喫茶コトリ

閉店後のカフェ・コトリは、昼とはまるで違う表情をしていた。
磨かれたカウンターにランプの灯がひとつ。
静けさの中で、コーヒーの香りだけがまだ空気に残っている。

マスターは、今日最後のカップを洗い終えると、ふう、と息をついた。
「今日も、いろんな顔があったな」
カウンターの端で丸まっていたミモザが、耳をぴくりと動かす。

「笑ってる人も、泣いてる人も、みんな不思議な生き物だよ」
ミモザは、のんびりと体を伸ばしてから、マスターの膝の上に飛び乗った。
あたたかな重みが、ゆっくりと胸の奥にしみ込んでいく。

「人間ってね、泣いて、笑って、それでもまたコーヒーを飲みに来る。
悲しい日にも、嬉しい日にも、ここに来るんだ」
 スターがそうつぶやくと、ミモザは喉を鳴らした。

店の窓の外では、春の夜風がやさしく吹いている。
街灯の下を通る人影が、時おり淡く揺れる。
昼の喧騒を終えた街が、ひと呼吸おくように静まっていた。

ミモザは目を細め、マスターの胸のあたりで丸くなる。
その姿を見て、マスターは微笑んだ。
「おまえはいいな。明日の心配なんてしないんだろ?」

ミモザは答えず、ただ軽く尻尾を揺らす。
その仕草はまるで、「いまを生きてるだけだよ」と言っているようだった。

「……そうか」
マスターはカップをひとつ取り出し、自分のためにコーヒーを淹れた。
カウンターに立ち上る湯気の中で、かすかに焙煎豆の甘い香りが広がる。

「人も猫も、きっと同じなのかもしれないな。
誰かの心を、少しでもあたためるために、今日を生きる」

その声に呼応するように、ミモザが静かに鳴いた。
まるで「明日もここにいるよ」と約束するように。

マスターは微笑み、ランプの明かりを少し落とした。
店の奥から時計が、コトリ、と小さく音を立てる。
夜のカフェに、穏やかな時間が流れていった。

――明日もまた、誰かの心をあたためる一杯を。
その願いを胸に、マスターはゆっくりと目を閉じた。

コーヒーの香りの中で、ミモザの寝息が小さく重なっていた。

<完>