退職願は白すぎた。紙は光を返し、机の上の微細な傷までくっきり映した。朝、私はその紙を封筒に入れ、封はしなかった。糊のかわりに、親指でふたを押さえて持ち歩く。いつでも開けられて、いつでも閉じられる、その曖昧さに救われたかった。
最後の出勤日。ビルの自動ドアが開く音はいつもより乾いていた。受付に社員証をかざす。ピッという電子音が、まるで出発の笛みたいにやさしく鳴る。エレベーターの鏡に映る私は、もう“オド”の肩の角度を作っていない。声量や語尾の長さを測るメトロノームを、家の引き出しに置いてきた。今日は“ふり”を持ってこなかった。持ってこられなかった。
デスクの引き出しを開ける。輪ゴム、ホチキス、使いかけの付箋。色鉛筆は四本、先が短い。白ノートと黒ノートは持ち帰る。白の背表紙は汗じみが濃い。黒の角は擦り減って白く覗いている。段ボール箱に詰めていくと、机の天板に残った地図のようなシミが目に入った。誰かが置き去りにしたコーヒーの跡。そこに何度も資料を広げ、私は“おどおど”を罫線みたいに引いた。線は消えない。けれど、私だけはここから消える。
「ねえ、直ちゃん」
背中から呼ぶ声に振り返ると、古川理紗が立っていた。彼女のジャケットは柔らかそうなグレー。いつも通り髪をまとめ、眉は穏やかに整っている。でも今日は、目の下に小さな影があった。
「この前の講演のこと、まだ整理できなくて」
「いいんです。私も整理できてません」
彼女は少しだけ笑う。笑いは形を見つけられないまま、頬の途中で止まった。
「私、あなたを守ってたつもりだった」
「うん。守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗は息をのんだ。気管の奥で小さく鳴った音が、こちらにまで届く。言ってしまった、と思う。でも、嘘じゃないから取り消せない。言葉は床に置いたコップみたいに、触れれば倒れる。
「でもありがとう。優しさの形って、難しいですね」
「ごめんね」
彼女はそう言って、ペンを握ったまま視線を落とした。私が段ボールに最後のメモ帳を入れると、理紗は小さく頷き、踵を返す。歩き出す一歩目で、かかとが床を強く叩いた。振り向かない背中に、私は頭を下げた。声は出さない。声を出せば、ぜんぶ泣き言になる気がした。
人事の部屋では、退職手続きの説明が端的に進んだ。カードの返却、保険証の扱い、メールのアカウント停止日。係の男性は淡々として、紙を指で押さえながら所定の欄を指した。そこに私の名前を書く。漢字二文字と漢字一文字。筆圧は弱くない。弱くないことがわかったことだけが、変に救いだった。
「体調不良ということで、よろしいですか」
「はい」
ウソではない。演技を続けられなくなった身体は、いつもより重く、いつもより透けている。係の男性はまだ若く、「ゆっくり休まれてください」と台本どおりの言葉を置いた。私は「ありがとうございます」と言い、部屋を出る。最後にもう一度、廊下の端からフロア全体を見た。蛍光灯の唸り。プリンタの小さな駆動音。キーボードの打鍵。いつでも戻れるような、いつでも戻れないような、どこにでもある会社の音。私は“ふり”をやめた耳で、その音を受け取ってみる。音は冷たく、でも正直だった。
席に戻ると、若手の佐伯が立っていた。スマホを握り締め、落ち着かなさを隠せない顔で。
「安西さん、本当にやめちゃうんですか」
「本当に、やめちゃうんです」
「資料の精度、いつもすごかったです。障がいがあるのに、じゃなくて、すごかったです」
彼は自分の言葉に戸惑い、途中で言い直した。私は笑った。ちゃんと笑えた。
「ありがとう。佐伯くんの『のに』は、今のうちに捨てといて」
「捨てます」
彼は少し赤くなって、頭を下げた。彼の素直さは、不器用で、まっすぐで、危うい。守ってあげたい、とは思わない。守りたいのは、それでも言い直せる彼自身の“やり直し方”だ。
帰り支度を終え、社員証を外す。伸びるストラップの端が指にひやりと触れる。ピッという音は、もう鳴らない。受付にカードを置くと、受付の女性が目を丸くして「お疲れさまでした」と言った。私は「お世話になりました」と返す。習い覚えた型の中に、本当の意味を入れてみる。型が私を裏切らなかったのは、今日が初めてだ。
ビルを出ると風が冷たかった。ポケットに入れていたイヤホンを、迷って、取り出さない。耳の穴は空っぽで、外の音が近い。車の走行音が低い帯で流れ、歩道の端で自転車のベルが短く鳴る。信号機のカウントダウンの電子音が脈を打つ。遠くの工事現場でショベルカーが砂利をすくい、落とす。落ちる音が地面を這って、足の裏に届く。小さな子供の笑い声が風に引かれて、ちぎれて飛ぶ。世界の音は、こんなにも粒が立っていたのか。私は目を閉じずに、受け取ってみた。刺さる。刺さるけれど、染みもしない。痛いのに、少し気持ちが良い。防音壁がなくなった世界は、騒がしくて、鮮やかだった。
横断歩道で信号を待つ間、ガラスに映った自分の顔を見る。口角は上がっていない。上げなくても、誰も死なない。上げたからといって、誰かが生きるわけでもない。私は大きく息を吸い、吐く。吐いた息は、白にならず、透明のまま流れた。
夕方まで街を歩き、川沿いのベンチに座った。川の音は薄い。水が岸の石に触れて戻る、その律儀な往復の音が、ほとんど聞こえないほどの小ささで続いている。スマホが震えた。鈴木優成からだ。
「仕事、やめたの?」
電話に出る。最初の三秒、何も言わない。沈黙が、会話の準備を整える。
「うん。もう“おどおど”できなくなった」
「そっか」
彼の声は、いつも通り硬質だが濁っていなかった。電話越しでも、濁らないのは才能だと思う。
「これから、どうするの?」
「わからない。でも、生きる練習は続ける」
「練習?」
「うん。仮面を外したまま、生きる練習」
「僕も、一緒に練習していい?」
「どうぞ。……でも、怖いですよ」
「怖いまま、生きよう」
遠くの踏切が鳴って、電話の向こうの世界とこちらの世界で、同じテンポの金属音が重なる。私は笑っていないのに、頬の筋肉が少しだけ緩む。緩む感覚が生きている証拠だと、初めて思えた。
「直さん」
「なに」
「仮面、割れたままでも、見られる顔だよ。今日の君は」
「見ないでほしい日もある」
「見ないよ。言われたら」
「言わない日もある」
「それも、いいよ」
会話はそこで止まる。止まることに失敗の匂いはない。私は「またね」と言い、電話を切った。画面が暗くなり、川に風が落ちる。夕日が低く、色をなくしていく街の輪郭を指でなぞるように、橋の欄干に影が伸びた。
帰宅すると、部屋の空気は朝の続きを保っていた。机に白と黒のノートを出す。白は、今日の計画が書けなかった余白を残したまま。黒は、今日の観測があふれるのを待っている。私は黒の最後のページを開いた。紙を触る指が、少し震える。震えは怖さではなく、力を戻すための微動に近い。
ペン先を置き、書く。
「#演技終了。#現実開始。」
それから、少し間を置いて、もう一行。
「今日、私は“ふり”無しで誰にも殺されなかった」
書きながら涙が落ちる。インクに溶ける。文字が波打つ。泣いていることに意味はあるのか、と頭の片隅が問う。意味がなくても、涙は落ちる。落ちるものを止めないのも、生きる練習のひとつだと思う。
鼻をかみ、窓を開ける。夜の街の匂いは、塵っぽくて、甘くて、冷たい。向かいのマンションのベランダで、洗濯物が風に揺れている。たぶん誰かのシャツ。誰かの毎日。私はそのシャツの重みを知らない。けれど、風が通る音は、私の部屋にも同じように入ってくる。世界は大きくも小さくもない。ただ、ここにある。
ベッドに腰を下ろし、天井の白を見上げる。蛍光灯のカバーの隅に、小さな虫の影。春になったらどこからか入り、夏をやり過ごし、秋を超え、冬の手前で貼り付いた小さな生。私は目を閉じ、息を吸い、吐く。吸う前と吐いたあと、両方で、自分の胸が動いている。胸の動きが、今日だけのものではないことを、身体が知っている。
スマホが震いたくなさそうに、小さく震えた。鈴木から短いメッセージ。
「怖いまま合格。おやすみ」
私は返す。
「怖いまま継続。おやすみ」
送信の青い矢印が画面の端へ走り、消える。部屋は静かだ。静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。私は横になり、肩の力を抜く。肩は自動的にすぼまない。あの動きは、練習をやめた筋肉が、ようやく忘れ始めた合図なのだろう。
眠りに落ちる直前、私は今日の自分に小さく言った。
よくやった。よくやめた。よく続けた。
言葉は誰にも届かない。届かなくていい。私の内側の、誰にも座標を教えていない場所にだけ、正確に届けばいい。そこに置かれた一行は、明日の私が読み返す可能性を持っている。読み返して否定する権利も、明日の私に渡す。そのとき私は、また書けばいい。セロテープの上からでも、書ける字がある。
目を閉じる。遠くで、また踏切が鳴る。カン、カン、カン。規則と不規則の間で、私の呼吸がゆっくり合っていく。仮面を外した顔は、見られたくない夜もある。今日は、見られなくていい。明日も、見られなくていいかもしれない。けれどいつか、私はまたどこかで話すだろう。話すとき、拍手がなくてもいい。静けさの重みを、私はもう知っているから。
天井の白が遠のく。枕の片側が少し濡れて、冷たい。冷たさは、走る熱の休憩所みたいだ。私はその冷たさに頬を預け、眠りに落ちた。現実は始まっている。演技は終わった。終わった演技の断片は、私の骨の内側に残り、これからも、形の違う何かの足場になる。生きる練習は、明日も続く。怖いまま、続く。怖いまま、続けていい。そういう許可を、自分に渡した日だった。
最後の出勤日。ビルの自動ドアが開く音はいつもより乾いていた。受付に社員証をかざす。ピッという電子音が、まるで出発の笛みたいにやさしく鳴る。エレベーターの鏡に映る私は、もう“オド”の肩の角度を作っていない。声量や語尾の長さを測るメトロノームを、家の引き出しに置いてきた。今日は“ふり”を持ってこなかった。持ってこられなかった。
デスクの引き出しを開ける。輪ゴム、ホチキス、使いかけの付箋。色鉛筆は四本、先が短い。白ノートと黒ノートは持ち帰る。白の背表紙は汗じみが濃い。黒の角は擦り減って白く覗いている。段ボール箱に詰めていくと、机の天板に残った地図のようなシミが目に入った。誰かが置き去りにしたコーヒーの跡。そこに何度も資料を広げ、私は“おどおど”を罫線みたいに引いた。線は消えない。けれど、私だけはここから消える。
「ねえ、直ちゃん」
背中から呼ぶ声に振り返ると、古川理紗が立っていた。彼女のジャケットは柔らかそうなグレー。いつも通り髪をまとめ、眉は穏やかに整っている。でも今日は、目の下に小さな影があった。
「この前の講演のこと、まだ整理できなくて」
「いいんです。私も整理できてません」
彼女は少しだけ笑う。笑いは形を見つけられないまま、頬の途中で止まった。
「私、あなたを守ってたつもりだった」
「うん。守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗は息をのんだ。気管の奥で小さく鳴った音が、こちらにまで届く。言ってしまった、と思う。でも、嘘じゃないから取り消せない。言葉は床に置いたコップみたいに、触れれば倒れる。
「でもありがとう。優しさの形って、難しいですね」
「ごめんね」
彼女はそう言って、ペンを握ったまま視線を落とした。私が段ボールに最後のメモ帳を入れると、理紗は小さく頷き、踵を返す。歩き出す一歩目で、かかとが床を強く叩いた。振り向かない背中に、私は頭を下げた。声は出さない。声を出せば、ぜんぶ泣き言になる気がした。
人事の部屋では、退職手続きの説明が端的に進んだ。カードの返却、保険証の扱い、メールのアカウント停止日。係の男性は淡々として、紙を指で押さえながら所定の欄を指した。そこに私の名前を書く。漢字二文字と漢字一文字。筆圧は弱くない。弱くないことがわかったことだけが、変に救いだった。
「体調不良ということで、よろしいですか」
「はい」
ウソではない。演技を続けられなくなった身体は、いつもより重く、いつもより透けている。係の男性はまだ若く、「ゆっくり休まれてください」と台本どおりの言葉を置いた。私は「ありがとうございます」と言い、部屋を出る。最後にもう一度、廊下の端からフロア全体を見た。蛍光灯の唸り。プリンタの小さな駆動音。キーボードの打鍵。いつでも戻れるような、いつでも戻れないような、どこにでもある会社の音。私は“ふり”をやめた耳で、その音を受け取ってみる。音は冷たく、でも正直だった。
席に戻ると、若手の佐伯が立っていた。スマホを握り締め、落ち着かなさを隠せない顔で。
「安西さん、本当にやめちゃうんですか」
「本当に、やめちゃうんです」
「資料の精度、いつもすごかったです。障がいがあるのに、じゃなくて、すごかったです」
彼は自分の言葉に戸惑い、途中で言い直した。私は笑った。ちゃんと笑えた。
「ありがとう。佐伯くんの『のに』は、今のうちに捨てといて」
「捨てます」
彼は少し赤くなって、頭を下げた。彼の素直さは、不器用で、まっすぐで、危うい。守ってあげたい、とは思わない。守りたいのは、それでも言い直せる彼自身の“やり直し方”だ。
帰り支度を終え、社員証を外す。伸びるストラップの端が指にひやりと触れる。ピッという音は、もう鳴らない。受付にカードを置くと、受付の女性が目を丸くして「お疲れさまでした」と言った。私は「お世話になりました」と返す。習い覚えた型の中に、本当の意味を入れてみる。型が私を裏切らなかったのは、今日が初めてだ。
ビルを出ると風が冷たかった。ポケットに入れていたイヤホンを、迷って、取り出さない。耳の穴は空っぽで、外の音が近い。車の走行音が低い帯で流れ、歩道の端で自転車のベルが短く鳴る。信号機のカウントダウンの電子音が脈を打つ。遠くの工事現場でショベルカーが砂利をすくい、落とす。落ちる音が地面を這って、足の裏に届く。小さな子供の笑い声が風に引かれて、ちぎれて飛ぶ。世界の音は、こんなにも粒が立っていたのか。私は目を閉じずに、受け取ってみた。刺さる。刺さるけれど、染みもしない。痛いのに、少し気持ちが良い。防音壁がなくなった世界は、騒がしくて、鮮やかだった。
横断歩道で信号を待つ間、ガラスに映った自分の顔を見る。口角は上がっていない。上げなくても、誰も死なない。上げたからといって、誰かが生きるわけでもない。私は大きく息を吸い、吐く。吐いた息は、白にならず、透明のまま流れた。
夕方まで街を歩き、川沿いのベンチに座った。川の音は薄い。水が岸の石に触れて戻る、その律儀な往復の音が、ほとんど聞こえないほどの小ささで続いている。スマホが震えた。鈴木優成からだ。
「仕事、やめたの?」
電話に出る。最初の三秒、何も言わない。沈黙が、会話の準備を整える。
「うん。もう“おどおど”できなくなった」
「そっか」
彼の声は、いつも通り硬質だが濁っていなかった。電話越しでも、濁らないのは才能だと思う。
「これから、どうするの?」
「わからない。でも、生きる練習は続ける」
「練習?」
「うん。仮面を外したまま、生きる練習」
「僕も、一緒に練習していい?」
「どうぞ。……でも、怖いですよ」
「怖いまま、生きよう」
遠くの踏切が鳴って、電話の向こうの世界とこちらの世界で、同じテンポの金属音が重なる。私は笑っていないのに、頬の筋肉が少しだけ緩む。緩む感覚が生きている証拠だと、初めて思えた。
「直さん」
「なに」
「仮面、割れたままでも、見られる顔だよ。今日の君は」
「見ないでほしい日もある」
「見ないよ。言われたら」
「言わない日もある」
「それも、いいよ」
会話はそこで止まる。止まることに失敗の匂いはない。私は「またね」と言い、電話を切った。画面が暗くなり、川に風が落ちる。夕日が低く、色をなくしていく街の輪郭を指でなぞるように、橋の欄干に影が伸びた。
帰宅すると、部屋の空気は朝の続きを保っていた。机に白と黒のノートを出す。白は、今日の計画が書けなかった余白を残したまま。黒は、今日の観測があふれるのを待っている。私は黒の最後のページを開いた。紙を触る指が、少し震える。震えは怖さではなく、力を戻すための微動に近い。
ペン先を置き、書く。
「#演技終了。#現実開始。」
それから、少し間を置いて、もう一行。
「今日、私は“ふり”無しで誰にも殺されなかった」
書きながら涙が落ちる。インクに溶ける。文字が波打つ。泣いていることに意味はあるのか、と頭の片隅が問う。意味がなくても、涙は落ちる。落ちるものを止めないのも、生きる練習のひとつだと思う。
鼻をかみ、窓を開ける。夜の街の匂いは、塵っぽくて、甘くて、冷たい。向かいのマンションのベランダで、洗濯物が風に揺れている。たぶん誰かのシャツ。誰かの毎日。私はそのシャツの重みを知らない。けれど、風が通る音は、私の部屋にも同じように入ってくる。世界は大きくも小さくもない。ただ、ここにある。
ベッドに腰を下ろし、天井の白を見上げる。蛍光灯のカバーの隅に、小さな虫の影。春になったらどこからか入り、夏をやり過ごし、秋を超え、冬の手前で貼り付いた小さな生。私は目を閉じ、息を吸い、吐く。吸う前と吐いたあと、両方で、自分の胸が動いている。胸の動きが、今日だけのものではないことを、身体が知っている。
スマホが震いたくなさそうに、小さく震えた。鈴木から短いメッセージ。
「怖いまま合格。おやすみ」
私は返す。
「怖いまま継続。おやすみ」
送信の青い矢印が画面の端へ走り、消える。部屋は静かだ。静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。私は横になり、肩の力を抜く。肩は自動的にすぼまない。あの動きは、練習をやめた筋肉が、ようやく忘れ始めた合図なのだろう。
眠りに落ちる直前、私は今日の自分に小さく言った。
よくやった。よくやめた。よく続けた。
言葉は誰にも届かない。届かなくていい。私の内側の、誰にも座標を教えていない場所にだけ、正確に届けばいい。そこに置かれた一行は、明日の私が読み返す可能性を持っている。読み返して否定する権利も、明日の私に渡す。そのとき私は、また書けばいい。セロテープの上からでも、書ける字がある。
目を閉じる。遠くで、また踏切が鳴る。カン、カン、カン。規則と不規則の間で、私の呼吸がゆっくり合っていく。仮面を外した顔は、見られたくない夜もある。今日は、見られなくていい。明日も、見られなくていいかもしれない。けれどいつか、私はまたどこかで話すだろう。話すとき、拍手がなくてもいい。静けさの重みを、私はもう知っているから。
天井の白が遠のく。枕の片側が少し濡れて、冷たい。冷たさは、走る熱の休憩所みたいだ。私はその冷たさに頬を預け、眠りに落ちた。現実は始まっている。演技は終わった。終わった演技の断片は、私の骨の内側に残り、これからも、形の違う何かの足場になる。生きる練習は、明日も続く。怖いまま、続く。怖いまま、続けていい。そういう許可を、自分に渡した日だった。
