秋の雲は低く、会場のガラスに薄い膜を張っていた。支援センター主催の講演会――「発達障害と社会の共生」。ロビーの立て看板には丸いフォントでテーマが書かれ、そこに紅葉色のイラストが散っている。記念撮影用の小さなフォトスポット。段差のない入口。手話通訳の席。配慮は行き届いていて、整っていて、よく磨かれた“やさしさ”の匂いがした。
私は控室で名札を指でなぞる。「当事者代表 安西直」。鏡の中の私は、いつもの――いや、“いつも”より少し丁寧に仕上げた“私”だった。髪は耳の後ろに流し、目元は薄く。口角は一段だけ上げ、緊張を伝えるための肩の角度を三度ほど微調整する。白いノートを膝に置き、台本をもう一度確認する。センター職員さんが作ってくれた、やさしい語りの台本。「私は発達障害当事者として働いています。たくさんの支えをいただき……」。文はやわらかく、言葉は丸い。聴く人の心を傷つけないように、角を落とした文章。角を落とすことは、時々、私自身の輪郭を落とすことと引き換えになる。
ドアが軽くノックされた。古川理紗が顔をのぞかせる。会社から来てくれたらしい。ベージュのジャケット。相変わらず、清潔な匂い。
「直ちゃん、緊張しなくていいからね。ゆっくりで」
「はい」
「たくさんの人がね、直ちゃんの話を待ってるよ。ほら、だいじょうぶ」
笑顔と一緒に手が肩に乗る。重くはない。けれど、肩に触れた手は“だいじょうぶ”の形をしていて、その形に合わせて私の肩が自動的にすぼむ。触れられながら、心のどこかがほんの少しだけ、きしむ。大丈夫、という言葉は鍵穴みたいだ。合う鍵で回されると、簡単に開いてしまう。
スタッフが顔を出す。「そろそろお時間です」。私は立ち上がり、深く息を吸い、吐く。吐いた息は鏡に曇りを残さなかった。おどおどの比率を、五%落とす。言い切りの一文を、最後に一本。白いノートの余白に小さく書いた朝のメモが、脳のどこかで点滅した。《#仮面を一度、割る》。割る、という言葉が喉の奥で重たく転がる。割ったあとの片付けを、誰がするのか。片付けずに、足で踏んでしまう痛みを、誰が受けるのか。考えるたびに、足裏に薄いガラスの感触が生まれる。
袖に立つと、スポットライトの白が舞台上に落ち、舞台袖の影の色が濃くなる。司会が前置きの挨拶を終え、「当事者代表の安西直さんです」と手を差し向ける。拍手。拍手はやさしく、密度が薄い。歩み出た足が、舞台の床の継ぎ目を踏み越える音。マイクは冷たく、金属の匂いがした。客席の前方に、センターの職員たちの顔。二列目の左端には理紗。さらに少し離れた通路側に、鈴木優成。目が合った気がして、すぐに逸らす。彼の視線は、レフ板の光ではなく、空の光に似ている。逃げ場がないぶん、暖かかった。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
台本の一行目を口に乗せる。波長は合っている。客席の空気は、想定された“安心の姿勢”を取っている。頷き、メモを取る準備。私は次を読む。「私は発達障害者として働いています。たくさんの支えを……」
そこで、声が止まった。ほんの一拍。けれど、舞台の上の一拍は、客席では長い。視界が微妙に歪む。ライトが血管の上を流れる。私は唇を閉じ、人差し指と親指で台本の角を軽くつまむ。つまんだ紙の端に、指の跡がつく。跡は薄い。薄いけれど、消えない。
胸の奥から、別の声がせり上がった。台本の文字を押し上げ、喉の裏で姿を変える声。午前中、鏡に向かって反芻した短い一文が、勝手に息と結びついた。
「……すみません、今日は少し違う話をします」
会場のどこかで、ペン先が止まる音がした。ざわめきは小さい。けれど空気の温度が、目に見えないところで確かに変わる。私は台本を台からそっと外し、マイクを握り直した。握った手のひらに汗が溜まり、金属の冷たさが鈍る。
「私は、“障がい者のふり”をしてきました」
言葉を置いた。置いた瞬間、舞台の床が僅かに沈んだような錯覚。空気が、光より先にこちらを振り向く。客席の前方で、職員の誰かが微笑を凍らせる。理紗の頬の筋肉が、硬く持ち上がる途中で止まる。鈴木が、ゆっくりと瞬きをする。
「“らしく”見えないと、理解してもらえない場面が多かった。だから、私はおどおどして、喋る練習をして、弱い人のふりをしてきました」
声は震えなかった。震えないのは、震えないように訓練してきたからだ。訓練は嘘ではない。嘘でないから、余計に重い。
「でも、それでようやく、“優しい社会”に入れてもらえたんです。私はその入り口に立つために、肩をすぼめて、目線を低くして、語尾を丸くしてきた。そうしないと、入り口の高さに届かなかったから」
沈黙。沈黙の中に、紙コップの弾む音が小さく混ざる。誰かが水を飲み、飲めなかった咳を飲み込む。咳の未遂。私はマイクを持つ手に少しだけ力を足した。骨に、重さが伝わる。
「今日は、そのふりを、一度やめてみます。……できるかどうかは、わかりません。明日には怖くなって、また肩をすぼめるかもしれない。それでも、今日という日に限っては、やめてみたい。やめた声で、話したい」
私は息を吸い、目を開いて客席を見た。光の向こうで、顔たちがそれぞれ違う速度で動いている。困惑。驚き。防御。本気の中立。いくつもの感情が、手話のように空気を叩く。理紗は立ち上がりかけ、座り直した。鈴木は膝の上で指を組み、首を小さく縦に動かした。彼の瞳は濁っていない。硬質で、濁っていない。
「私は自閉スペクトラムです。診断名は、私にとって盾でもあり、的でもある。私はそれを、持ち方で選びたい。かわいそうに見えるように持つこともできるし、偉そうに見えるように持つこともできる。今日は、どちらにも寄らない持ち方を、試したい」
誰かのペンが再び動き出す気配。私は続けた。
「それから――“がんばっている”と書かれるたびに、私の内側で何かが少しずつ削れる。『のに』という助詞は、時々、刃物になる。『障がいがあるのに、えらいね』。その『のに』は、私の肩に見えない印を押す。印が増えると、私の首は、勝手に下がる」
言いながら、自分の声が自分の耳に届く。今日は、台本の声でなく、録音機に向かって話す夜の声に近い。夜の声は、誰にも褒められない。だから、正直だ。
「私は、演技が上手い。当事者として、たぶん、上手い。上手いから、呼ばれる。呼ばれて、写真を撮られる。肩をすぼめると、印象が良いと言われる。私の“おどおど”は、みなさんの優しさを安心させる。安心させるために、私は何度でも肩をすぼめることができる。……でも、そのたびに、私の背中は、少しずつ小さくなる」
光の粒がちらつく。舞台の床の継ぎ目が遠く見える。私は立っている。立っているから、倒れない。倒れないことは、立つこととは違う。それでも、今はそれでいい。
「私は今日、仮面を一度、割ります」
言い切る。言い切った瞬間、どこかで小さくガラスの音がした。実際には何も割れていない。けれど、耳の奥の薄膜がひび割れるような、乾いた音。観客席の後方で、ドアが開いたのだろう。冷たい空気が舞台に流れ込んできて、汗の膜を薄く冷やす。
「割れたあと、私は困ります。困るから、きっとまた、貼る。セロテープで貼るように、また演技を足す。だから、今日だけは、割れた音を、ここに置いていきたい」
私は頭を下げた。拍手は――来なかった。誰もが言葉を失い、拍手の仕方を見失っている。その静けさは、恐怖でもあり、誠実でもあった。
ステージを降りると、袖の空気は舞台より暗く、柔らかい。司会は困った笑顔のまま次のプログラムへ繋ごうとしていた。誰かが「休憩にしましょう」と提案する声。マイクのスイッチが切られる音。私は控室に戻り、扉が閉まる前に大きく息を吐いた。吐いた息は、鏡に曇りを作った。さっきは作らなかった曇り。違いが、小さな事実だった。
すぐに扉が開き、理紗が飛び込んできた。
「直ちゃん、どうしたの? あんなこと言わなくても……」
私は椅子の背に手を置いて振り向く。理紗の顔は驚きで固まり、眉の形がいつもと違う。
「本当のこと、言っただけです」
「でも、あんな風に言ったら誤解されるよ」
「もう、誤解されてでもいいです。嘘のまま笑われるより、ずっといい」
理紗の目に涙が溜まる。彼女の涙は私のためだ。私のためであり、彼女自身の“やさしい人でいたい自分”のためでもある。私はその両方を否定したくなかった。否定しないで、受け止めるために、少しだけ目を逸らす。
「私、直ちゃんを守ってきたつもりだった」
「守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗の喉がわずかに動き、彼女の目から涙が一粒落ちた。私は咄嗟に箱ティッシュを差し出し、彼女は受け取って笑った。笑いは崩れた形で、きれいだった。
「ごめんね」
「ありがとうございます」
「ごめん、じゃなくて?」
「ありがとうございます、理紗さん。優しさの形って、むずかしいですね」
言葉は刃に触れないように置いた。控室を出るとき、理紗が「後で連絡するね」と震える声で言う。私は頷くだけで扉を閉めた。廊下の壁に貼られたポスターが視界を横切る。「共生のために、互いを理解しよう」。丸いフォント、優しい色。私は立ち止まらず、出口に向かった。
外は夕焼けだった。空は赤く、雲の切れ目から薄い金が漏れている。冷たい空気。駐車場の向こう、低いフェンスのそばに鈴木が立っていた。彼は手を振らない。私も振らない。近づくと、彼の目が少し潤んでいるのがわかった。
「……聞いてました」
「恥ずかしいね」
「いや、すごかった」
「怖かった」
「怖いことを言える人は、すごいです」
私は小さく笑う。笑いは、演技の肩を通らず、喉の奥で生まれてそのまま口元に届いた。鈴木はバッグからハンカチを取り出し、私に差し出そうとして、やめた。やめられるのは、やさしさの技術だと思った。
「仮面、割れた音、しましたね」
「聞こえた?」
「はい。僕の耳にも、すごく小さく」
「やっぱり、割れたんだ」
「割れました。でも粉々じゃない。真ん中に一本、線が入ったくらい。光がそこから入ってくる」
私は空を見上げる。雲の切れ間に、微かな光。額に落ちた冷たい風が、今日という日の輪郭をなぞる。
「拍手、なかったね」
「なかったね。でも、誰も席を立たなかった。あれは、けっこう大事なことだと思う」
「そうだね」
「あとで、拍手より重い反応が、ゆっくり来るかもしれない。誤解も、一緒に」
「覚悟してる。というか、覚悟しかできない」
鈴木はうなずいて、ポケットの中で何かを握った。多分、診断書のコピーじゃない。たぶん、彼自身の指だ。
「直さん。今日の君の言葉は、僕のほうの“ふつうをやめる計画”にも効く。僕は、まっすぐ言おうとして折れる日があるけど、その折れた音も、たぶん置いていいんだ」
「置く場所、迷うけどね」
「うん。でも、置かれた音は、誰かの道標になる。今日、僕はたぶん、君の線の上を歩けた」
私は彼の横顔を見る。目は赤いが、濁っていない。頬に少しだけ風の色が残っている。私は言う。
「私、明日にはまた、貼るよ。割れ目に。仕事に行くなら、多分、貼らないといけない」
「いいと思う。貼った上からでも、光は入る。セロテープは透明だから」
「破けた音、覚えていられるかな」
「僕が覚えてます。録音みたいにはいかないけど」
「じゃあ、忘れたら、教えて」
「うん」
会場の裏手で、荷物の台車がガラガラと音を立て、どこかで自動ドアが開閉する。日が傾き、駐車場のラインの白が長く伸びる。私はポケットから黒ノートを取り出した。表紙の角は擦り切れて、縁の布が少しはがれている。今日のページを開き、一本だけ線を引く。線は真ん中でわずかに震え、そこで止まる。その上に小さく書く。
《#仮面が割れる音》
そして、もう一行。
《#貼り方は自分で選ぶ》
閉じると、紙の温度が指に移った。鈴木が「また連絡する」と言う。私も「うん」と返す。ふたりは手を振らない。手を振らない別れ方は、空気を乱さない。乱さないのに、心の中に風が通る。
駅までの道を一人で歩きながら、私は今日の私を反芻した。台本を外し、言い切りを足し、持ち方を変え、割れ目からの光を受けた。怖かった。怖いまま、立っていた。立てたことは、事実だ。事実は、いつも小さい。小さいけれど、消えない。
ホームに着くと、電車はちょうど出たばかりで、次の到着まで七分。ベンチに座り、肩を回す。肩の位置は、もうさっきの高さではない。少しだけ下がった。下がった位置は、楽だ。楽な位置は、罪悪感に近い。私は罪悪感に名前をつける。《休憩》。休憩には、たぶん、許可はいらない。
電車に乗り、窓に映る自分を眺める。目が赤い。口角は上がっていない。写真に向いた顔ではない。私はこの顔で、明日を選ぶ。写真に向いた顔で、明日を選ぶ日もある。どちらも、嘘じゃない。
帰宅して靴を脱ぎ、机に白と黒のノートを並べる。白の最終行に、短く書く。
「今日:台本の外で三文。言い切り二本。謝罪ゼロ回。『ありがとうございます』一回。拍手ゼロ。沈黙、多数。光、一条」
黒の見出しには、強く鉛筆を走らせる。
「私は、ふりをやめると決めた“今日”を、明日の私が否定してもいい。否定しても、今日の私が消えるわけじゃない」
書き終えると、手のひらの汗が乾いていた。窓を開ける。夜風は昼の続きで、少し冷たい。街の明かりがにじむ。にじんだ光は、ひびの輪郭を柔らかくする。私はそっと指で額を撫で、自分にだけ聞こえる声で言う。
「よくやった。怖かった。生きた」
声は小さく、部屋の角でほどけた。すぐにスマホが震えた。鈴木からだ。
《割れ目、きれいでした》
私は返す。
《ありがとう。セロテープ、買って帰る》
《透明のやつにして》
《もちろん》
送信を終え、スマホを伏せる。部屋の静けさが戻る。静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。私はベッドに横たわり、天井の白を見つめる。目を閉じる直前、まぶたの裏に細い光が走る。あの光は、今日だけのものじゃない。割れ目から入った光は、明日、別の形で私の中に残る。セロテープ越しでも、きっと届く。
その確信だけを胸に置き、私はゆっくりと目を閉じた。遠くで踏切が鳴る。カン、カン、カン。規則的な音の向こう側で、私の仮面が、ほんの少しだけ呼吸を深くした。割れ目に沿って、秋の夜の匂いが、確かに、差し込んでいた。
私は控室で名札を指でなぞる。「当事者代表 安西直」。鏡の中の私は、いつもの――いや、“いつも”より少し丁寧に仕上げた“私”だった。髪は耳の後ろに流し、目元は薄く。口角は一段だけ上げ、緊張を伝えるための肩の角度を三度ほど微調整する。白いノートを膝に置き、台本をもう一度確認する。センター職員さんが作ってくれた、やさしい語りの台本。「私は発達障害当事者として働いています。たくさんの支えをいただき……」。文はやわらかく、言葉は丸い。聴く人の心を傷つけないように、角を落とした文章。角を落とすことは、時々、私自身の輪郭を落とすことと引き換えになる。
ドアが軽くノックされた。古川理紗が顔をのぞかせる。会社から来てくれたらしい。ベージュのジャケット。相変わらず、清潔な匂い。
「直ちゃん、緊張しなくていいからね。ゆっくりで」
「はい」
「たくさんの人がね、直ちゃんの話を待ってるよ。ほら、だいじょうぶ」
笑顔と一緒に手が肩に乗る。重くはない。けれど、肩に触れた手は“だいじょうぶ”の形をしていて、その形に合わせて私の肩が自動的にすぼむ。触れられながら、心のどこかがほんの少しだけ、きしむ。大丈夫、という言葉は鍵穴みたいだ。合う鍵で回されると、簡単に開いてしまう。
スタッフが顔を出す。「そろそろお時間です」。私は立ち上がり、深く息を吸い、吐く。吐いた息は鏡に曇りを残さなかった。おどおどの比率を、五%落とす。言い切りの一文を、最後に一本。白いノートの余白に小さく書いた朝のメモが、脳のどこかで点滅した。《#仮面を一度、割る》。割る、という言葉が喉の奥で重たく転がる。割ったあとの片付けを、誰がするのか。片付けずに、足で踏んでしまう痛みを、誰が受けるのか。考えるたびに、足裏に薄いガラスの感触が生まれる。
袖に立つと、スポットライトの白が舞台上に落ち、舞台袖の影の色が濃くなる。司会が前置きの挨拶を終え、「当事者代表の安西直さんです」と手を差し向ける。拍手。拍手はやさしく、密度が薄い。歩み出た足が、舞台の床の継ぎ目を踏み越える音。マイクは冷たく、金属の匂いがした。客席の前方に、センターの職員たちの顔。二列目の左端には理紗。さらに少し離れた通路側に、鈴木優成。目が合った気がして、すぐに逸らす。彼の視線は、レフ板の光ではなく、空の光に似ている。逃げ場がないぶん、暖かかった。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
台本の一行目を口に乗せる。波長は合っている。客席の空気は、想定された“安心の姿勢”を取っている。頷き、メモを取る準備。私は次を読む。「私は発達障害者として働いています。たくさんの支えを……」
そこで、声が止まった。ほんの一拍。けれど、舞台の上の一拍は、客席では長い。視界が微妙に歪む。ライトが血管の上を流れる。私は唇を閉じ、人差し指と親指で台本の角を軽くつまむ。つまんだ紙の端に、指の跡がつく。跡は薄い。薄いけれど、消えない。
胸の奥から、別の声がせり上がった。台本の文字を押し上げ、喉の裏で姿を変える声。午前中、鏡に向かって反芻した短い一文が、勝手に息と結びついた。
「……すみません、今日は少し違う話をします」
会場のどこかで、ペン先が止まる音がした。ざわめきは小さい。けれど空気の温度が、目に見えないところで確かに変わる。私は台本を台からそっと外し、マイクを握り直した。握った手のひらに汗が溜まり、金属の冷たさが鈍る。
「私は、“障がい者のふり”をしてきました」
言葉を置いた。置いた瞬間、舞台の床が僅かに沈んだような錯覚。空気が、光より先にこちらを振り向く。客席の前方で、職員の誰かが微笑を凍らせる。理紗の頬の筋肉が、硬く持ち上がる途中で止まる。鈴木が、ゆっくりと瞬きをする。
「“らしく”見えないと、理解してもらえない場面が多かった。だから、私はおどおどして、喋る練習をして、弱い人のふりをしてきました」
声は震えなかった。震えないのは、震えないように訓練してきたからだ。訓練は嘘ではない。嘘でないから、余計に重い。
「でも、それでようやく、“優しい社会”に入れてもらえたんです。私はその入り口に立つために、肩をすぼめて、目線を低くして、語尾を丸くしてきた。そうしないと、入り口の高さに届かなかったから」
沈黙。沈黙の中に、紙コップの弾む音が小さく混ざる。誰かが水を飲み、飲めなかった咳を飲み込む。咳の未遂。私はマイクを持つ手に少しだけ力を足した。骨に、重さが伝わる。
「今日は、そのふりを、一度やめてみます。……できるかどうかは、わかりません。明日には怖くなって、また肩をすぼめるかもしれない。それでも、今日という日に限っては、やめてみたい。やめた声で、話したい」
私は息を吸い、目を開いて客席を見た。光の向こうで、顔たちがそれぞれ違う速度で動いている。困惑。驚き。防御。本気の中立。いくつもの感情が、手話のように空気を叩く。理紗は立ち上がりかけ、座り直した。鈴木は膝の上で指を組み、首を小さく縦に動かした。彼の瞳は濁っていない。硬質で、濁っていない。
「私は自閉スペクトラムです。診断名は、私にとって盾でもあり、的でもある。私はそれを、持ち方で選びたい。かわいそうに見えるように持つこともできるし、偉そうに見えるように持つこともできる。今日は、どちらにも寄らない持ち方を、試したい」
誰かのペンが再び動き出す気配。私は続けた。
「それから――“がんばっている”と書かれるたびに、私の内側で何かが少しずつ削れる。『のに』という助詞は、時々、刃物になる。『障がいがあるのに、えらいね』。その『のに』は、私の肩に見えない印を押す。印が増えると、私の首は、勝手に下がる」
言いながら、自分の声が自分の耳に届く。今日は、台本の声でなく、録音機に向かって話す夜の声に近い。夜の声は、誰にも褒められない。だから、正直だ。
「私は、演技が上手い。当事者として、たぶん、上手い。上手いから、呼ばれる。呼ばれて、写真を撮られる。肩をすぼめると、印象が良いと言われる。私の“おどおど”は、みなさんの優しさを安心させる。安心させるために、私は何度でも肩をすぼめることができる。……でも、そのたびに、私の背中は、少しずつ小さくなる」
光の粒がちらつく。舞台の床の継ぎ目が遠く見える。私は立っている。立っているから、倒れない。倒れないことは、立つこととは違う。それでも、今はそれでいい。
「私は今日、仮面を一度、割ります」
言い切る。言い切った瞬間、どこかで小さくガラスの音がした。実際には何も割れていない。けれど、耳の奥の薄膜がひび割れるような、乾いた音。観客席の後方で、ドアが開いたのだろう。冷たい空気が舞台に流れ込んできて、汗の膜を薄く冷やす。
「割れたあと、私は困ります。困るから、きっとまた、貼る。セロテープで貼るように、また演技を足す。だから、今日だけは、割れた音を、ここに置いていきたい」
私は頭を下げた。拍手は――来なかった。誰もが言葉を失い、拍手の仕方を見失っている。その静けさは、恐怖でもあり、誠実でもあった。
ステージを降りると、袖の空気は舞台より暗く、柔らかい。司会は困った笑顔のまま次のプログラムへ繋ごうとしていた。誰かが「休憩にしましょう」と提案する声。マイクのスイッチが切られる音。私は控室に戻り、扉が閉まる前に大きく息を吐いた。吐いた息は、鏡に曇りを作った。さっきは作らなかった曇り。違いが、小さな事実だった。
すぐに扉が開き、理紗が飛び込んできた。
「直ちゃん、どうしたの? あんなこと言わなくても……」
私は椅子の背に手を置いて振り向く。理紗の顔は驚きで固まり、眉の形がいつもと違う。
「本当のこと、言っただけです」
「でも、あんな風に言ったら誤解されるよ」
「もう、誤解されてでもいいです。嘘のまま笑われるより、ずっといい」
理紗の目に涙が溜まる。彼女の涙は私のためだ。私のためであり、彼女自身の“やさしい人でいたい自分”のためでもある。私はその両方を否定したくなかった。否定しないで、受け止めるために、少しだけ目を逸らす。
「私、直ちゃんを守ってきたつもりだった」
「守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗の喉がわずかに動き、彼女の目から涙が一粒落ちた。私は咄嗟に箱ティッシュを差し出し、彼女は受け取って笑った。笑いは崩れた形で、きれいだった。
「ごめんね」
「ありがとうございます」
「ごめん、じゃなくて?」
「ありがとうございます、理紗さん。優しさの形って、むずかしいですね」
言葉は刃に触れないように置いた。控室を出るとき、理紗が「後で連絡するね」と震える声で言う。私は頷くだけで扉を閉めた。廊下の壁に貼られたポスターが視界を横切る。「共生のために、互いを理解しよう」。丸いフォント、優しい色。私は立ち止まらず、出口に向かった。
外は夕焼けだった。空は赤く、雲の切れ目から薄い金が漏れている。冷たい空気。駐車場の向こう、低いフェンスのそばに鈴木が立っていた。彼は手を振らない。私も振らない。近づくと、彼の目が少し潤んでいるのがわかった。
「……聞いてました」
「恥ずかしいね」
「いや、すごかった」
「怖かった」
「怖いことを言える人は、すごいです」
私は小さく笑う。笑いは、演技の肩を通らず、喉の奥で生まれてそのまま口元に届いた。鈴木はバッグからハンカチを取り出し、私に差し出そうとして、やめた。やめられるのは、やさしさの技術だと思った。
「仮面、割れた音、しましたね」
「聞こえた?」
「はい。僕の耳にも、すごく小さく」
「やっぱり、割れたんだ」
「割れました。でも粉々じゃない。真ん中に一本、線が入ったくらい。光がそこから入ってくる」
私は空を見上げる。雲の切れ間に、微かな光。額に落ちた冷たい風が、今日という日の輪郭をなぞる。
「拍手、なかったね」
「なかったね。でも、誰も席を立たなかった。あれは、けっこう大事なことだと思う」
「そうだね」
「あとで、拍手より重い反応が、ゆっくり来るかもしれない。誤解も、一緒に」
「覚悟してる。というか、覚悟しかできない」
鈴木はうなずいて、ポケットの中で何かを握った。多分、診断書のコピーじゃない。たぶん、彼自身の指だ。
「直さん。今日の君の言葉は、僕のほうの“ふつうをやめる計画”にも効く。僕は、まっすぐ言おうとして折れる日があるけど、その折れた音も、たぶん置いていいんだ」
「置く場所、迷うけどね」
「うん。でも、置かれた音は、誰かの道標になる。今日、僕はたぶん、君の線の上を歩けた」
私は彼の横顔を見る。目は赤いが、濁っていない。頬に少しだけ風の色が残っている。私は言う。
「私、明日にはまた、貼るよ。割れ目に。仕事に行くなら、多分、貼らないといけない」
「いいと思う。貼った上からでも、光は入る。セロテープは透明だから」
「破けた音、覚えていられるかな」
「僕が覚えてます。録音みたいにはいかないけど」
「じゃあ、忘れたら、教えて」
「うん」
会場の裏手で、荷物の台車がガラガラと音を立て、どこかで自動ドアが開閉する。日が傾き、駐車場のラインの白が長く伸びる。私はポケットから黒ノートを取り出した。表紙の角は擦り切れて、縁の布が少しはがれている。今日のページを開き、一本だけ線を引く。線は真ん中でわずかに震え、そこで止まる。その上に小さく書く。
《#仮面が割れる音》
そして、もう一行。
《#貼り方は自分で選ぶ》
閉じると、紙の温度が指に移った。鈴木が「また連絡する」と言う。私も「うん」と返す。ふたりは手を振らない。手を振らない別れ方は、空気を乱さない。乱さないのに、心の中に風が通る。
駅までの道を一人で歩きながら、私は今日の私を反芻した。台本を外し、言い切りを足し、持ち方を変え、割れ目からの光を受けた。怖かった。怖いまま、立っていた。立てたことは、事実だ。事実は、いつも小さい。小さいけれど、消えない。
ホームに着くと、電車はちょうど出たばかりで、次の到着まで七分。ベンチに座り、肩を回す。肩の位置は、もうさっきの高さではない。少しだけ下がった。下がった位置は、楽だ。楽な位置は、罪悪感に近い。私は罪悪感に名前をつける。《休憩》。休憩には、たぶん、許可はいらない。
電車に乗り、窓に映る自分を眺める。目が赤い。口角は上がっていない。写真に向いた顔ではない。私はこの顔で、明日を選ぶ。写真に向いた顔で、明日を選ぶ日もある。どちらも、嘘じゃない。
帰宅して靴を脱ぎ、机に白と黒のノートを並べる。白の最終行に、短く書く。
「今日:台本の外で三文。言い切り二本。謝罪ゼロ回。『ありがとうございます』一回。拍手ゼロ。沈黙、多数。光、一条」
黒の見出しには、強く鉛筆を走らせる。
「私は、ふりをやめると決めた“今日”を、明日の私が否定してもいい。否定しても、今日の私が消えるわけじゃない」
書き終えると、手のひらの汗が乾いていた。窓を開ける。夜風は昼の続きで、少し冷たい。街の明かりがにじむ。にじんだ光は、ひびの輪郭を柔らかくする。私はそっと指で額を撫で、自分にだけ聞こえる声で言う。
「よくやった。怖かった。生きた」
声は小さく、部屋の角でほどけた。すぐにスマホが震えた。鈴木からだ。
《割れ目、きれいでした》
私は返す。
《ありがとう。セロテープ、買って帰る》
《透明のやつにして》
《もちろん》
送信を終え、スマホを伏せる。部屋の静けさが戻る。静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。私はベッドに横たわり、天井の白を見つめる。目を閉じる直前、まぶたの裏に細い光が走る。あの光は、今日だけのものじゃない。割れ目から入った光は、明日、別の形で私の中に残る。セロテープ越しでも、きっと届く。
その確信だけを胸に置き、私はゆっくりと目を閉じた。遠くで踏切が鳴る。カン、カン、カン。規則的な音の向こう側で、私の仮面が、ほんの少しだけ呼吸を深くした。割れ目に沿って、秋の夜の匂いが、確かに、差し込んでいた。
