喫茶コトリ

朝の光が、ゆっくりとカフェ・コトリの窓辺を撫でていた。
普段なら、開店の支度に忙しい時間。けれどこの日は、どこか空気がのんびりしている。
カウンターの上には、手書きの札が一枚。「臨時休業」と丸い字で書かれていた。

マスターはエプロンを外しながら、ミモザのほうを見た。
「今日は休みにしよう。たまには、外の風を吸ってきな」
ミモザは瞬きを一度し、尻尾をふわりと揺らす。
“休み”という言葉を完全に理解しているわけではない。
でも、マスターの声の調子から、いつもとは違う日であることだけは分かった。

店のドアが開く。鈴の音が軽やかに響く。
ミモザは小さく伸びをして、足を外へ踏み出した。

外の空気は、少しひんやりしていて甘い。
パン屋から漂う焼きたての香り、新聞配達のバイクの音、道端の花壇に咲いたビオラの紫。
ミモザは鼻先をぴくぴく動かしながら、石畳の路地を歩く。

いつもは店の窓から見ているだけの世界が、今日は目の高さに広がっている。
ミモザの金色の目に映るのは、朝日に照らされた街の柔らかな色。

 
小さな子どもがランドセルを背負って走っていく。
老夫婦が肩を並べて歩いている。
信号待ちをしているサラリーマンの靴が、薄く水を弾いていた。

ミモザはそのどれもを、ただ静かに眺めていた。
猫にとって、世界は言葉ではなく“音と匂い”でできている。
パンの香りは幸せの形をしていて、信号の電子音は、少し急かすような調子をしていた。

少し歩くと、川沿いの公園が見えてきた。
桜の木が並ぶ遊歩道。枝の先には、まだ硬い蕾が膨らんでいる。
ミモザはその一本の下に腰を下ろし、しばらくじっと空を見上げた。

そのとき、ブランコのほうから声がした。
「……ねえ、君、どこから来たの?」

声の主は、小学三年生くらいの男の子だった。
キャップを深くかぶり、足元にはボールが転がっている。
ミモザはゆっくりと首を傾げた。答えはしない。けれど、視線を合わせる。

男の子は、ふっと笑った。
「猫って、いいな。自由で」

その言葉を聞いても、ミモザは何も反応しなかった。
けれど、彼の膝の上に飛び乗ると、柔らかい毛並みが少年の手に触れた。
少年は少し驚いたあと、静かに撫ではじめる。

「ぼくね、お母さん、今いないんだ」
ぽつりと呟く声は、春の風に混じって消えた。
「仕事で遠くに行っちゃってさ。しばらく帰れないんだって」

ミモザは喉を鳴らす。ゴロゴロという小さな音が、少年の胸の奥に伝わる。
「猫って、寂しくないの?」
ミモザはその問いに答えず、代わりに空を見上げた。
そこには、白い雲がゆっくり流れている。

少年もつられて見上げる。
「……そっか。猫は空を見てるんだね」
そう言うと、彼の声が少しだけ明るくなった。

ベンチの上で、少年と猫はしばらく無言のまま座っていた。
風が通り抜け、ブランコの鎖が小さく鳴る。

しばらくして、遠くから女性の声が響いた。
「海斗ー! もう帰るよー!」
少年ははっと顔を上げた。
「……お母さん?」

遠くの坂道の上、買い物袋を提げた若い女性が立っていた。
「おかえり!」少年が駆けだす。
ミモザは立ち上がり、二人の背を見送った。

母と子が手をつないで帰っていく姿。
その後ろ姿を、ミモザはしばらくじっと見つめていた。
そして小さくひと鳴きすると、再び歩き出した。

風が少し温かくなってきた。
街の角を曲がると、花の香りがふわりと漂う。
そこは、小さな花屋だった。ガラス越しに、淡いミモザの花束がいくつも並んでいる。

――その名を持つ猫は、足を止めた。

花屋の前で立ち止まったミモザは、ガラス越しに中を覗き込んだ。
ミモザの花がふわりと風に揺れ、陽光を浴びて金色に染まっている。
店の奥から、若い女性が顔を出した。

「……あら、かわいいお客さん」

その声は、花の香りのようにやさしかった。
女性――里奈は、手を止めてしゃがみ込み、ミモザと視線を合わせる。
ミモザは逃げもせず、ただ首をかしげた。

「寒くないの? こんなところで」
そう言って、店のドアを少し開ける。
「入っておいで。ちょっとだけならいいよ」

ミモザは少し躊躇したあと、するりと店の中に足を踏み入れた。
中は、花の香りで満ちていた。ラナンキュラス、スイートピー、チューリップ。
そしてカウンターには、束ねかけのミモザの花。

「この花、好き?」
里奈はミモザの花を指差し、にっこり笑った。
ミモザは花の下で鼻をひくつかせる。
黄色い花粉がふわりと舞い、陽光に透けた。

「ミモザはね、春のはじまりの花なんだって。冬を越えて、一番最初に咲くの」
彼女の声は、どこか自分に言い聞かせるようだった。

「……あの人が好きだったの」
ぽつりとこぼれた言葉。
ミモザは耳をぴくりと動かした。

「毎年この時期になると、ミモザを贈ってくれたの。
“お前も春みたいだな”なんて、恥ずかしいこと言う人でね」

そう言って笑うその顔には、少しだけ影が落ちていた。
里奈は手のひらを見つめ、指のあいだから花弁をそっと落とす。

「でも去年、急にいなくなっちゃった」
ミモザは静かに、里奈の足もとに身を寄せた。
彼女は驚いたように目を見開き、それから少しだけ笑った。

「……ありがとう。優しいね」

花屋の中に、ゆっくりと時間が流れていく。
ミモザはしばらくそこで過ごした。
花の間を歩き、光を追い、時々里奈の手に頬を寄せた。

やがて夕暮れが近づき、空が茜色に染まり始めたころ。
店のドアが小さく鳴った。

「今日はありがと。……またおいで」
里奈がそう言って見送ると、ミモザは一度だけ振り返って鳴いた。
まるで「またね」と返すように。

外に出ると、風が少し冷たくなっていた。
空は薄紫。
街灯がぽつりぽつりと灯りはじめ、ガラス窓に反射した光が道を染める。

ミモザは川沿いをゆっくり歩く。
昼間、少年と過ごした公園を通り過ぎると、ベンチの上に一冊のノートが置かれていた。
カバーには青いシールが貼られている。
――「海斗」と書かれていた。

ミモザはその上に前足を乗せ、じっと見つめる。
やがて、ノートの端をそっとくわえて歩き出した。

夜の街は静かだ。
パン屋も、雑貨屋も、もう灯りを落としている。
それでもカフェ・コトリの前だけは、まだ温かな灯が灯っていた。

ドアの鈴が鳴る。
マスターがカウンターの奥から顔を出した。
「おかえり、ミモザ」

ミモザはノートを足元に置く。
マスターがそれを拾い上げ、表紙を見て目を細めた。
「これは……あの子のだな。公園の海斗くんか」

彼は頷くと、店の電話を手に取る。
「明日、届けてあげよう」

それからマスターはミモザの頭を撫でた。
「よく歩いたな。今日は冒険の日か」

ミモザは喉を鳴らした。
その音が、静かな店内にやわらかく響く。

マスターはコーヒーを一口すすり、窓の外を眺めた。
「おまえが外に出るのも、悪くないかもしれないな」
そう呟いた声に、どこか懐かしさが滲んでいた。

窓の外、夜風がミモザの花を揺らしている。
金色の花弁が街灯の光に照らされ、まるで小さな灯火のように瞬いていた。

ミモザはそれを見上げながら、ゆっくりと丸くなる。
外の世界で出会った人たちの声やぬくもりが、胸の奥にやさしく残っている。

少年の笑顔。
母の声。
花屋の女性の手。

そのすべてが、まるで春の記憶のように、夢の中で混ざり合っていく。
――この世界は、きっと悪くない。

ミモザは小さく目を閉じた。
夜のカフェ・コトリに、静かな寝息とコーヒーの香りが溶けていった。