目覚ましが鳴る前に目が覚める。窓の外はまだうす暗い。となりの棟のベランダに、早起きの誰かの洗濯物が音を立てず揺れている。
洗面所の灯りは白く、狭い鏡がこちらをまっすぐ返す。歯ブラシと化粧水と髪留め、いつも同じ配列。指先が少し冷たい。蛇口をひねると、薄い水音がアパート全体を伝っていくみたいに聞こえる。
鏡の前に立つと、まず視線の置き方を確認する。額の中心、眉間の延長線上、相手の目ではなく、その近く。二秒まで。二秒を越えると「挑発的」に、手前で逸らしすぎると「落ち着きがない」に分類される。
まばたきの間隔は普段より少し長く。語尾は柔らかく伸ばす。伸ばしすぎると子どもっぽく見えるので、音の尾は短く。声量は半段落とす。胸からではなく喉から出す。
口角は上げすぎると元気、下げると不機嫌。だから中央、揺れないように、でも硬くないように。頬の筋肉に微弱な力を残したまま保つ。
今日は評価面談のある金曜日だ。制服みたいに定まってしまったカーディガンのポケットに、小さなメモを差し込む。紙の端が擦れて角がやわい。
ゆっくり。すみませんを三回。目は二秒まで。笑う。
裏には昔の字で、二行だけ走り書きがある。支援クラスの教室で誰かが言った言葉。
安西さんって普通にできるじゃん。
褒め言葉のふりをしているのに、その日から、輪郭にぬめりがついた。輪郭が曖昧なものは、殴られても壊れない。その代わり、誰の手でも形を変えられる。
通勤の電車は、今日も人と音で満ちる。吊革は斜めに握る。肩が触れたら先に言う。「すみません」。一度で足りなければ二度。笑いを添える。
車内広告には「多様性の時代」という文字が踊る。多様の色は多いのに、枠はひとつ。枠の縁はやわらかいスポンジみたいな顔をしていて、当たっても痛くないように見せている。
会社のエントランスは、空気が朝の体温をまだ覚えていて、少し涼しい。総務の古川理紗さんが、自動ドアの向こうから手を振る。
「おはよう、直ちゃん。今日、緊張しないでね」
「は、はい……」
一拍置いて、喉を少し絞る。演技がうまくいくと、理紗さんの眉がふっと下がる。守られた、と相手が思ってくれる。守ってもらった、ことにしておく。
会議室の前で一度深呼吸する。ドアノブの冷たさを指に移す。
「最近は業務にも慣れてきたね。安西さん、意外とやれるよ」
意外と、の二文字が空気に落ちる。透明だが、沈む。
「ありがとうございます」
礼を先に渡してから、用意してきたミスの告白を差し出す。声の尾を短く。少し見下ろして、資料の角を指で揃える。
「先週のデータで、並び順を一箇所、見落としていました。来週から、チェックシートに一行足します」
先に小さく傷を見せ、手当ての準備まで話す。相手の期待を、峰の手前まで引き下げておく。頂上に運ばれると、次は「障がいって何?」と聞かれる。
「うん、丁寧にやってるのは分かるよ。伸びしろあるね」
伸びしろという言葉の中では、いつまでも届かない天井が礼儀正しく微笑んでいる。
昼休みはトイレの個室。紙袋みたいな狭さが落ち着く。便座の蓋に腰をかけ、スマホのメモに今日の観測記録を書く。
演技、語尾の伸ばし過剰。二割削る。目線、額に偏る。次回は眉間。
画面に映るひらがなは、誰にも見せない言語だ。
心のほうは、別の言語で言う。
俺は、本当は早口で、結論を先に言いたい。
“俺”という主語の重さは、ここでは軽い。外に持ち出すと、空気の密度が変わる。部署の人たちの顔が曇るのが目に浮かぶ。だから、わたしで通す。俺の声は、鏡でしか響かない。
午後のフロアは蛍光灯の唸りが強い。電話のコールが三つ重なって、少し頭の脈が早くなる。二コール以内では取らない。三つ目で受けると、慎重で丁寧というラベルが貼られる。貼られたラベルは守ってくれる。重石にもなる。
定型作業は好きだ。順番に従えばゴールに着く。だが突発の問いは、道の途中に突然できた横穴みたいに足元を吸い込む。
チャットで若手からDMが届く。
安西さん、資料の精度すごいですね。障がいがあるのに、努力していて尊敬します。
文章の真ん中に、小さくて硬い“のに”が入っている。
「ありがとうございます、まだまだです」
返信を送り、膝の上で両手を握る。指の骨の形がはっきり分かるくらい力を入れて、それから離す。
わかりやすい弱さを演じることは、こちらの都合でもあり、あちらの健康でもある。善意の構図が、偏見をきれいに洗って並べ直す。知っている。知っていて、今日もそこに立つ。
退勤の時間、フロアを抜ける前に理紗さんが声をかけてくる。
「来週、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」
「えっと、人前は苦手で」
台本通りの台詞に、台本通りの微笑み。
「だよね。無理しないで」
無理しないで、が、床に描かれた薄い白線みたいに道を囲う。内側にいれば安全だと、線そのものが言い聞かせてくる。
駅前の広場では、高校生たちが募金活動をしている。
発達障害の理解を、というポスターには、困っている顔の線が丁寧に描かれていた。おどおどした瞳、落ちる肩。
君たちが思う障がい者って、こういう感じやろ、と心の声が刺々しくなる。
募金箱に百円玉を落とす。指は震えない。震えさせるのは、舞台の上だけでいい。
夜、部屋に帰る。蛍光灯を一段落として、机にノートを二冊並べる。黒い表紙には「観測記録」。白い表紙には「役柄指示」。
黒には、その日に浴びた言葉と体の反応を書く。心拍、胃の痛み、額の汗。
白には、翌日使う台詞と振る舞いの温度を数値でつける。声量60、語尾0.3秒、まばたき遅延+0.2。目線は眉間。相槌は二拍遅らせる。
自然の模倣ではない。自然に見えるための計算だ。
最後のページをひらいて、見出しだけを書き込む。
偏見の利得。
偏見を逆手に取ると、攻撃から身を守れる利得がある。けれどその利得は、偏見の存続に加担する。
矛盾の図を簡単に描く。矢印は四角の上でくるりと輪を作り、また出発点に戻る。
ノートを閉じて、灯りを落とす。暗闇は嘘が少ない。
布団の中で、一回だけ、低い声で言う。
俺は、生き延びる。
音はすぐに布に吸い込まれる。明かりをつけたら、またわたしになる。
朝の冷たさは、同じ場所にちゃんと帰ってくる。シャワーは三十八度。熱すぎると皮膚の感覚が暴走して、一日中ノイズを残す。歯ブラシはソフト。硬い毛先は口内の痛みを増幅させる。服のタグは全部切る。生地の縫い目が肩の骨に当たらないものを選ぶ。それを誰かに説明することは、わがままの申告に等しいと学んだ。だから黙って調整する。
鏡の前で、今日の役柄を決める。名前は簡単に「オド」。家には「ナオ」を置いていく。
オドの設定を声に出して確認する。
声は六割。語尾は短く。目線は眉間。相槌は二拍遅れ。
口元の筋肉が小さく震える。震えは恐れではない。スタートの合図みたいなものだ。
午前、予告のない来客が来る。応接の呼び出しは、横穴の感覚に似ている。最初の一歩で足を捻らないように、笑顔を先に準備しておく。
「彼女、可愛いね」
客が上司に言う。耳の奥で硬い音が鳴る。
心は、男だ。説明すべき場面かどうか、間にミリ単位の計算を挟む。今日の答えは沈黙。説明は護身で、同時に消耗だ。残量は全体の予定といっしょに管理する必要がある。
午後、空調の風が変わる。直接当たり始めると、皮膚の表面で細かい針が立つ。頭痛が芽のように出る。
「少し、席を外します」
柔らかい声で離席して、休憩室でペットボトルの冷たさを額に押し当てる。黒ノートに短く書く。
風、敵。避難所、冷。
数分で戻る。何事もなかった顔に戻る。戻るという言葉は本当は嘘だ。元の顔は保存されない。毎回、似た顔をまた作っている。
夕方、部署の雑談スレがにぎやかになる。オドは既読をつけ、反応のスタンプを三つ選ぶ。言葉は置かない。印象を損なわず、消費を抑える。
エレベーターの鏡に映る自分は、今日のオドの顔をしている。頬の筋肉は疲れて、少し甘い。
理紗さんが追いつく。
「この前の交流会、やっぱり来てよ。顔出すだけでも」
喉のあたりにナオが浮き上がる。言いかけて飲み込む。
「……緊張するけど、考えてみます」
「ほんと? うれしい」
善意の顔は、檻の形をしている。柔らかい格子が、見た目には分からないくらいの薄さで体の周りを囲う。守ってくれると同時に、動ける範囲を決める。
夜の白ノートに、演技の更新を書き足す。
来客応対時、声量+一割。「大丈夫ですか」への返答に「ありがとうございます」を付与。
演技は鍛えられる。鍛えられてしまう。
土曜、交流会。公民館のカーペットは、雨上がりのにおいを少し残している。受付で名札を受け取る。
安西直、と印字。職員が肩に手を置く。
「緊張しなくていいですからね」
接触の瞬間、呼吸が跳ねる。緊張している、と先に決められた空気がこちらに移ってくる。
「……はい、ありがとうございます」
喉から小さく出す。オドの声だ。
コの字の机の向こう側、隅の椅子に、黒いマスクの人が座っている。目だけが見える。こちらと同じ、違う種類の疲れが滲んでいる。
自己紹介の順番は時計回り。
「私は……緊張しやすくて……えっと……前の職場では……」
声が少し震える。設計通りの震えだ。司会が笑って、「ゆっくりでいいですよ」。会場の温度が下がる。
すぐあとに、マスクの人が口を開く。
「鈴木です。最近、診断を受けました。……正直、ほっとしました。やっと、名前がついたので」
硬質な声だが、濁りがない。
名前がついた、という言葉がこちらの胸骨を小さく叩く。
休憩時間、自販機の前で紙コップのコーヒーを受け取ろうとしたとき、その人が隣に立った。マスクは外している。白い紙みたいな顔。
「さっきの話、印象に残りました」
「えっ……」
相槌の在庫を探すが、見つからない。沈黙が落ちる。
「名前がつくって、安心しますよね。僕も同じで」
「……そう、なんですね」
沈黙を壊さない人だ。沈黙を怖がらない人に会うのは、めずらしい。
「僕、前は“健常者のふり”してたんです」
ふり、という音が胸に刺さる。
「ふり、ですか」
「そう。誰にもバレないように。でも疲れて」
「私は逆なんです。障がい者のふり、してます」
言いながら、自分でその言葉に驚く。
鈴木、と名札にある。彼は目を瞬かせた。
「どういう意味?」
「“らしく”しないと、信じてもらえないんです」
紙コップのふちが熱い。
鈴木は何も言わず、湯気の向こうを見た。
会場に戻る前、彼が小さく言う。
「自然なんて、やめました。演技のほうが正直ですよ」
足が止まる。
「その言葉、わかる気がします」
そのとき出た声は、オドではなかった。オドでもナオでもない、仮面の裏側で長く息をしていた声だった。
週明けの朝礼、新任の課長が軽やかに言う。
「多様性の時代だからね。誰でも活躍できる職場にしていきましょう」
すぐそのあと、冗談が飛ぶ。
「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」
笑いがさざ波みたいに広がる。
私は笑ってうなずく。輪の外側に立てば、声出し担当に指名されない。そういう技術は、努力の範囲だ。
昼、食堂で理紗さんがスマホを差し出す。
「これ、面白い記事だよ。発達障害でも輝く女性たち」
画面の中の誰かが笑っている。
「すごいですね」
本当は、この記事が嫌いだ。できる物語だけが増幅されると、できない日の現実が見えにくくなる。
「こういう人たちが増えると、社会も変わるよね」
「そうですね」
胸の中で、別の声が言う。あなたのいう社会って、誰の社会。
夜、白ノートのタイトルに書く。
優しさの檻。笑顔は鍵。
矢印の図を描いてみる。優しさから安心へ、安心から依存へ、依存から支配へ。支配からまた優しさへ。
ペン先が紙の繊維をひっかく音が、少し気持ちいい。
鈴木の言葉を思い出す。自然なんて、やめました。
羨ましい。でも、あの自然は特権だ。自然で生き残れるほど世界はやさしくない。
窓を開けると、冬に向かう風の温度が頬を触る。
俺は、まだ演じる。明日も。
少しして、支援センターのサイトに記事が出た。がんばる発達障害女性、安西直さん。柔らかい笑顔で肩をすぼめた、あの日の写真。
「おどおどした感じが出てて、印象いいですよ」とスタッフが言ったのを、思い出す。断れなかった。
昼休み、理紗さんがスマホを見せる。
「見て、載ってるじゃん。すごいね」
同僚たちが覗き込む。
「え、安西さんって発達障害なんだ? 見えないねー」
「努力してるんだね」
笑いと感嘆のあいだに、軽い拍手の音が混ざる。
「ありがとうございます」
言いながら、頭のどこかが静かにしびれる。
私は、あなたたちが安心できる障がい者として、うまく加工されている。
夜、コメント欄を開く。
健常者の私もがんばらなきゃ。かわいい人だね。優しい目をしてる。
無害な言葉は、時々いちばん息を奪う。
黒ノートに書く。
偏見の再生産。善意経由の暴力。
メッセージが来る。鈴木から。
記事、見たよ。
笑えるでしょ、と返す。
いや、笑えなかった。君が苦しそうで。
苦しそう、という他人の形容は、時々こちらの体を正しく撫でる。
でも、君はそこに立ってる。それは強い。
演技してるだけ、と打ち込む。
その演技が、僕の現実を守ってる気がする。
画面の文字が少し滲む。
白ノートに新しい項目を書く。
演技の副作用。誰かの希望になる。
皮肉だ。少しだけ、救いでもある。
秋の終わり、支援センターの講演会で登壇することになった。発達障害と社会の共生。
「緊張しなくていいからね」と理紗さんが、何度も言う。
楽屋の鏡は会議室より大きく、自分の顔の余白までよく見える。
今日は、一度、仮面を割る。
スポットライトの熱が眉の上で跳ねる。客席には同僚がいて、職員がいて、隅に鈴木がいる。
台本を持つ指先が汗ばむ。
「私は発達障害者として働いています。たくさんの支えを……」
そこで、言葉が止まる。
胸の奥から、別の声が上がってくる。
「……すみません、今日は少し違う話をします」
空気が、ほんのわずかだけ低くなる。
「私は、“障がい者のふり”をしてきました」
誰かの椅子が軋む。
「“らしく”見えないと、理解してもらえなかった。だから、おどおどして、喋る練習をして、弱い人のふりをしてきました」
「でも、それで、ようやく“優しい社会”に入れてもらえたんです」
マイクが軽く震える。
「私、今日でこのふりをやめます。……できるかどうかは、わかりませんけど」
拍手はすぐには起きなかった。
終わって楽屋に戻ると、理紗さんが駆け寄ってくる。
「直ちゃん、どうしたの。あんなこと言わなくても」
「本当のこと、言っただけです」
「でも、誤解されるよ」
「もう、誤解されてもいいです。嘘のまま笑われるより、ずっといい」
理紗さんの目が湿る。
「ごめんね」
「ありがとう。守ってくれてたのは、分かってます」
外に出ると、夕焼けの色が角のところで折れていた。
鈴木が待っていた。
「聞いてました」
「恥ずかしい」
「すごかった」
「怖かった」
「怖いことを言える人は、すごいです」
夕方の風は、仮面の割れ目から初めて入ってきた空気みたいに、ひやりとして、どこか甘い。
翌週、退職届を出した。理由は体調不良。ほんとうの理由は、もうオドを維持できなくなったから。
最後の日、机を拭いていると、理紗さんが来る。
「ねえ、あの日のこと、まだ整理できなくて」
「私もです」
「守ってるつもりだった」
「守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗さんが息を飲む。
「ありがとう」と言うと、「ごめんね」と返ってきた。
会社を出るとき、イヤホンを外した。世界の音が耳に押し寄せる。車の音、誰かの笑い声、風のざらつき。全部が刺さるようで、でも、鮮やかだった。
夜、鈴木から電話が来る。
「やめたの?」
「うん。もう“おどおど”できなくなった」
「これからどうするの」
「わからない。でも、生きる練習は続ける」
「練習」
「仮面を外したまま、生きる練習」
「僕も、一緒に練習していい?」
「どうぞ。……怖いですよ」
「怖いまま、生きよう」
通話のあと、黒ノートの最後のページに書く。
演技終了。現実開始。
冬の公園で、雪が舞う。鈴木は福祉事務所でアルバイトを始めたと言った。
「“ふつう”が、ちょっと好きになってきた」
「どうして」
「他人が決めるもんだと思ってたけど、自分の繰り返すことが“ふつう”でもいいかなって」
「観測者の数だけあるから、完全には断てないけど、その中で呼吸する方法はある気がする」
「君の言葉、ちょっと難しい」
「難しくしないと、怖いものが見えちゃうから」
二人で笑う。雪は笑い声を吸って、静かに地面へ落ちる。
春。桜が散り始める。
鏡の前。黒と白のノートは角が擦り切れている。今日は面接だ。小さな出版社の校正バイト。
久しぶりにオドを呼び出そうとするが、身体が拒絶する。喉の奥が、前に出なくていいと言う。
鏡の中の自分が、静かに言う。
これは仮面をかぶる練習じゃない。仮面を外したまま、生きる練習だ。
鈴木からメッセージが来る。
面接、がんばらないで。
がんばらない練習中、と返す。
電車の向かいの席で、子どもがじっとこちらを見る。
「女の人?」と母親に聞く。
「そうよ」と母親が答える。
訂正しない。今は、ここにいることだけを選ぶ。
面接官は眼鏡の中年男性だった。
「履歴書、拝見しました。前職は一般企業」
「はい。でも少し、疲れてしまって」
「うちも小さい会社だから、無理はさせませんよ」
「ありがとうございます」
声は自然に出た。演技ではなかった。
外に出ると、春の匂いが胸の奥まで届いた。
夜、ノートの最終ページに書く。
生存戦略の終焉。生活の開始。仮面をかぶる練習=生きる練習。
窓の外で風が鳴る。新しい仮面みたいな夜の匂い。でも今度の仮面は、誰かの期待ではない。自分が選んだ呼吸の形だ。
「おやすみ」
鈴木の録音に、小さく答える。
「おやすみ、世界」
灯りを消す。暗闇はまた、嘘が少ない。
洗面所の灯りは白く、狭い鏡がこちらをまっすぐ返す。歯ブラシと化粧水と髪留め、いつも同じ配列。指先が少し冷たい。蛇口をひねると、薄い水音がアパート全体を伝っていくみたいに聞こえる。
鏡の前に立つと、まず視線の置き方を確認する。額の中心、眉間の延長線上、相手の目ではなく、その近く。二秒まで。二秒を越えると「挑発的」に、手前で逸らしすぎると「落ち着きがない」に分類される。
まばたきの間隔は普段より少し長く。語尾は柔らかく伸ばす。伸ばしすぎると子どもっぽく見えるので、音の尾は短く。声量は半段落とす。胸からではなく喉から出す。
口角は上げすぎると元気、下げると不機嫌。だから中央、揺れないように、でも硬くないように。頬の筋肉に微弱な力を残したまま保つ。
今日は評価面談のある金曜日だ。制服みたいに定まってしまったカーディガンのポケットに、小さなメモを差し込む。紙の端が擦れて角がやわい。
ゆっくり。すみませんを三回。目は二秒まで。笑う。
裏には昔の字で、二行だけ走り書きがある。支援クラスの教室で誰かが言った言葉。
安西さんって普通にできるじゃん。
褒め言葉のふりをしているのに、その日から、輪郭にぬめりがついた。輪郭が曖昧なものは、殴られても壊れない。その代わり、誰の手でも形を変えられる。
通勤の電車は、今日も人と音で満ちる。吊革は斜めに握る。肩が触れたら先に言う。「すみません」。一度で足りなければ二度。笑いを添える。
車内広告には「多様性の時代」という文字が踊る。多様の色は多いのに、枠はひとつ。枠の縁はやわらかいスポンジみたいな顔をしていて、当たっても痛くないように見せている。
会社のエントランスは、空気が朝の体温をまだ覚えていて、少し涼しい。総務の古川理紗さんが、自動ドアの向こうから手を振る。
「おはよう、直ちゃん。今日、緊張しないでね」
「は、はい……」
一拍置いて、喉を少し絞る。演技がうまくいくと、理紗さんの眉がふっと下がる。守られた、と相手が思ってくれる。守ってもらった、ことにしておく。
会議室の前で一度深呼吸する。ドアノブの冷たさを指に移す。
「最近は業務にも慣れてきたね。安西さん、意外とやれるよ」
意外と、の二文字が空気に落ちる。透明だが、沈む。
「ありがとうございます」
礼を先に渡してから、用意してきたミスの告白を差し出す。声の尾を短く。少し見下ろして、資料の角を指で揃える。
「先週のデータで、並び順を一箇所、見落としていました。来週から、チェックシートに一行足します」
先に小さく傷を見せ、手当ての準備まで話す。相手の期待を、峰の手前まで引き下げておく。頂上に運ばれると、次は「障がいって何?」と聞かれる。
「うん、丁寧にやってるのは分かるよ。伸びしろあるね」
伸びしろという言葉の中では、いつまでも届かない天井が礼儀正しく微笑んでいる。
昼休みはトイレの個室。紙袋みたいな狭さが落ち着く。便座の蓋に腰をかけ、スマホのメモに今日の観測記録を書く。
演技、語尾の伸ばし過剰。二割削る。目線、額に偏る。次回は眉間。
画面に映るひらがなは、誰にも見せない言語だ。
心のほうは、別の言語で言う。
俺は、本当は早口で、結論を先に言いたい。
“俺”という主語の重さは、ここでは軽い。外に持ち出すと、空気の密度が変わる。部署の人たちの顔が曇るのが目に浮かぶ。だから、わたしで通す。俺の声は、鏡でしか響かない。
午後のフロアは蛍光灯の唸りが強い。電話のコールが三つ重なって、少し頭の脈が早くなる。二コール以内では取らない。三つ目で受けると、慎重で丁寧というラベルが貼られる。貼られたラベルは守ってくれる。重石にもなる。
定型作業は好きだ。順番に従えばゴールに着く。だが突発の問いは、道の途中に突然できた横穴みたいに足元を吸い込む。
チャットで若手からDMが届く。
安西さん、資料の精度すごいですね。障がいがあるのに、努力していて尊敬します。
文章の真ん中に、小さくて硬い“のに”が入っている。
「ありがとうございます、まだまだです」
返信を送り、膝の上で両手を握る。指の骨の形がはっきり分かるくらい力を入れて、それから離す。
わかりやすい弱さを演じることは、こちらの都合でもあり、あちらの健康でもある。善意の構図が、偏見をきれいに洗って並べ直す。知っている。知っていて、今日もそこに立つ。
退勤の時間、フロアを抜ける前に理紗さんが声をかけてくる。
「来週、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」
「えっと、人前は苦手で」
台本通りの台詞に、台本通りの微笑み。
「だよね。無理しないで」
無理しないで、が、床に描かれた薄い白線みたいに道を囲う。内側にいれば安全だと、線そのものが言い聞かせてくる。
駅前の広場では、高校生たちが募金活動をしている。
発達障害の理解を、というポスターには、困っている顔の線が丁寧に描かれていた。おどおどした瞳、落ちる肩。
君たちが思う障がい者って、こういう感じやろ、と心の声が刺々しくなる。
募金箱に百円玉を落とす。指は震えない。震えさせるのは、舞台の上だけでいい。
夜、部屋に帰る。蛍光灯を一段落として、机にノートを二冊並べる。黒い表紙には「観測記録」。白い表紙には「役柄指示」。
黒には、その日に浴びた言葉と体の反応を書く。心拍、胃の痛み、額の汗。
白には、翌日使う台詞と振る舞いの温度を数値でつける。声量60、語尾0.3秒、まばたき遅延+0.2。目線は眉間。相槌は二拍遅らせる。
自然の模倣ではない。自然に見えるための計算だ。
最後のページをひらいて、見出しだけを書き込む。
偏見の利得。
偏見を逆手に取ると、攻撃から身を守れる利得がある。けれどその利得は、偏見の存続に加担する。
矛盾の図を簡単に描く。矢印は四角の上でくるりと輪を作り、また出発点に戻る。
ノートを閉じて、灯りを落とす。暗闇は嘘が少ない。
布団の中で、一回だけ、低い声で言う。
俺は、生き延びる。
音はすぐに布に吸い込まれる。明かりをつけたら、またわたしになる。
朝の冷たさは、同じ場所にちゃんと帰ってくる。シャワーは三十八度。熱すぎると皮膚の感覚が暴走して、一日中ノイズを残す。歯ブラシはソフト。硬い毛先は口内の痛みを増幅させる。服のタグは全部切る。生地の縫い目が肩の骨に当たらないものを選ぶ。それを誰かに説明することは、わがままの申告に等しいと学んだ。だから黙って調整する。
鏡の前で、今日の役柄を決める。名前は簡単に「オド」。家には「ナオ」を置いていく。
オドの設定を声に出して確認する。
声は六割。語尾は短く。目線は眉間。相槌は二拍遅れ。
口元の筋肉が小さく震える。震えは恐れではない。スタートの合図みたいなものだ。
午前、予告のない来客が来る。応接の呼び出しは、横穴の感覚に似ている。最初の一歩で足を捻らないように、笑顔を先に準備しておく。
「彼女、可愛いね」
客が上司に言う。耳の奥で硬い音が鳴る。
心は、男だ。説明すべき場面かどうか、間にミリ単位の計算を挟む。今日の答えは沈黙。説明は護身で、同時に消耗だ。残量は全体の予定といっしょに管理する必要がある。
午後、空調の風が変わる。直接当たり始めると、皮膚の表面で細かい針が立つ。頭痛が芽のように出る。
「少し、席を外します」
柔らかい声で離席して、休憩室でペットボトルの冷たさを額に押し当てる。黒ノートに短く書く。
風、敵。避難所、冷。
数分で戻る。何事もなかった顔に戻る。戻るという言葉は本当は嘘だ。元の顔は保存されない。毎回、似た顔をまた作っている。
夕方、部署の雑談スレがにぎやかになる。オドは既読をつけ、反応のスタンプを三つ選ぶ。言葉は置かない。印象を損なわず、消費を抑える。
エレベーターの鏡に映る自分は、今日のオドの顔をしている。頬の筋肉は疲れて、少し甘い。
理紗さんが追いつく。
「この前の交流会、やっぱり来てよ。顔出すだけでも」
喉のあたりにナオが浮き上がる。言いかけて飲み込む。
「……緊張するけど、考えてみます」
「ほんと? うれしい」
善意の顔は、檻の形をしている。柔らかい格子が、見た目には分からないくらいの薄さで体の周りを囲う。守ってくれると同時に、動ける範囲を決める。
夜の白ノートに、演技の更新を書き足す。
来客応対時、声量+一割。「大丈夫ですか」への返答に「ありがとうございます」を付与。
演技は鍛えられる。鍛えられてしまう。
土曜、交流会。公民館のカーペットは、雨上がりのにおいを少し残している。受付で名札を受け取る。
安西直、と印字。職員が肩に手を置く。
「緊張しなくていいですからね」
接触の瞬間、呼吸が跳ねる。緊張している、と先に決められた空気がこちらに移ってくる。
「……はい、ありがとうございます」
喉から小さく出す。オドの声だ。
コの字の机の向こう側、隅の椅子に、黒いマスクの人が座っている。目だけが見える。こちらと同じ、違う種類の疲れが滲んでいる。
自己紹介の順番は時計回り。
「私は……緊張しやすくて……えっと……前の職場では……」
声が少し震える。設計通りの震えだ。司会が笑って、「ゆっくりでいいですよ」。会場の温度が下がる。
すぐあとに、マスクの人が口を開く。
「鈴木です。最近、診断を受けました。……正直、ほっとしました。やっと、名前がついたので」
硬質な声だが、濁りがない。
名前がついた、という言葉がこちらの胸骨を小さく叩く。
休憩時間、自販機の前で紙コップのコーヒーを受け取ろうとしたとき、その人が隣に立った。マスクは外している。白い紙みたいな顔。
「さっきの話、印象に残りました」
「えっ……」
相槌の在庫を探すが、見つからない。沈黙が落ちる。
「名前がつくって、安心しますよね。僕も同じで」
「……そう、なんですね」
沈黙を壊さない人だ。沈黙を怖がらない人に会うのは、めずらしい。
「僕、前は“健常者のふり”してたんです」
ふり、という音が胸に刺さる。
「ふり、ですか」
「そう。誰にもバレないように。でも疲れて」
「私は逆なんです。障がい者のふり、してます」
言いながら、自分でその言葉に驚く。
鈴木、と名札にある。彼は目を瞬かせた。
「どういう意味?」
「“らしく”しないと、信じてもらえないんです」
紙コップのふちが熱い。
鈴木は何も言わず、湯気の向こうを見た。
会場に戻る前、彼が小さく言う。
「自然なんて、やめました。演技のほうが正直ですよ」
足が止まる。
「その言葉、わかる気がします」
そのとき出た声は、オドではなかった。オドでもナオでもない、仮面の裏側で長く息をしていた声だった。
週明けの朝礼、新任の課長が軽やかに言う。
「多様性の時代だからね。誰でも活躍できる職場にしていきましょう」
すぐそのあと、冗談が飛ぶ。
「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」
笑いがさざ波みたいに広がる。
私は笑ってうなずく。輪の外側に立てば、声出し担当に指名されない。そういう技術は、努力の範囲だ。
昼、食堂で理紗さんがスマホを差し出す。
「これ、面白い記事だよ。発達障害でも輝く女性たち」
画面の中の誰かが笑っている。
「すごいですね」
本当は、この記事が嫌いだ。できる物語だけが増幅されると、できない日の現実が見えにくくなる。
「こういう人たちが増えると、社会も変わるよね」
「そうですね」
胸の中で、別の声が言う。あなたのいう社会って、誰の社会。
夜、白ノートのタイトルに書く。
優しさの檻。笑顔は鍵。
矢印の図を描いてみる。優しさから安心へ、安心から依存へ、依存から支配へ。支配からまた優しさへ。
ペン先が紙の繊維をひっかく音が、少し気持ちいい。
鈴木の言葉を思い出す。自然なんて、やめました。
羨ましい。でも、あの自然は特権だ。自然で生き残れるほど世界はやさしくない。
窓を開けると、冬に向かう風の温度が頬を触る。
俺は、まだ演じる。明日も。
少しして、支援センターのサイトに記事が出た。がんばる発達障害女性、安西直さん。柔らかい笑顔で肩をすぼめた、あの日の写真。
「おどおどした感じが出てて、印象いいですよ」とスタッフが言ったのを、思い出す。断れなかった。
昼休み、理紗さんがスマホを見せる。
「見て、載ってるじゃん。すごいね」
同僚たちが覗き込む。
「え、安西さんって発達障害なんだ? 見えないねー」
「努力してるんだね」
笑いと感嘆のあいだに、軽い拍手の音が混ざる。
「ありがとうございます」
言いながら、頭のどこかが静かにしびれる。
私は、あなたたちが安心できる障がい者として、うまく加工されている。
夜、コメント欄を開く。
健常者の私もがんばらなきゃ。かわいい人だね。優しい目をしてる。
無害な言葉は、時々いちばん息を奪う。
黒ノートに書く。
偏見の再生産。善意経由の暴力。
メッセージが来る。鈴木から。
記事、見たよ。
笑えるでしょ、と返す。
いや、笑えなかった。君が苦しそうで。
苦しそう、という他人の形容は、時々こちらの体を正しく撫でる。
でも、君はそこに立ってる。それは強い。
演技してるだけ、と打ち込む。
その演技が、僕の現実を守ってる気がする。
画面の文字が少し滲む。
白ノートに新しい項目を書く。
演技の副作用。誰かの希望になる。
皮肉だ。少しだけ、救いでもある。
秋の終わり、支援センターの講演会で登壇することになった。発達障害と社会の共生。
「緊張しなくていいからね」と理紗さんが、何度も言う。
楽屋の鏡は会議室より大きく、自分の顔の余白までよく見える。
今日は、一度、仮面を割る。
スポットライトの熱が眉の上で跳ねる。客席には同僚がいて、職員がいて、隅に鈴木がいる。
台本を持つ指先が汗ばむ。
「私は発達障害者として働いています。たくさんの支えを……」
そこで、言葉が止まる。
胸の奥から、別の声が上がってくる。
「……すみません、今日は少し違う話をします」
空気が、ほんのわずかだけ低くなる。
「私は、“障がい者のふり”をしてきました」
誰かの椅子が軋む。
「“らしく”見えないと、理解してもらえなかった。だから、おどおどして、喋る練習をして、弱い人のふりをしてきました」
「でも、それで、ようやく“優しい社会”に入れてもらえたんです」
マイクが軽く震える。
「私、今日でこのふりをやめます。……できるかどうかは、わかりませんけど」
拍手はすぐには起きなかった。
終わって楽屋に戻ると、理紗さんが駆け寄ってくる。
「直ちゃん、どうしたの。あんなこと言わなくても」
「本当のこと、言っただけです」
「でも、誤解されるよ」
「もう、誤解されてもいいです。嘘のまま笑われるより、ずっといい」
理紗さんの目が湿る。
「ごめんね」
「ありがとう。守ってくれてたのは、分かってます」
外に出ると、夕焼けの色が角のところで折れていた。
鈴木が待っていた。
「聞いてました」
「恥ずかしい」
「すごかった」
「怖かった」
「怖いことを言える人は、すごいです」
夕方の風は、仮面の割れ目から初めて入ってきた空気みたいに、ひやりとして、どこか甘い。
翌週、退職届を出した。理由は体調不良。ほんとうの理由は、もうオドを維持できなくなったから。
最後の日、机を拭いていると、理紗さんが来る。
「ねえ、あの日のこと、まだ整理できなくて」
「私もです」
「守ってるつもりだった」
「守られてました。ちゃんと、檻の中で」
理紗さんが息を飲む。
「ありがとう」と言うと、「ごめんね」と返ってきた。
会社を出るとき、イヤホンを外した。世界の音が耳に押し寄せる。車の音、誰かの笑い声、風のざらつき。全部が刺さるようで、でも、鮮やかだった。
夜、鈴木から電話が来る。
「やめたの?」
「うん。もう“おどおど”できなくなった」
「これからどうするの」
「わからない。でも、生きる練習は続ける」
「練習」
「仮面を外したまま、生きる練習」
「僕も、一緒に練習していい?」
「どうぞ。……怖いですよ」
「怖いまま、生きよう」
通話のあと、黒ノートの最後のページに書く。
演技終了。現実開始。
冬の公園で、雪が舞う。鈴木は福祉事務所でアルバイトを始めたと言った。
「“ふつう”が、ちょっと好きになってきた」
「どうして」
「他人が決めるもんだと思ってたけど、自分の繰り返すことが“ふつう”でもいいかなって」
「観測者の数だけあるから、完全には断てないけど、その中で呼吸する方法はある気がする」
「君の言葉、ちょっと難しい」
「難しくしないと、怖いものが見えちゃうから」
二人で笑う。雪は笑い声を吸って、静かに地面へ落ちる。
春。桜が散り始める。
鏡の前。黒と白のノートは角が擦り切れている。今日は面接だ。小さな出版社の校正バイト。
久しぶりにオドを呼び出そうとするが、身体が拒絶する。喉の奥が、前に出なくていいと言う。
鏡の中の自分が、静かに言う。
これは仮面をかぶる練習じゃない。仮面を外したまま、生きる練習だ。
鈴木からメッセージが来る。
面接、がんばらないで。
がんばらない練習中、と返す。
電車の向かいの席で、子どもがじっとこちらを見る。
「女の人?」と母親に聞く。
「そうよ」と母親が答える。
訂正しない。今は、ここにいることだけを選ぶ。
面接官は眼鏡の中年男性だった。
「履歴書、拝見しました。前職は一般企業」
「はい。でも少し、疲れてしまって」
「うちも小さい会社だから、無理はさせませんよ」
「ありがとうございます」
声は自然に出た。演技ではなかった。
外に出ると、春の匂いが胸の奥まで届いた。
夜、ノートの最終ページに書く。
生存戦略の終焉。生活の開始。仮面をかぶる練習=生きる練習。
窓の外で風が鳴る。新しい仮面みたいな夜の匂い。でも今度の仮面は、誰かの期待ではない。自分が選んだ呼吸の形だ。
「おやすみ」
鈴木の録音に、小さく答える。
「おやすみ、世界」
灯りを消す。暗闇はまた、嘘が少ない。
