カフェ・コトリの午後は、時間の流れがいつも少しだけゆるやかだ。
街の喧騒から少し外れた路地裏。
硝子戸の外には小さな林檎の木が植えられ、
春の風を受けて枝がゆるやかに揺れている。

その日も、木の下には淡い花弁がいくつか落ちていた。
店の中はコーヒーの香りと、焼き上がった林檎タルトの甘い匂いに満ちている。

カウンターの奥でマスターがエプロンの紐を直していると、
扉の鈴が静かに鳴った。
音の主は、白い帽子をかぶった老婦人――春江だった。

「いらっしゃいませ」
「こんにちは、マスター。今日もタルト、あるかしら?」
「もちろん。今日のは少し酸味が強いですよ。紅玉を使いました」
「まぁ、それは楽しみだこと」

春江はゆっくりと笑い、いつもの席――窓辺の二人がけのテーブルへと歩く。
杖を軽くついて、一歩一歩、まるで時間を踏みしめるように。

その足元を、ミモザが音もなくすり抜けた。
灰色の毛並みが午後の日差しを反射して、柔らかく輝いている。

「今日もあなたに会えたわね」
春江は椅子に腰を下ろす前に、そっとミモザの背中を撫でた。
ミモザは小さく喉を鳴らし、椅子の脚に頬をすり寄せる。

カウンターからマスターが声をかけた。
「今日もいつものセットでいいですか?」
「ええ。林檎タルトと、ミルクティーを」

「承知しました」

マスターが注文を受けてから動き出すのを見届けると、
春江は外の林檎の木を眺めた。
枝の先に残る花が、春の終わりを告げている。

――この季節になると、あの人のことを思い出す。

そう、夫のことだ。
三年前の春の初めに、静かにこの世を去った。
最期の日まで病院の窓から見ていたのも、
この木だった。

「花が咲くころになったら、一緒に見に行こう」
それが、彼の最後の約束だった。

しかし約束の日、彼はもう目を閉じていた。

それからの春江は、週に一度だけこの店に通うようになった。
林檎タルトと紅茶の香りの中で、
夫がまだこの世界のどこかで微笑んでいるような気がしたから。



カウンターの奥から、香ばしい匂いが漂ってくる。
マスターが焼きたてのタルトを皿にのせ、湯気の立つミルクティーを添える。
「お待たせしました」

「いつもありがとう、マスター」

タルトの表面は黄金色に輝き、バターの香りがやわらかく鼻をくすぐった。
春江はナイフを入れる前に、そっと手を合わせる。
その仕草にマスターは目を細めた。

「いただきます」
フォークを口に運ぶと、
林檎の酸味と甘さが、胸の奥に静かにしみていく。
記憶の奥から、昔の笑い声がかすかに蘇る。

――あなたは、やっぱりこれが好きだったのね。

ミモザはその足元で丸まりながら、
老婦人の小さなため息を聞いていた。
猫には人間の言葉は分からない。
けれど、空気の震えや声の色で、
心がどんな音を立てているかは伝わってくる。

春江の吐息は、まるで風が通り抜けるように優しかった。



店内には、古いジャズのレコードが静かに回っている。
針の音がかすかに混じり、時間の粒がゆっくりと落ちていく。

マスターはコーヒーポットを磨きながら、
ふと春江の視線の先を追った。

「花、きれいに咲きましたね」
「ええ。去年はあまり花がつかなかったのに、今年はずいぶんと頑張っているみたい」
「木も、誰かが見てくれてると分かるのかもしれませんね」

春江は少しだけ笑った。
「そんなこと、あるかしら」

「ええ、あると思いますよ」

会話のあとは、また静寂が訪れる。
だけどその沈黙は、どこか心地よい。
まるで、音楽の余白みたいだった。



窓辺の陽が傾き始めたころ、
春江はバッグの中から一通の封筒を取り出した。

少し色あせた封筒。宛名は書かれていない。
それは、夫が亡くなった日からずっと持ち歩いているものだった。

――渡せなかった手紙。

彼が入院する前の夜、机の上に残していた。
「手が震えて、うまく書けないから」と笑っていた彼。
きっと何か伝えたかったのだろう。

でも、春江はまだ開けていない。
封を切るのが、こわかった。
読んでしまえば、本当に終わってしまう気がして。

ミモザがゆっくりと立ち上がり、
春江の足元に身を寄せた。

「……あなたは、どう思う?」

答えるように、ミモザは小さく鳴いた。
「にゃあ」

春江はその音に笑みを浮かべ、
「そうね、もう春だものね」と呟いた。



そのとき、外から風が吹き抜け、
窓ガラスがわずかに揺れた。
カーテンの隙間から花びらが一枚、店内へ舞い込む。

白い花弁が、テーブルの上の封筒に落ちた。
まるで誰かが「今だよ」と囁いたかのように。

春江はその花びらを指先でそっと摘み、
封筒の上に目を落とした。

震える指で、ゆっくりと糊の部分に手をかける。

ミモザがじっとその手の動きを見つめていた。
マスターも、コーヒーポットを磨く手を止めた。

紙がわずかに裂ける音が、
静まり返った店の中で小さく響いた――。

封筒の中から、古びた便箋が一枚だけ出てきた。
時間の重みが染み込んだ紙は、少し黄ばんでいて、端が柔らかく波打っている。
春江は深く息を吸い込み、その文字を見つめた。
――見覚えのある、やさしい字。
かつて毎朝のように、食卓のメモに書かれていたあの筆跡だった。

春江へ

これを読むころ、私は君の隣にはいないだろう。
でも、心配しないでほしい。
私は、行き先を見つけただけなんだ。
君と過ごした時間の中で、ちゃんと終わりを迎えられる場所を。

君の淹れる紅茶の香りは、いつも春の風みたいだった。
少し甘くて、少し切なくて、でも確かに生きている匂いがした。

君がこの先も、その香りと一緒に笑ってくれたら、
それだけで、私は十分に報われる。

どうか、この手紙を涙で濡らさないで。
君の笑顔を、私はずっと覚えていたい。

ありがとう。
君がいたから、私は幸せだった。

隆司

便箋を読み終えたとき、春江は泣いていなかった。
ただ、静かに、ゆっくりと微笑んでいた。
頬に触れる春の光が、涙のかわりに彼女の表情を柔らかく包み込んでいた。

「……隆司さんらしいわね」
マスターがカウンター越しに、静かに頷いた。
「ええ、本当に……そうね。まるで、今ここにいるみたい」
春江の声は、どこか穏やかだった。
悲しみを越えた先にある、やさしい静けさ。
それが、店の空気に広がっていく。

窓の外では、ミモザが尻尾を立てて歩き出した。
春江がその姿を追うように外へ出ると、春の風が頬を撫でた。
庭の隅にある林檎の木――その足元に、白い花びらが一枚、舞い降りていた。
ミモザはそれを鼻先でつつき、小さく鳴いた。
春江はしゃがみ込み、その花びらをそっと拾い上げた。

光の粒が、木漏れ日の中で揺れていた。
まるで花びらそのものが、あの人の“想い”を宿しているように思えた。
彼女はその小さな花を、胸の前で包み込む。
「あなたの言葉、ちゃんと届いたわ」
呟いた声が風に乗り、林檎の枝先で弾けた。
花がひとつ、ふわりと開いた。

そのときだった。
ミモザが少し離れた土の中を掘り返し、何かを見つけたように鳴いた。
春江が近づいてみると、そこには小さな缶の箱が埋まっていた。
土を払って開けてみると、中には折りたたまれたメモと、一輪の押し花。
それは林檎の花を乾かして作ったものだった。
メモには短い言葉が添えられていた。

春江へ
春の光は、君の笑顔の中にある。

春江は目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
紅茶の香り、林檎の甘い匂い、そして胸の奥に広がるやさしい光。
それらが一つに溶け合って、心の奥でぽうっと灯りになる。

店の中へ戻ると、マスターがカウンター越しに微笑んだ。
「いい顔をされていますね」
「ええ、少し、春を取り戻した気がします」
「春は、ちゃんと戻ってくるものですよ。
たとえどんな冬が続いても、光はきっと途切れませんから」
その言葉に、春江は深く頷いた。

テーブルの上には、まだ温もりを残した紅茶のカップ。
そして、食べ終えた林檎タルトの皿に、小さな花びらがひとつ、そっと落ちた。
春江はそれを指先で拾い上げ、窓辺に飾られた花瓶に入れた。
陽の光がその花を照らし、店の中が一瞬、やわらかい黄金色に染まる。

「マスター、あのタルト……また食べに来てもいいかしら?」
「もちろん。次は少し酸味の強い林檎で焼きますよ。
――季節が巡ったことが、分かるように」
「ふふっ、楽しみにしてるわ」

春江は立ち上がり、軽く頭を下げた。
ドアベルが鳴る。
その音が静かな午後の空気の中で消えるまで、マスターは深く目を閉じていた。

ミモザが外で待っていた。
春江はその頭を撫でながら、ゆっくりと坂道を上っていく。
空はやわらかな桃色に染まり、遠くで夕暮れの風が吹いた。
彼女の歩く背中に、林檎の木の花びらが舞い降りる。
――春の光のように。

その光景を、店の中からマスターが静かに見送っていた。
「人は、別れのたびに、新しい季節を迎えるのですね」
彼はそう呟き、磨きかけのポットに息を吹きかけた。
その銀色の表面には、林檎の花が映っていた。

マスターは微笑んだ。
「……さて、次のタルトの仕込みを始めましょうか」

外では、ミモザの小さな鳴き声が、春の風に溶けていった。