目覚ましが鳴る前に目が覚める。窓の外はまだうす暗い。となりの棟のベランダに、早起きの誰かの洗濯物が音を立てず揺れている。
 洗面所の灯りは白く、狭い鏡がこちらをまっすぐ返す。歯ブラシと化粧水と髪留め、いつも同じ配列。指先が少し冷たい。蛇口をひねると、薄い水音がアパート全体を伝っていくみたいに聞こえる。

 鏡の前に立つと、まず視線の置き方を確認する。額の中心、眉間の延長線上、相手の目ではなく、その近く。二秒まで。二秒を越えると「挑発的」に、手前で逸らしすぎると「落ち着きがない」に分類される。
 まばたきの間隔は普段より少し長く。語尾は柔らかく伸ばす。伸ばしすぎると子どもっぽく見えるので、音の尾は短く。声量は半段落とす。胸からではなく喉から出す。
 口角は上げすぎると元気、下げると不機嫌。だから中央、揺れないように、でも硬くないように。頬の筋肉に微弱な力を残したまま保つ。

 今日は評価面談のある金曜日だ。制服みたいに定まってしまったカーディガンのポケットに、小さなメモを差し込む。紙の端が擦れて角がやわい。
 ゆっくり。すみませんを三回。目は二秒まで。笑う。
 裏には昔の字で、二行だけ走り書きがある。支援クラスの教室で誰かが言った言葉。
 安西さんって普通にできるじゃん。
 褒め言葉のふりをしているのに、その日から、輪郭にぬめりがついた。輪郭が曖昧なものは、殴られても壊れない。その代わり、誰の手でも形を変えられる。

 通勤の電車は、今日も人と音で満ちる。吊革は斜めに握る。肩が触れたら先に言う。「すみません」。一度で足りなければ二度。笑いを添える。
 車内広告には「多様性の時代」という文字が踊る。多様の色は多いのに、枠はひとつ。枠の縁はやわらかいスポンジみたいな顔をしていて、当たっても痛くないように見せている。

 会社のエントランスは、空気が朝の体温をまだ覚えていて、少し涼しい。総務の古川理紗さんが、自動ドアの向こうから手を振る。
 「おはよう、直ちゃん。今日、緊張しないでね」
 「は、はい……」
 一拍置いて、喉を少し絞る。演技がうまくいくと、理紗さんの眉がふっと下がる。守られた、と相手が思ってくれる。守ってもらった、ことにしておく。

 会議室の前で一度深呼吸する。ドアノブの冷たさを指に移す。
 「最近は業務にも慣れてきたね。安西さん、意外とやれるよ」
 意外と、の二文字が空気に落ちる。透明だが、沈む。
 「ありがとうございます」
 礼を先に渡してから、用意してきたミスの告白を差し出す。声の尾を短く。少し見下ろして、資料の角を指で揃える。
 「先週のデータで、並び順を一箇所、見落としていました。来週から、チェックシートに一行足します」
 先に小さく傷を見せ、手当ての準備まで話す。相手の期待を、峰の手前まで引き下げておく。頂上に運ばれると、次は「障がいって何?」と聞かれる。
 「うん、丁寧にやってるのは分かるよ。伸びしろあるね」
 伸びしろという言葉の中では、いつまでも届かない天井が礼儀正しく微笑んでいる。

 昼休みはトイレの個室。紙袋みたいな狭さが落ち着く。便座の蓋に腰をかけ、スマホのメモに今日の観測記録を書く。
 演技、語尾の伸ばし過剰。二割削る。目線、額に偏る。次回は眉間。
 画面に映るひらがなは、誰にも見せない言語だ。
 心のほうは、別の言語で言う。
 俺は、本当は早口で、結論を先に言いたい。
 “俺”という主語の重さは、ここでは軽い。外に持ち出すと、空気の密度が変わる。部署の人たちの顔が曇るのが目に浮かぶ。だから、わたしで通す。俺の声は、鏡でしか響かない。

 午後のフロアは蛍光灯の唸りが強い。電話のコールが三つ重なって、少し頭の脈が早くなる。二コール以内では取らない。三つ目で受けると、慎重で丁寧というラベルが貼られる。貼られたラベルは守ってくれる。重石にもなる。
 定型作業は好きだ。順番に従えばゴールに着く。だが突発の問いは、道の途中に突然できた横穴みたいに足元を吸い込む。
 チャットで若手からDMが届く。
 安西さん、資料の精度すごいですね。障がいがあるのに、努力していて尊敬します。
 文章の真ん中に、小さくて硬い“のに”が入っている。
 「ありがとうございます、まだまだです」
 返信を送り、膝の上で両手を握る。指の骨の形がはっきり分かるくらい力を入れて、それから離す。
 わかりやすい弱さを演じることは、こちらの都合でもあり、あちらの健康でもある。善意の構図が、偏見をきれいに洗って並べ直す。知っている。知っていて、今日もそこに立つ。

 退勤の時間、フロアを抜ける前に理紗さんが声をかけてくる。
 「来週、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」
「えっと、人前は苦手で」
 台本通りの台詞に、台本通りの微笑み。
 「だよね。無理しないで」
 無理しないで、が、床に描かれた薄い白線みたいに道を囲う。内側にいれば安全だと、線そのものが言い聞かせてくる。

 駅前の広場では、高校生たちが募金活動をしている。
 発達障害の理解を、というポスターには、困っている顔の線が丁寧に描かれていた。おどおどした瞳、落ちる肩。
 君たちが思う障がい者って、こういう感じやろ、と心の声が刺々しくなる。
 募金箱に百円玉を落とす。指は震えない。震えさせるのは、舞台の上だけでいい。

 夜、部屋に帰る。蛍光灯を一段落として、机にノートを二冊並べる。黒い表紙には「観測記録」。白い表紙には「役柄指示」。
 黒には、その日に浴びた言葉と体の反応を書く。心拍、胃の痛み、額の汗。
 白には、翌日使う台詞と振る舞いの温度を数値でつける。声量60、語尾0.3秒、まばたき遅延+0.2。目線は眉間。相槌は二拍遅らせる。
 自然の模倣ではない。自然に見えるための計算だ。
 最後のページをひらいて、見出しだけを書き込む。
 偏見の利得。
 偏見を逆手に取ると、攻撃から身を守れる利得がある。けれどその利得は、偏見の存続に加担する。
 矛盾の図を簡単に描く。矢印は四角の上でくるりと輪を作り、また出発点に戻る。
 ノートを閉じて、灯りを落とす。暗闇は嘘が少ない。
 布団の中で、一回だけ、低い声で言う。
 俺は、生き延びる。
 音はすぐに布に吸い込まれる。明かりをつけたら、またわたしになる。

 朝の冷たさは、同じ場所にちゃんと帰ってくる。シャワーは三十八度。熱すぎると皮膚の感覚が暴走して、一日中ノイズを残す。歯ブラシはソフト。硬い毛先は口内の痛みを増幅させる。服のタグは全部切る。生地の縫い目が肩の骨に当たらないものを選ぶ。それを誰かに説明することは、わがままの申告に等しいと学んだ。だから黙って調整する。
 鏡の前で、今日の役柄を決める。名前は簡単に「オド」。家には「ナオ」を置いていく。
 オドの設定を声に出して確認する。
 声は六割。語尾は短く。目線は眉間。相槌は二拍遅れ。
 口元の筋肉が小さく震える。震えは恐れではない。スタートの合図みたいなものだ。

 午前、予告のない来客が来る。応接の呼び出しは、横穴の感覚に似ている。最初の一歩で足を捻らないように、笑顔を先に準備しておく。
 「彼女、可愛いね」
 客が上司に言う。耳の奥で硬い音が鳴る。
 心は、男だ。説明すべき場面かどうか、間にミリ単位の計算を挟む。今日の答えは沈黙。説明は護身で、同時に消耗だ。残量は全体の予定といっしょに管理する必要がある。
 午後、空調の風が変わる。直接当たり始めると、皮膚の表面で細かい針が立つ。頭痛が芽のように出る。
 「少し、席を外します」
 柔らかい声で離席して、休憩室でペットボトルの冷たさを額に押し当てる。黒ノートに短く書く。
 風、敵。避難所、冷。
 数分で戻る。何事もなかった顔に戻る。戻るという言葉は本当は嘘だ。元の顔は保存されない。毎回、似た顔をまた作っている。

 夕方、部署の雑談スレがにぎやかになる。オドは既読をつけ、反応のスタンプを三つ選ぶ。言葉は置かない。印象を損なわず、消費を抑える。
 エレベーターの鏡に映る自分は、今日のオドの顔をしている。頬の筋肉は疲れて、少し甘い。
 理紗さんが追いつく。
 「この前の交流会、やっぱり来てよ。顔出すだけでも」
 喉のあたりにナオが浮き上がる。言いかけて飲み込む。
 「……緊張するけど、考えてみます」
 「ほんと? うれしい」
 善意の顔は、檻の形をしている。柔らかい格子が、見た目には分からないくらいの薄さで体の周りを囲う。守ってくれると同時に、動ける範囲を決める。
 夜の白ノートに、演技の更新を書き足す。
 来客応対時、声量+一割。「大丈夫ですか」への返答に「ありがとうございます」を付与。
 演技は鍛えられる。鍛えられてしまう。

 土曜、交流会。公民館のカーペットは、雨上がりのにおいを少し残している。受付で名札を受け取る。
 安西直、と印字。職員が肩に手を置く。
 「緊張しなくていいですからね」
 接触の瞬間、呼吸が跳ねる。緊張している、と先に決められた空気がこちらに移ってくる。
 「……はい、ありがとうございます」
 喉から小さく出す。オドの声だ。
 コの字の机の向こう側、隅の椅子に、黒いマスクの人が座っている。目だけが見える。こちらと同じ、違う種類の疲れが滲んでいる。
 自己紹介の順番は時計回り。
 「私は……緊張しやすくて……えっと……前の職場では……」
 声が少し震える。設計通りの震えだ。司会が笑って、「ゆっくりでいいですよ」。会場の温度が下がる。
 すぐあとに、マスクの人が口を開く。
 「鈴木です。最近、診断を受けました。……正直、ほっとしました。やっと、名前がついたので」
 硬質な声だが、濁りがない。
 名前がついた、という言葉がこちらの胸骨を小さく叩く。
 休憩時間、自販機の前で紙コップのコーヒーを受け取ろうとしたとき、その人が隣に立った。マスクは外している。白い紙みたいな顔。
 「さっきの話、印象に残りました」
 「えっ……」
 相槌の在庫を探すが、見つからない。沈黙が落ちる。
 「名前がつくって、安心しますよね。僕も同じで」
 「……そう、なんですね」
 沈黙を壊さない人だ。沈黙を怖がらない人に会うのは、めずらしい。
 「僕、前は“健常者のふり”してたんです」
 ふり、という音が胸に刺さる。
 「ふり、ですか」
 「そう。誰にもバレないように。でも疲れて」
 「私は逆なんです。障がい者のふり、してます」
 言いながら、自分でその言葉に驚く。
 鈴木、と名札にある。彼は目を瞬かせた。
 「どういう意味?」
 「“らしく”しないと、信じてもらえないんです」
 紙コップのふちが熱い。
 鈴木は何も言わず、湯気の向こうを見た。
 会場に戻る前、彼が小さく言う。
 「自然なんて、やめました。演技のほうが正直ですよ」
 足が止まる。
 「その言葉、わかる気がします」
 そのとき出た声は、オドではなかった。オドでもナオでもない、仮面の裏側で長く息をしていた声だった。

 週明けの朝礼、新任の課長が軽やかに言う。
 「多様性の時代だからね。誰でも活躍できる職場にしていきましょう」
 すぐそのあと、冗談が飛ぶ。
 「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」
 笑いがさざ波みたいに広がる。
 私は笑ってうなずく。輪の外側に立てば、声出し担当に指名されない。そういう技術は、努力の範囲だ。
 昼、食堂で理紗さんがスマホを差し出す。
 「これ、面白い記事だよ。発達障害でも輝く女性たち」
 画面の中の誰かが笑っている。
 「すごいですね」
 本当は、この記事が嫌いだ。できる物語だけが増幅されると、できない日の現実が見えにくくなる。
 「こういう人たちが増えると、社会も変わるよね」
 「そうですね」
 胸の中で、別の声が言う。あなたのいう社会って、誰の社会。
 夜、白ノートのタイトルに書く。
 優しさの檻。笑顔は鍵。
 矢印の図を描いてみる。優しさから安心へ、安心から依存へ、依存から支配へ。支配からまた優しさへ。
 ペン先が紙の繊維をひっかく音が、少し気持ちいい。
 鈴木の言葉を思い出す。自然なんて、やめました。
 羨ましい。でも、あの自然は特権だ。自然で生き残れるほど世界はやさしくない。
 窓を開けると、冬に向かう風の温度が頬を触る。
 俺は、まだ演じる。明日も。

 少しして、支援センターのサイトに記事が出た。がんばる発達障害女性、安西直さん。柔らかい笑顔で肩をすぼめた、あの日の写真。
 「おどおどした感じが出てて、印象いいですよ」とスタッフが言ったのを、思い出す。断れなかった。
 昼休み、理紗さんがスマホを見せる。
 「見て、載ってるじゃん。すごいね」
 同僚たちが覗き込む。
 「え、安西さんって発達障害なんだ? 見えないねー」
 「努力してるんだね」
 笑いと感嘆のあいだに、軽い拍手の音が混ざる。
 「ありがとうございます」
 言いながら、頭のどこかが静かにしびれる。
 私は、あなたたちが安心できる障がい者として、うまく加工されている。
 夜、コメント欄を開く。
 健常者の私もがんばらなきゃ。かわいい人だね。優しい目をしてる。
 無害な言葉は、時々いちばん息を奪う。
 黒ノートに書く。
 偏見の再生産。善意経由の暴力。
 メッセージが来る。鈴木から。
 記事、見たよ。
 笑えるでしょ、と返す。
 いや、笑えなかった。君が苦しそうで。
 苦しそう、という他人の形容は、時々こちらの体を正しく撫でる。
 でも、君はそこに立ってる。それは強い。
 演技してるだけ、と打ち込む。
 その演技が、僕の現実を守ってる気がする。
 画面の文字が少し滲む。
 白ノートに新しい項目を書く。
 演技の副作用。誰かの希望になる。
 皮肉だ。少しだけ、救いでもある。

 秋の終わり、支援センターの講演会で登壇することになった。発達障害と社会の共生。
 「緊張しなくていいからね」と理紗さんが、何度も言う。
 楽屋の鏡は会議室より大きく、自分の顔の余白までよく見える。
 今日は、一度、仮面を割る。
 スポットライトの熱が眉の上で跳ねる。客席には同僚がいて、職員がいて、隅に鈴木がいる。
 台本を持つ指先が汗ばむ。
 「私は発達障害者として働いています。たくさんの支えを……」
 そこで、言葉が止まる。
 胸の奥から、別の声が上がってくる。
 「……すみません、今日は少し違う話をします」
 空気が、ほんのわずかだけ低くなる。
 「私は、“障がい者のふり”をしてきました」
 誰かの椅子が軋む。
 「“らしく”見えないと、理解してもらえなかった。だから、おどおどして、喋る練習をして、弱い人のふりをしてきました」
 「でも、それで、ようやく“優しい社会”に入れてもらえたんです」
 マイクが軽く震える。
 「私、今日でこのふりをやめます。……できるかどうかは、わかりませんけど」
 拍手はすぐには起きなかった。
 終わって楽屋に戻ると、理紗さんが駆け寄ってくる。
 「直ちゃん、どうしたの。あんなこと言わなくても」
 「本当のこと、言っただけです」
 「でも、誤解されるよ」
 「もう、誤解されてもいいです。嘘のまま笑われるより、ずっといい」
 理紗さんの目が湿る。
 「ごめんね」
 「ありがとう。守ってくれてたのは、分かってます」
 外に出ると、夕焼けの色が角のところで折れていた。
 鈴木が待っていた。
 「聞いてました」
 「恥ずかしい」
 「すごかった」
 「怖かった」
 「怖いことを言える人は、すごいです」
 夕方の風は、仮面の割れ目から初めて入ってきた空気みたいに、ひやりとして、どこか甘い。

 翌週、退職届を出した。理由は体調不良。ほんとうの理由は、もうオドを維持できなくなったから。
 最後の日、机を拭いていると、理紗さんが来る。
 「ねえ、あの日のこと、まだ整理できなくて」
 「私もです」
 「守ってるつもりだった」
「守られてました。ちゃんと、檻の中で」
 理紗さんが息を飲む。
 「ありがとう」と言うと、「ごめんね」と返ってきた。
 会社を出るとき、イヤホンを外した。世界の音が耳に押し寄せる。車の音、誰かの笑い声、風のざらつき。全部が刺さるようで、でも、鮮やかだった。
 夜、鈴木から電話が来る。
 「やめたの?」
 「うん。もう“おどおど”できなくなった」
 「これからどうするの」
 「わからない。でも、生きる練習は続ける」
 「練習」
 「仮面を外したまま、生きる練習」
 「僕も、一緒に練習していい?」
 「どうぞ。……怖いですよ」
 「怖いまま、生きよう」
 通話のあと、黒ノートの最後のページに書く。
 演技終了。現実開始。

 冬の公園で、雪が舞う。鈴木は福祉事務所でアルバイトを始めたと言った。
 「“ふつう”が、ちょっと好きになってきた」
 「どうして」
 「他人が決めるもんだと思ってたけど、自分の繰り返すことが“ふつう”でもいいかなって」
 「観測者の数だけあるから、完全には断てないけど、その中で呼吸する方法はある気がする」
 「君の言葉、ちょっと難しい」
 「難しくしないと、怖いものが見えちゃうから」
 二人で笑う。雪は笑い声を吸って、静かに地面へ落ちる。

 春。桜が散り始める。
 鏡の前。黒と白のノートは角が擦り切れている。今日は面接だ。小さな出版社の校正バイト。
 久しぶりにオドを呼び出そうとするが、身体が拒絶する。喉の奥が、前に出なくていいと言う。
 鏡の中の自分が、静かに言う。
 これは仮面をかぶる練習じゃない。仮面を外したまま、生きる練習だ。
 鈴木からメッセージが来る。
 面接、がんばらないで。
 がんばらない練習中、と返す。
 電車の向かいの席で、子どもがじっとこちらを見る。
 「女の人?」と母親に聞く。
 「そうよ」と母親が答える。
 訂正しない。今は、ここにいることだけを選ぶ。
 面接官は眼鏡の中年男性だった。
 「履歴書、拝見しました。前職は一般企業」
 「はい。でも少し、疲れてしまって」
 「うちも小さい会社だから、無理はさせませんよ」
 「ありがとうございます」
 声は自然に出た。演技ではなかった。
 外に出ると、春の匂いが胸の奥まで届いた。
 夜、ノートの最終ページに書く。
 生存戦略の終焉。生活の開始。仮面をかぶる練習=生きる練習。
 窓の外で風が鳴る。新しい仮面みたいな夜の匂い。でも今度の仮面は、誰かの期待ではない。自分が選んだ呼吸の形だ。
 「おやすみ」
 鈴木の録音に、小さく答える。
 「おやすみ、世界」
 灯りを消す。暗闇はまた、嘘が少ない。