晩ご飯を食べるため席についた。お父さん不在のダイニングテーブルは広いはずなのに、お母さんと対面で摂る食事は窮屈で圧迫感すらあった。
お母さんは、溜まりに溜まった気持ちを早口言葉みたいに吐き出していった。どこかで見聞きした情報を都合よく変換して、自分の理想論をわたしに語り押しつけてくる。早く終われと念じながら聞き役に徹した。
「油淋鶏はさっぱり食べれていいわね。菜乃花は酢が入ったおかず好きでしょう」
「うん。めちゃおいしい」
「でも特売のお肉は味もそれなりね、お肉はやっぱりスギシタよ。最初からスギシタで買えばよかった。安い店で妥協したのがいけなかったわね」
「……お父さんもこれ食べるの?」
「そうね。冷蔵庫に入れておけばあとは勝手に晩酌しながら食べるんじゃないかしらね」
ポン酢と生姜の効いたタレでご飯も進む。料理上手なお母さんのご飯は素直においしい。特売のお肉もこうしてちゃんとおいしいのに。ちゃんと味わいたいのに、まるで味がしない感覚に陥る。
朝早くて帰りは遅いお父さんはほとんど家に居ない。月曜日から金曜日まで顔を合わさないこともある。自分の話を聞いてもらえないもんだから、夫の扱いも雑なもんだ。だからわたしは夫の身代わりなんだね。
「そうそう、あなたの傘を広げてあるから仕舞わないでね」
「うん」
「それにしてもミズクラゲの模様って変わった傘よねぇ。誰の趣味で買ったの? おばあちゃん?」
「わたしが選んだんだよ」
「あらそう」
「広げたとき、ミズクラゲが泳いでるみたいに綺麗なんだよ」
「それより本物のミズクラゲのほうが綺麗だわ」
もうっ……ほんとうにもうっ……いい加減にしてよお母さん!
「お母さんはなんで、そんなふうに言うのっ、せっかくおばあちゃんに買ってもらったやつなのにっ、そんなに駄目なのっ?」
「あら菜乃花、そんな駄目なんて思ってないわよ。お母さんはただね、傘なら女の子らしい花柄とか華やかなデザインがあるのに、なんでわざわざミズクラゲを選ぶんだろうって思うだけ」
「ミズクラゲのデザインだって綺麗だよっ、女の子らしいってなに? 女は花柄を持たないと駄目なのっ? そんなのお母さんの偏見じゃんっ!」
「菜乃花ごめんね、菜乃花がそんなに怒るなんて……お母さん、ちょっとびっくりしちゃった……」
「お母さんの理想をこっちに押し付けるのやめてっ。否定ばっかしてくるしっ、おばあちゃんを否定されたみたいで嫌なのっ!」
顔を赤らめて、めずらしく滑舌になって、胸の鼓動が激しく鳴る。お母さんに初めて言い返した。
わたしの変わりように驚いたお母さんは、しばらくしてから「ごめんね」とだけ呟いた。
おばあちゃんと一緒に買い物をしたとき、たまたま立ち寄った雑貨店で買ってもらった傘だから特別な想いがある。おばあちゃんがまだ、わたしが孫だとわかるときの話──。
唯一の、親友のような存在だったおばあちゃんは、長く会わない間に認知症になっていた。もうわたしのことも誰かもわからない。娘であるお母さんのこともお手伝いさんだと思っている。
──駄菓子屋のおばあちゃんの顔が浮かんだ。お孫さんの話をしているとき、ふと見せた悲しそうな表情が忘れられない。“わたし”というフィルターを通して、お孫さんを見ていたのだろうな。
わたしは、おばあちゃんに会わない理由をわかっていた。
おばあちゃんが居る施設はバスで二十分と近い。自分はいつでも会いにいけるから今じゃなくていい。そんなふうにして、いつしか足が遠のいていった。
──違う、違うんだ。
ほんとうは、ボケちゃったおばあちゃんに会うのが怖かった。わたしも、お母さんも、お父さんも誰も彼も忘れてしまったおばあちゃんは、どうしてしまったんだろうというふうに。それでも会いたいと思う気持ちが複雑に絡まっていた。
「お母さん、わたし、明日帰る前におばあちゃんに会ってくるからっ」
お母さんはめずらしく言い返してこなかった。
お母さんは、溜まりに溜まった気持ちを早口言葉みたいに吐き出していった。どこかで見聞きした情報を都合よく変換して、自分の理想論をわたしに語り押しつけてくる。早く終われと念じながら聞き役に徹した。
「油淋鶏はさっぱり食べれていいわね。菜乃花は酢が入ったおかず好きでしょう」
「うん。めちゃおいしい」
「でも特売のお肉は味もそれなりね、お肉はやっぱりスギシタよ。最初からスギシタで買えばよかった。安い店で妥協したのがいけなかったわね」
「……お父さんもこれ食べるの?」
「そうね。冷蔵庫に入れておけばあとは勝手に晩酌しながら食べるんじゃないかしらね」
ポン酢と生姜の効いたタレでご飯も進む。料理上手なお母さんのご飯は素直においしい。特売のお肉もこうしてちゃんとおいしいのに。ちゃんと味わいたいのに、まるで味がしない感覚に陥る。
朝早くて帰りは遅いお父さんはほとんど家に居ない。月曜日から金曜日まで顔を合わさないこともある。自分の話を聞いてもらえないもんだから、夫の扱いも雑なもんだ。だからわたしは夫の身代わりなんだね。
「そうそう、あなたの傘を広げてあるから仕舞わないでね」
「うん」
「それにしてもミズクラゲの模様って変わった傘よねぇ。誰の趣味で買ったの? おばあちゃん?」
「わたしが選んだんだよ」
「あらそう」
「広げたとき、ミズクラゲが泳いでるみたいに綺麗なんだよ」
「それより本物のミズクラゲのほうが綺麗だわ」
もうっ……ほんとうにもうっ……いい加減にしてよお母さん!
「お母さんはなんで、そんなふうに言うのっ、せっかくおばあちゃんに買ってもらったやつなのにっ、そんなに駄目なのっ?」
「あら菜乃花、そんな駄目なんて思ってないわよ。お母さんはただね、傘なら女の子らしい花柄とか華やかなデザインがあるのに、なんでわざわざミズクラゲを選ぶんだろうって思うだけ」
「ミズクラゲのデザインだって綺麗だよっ、女の子らしいってなに? 女は花柄を持たないと駄目なのっ? そんなのお母さんの偏見じゃんっ!」
「菜乃花ごめんね、菜乃花がそんなに怒るなんて……お母さん、ちょっとびっくりしちゃった……」
「お母さんの理想をこっちに押し付けるのやめてっ。否定ばっかしてくるしっ、おばあちゃんを否定されたみたいで嫌なのっ!」
顔を赤らめて、めずらしく滑舌になって、胸の鼓動が激しく鳴る。お母さんに初めて言い返した。
わたしの変わりように驚いたお母さんは、しばらくしてから「ごめんね」とだけ呟いた。
おばあちゃんと一緒に買い物をしたとき、たまたま立ち寄った雑貨店で買ってもらった傘だから特別な想いがある。おばあちゃんがまだ、わたしが孫だとわかるときの話──。
唯一の、親友のような存在だったおばあちゃんは、長く会わない間に認知症になっていた。もうわたしのことも誰かもわからない。娘であるお母さんのこともお手伝いさんだと思っている。
──駄菓子屋のおばあちゃんの顔が浮かんだ。お孫さんの話をしているとき、ふと見せた悲しそうな表情が忘れられない。“わたし”というフィルターを通して、お孫さんを見ていたのだろうな。
わたしは、おばあちゃんに会わない理由をわかっていた。
おばあちゃんが居る施設はバスで二十分と近い。自分はいつでも会いにいけるから今じゃなくていい。そんなふうにして、いつしか足が遠のいていった。
──違う、違うんだ。
ほんとうは、ボケちゃったおばあちゃんに会うのが怖かった。わたしも、お母さんも、お父さんも誰も彼も忘れてしまったおばあちゃんは、どうしてしまったんだろうというふうに。それでも会いたいと思う気持ちが複雑に絡まっていた。
「お母さん、わたし、明日帰る前におばあちゃんに会ってくるからっ」
お母さんはめずらしく言い返してこなかった。

