喫茶コトリ

午後三時を少し過ぎたカフェ・コトリには、時計の針よりもゆっくりとした時間が流れていた。
ガラス越しに見える通りは、昼の賑わいが過ぎ、学生も会社員もそれぞれの帰り道を歩き始めている。
そんな中、この小さな店だけが取り残されたように、穏やかな沈黙を抱いていた。

ミモザはカウンターの隅、窓際のクッションの上で、前足を揃えて座っていた。
目を細めて、陽の光の帯を追う。
午後の光は柔らかく、冬に向かう季節特有の淡さを含んでいる。
風が窓を揺らすたび、ドアベルの鈴が、ほんのわずかに震えた。

――カラン。
ドアの音に、ミモザの耳がぴくりと動いた。

入ってきたのは、黒のスーツを着た男。
ネクタイを少し緩め、額にはうっすらと汗。
彼の歩き方は静かだが、どこか「沈んでいる」ように見えた。
背中に重い荷物を背負っているわけでもないのに、身体が下に引かれている。
人間の“疲れ”というやつだ、とミモザは思う。

男――坂本は、いつものようにカウンターの端に腰を下ろした。
その動作もどこかぎこちない。
マスターが視線を向けると、彼は小さく「ブラックで」とだけ言った。
それ以上、何も語らない。

ミモザは前足を舐めながら、その様子をちらりと見た。
坂本がこの店に来るのは、これで五回目だった。
最初に来た日は雨で、傘を差していても肩がびしょ濡れだった。
そのときのコーヒーも、たしかブラックだった。
人間の味覚は気分に左右されるはずなのに、坂本はいつも同じものを頼む。
――多分、“変える”気力がないのだ。

マスターは言葉少なに豆を挽く。
シャリ……シャリ……と、刃が豆を割る音が店内に溶ける。
坂本はその音を聞きながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。
光が、曇りガラスをやわらかく透かしている。
外を通る人影が、ぼんやりと影絵のように流れていった。

「……今日も疲れたな」

坂本の口から、誰に向けるでもなく声が漏れた。
マスターは返事をしない。
けれど、動作はゆるやかで、まるでその沈黙が会話のようだった。
ミモザはゆっくりと立ち上がり、背を伸ばしてからカウンターへと飛び乗った。

坂本の前に着地すると、彼は少し驚いたように目を丸くした。
ミモザはしっぽを立て、坂本のスーツの袖に鼻先を寄せた。
――苦い匂い。煙草と残業と、外の空気。
でも、ほんのわずかに家の匂いも混ざっていた。
洗剤の香りと、猫の毛の匂い。
“誰か”と暮らしている匂いだ。

「……お前、またここにいたのか」

坂本が小さく笑う。
その笑みは、ほんの少しだけ本物に近かった。
ミモザは「にゃ」と小さく鳴いて応えた。

マスターが差し出したブラックコーヒーから、湯気がゆらゆらと立ち上る。
坂本はその香りを吸い込み、目を閉じた。
鼻の奥に広がる深い苦みと、焙煎の香ばしさ。
その瞬間だけ、頭の中の雑音がすっと消えた。

「……猫って、何も考えてないようでいいな」
「そう見えますか?」
マスターが、グラスを拭きながら微笑んだ。

「見えますよ。悩みとか、責任とか、そういうの無縁そうで」
「でも、彼らなりに考えてますよ。どの場所が一番陽があたるかとか、誰の膝が心地いいかとかね」
「……それは平和すぎる」
「ええ。平和なんです。でも、それで充分生きていける」

ミモザはその会話を聞きながら、尻尾を揺らした。
人間はよく“充分”という言葉を使う。
けれど、本当はそれが一番むずかしいことを、ミモザは知っている。

坂本は、湯気の向こうにゆらめく光を見ていた。
何もしていないのに、肩が少しだけ軽くなった気がする。
マスターがカウンターに両肘をつき、静かに言った。

「猫はね、未来の心配をしないんですよ」
「未来の……?」
「そう。彼らは“いま”しか生きてない。
 昨日のことも、明日のことも考えない。
 でも、ちゃんと生きてる」

坂本は、笑うでもなく、頷くでもなく、その言葉を口の中で転がした。
“未来の心配をしない”。
それは、坂本にとって最も遠い言葉だった。
仕事では常に、明日の数字、来月の締め切り、来期の成果――
未来しか見ないで今日を削ってきた。

ミモザが坂本の指先をちょんと触れた。
驚いて視線を落とすと、彼女は静かに目を合わせていた。
何も言わない。ただ見つめる。
そこには、「いま」にしか存在しないやすらぎがあった。

坂本は、カップを手に取り、口をつけた。
熱い。けれど、その熱さが生きている証のようで、悪くなかった。
舌の上に広がる苦みは、どこか甘い記憶を呼び起こす。
――家で飼っている猫、“クロ”のことだ。
黒い毛並みが夕暮れに光る。仕事から帰ると、いつも玄関で待っている。
怒りも呆れもなく、ただ静かに。

坂本はコーヒーをもう一口飲んだ。
湯気の向こうに、クロの姿が浮かんで見えた。
「今日も遅かったな」
そんな声が、どこかで聞こえた気がして、胸がじんわりと熱くなった。


坂本はしばらく黙って、カップの中の黒を見つめていた。
表面に映るのは、疲れきった自分の顔。
この一年、まともに笑った覚えがない。
仕事が終わっても、家に帰っても、頭の中では常に誰かの声が響いている。
「責任取れるのか」「数字を見ろ」「お前がやらなきゃ誰がやる」――そんな言葉ばかりだ。

最初は夢があった。
人の役に立ちたい。努力すればきっと報われると思っていた。
けれど、いつの間にかその熱は冷め、
代わりに“諦め”という名の灰が積もっていった。

そんな夜、ソファで沈み込むように座っていた時だ。
クロが膝に飛び乗ってきた。
柔らかな重み。静かな喉の音。
その小さな身体が伝えてくる温度が、妙に胸に沁みた。
あの夜だけは、眠る前にふと“まだ生きてていいのかもしれない”と思った。

――ミモザが、ゆっくりと坂本の膝に近づいた。
坂本が気づく前に、器用に前足でカウンターから降り、
静かに彼の膝の上に体を落ち着ける。
驚きで硬直した坂本の太腿の上で、ミモザは喉を鳴らし始めた。
低く、柔らかく、心臓の鼓動に似た音。

「おや、珍しいな。ミモザがそんなことするの」

マスターが穏やかに笑った。
坂本は戸惑いながらも、膝の上の小さな体にそっと手を置いた。
毛並みは少し温かく、指先に伝わる鼓動が心を撫でていく。
言葉ではなく、ただその存在が“ここにいる”と告げていた。

「……この子、あったかいですね」
「そうでしょう。ミモザは気まぐれだけど、ちゃんと人を選ぶんです。
たぶん今のあなたに、必要だと思ったんでしょう」

坂本はゆっくりと笑った。
その笑みには、どこか懐かしさが混ざっていた。
子どもの頃、家の縁側で飼い猫を撫でていた時の記憶。
あの頃は、世界がずっとやさしかった。

「……最近、職場の部下が辞めたんです。俺のせいで」

唐突に、坂本が口を開いた。
マスターは拭いていたカップを止め、静かに視線を向けた。
ミモザは動かず、喉を鳴らし続けている。

「俺、上司に挟まれてばかりで。上には言われ、下には押し付けられて。
それでも、“自分が我慢すれば”って思ってました。
でも、ある日その部下に言われたんです。『坂本さんって、いつも顔が死んでますね』って」

坂本は苦笑いした。
笑いながらも、目の奥は少し濡れていた。

「その言葉が、ずっと刺さってて。
俺、何のために頑張ってるんだろうって……分からなくなったんです」

マスターは少し考えるように視線を落とした。
そして、やわらかく言った。

「……頑張るって、時々、誰かに見せるための言葉になってしまうんですよね。
でも、猫たちは違います。
“生きる”ってことを、見せびらかさない。
彼らはただ、息をして、眠って、目を覚まして、また歩く。
それだけで充分なんです。」

坂本は、ミモザの毛を撫でながら静かに頷いた。
指先の感触が、まるで心の奥の埃を払うようだった。
――いま、確かに“生きている”と感じる。
それだけで、十分だった。

ミモザが小さく体勢を変え、坂本の膝に頭を預けた。
それはまるで「もう大丈夫」と言っているように見えた。
坂本はカップを持ち上げ、冷めかけたコーヒーをもう一口。
苦味の奥に、ほんのわずかな甘みが残っていた。

「……マスター、この店、なんで“コトリ”って名前なんですか」

ふと尋ねると、マスターは目を細めた。

「小鳥ってね、自由に見えて、実は繊細なんですよ。
でも、ちゃんと帰る場所を知っている。
人も猫も、きっと同じです。
ここが、誰かの“帰る場所”になればいいと思って」

坂本はその言葉を聞きながら、視線を落とした。
膝の上のミモザが、ほんの少しだけ尻尾を揺らした。
まるでその言葉に頷くように。

「……帰る場所、か」
「ええ。ちゃんと帰れる場所があれば、人はまた歩けるんです」

坂本の胸の奥に、小さな灯がともった気がした。
会社にも、家にも、行き詰まりを感じていたけれど――
いま、目の前のコーヒーと、この小さな生き物の温もりが、確かに“居場所”だった。

やがて、時計の針が午後四時を指した。
窓の外の光が少し傾き、通りに影が伸びる。
坂本はカップの底を見て、そっとため息をついた。
けれどその息は、これまでのように重くなかった。

「また……来てもいいですか」
「もちろん。いつでもどうぞ」
マスターが微笑む。
「あなたが疲れた時には、ミモザがきっと待ってます」

坂本はゆっくりと立ち上がり、会計を済ませた。
その手が自然に、ミモザの頭に伸びる。
やわらかな毛並みを撫でると、ミモザは目を細めた。
――ありがとう。
そんな声が聞こえたような気がした。

ドアのベルが軽やかに鳴る。
午後の光が、坂本の背中をやさしく包んだ。
外の風は少し冷たいが、不思議と心は温かかった。

坂本の姿が見えなくなったあと、マスターは小さく息をついた。
ミモザはカウンターに戻り、彼の隣に座る。
マスターが新しいコーヒーを淹れ、ミモザの前に小さなミルク皿を置いた。

「今日も、ひとり助けたね」
マスターの言葉に、ミモザは喉を鳴らした。
それが返事の代わりだった。

店の外では、夕陽が沈みかけている。
窓から射す光が、ミモザの毛を金色に照らす。
やがて静寂が戻り、またいつもの穏やかな時間が流れ始めた。

――猫は未来を知らない。
けれど、“いま”を誰かと分け合うことはできる。

ミモザは、ミルクの皿に口をつけた。
ほんの少し舐めて、顔を上げる。
その瞳の奥に、どこか誇らしげな光が宿っていた。

今日もまた、ひとつの心が、ここで少しだけやわらかくなった。
カフェ・コトリの午後は、そんな奇跡を何度でも繰り返していく。