春の風は、まだ冬の名残を懐にしまっていた。交流会の帰り道、公民館の駐車場から川へ続く歩道に降りると、欄干に絡んだ枯れ蔓がさらさらと鳴った。太陽は街並みの向こうに傾き、川面の銀色に長い線を引いている。歩き出してすぐ、鈴木優成が横で足を緩めた。
「少し、話してもいいですか」
その声は、会場で挨拶をするときの“整えた音”ではなく、角を取る前の素の硬さが混ざっていた。安西直はうなずく。ふたりは階段を降り、川沿いのベンチに腰を下ろした。春の風は頬の皮膚を一枚薄く剥くようで、コートの裏地の擦れる音まで耳に届いた。
鈴木は鞄からクリアファイルを出した。透明の表紙は少し曇っていて、角が柔らかく摩耗している。彼はためらいながらファイルを開け、紙を一枚だけ抜き取った。白い紙に、黒い活字が並んでいる。病院名、日付、診断名。
「これ、見せたくて」
紙が渡される瞬間、彼の指先がわずかに震えた。その震えを受け取るように、安西は紙を両手で包んだ。活字は静かで、冷たい。冷たい活字は、時々とても暖かい。
「僕、もう“ふつう”やめたんだ。これが僕の証明書」
「証明書、ですか」
「そう。努力不足じゃなく、構造が違うって証明してくれる紙。……けどね、母親にも会社にも、笑われた」
紙の表面に、微かな皴が光を掠めた。安西は顔を上げる。鈴木の目は、笑っていなかった。
「病気のふりして逃げるな、って。だから今は、誰にもこの紙を見せない。代わりに、自分で自分を信じる練習してる」
最後の言葉は、川の音に紛れるように小さく落ちた。ベンチの板に背を預けると、木目の溝が肩甲骨に触れる。安西は診断書を見つめ、息をひとつ置いた。
「私も、“演じる練習”してます」
「反対だね」
「そう。でも、たぶん目的は同じ。自分を守ること」
鈴木は小さく頷き、片方の口角を上げて見せた。
「君の方が正直かも」
「正直に見える演技です」
川風が二人の間を抜けた。ポケットティッシュの外装がカサリと鳴る。沈黙は、誰のものでもない。
「僕、君を見てると安心する」
唐突に鈴木が言った。安西は紙から目を離す。
「君の“おどおど”は、僕の“素直”よりずっと強い」
「強い?」
「うん。演じるって、覚悟だから。傷の上に包帯を巻くのは、弱さじゃない。血を見せないって、決めることだと思う」
安西はしばらく呼吸の音だけになって、それから小さく笑った。笑いは風に削られて、輪郭が薄い。
「あなたの“自然”は、私には眩しすぎる」
「自然じゃないよ。痛みを晒してるだけ」
「晒すのも、覚悟ですね」
「うん」
彼の“うん”は短いが、重さがあった。診断書のコピーは、薄い紙なのに重い。誰かに見せれば、それは盾にもなるし、的にもなる。安西はそれを指先でそっと撫で、クリアファイルへ戻した。
「昔、母が言ったんです。『優成は、ちゃんと笑えばできる子だよ』って。だから僕は、笑った。笑えばできる、の“できる”って何だろう。営業成績? 雑談? 空気?」
「“できる”って、いつも他人称ですね」
「うん。僕の“できる”は、僕の外側にあった」
風が一段強くなる。対岸の保育園から、子どもたちの笑い声が遅れて届いた。笑い声はスピーカーの音みたいに空を通って薄くなるのに、刃だけは失われない。
「会社では、診断を伝えたときに上司が『最近それ、流行りだよな』って言った。冗談の顔で。冗談の顔って便利だよね。本気を隠すときの、公式の仮面だ」
「わかります」
安西の胸に、鋭い既視感が走る。「がんばり屋さん」「無理しないで」「男子に頼んで」。善意は整頓されていて、棘が見えにくい。
「診断書、ありがとう。見せてもらえて」
「ううん。君に見せたかった。だってさ、君の“おどおど”を見てると、僕は僕の“素直”を言い訳にしないで済む」
「……どういうことですか」
「君は、わかりやすい弱さを演じて、生き延びる方法を作ったでしょ。僕は、わかりにくい弱さを晒して、引かれるかもしれない場所に座った。それ、どっちも正しい。どっちも、嘘じゃない。君のやり方があるから、僕のやり方が特権化しないで済む。僕のやり方があるから、君のやり方が“甘え”って言葉で切られないですむ。……そう思いたい」
言いながら、鈴木は笑いもしないで、川の上を見ていた。水鳥が水面に文字を書いては解体する。春の光は、どの文字にも平等に反射する。
「君、今日は“おどおど”、少し緩めてたよね」
「ばれました?」
「うん。間の取り方が、ちょっと違った。肩の動きも」
観察されている、という事実に、嫌悪はなかった。安西は目を細め、ベンチの板の節を一本数えた。
「最近、少しだけ言い切る練習をしてるんです。会議で一文だけでも。『後で、案をまとめます』って。それだけで、頭の芯が熱くなる」
「すごいことだよ。一文は、街を変えるから」
「街は変わらないかもしれません」
「君の胸の中の地図は、変わってる」
その言葉は、薄い紙より暖かかった。自分の内側にだけ存在する地図。誰にも配布されない地図の目盛りは、外から見えないぶんだけ正確で、残酷だ。
上流のほうで、自転車のベルが鳴った。散歩の犬が吠え、飼い主が「だいじょうぶだよ」と言う。だいじょうぶ、は魔法の言葉だ。魔法は、効くときと効かないときがある。
「君はさ、仮面を嫌ってないよね」
鈴木がふいに言った。
「嫌ってないです。嫌ってない私を、嫌いだなって思う時はありますけど」
「それでも、被る」
「はい。被らないと、会話の入口に入れないから。入口の高さは、私の背より高く作られてる」
「僕は最近、その入口の外に座る練習をしてる」
「寒くないですか」
「寒い。寒いけど、時々そこに人が来る。君みたいに」
「……」
安西は横顔を見た。鈴木はわざと目を合わせてこない。自分と似ている。似ていない。似ているのは、視線の置き方と、沈黙の持ち方。似ていないのは、言葉の温度差の選び方。
「直さん」
名前を呼ばれて、安西は少しだけ肩を上げた。直と呼ばれるのは好きだ。苗字の鎧がないぶん、刃も近いけれど。
「僕、時々怖いんだ。“被害者”みたいな顔で立ってしまう自分が。診断書を鎧にしすぎる自分が。だから、誰にも見せてない。君にだけは、見せたかった」
「私も、あなたにだけ見せたいノートがあります」
安西はバッグから黒ノートを取り出し、見開きの片方をそっと示した。昨日の夜に書いたページだ。
《#演技の覚悟》
鉛筆の芯の粉が、紙の繊維に滲んでいる。鈴木はその一行をじっと見た。視線が文字の上を何度か往復する。
「仮面をかぶることは、嘘じゃない。生きる形のひとつだ」
「……それ、好きだな」
鈴木が小さく笑って言う。その笑いは、誰にも見せる予定のない笑い方に見えた。
「でもね」
安西はページの下の方、鉛筆の線が濃くなって波打つ部分を指差した。
「この下に、別の文字が滲んでる。自分で書いたのに、読みたくないやつ」
「読む?」
「“でも、この仮面を愛してくれる人は、いない”」
言ってから、口の中が鉄みたいな味になった。春の風は暖かくなったのに、喉の奥だけ冬に戻る。
鈴木は目を細めた。否定しようと息を吸った。けれど、すぐに吐いた。
「僕は、仮面を被ってる君を、嫌いじゃない。愛とか、そういう大きい言葉はまだ言えないけど、嫌いじゃない。だってさ、仮面って、君が君でいるための形だよ」
「形」
「うん。人って、形でしか触れられないじゃない。中身に触るって、たぶん嘘で。だから、形を作るって、誠実なことだと思う」
「……あなた、ずるいですね」
「どこが」
「そういう綺麗なこと、言えるから」
「言えるように、練習したんだよ」
冗談みたいに言って、彼は肩を竦めた。練習、と口にできるのは強さだ。練習していることを隠すのは、弱さだ。どちらも、責めたくない。
ベンチの脇の桜は、まだ硬い小さな芽を抱えている。枝の先の丸い影は、咲く準備をしているのに、しばらくは黙っているつもりらしい。黙っている準備、という言葉が安西の中に浮かぶ。演技も、沈黙も、準備が九割だ。
「真っ直ぐでいるの、疲れませんか」
安西が問う。鈴木は少し考えてから頷いた。
「疲れる。だから、真っ直ぐじゃない日も作る。“ふつうをやめる計画”って手帳に書いたけど、完全にはやめない。ゆっくりやめる。今日は斜め。明日は丸。そういうふうに」
「ふつうを、やめる」
「やめ方を、選ぶ」
川面に風が走り、小さな波紋が重なり合う。重なった渦は一秒で消え、あとには平らな水だけが残った。跡は残らないのに、見たものは残る。残ってしまう。
ふたりは立ち上がり、駅の方向へ歩き出した。信号が赤から青に変わる。交差点の角で、鈴木が立ち止まる。
「さっきさ」
彼は、ほんの少しだけ視線を落とした。
「君の素の声、好きだよ」
胸の真ん中で、何かが上へ跳ねた。安西は返事を作るのに失敗し、青信号の中で瞬きだけをした。車のライトが横切り、影が足元でほどける。
「……ありがとう」
やっと出た声は小さかった。小さいのに、喉を通るとき刃みたいに痛かった。鈴木はうなずき、手を軽く上げた。別れるための仕草は、いつもとてもよくできている。
電車の中は、夕方の人で混んでいた。中吊り広告に「みんなの“ふつう”の安全」と書かれた保険のコピー。みんな、という主語は便利だ。便利な主語は、いつも誰かを押し出す。安西は吊革につかまり、目を閉じた。まぶたの裏に、白い紙の活字が浮かぶ。自閉スペクトラム。活字は、彼を守り、彼女を傷つける。守ることと傷つけることは、いつも表裏で印刷されている。
帰宅して、靴を脱ぎ捨てると同時に机へ向かった。黒ノートと白ノートを並べ、黒を開く。今日のページの上に、大きく書く。
《#演技の覚悟》
鉛筆の芯がわずかに欠ける音がした。次の行に続ける。
「仮面をかぶることは、嘘じゃない。生きる形のひとつだ」
そこで手が止まる。少し間を置いて、白い余白に、昼間ベンチで声にした言葉を書き足した。
「でも、この仮面を愛してくれる人は、いない」
字が震え、線が太る。そこに水滴が落ちて、鉛筆の粉がやわらかく滲んだ。涙だと気づくのが、少し遅れた。頬を伝う水は、鏡を通っていないから“おどおど”にはならない。演技の外側で泣くのは、久しぶりだった。
スマホが震えた。鈴木からだ。
《今日は話せてよかった。帰り風、寒かったね》
《診断書、見せてくれてありがとう。重かった》
《重かったよね。軽くはならない。でも、持ち方は選べるから》
《うん》
《君の“演技”、僕は強いと思う》
《あなたの“素直”、私は眩しいと思う》
《眩しいのは、まだ慣れてないだけだよ。また練習しよう》
会話はそこまでだった。画面を暗くして、窓を少し開ける。遠くの交差点で信号が切り替わる音がかすかに聞こえる。風が頬を撫で、部屋に春の匂いを連れてきた。
安西は鏡の前に立った。目が赤い。声を整える練習はしない。低い声のまま、鏡に向かってゆっくり言う。
「私は、今日、演技を選んだ。それで生き延びた」
次に、ささやく。
「私は、今日、言い切りを一文だけ選んだ。それで少し息ができた」
最後に、口の形だけで言う。
「私は、仮面を嫌いだと思っている。でも、仮面に救われている」
言葉は空気にほどけて、天井の角で消える。机に戻り、ノートの端に小さく“今日”と書く。日付の横に、もうひとつ小さなタグを添える。
《#ふつうのやめ方》
・“無理しないで”に“できるところはやります”で返答。
・会議の言い切り一回。
・鈴木に「ありがとう」を一回。
・涙、演技の外側で一回。
列挙は、いつも少し笑える。笑いながら、鉛筆の蓋を閉じる。机の上に診断書の形を思い出す白が残像で浮かぶ。あれは彼の証明書で、同時に、彼の的だ。私のノートは、私の証明書で、私の的でもある。的は、当てられるために描くのではない。自分がどこに立っているかを確かめるために、描く。
眠る前、鈴木の言葉がもう一度蘇る。「君の“おどおど”は強い」。強い、という評価は危うい。ラベルはすべて危うい。けれど、今夜だけはそれを受け取ることにする。受け取って、枕の下に隠す。朝になったら、またわからなくなるから。
ベッドに横になり、電気を消す。暗闇は、配慮のいらない情報だ。目を閉じたまま、心の中でゆっくりと繰り返す。
「演技は覚悟。自然は告白。どちらも私の息の形」
川の匂いが、遠いところでまだ揺れている気がした。春は残酷で、やさしい。残酷だから芽が割れ、やさしいから包帯が温かい。明日、また一文だけ言い切る。言い切りは旗じゃない。胸の中の地図に小さなピンを立てる作業だ。ピンは、誰にも見えないまま、私だけの画面で光る。
「おやすみ」
誰にともなく言って目を閉じる。外の道路を、遅いバスが一本通り過ぎた。すこし遅れて、胸の中の針も一目盛、進んだ気がした。
「少し、話してもいいですか」
その声は、会場で挨拶をするときの“整えた音”ではなく、角を取る前の素の硬さが混ざっていた。安西直はうなずく。ふたりは階段を降り、川沿いのベンチに腰を下ろした。春の風は頬の皮膚を一枚薄く剥くようで、コートの裏地の擦れる音まで耳に届いた。
鈴木は鞄からクリアファイルを出した。透明の表紙は少し曇っていて、角が柔らかく摩耗している。彼はためらいながらファイルを開け、紙を一枚だけ抜き取った。白い紙に、黒い活字が並んでいる。病院名、日付、診断名。
「これ、見せたくて」
紙が渡される瞬間、彼の指先がわずかに震えた。その震えを受け取るように、安西は紙を両手で包んだ。活字は静かで、冷たい。冷たい活字は、時々とても暖かい。
「僕、もう“ふつう”やめたんだ。これが僕の証明書」
「証明書、ですか」
「そう。努力不足じゃなく、構造が違うって証明してくれる紙。……けどね、母親にも会社にも、笑われた」
紙の表面に、微かな皴が光を掠めた。安西は顔を上げる。鈴木の目は、笑っていなかった。
「病気のふりして逃げるな、って。だから今は、誰にもこの紙を見せない。代わりに、自分で自分を信じる練習してる」
最後の言葉は、川の音に紛れるように小さく落ちた。ベンチの板に背を預けると、木目の溝が肩甲骨に触れる。安西は診断書を見つめ、息をひとつ置いた。
「私も、“演じる練習”してます」
「反対だね」
「そう。でも、たぶん目的は同じ。自分を守ること」
鈴木は小さく頷き、片方の口角を上げて見せた。
「君の方が正直かも」
「正直に見える演技です」
川風が二人の間を抜けた。ポケットティッシュの外装がカサリと鳴る。沈黙は、誰のものでもない。
「僕、君を見てると安心する」
唐突に鈴木が言った。安西は紙から目を離す。
「君の“おどおど”は、僕の“素直”よりずっと強い」
「強い?」
「うん。演じるって、覚悟だから。傷の上に包帯を巻くのは、弱さじゃない。血を見せないって、決めることだと思う」
安西はしばらく呼吸の音だけになって、それから小さく笑った。笑いは風に削られて、輪郭が薄い。
「あなたの“自然”は、私には眩しすぎる」
「自然じゃないよ。痛みを晒してるだけ」
「晒すのも、覚悟ですね」
「うん」
彼の“うん”は短いが、重さがあった。診断書のコピーは、薄い紙なのに重い。誰かに見せれば、それは盾にもなるし、的にもなる。安西はそれを指先でそっと撫で、クリアファイルへ戻した。
「昔、母が言ったんです。『優成は、ちゃんと笑えばできる子だよ』って。だから僕は、笑った。笑えばできる、の“できる”って何だろう。営業成績? 雑談? 空気?」
「“できる”って、いつも他人称ですね」
「うん。僕の“できる”は、僕の外側にあった」
風が一段強くなる。対岸の保育園から、子どもたちの笑い声が遅れて届いた。笑い声はスピーカーの音みたいに空を通って薄くなるのに、刃だけは失われない。
「会社では、診断を伝えたときに上司が『最近それ、流行りだよな』って言った。冗談の顔で。冗談の顔って便利だよね。本気を隠すときの、公式の仮面だ」
「わかります」
安西の胸に、鋭い既視感が走る。「がんばり屋さん」「無理しないで」「男子に頼んで」。善意は整頓されていて、棘が見えにくい。
「診断書、ありがとう。見せてもらえて」
「ううん。君に見せたかった。だってさ、君の“おどおど”を見てると、僕は僕の“素直”を言い訳にしないで済む」
「……どういうことですか」
「君は、わかりやすい弱さを演じて、生き延びる方法を作ったでしょ。僕は、わかりにくい弱さを晒して、引かれるかもしれない場所に座った。それ、どっちも正しい。どっちも、嘘じゃない。君のやり方があるから、僕のやり方が特権化しないで済む。僕のやり方があるから、君のやり方が“甘え”って言葉で切られないですむ。……そう思いたい」
言いながら、鈴木は笑いもしないで、川の上を見ていた。水鳥が水面に文字を書いては解体する。春の光は、どの文字にも平等に反射する。
「君、今日は“おどおど”、少し緩めてたよね」
「ばれました?」
「うん。間の取り方が、ちょっと違った。肩の動きも」
観察されている、という事実に、嫌悪はなかった。安西は目を細め、ベンチの板の節を一本数えた。
「最近、少しだけ言い切る練習をしてるんです。会議で一文だけでも。『後で、案をまとめます』って。それだけで、頭の芯が熱くなる」
「すごいことだよ。一文は、街を変えるから」
「街は変わらないかもしれません」
「君の胸の中の地図は、変わってる」
その言葉は、薄い紙より暖かかった。自分の内側にだけ存在する地図。誰にも配布されない地図の目盛りは、外から見えないぶんだけ正確で、残酷だ。
上流のほうで、自転車のベルが鳴った。散歩の犬が吠え、飼い主が「だいじょうぶだよ」と言う。だいじょうぶ、は魔法の言葉だ。魔法は、効くときと効かないときがある。
「君はさ、仮面を嫌ってないよね」
鈴木がふいに言った。
「嫌ってないです。嫌ってない私を、嫌いだなって思う時はありますけど」
「それでも、被る」
「はい。被らないと、会話の入口に入れないから。入口の高さは、私の背より高く作られてる」
「僕は最近、その入口の外に座る練習をしてる」
「寒くないですか」
「寒い。寒いけど、時々そこに人が来る。君みたいに」
「……」
安西は横顔を見た。鈴木はわざと目を合わせてこない。自分と似ている。似ていない。似ているのは、視線の置き方と、沈黙の持ち方。似ていないのは、言葉の温度差の選び方。
「直さん」
名前を呼ばれて、安西は少しだけ肩を上げた。直と呼ばれるのは好きだ。苗字の鎧がないぶん、刃も近いけれど。
「僕、時々怖いんだ。“被害者”みたいな顔で立ってしまう自分が。診断書を鎧にしすぎる自分が。だから、誰にも見せてない。君にだけは、見せたかった」
「私も、あなたにだけ見せたいノートがあります」
安西はバッグから黒ノートを取り出し、見開きの片方をそっと示した。昨日の夜に書いたページだ。
《#演技の覚悟》
鉛筆の芯の粉が、紙の繊維に滲んでいる。鈴木はその一行をじっと見た。視線が文字の上を何度か往復する。
「仮面をかぶることは、嘘じゃない。生きる形のひとつだ」
「……それ、好きだな」
鈴木が小さく笑って言う。その笑いは、誰にも見せる予定のない笑い方に見えた。
「でもね」
安西はページの下の方、鉛筆の線が濃くなって波打つ部分を指差した。
「この下に、別の文字が滲んでる。自分で書いたのに、読みたくないやつ」
「読む?」
「“でも、この仮面を愛してくれる人は、いない”」
言ってから、口の中が鉄みたいな味になった。春の風は暖かくなったのに、喉の奥だけ冬に戻る。
鈴木は目を細めた。否定しようと息を吸った。けれど、すぐに吐いた。
「僕は、仮面を被ってる君を、嫌いじゃない。愛とか、そういう大きい言葉はまだ言えないけど、嫌いじゃない。だってさ、仮面って、君が君でいるための形だよ」
「形」
「うん。人って、形でしか触れられないじゃない。中身に触るって、たぶん嘘で。だから、形を作るって、誠実なことだと思う」
「……あなた、ずるいですね」
「どこが」
「そういう綺麗なこと、言えるから」
「言えるように、練習したんだよ」
冗談みたいに言って、彼は肩を竦めた。練習、と口にできるのは強さだ。練習していることを隠すのは、弱さだ。どちらも、責めたくない。
ベンチの脇の桜は、まだ硬い小さな芽を抱えている。枝の先の丸い影は、咲く準備をしているのに、しばらくは黙っているつもりらしい。黙っている準備、という言葉が安西の中に浮かぶ。演技も、沈黙も、準備が九割だ。
「真っ直ぐでいるの、疲れませんか」
安西が問う。鈴木は少し考えてから頷いた。
「疲れる。だから、真っ直ぐじゃない日も作る。“ふつうをやめる計画”って手帳に書いたけど、完全にはやめない。ゆっくりやめる。今日は斜め。明日は丸。そういうふうに」
「ふつうを、やめる」
「やめ方を、選ぶ」
川面に風が走り、小さな波紋が重なり合う。重なった渦は一秒で消え、あとには平らな水だけが残った。跡は残らないのに、見たものは残る。残ってしまう。
ふたりは立ち上がり、駅の方向へ歩き出した。信号が赤から青に変わる。交差点の角で、鈴木が立ち止まる。
「さっきさ」
彼は、ほんの少しだけ視線を落とした。
「君の素の声、好きだよ」
胸の真ん中で、何かが上へ跳ねた。安西は返事を作るのに失敗し、青信号の中で瞬きだけをした。車のライトが横切り、影が足元でほどける。
「……ありがとう」
やっと出た声は小さかった。小さいのに、喉を通るとき刃みたいに痛かった。鈴木はうなずき、手を軽く上げた。別れるための仕草は、いつもとてもよくできている。
電車の中は、夕方の人で混んでいた。中吊り広告に「みんなの“ふつう”の安全」と書かれた保険のコピー。みんな、という主語は便利だ。便利な主語は、いつも誰かを押し出す。安西は吊革につかまり、目を閉じた。まぶたの裏に、白い紙の活字が浮かぶ。自閉スペクトラム。活字は、彼を守り、彼女を傷つける。守ることと傷つけることは、いつも表裏で印刷されている。
帰宅して、靴を脱ぎ捨てると同時に机へ向かった。黒ノートと白ノートを並べ、黒を開く。今日のページの上に、大きく書く。
《#演技の覚悟》
鉛筆の芯がわずかに欠ける音がした。次の行に続ける。
「仮面をかぶることは、嘘じゃない。生きる形のひとつだ」
そこで手が止まる。少し間を置いて、白い余白に、昼間ベンチで声にした言葉を書き足した。
「でも、この仮面を愛してくれる人は、いない」
字が震え、線が太る。そこに水滴が落ちて、鉛筆の粉がやわらかく滲んだ。涙だと気づくのが、少し遅れた。頬を伝う水は、鏡を通っていないから“おどおど”にはならない。演技の外側で泣くのは、久しぶりだった。
スマホが震えた。鈴木からだ。
《今日は話せてよかった。帰り風、寒かったね》
《診断書、見せてくれてありがとう。重かった》
《重かったよね。軽くはならない。でも、持ち方は選べるから》
《うん》
《君の“演技”、僕は強いと思う》
《あなたの“素直”、私は眩しいと思う》
《眩しいのは、まだ慣れてないだけだよ。また練習しよう》
会話はそこまでだった。画面を暗くして、窓を少し開ける。遠くの交差点で信号が切り替わる音がかすかに聞こえる。風が頬を撫で、部屋に春の匂いを連れてきた。
安西は鏡の前に立った。目が赤い。声を整える練習はしない。低い声のまま、鏡に向かってゆっくり言う。
「私は、今日、演技を選んだ。それで生き延びた」
次に、ささやく。
「私は、今日、言い切りを一文だけ選んだ。それで少し息ができた」
最後に、口の形だけで言う。
「私は、仮面を嫌いだと思っている。でも、仮面に救われている」
言葉は空気にほどけて、天井の角で消える。机に戻り、ノートの端に小さく“今日”と書く。日付の横に、もうひとつ小さなタグを添える。
《#ふつうのやめ方》
・“無理しないで”に“できるところはやります”で返答。
・会議の言い切り一回。
・鈴木に「ありがとう」を一回。
・涙、演技の外側で一回。
列挙は、いつも少し笑える。笑いながら、鉛筆の蓋を閉じる。机の上に診断書の形を思い出す白が残像で浮かぶ。あれは彼の証明書で、同時に、彼の的だ。私のノートは、私の証明書で、私の的でもある。的は、当てられるために描くのではない。自分がどこに立っているかを確かめるために、描く。
眠る前、鈴木の言葉がもう一度蘇る。「君の“おどおど”は強い」。強い、という評価は危うい。ラベルはすべて危うい。けれど、今夜だけはそれを受け取ることにする。受け取って、枕の下に隠す。朝になったら、またわからなくなるから。
ベッドに横になり、電気を消す。暗闇は、配慮のいらない情報だ。目を閉じたまま、心の中でゆっくりと繰り返す。
「演技は覚悟。自然は告白。どちらも私の息の形」
川の匂いが、遠いところでまだ揺れている気がした。春は残酷で、やさしい。残酷だから芽が割れ、やさしいから包帯が温かい。明日、また一文だけ言い切る。言い切りは旗じゃない。胸の中の地図に小さなピンを立てる作業だ。ピンは、誰にも見えないまま、私だけの画面で光る。
「おやすみ」
誰にともなく言って目を閉じる。外の道路を、遅いバスが一本通り過ぎた。すこし遅れて、胸の中の針も一目盛、進んだ気がした。
