部屋の匂いが全部逃げない。私の部屋の匂いは、嫌いじゃないから」
 「君の部屋の匂い、どんな匂い?」
 「紙と、鉛筆と、コーヒー。あと、少し前までは、嘘の匂い」
 「今は?」
 「嘘は、押し入れの奥に仕舞った。たまに勝手に出てくるけど」
 「その押し入れ、施錠しないでいいやつだ」
 「うん。開け閉め自由。自由って、怖い」
 「怖いまま、自由」
 ふたりの間の言葉は、雪みたいに落ちて、消えた。消えたのに、残っている。雪は積もらない庭でも、確かに庭の形を変える。足跡がつく。踏みしめられた場所は、昼になっても影が長い。
 携帯が震えた。鈴木はポケットから取り出し、ディスプレイをちらりと見て、またしまった。事務所からのチャットだ。午後の来客が一本、早まるらしい。彼は腕時計を見た。昼休みの延長は、そろそろ終わりだ。
 「戻るね」
 「うん。私も、帰って米研ぐ」
 「水加減、忘れないように」
 「あなたこそ、靴紐二回ひっぱる方忘れないように」
 「忘れても、歩ける」
 「忘れても、食べられる」
 短い会話が、雪をひとつ溶かした。立ち上がると、ベンチの木がぎしりと鳴った。木の音が冷たくて、やけに生きていた。
 公園の出口へ向かう途中、横断歩道の手前で立ち止まる。車は少ないが、信号は律儀に働いている。赤の間、鈴木は横にいる安西の横顔を見た。横顔は、以前よりも輪郭がハッキリしている。メイクの線に頼っていないぶん、骨の線が素直だ。彼女は気づいて、こちらを向いた。
 「何」
 「雪、似合うね」
 「それ、汎用的なやつ」
 「うん。便利なやつ」
 「便利な嘘として、借りる」
 「使用料は、ココア一本」
 信号が青になった。ふたりは同時に一歩踏み出し、反対側へ渡る。道路の真ん中で、風が少し強くなった。雪が斜めから打ってくる。頬に当たる冷たさが、言葉よりも早く顔を動かす。目を細め、唇を少しすぼめる。その形が、ふたりの顔に同時に浮かんだ。誰にも見えない合図。ふたりだけが知っているふつう。
 事務所へ戻る途中、鈴木は胸ポケットの紙切れをもう一度確かめた。角が湿って少し丸まっている。ふつうと自然の定義は、たぶん明日にはまた書き換わる。上書きされても、今日の字は消えない。消えなくていい。重なっていくのが、今の彼には合っている。
 午後の窓口は、午前よりも穏やかだった。番号札は素直に紙を吐き、相談は具体的で、待つ時間は短い。最後に来た男性は、声が小さく、話の最後が聞こえづらかった。鈴木は体を少し前に倒し、口元ではなく顎のラインを見る。声は顎から出る。顎の動きが止まる前に、こちらが頷きをひとつ入れると、相手の言葉は止まらない。会話が切れずに最後まで行く。小さなコツは、誰にも気づかれない。気づかれないのに、たしかに役に立つ。役に立つことをする自分が、今日の彼のふつうだ。
 終業のチャイムが鳴り、雪はさらに細かくなった。空は低く、街灯が早めに点いた。帰り道、鈴木はわざと近道を外した。川沿いを回る。欄干に薄く積もった雪を指でなぞる。指先が冷たくなり、ポケットで温める。温めるという行為は、何回でもできる。何回でもできる行為は、ふつうを作る。ふつうは、あたたかい。あたたかいは、少し痛い。痛いは、まだ生きている印だ。
 マンションに着くと、階段を選んだ。エレベーターより、足音の方が自分のペースに合う。三階の踊り場で、窓を三センチだけ開ける。冷たい空気が顔に当たる。窓の下で、誰かが笑っている。笑い声は届かないが、笑いという形は届く。届いた形に、彼は返事をしない。しなくていい。しない自由が、今日の自然だ。
 部屋に入ると、いつもの匂いがあった。紙と、鉛筆と、ココア。それから、新しく持ち帰った雪の匂い。彼は机に紙切れを置き、ノートの一番後ろに貼った。貼る前に、端に小さく日付を書いた。季節の名前を一字添える。冬。四角い「冬」の字の中に、自分の午後が畳まれていく。
 安西はその頃、炊飯器の前で水を注いでいた。流しの蛇口から出る水は冷たく、ボウルの底でキンと鳴った。研ぐ音は小さく、米は指の腹に当たって、ゆっくり沈む。三センチ、窓が開いている。外の雪は、さっきよりも静かだ。台所の蛍光灯の白が、水の面に揺れて、ひらひらした紙のような影を作る。
 彼女は米を研ぎながら、自分の指の動かし方に見入った。指が水の中で語尾を伸ばすように動く。昔の癖だ。語尾を伸ばすのは演技の一部だった。今、その動きは、誰も見ていない。誰も見ていないのに、少しだけ形を変える。指先が、これまでより短く揺れる。短い揺れの方が、米の角が立つ気がした。気がしただけでも、今日は十分だ。
 炊飯器の蓋を閉め、スイッチを押す。カチ、と小さな音が鳴る。世界はこういう音でできている。大きな音も、怖い音もある。でも、小さな音が日を繋いでいく。繋げば、ふつうができる。ふつうの中に、嘘の匂いが混ざる日もある。押し入れの奥から勝手に出てくる嘘は、また押し戻せばいい。鍵はかけない。出入り自由。自由は怖い。怖いまま、自由。
 タイマーが鳴るまでのあいだ、彼女は窓際の椅子に座った。道を行く人は少ない。雪を踏む足音が、スピーカーのボリュームを絞ったみたいに遠い。携帯の画面に、鈴木から「靴紐、二回ひっぱった」のメッセージが来て、遅れて「水加減、ぎりぎり成功」の返信を送る。画面を伏せる。光は、今は外の白に任せる。
 炊きあがりの合図が鳴った。蓋を開ける。湯気が上がる。湯気には性格がない。安心する。しゃもじを入れ、米を返す。湯気の向こうに、自分の指先がぼやけて見える。ぼやけた輪郭は、嫌いじゃない。輪郭が曖昧なものは、許しやすい。
 夜、ふたりはそれぞれの部屋で眠った。鈴木は窓を二センチだけ開けて、安西は三センチで。数え間違えても、眠れた。眠る前、鈴木はメモに一行を書き足した。
 ふつうは、案外あたたかい。
 安西は白ノートの隅に、小さな字で書いた。
 あたたかいは、少し痛い。少し痛いは、生きてる。
 雪は夜の間も降り続いた。朝にはきっと、街の輪郭が今日より柔らかくなる。柔らかくなった輪郭の中で、ふたりはそれぞれの手で、自分のふつうをもう一度作る。繰り返しの形は、明日にはまた少し違う。違っていい。違うことが、続けることだ。続けることが、自然だ。自然は、負担が少ない手つき。負担が少ない手つきが、今日の彼らを、明日の彼らへ渡す。
 窓の外、最後のひとひらが、見えない誰かの肩で溶けた。溶ける音はしない。しないけれど、そこにあったことだけは、確かだった。