喫茶コトリ

午後四時。陽が傾きはじめた頃、カフェ・コトリのガラス窓からやわらかな光が差し込む。
木の扉の上に吊るされた看板には、小さく「カフェ・コトリ」と描かれている。
風が吹くたび、看板の下の小枝飾りがカランと小さな音を立てた。

ミモザはカウンターの端、定位置の丸椅子の上で背伸びをする。
白と茶色の毛並みが、夕陽を受けてほのかに金色を帯びた。
店内にはコーヒー豆を挽く音が響いている。ガリ、ガリ……。
そのリズムに合わせて、ミモザの尻尾がゆっくり揺れる。

カフェ・コトリの店主・田嶋は、静かな人だった。
彼の動きはいつも一定で、豆を挽く手つきも、マグを並べる手も、まるで小さな音楽のように整っていた。
ミモザはその音を聞きながら、ガラス越しの通りを見つめる。
外では学生たちが笑い合いながら帰路につき、落ち葉が風に流れていく。
――けれど、あの子の姿だけがまだ見えない。

放課後になると必ず来る女子高生、あかり。
肩までの髪、リュック、そしていつも注文する“ミルク多めのカフェオレ”。
その香りとともに、彼女の笑顔が店の空気を少しだけ明るくしてくれる。
ミモザにとって、その時間は一日の中でいちばん好きな瞬間だった。

今日も、少し胸がざわついていた。
扉のベルが鳴らない時間が、やけに長く感じられる。
ミモザはカウンターからそっと飛び降り、入口の方へ歩み寄った。

カラン――。
ようやく小さなベルの音が響く。
木の扉が開き、涼しい風といっしょに、彼女が入ってきた。

けれど、いつもの笑顔はなかった。
あかりの頬にかかる髪が少し乱れていて、目の縁が赤い。
ミモザはすぐに足もとへ駆け寄り、そっと体をすり寄せた。

「……ミモザ」
その声は、かすかに震えていた。
ミモザは、答えるように「にゃ」と短く鳴く。

「今日もカフェオレでいいかな?」と田嶋が聞く。
あかりは少し迷って、「はい……お願いします」と返した。
その声には、疲れと小さなため息が混じっている。

席についたあかりの手にはスマホが握られていた。
画面の明かりに照らされたその目に、“既読”の二文字が映る。
その小さな光が、まるで心の中の曇りのように見えた。

――返事が、来なかったんだね。
ミモザは彼女の膝に飛び乗る。
驚いたように見上げたあかりの口元に、ようやくかすかな笑みが浮かんだ。

「……ミモザは、いいな。
何も言わなくても、そばにいてくれる」

彼女の指先が毛並みを撫でる。
ミモザは喉を鳴らし、ゴロゴロと胸の奥で音を響かせた。
その音が、言葉よりもまっすぐに、あかりの心に届いていく。

田嶋がカウンターからやってきて、温かいカフェオレを置く。
マグカップから立ちのぼるミルクの甘い香りが、店内に広がった。

「ねえ、ミモザ。……“好き”って、どういう気持ちなんだろう」
あかりはマグを両手で包みながらつぶやいた。
その瞳には、どこか遠いものを見つめるような光があった。

ミモザには“好き”という言葉の意味はわからない。
けれど、その響きのあとにくる静けさの匂いは知っている。
それは少し切なくて、でもあたたかい香りだった。

「今日は……返事、来なかったの」
その声が落ちた瞬間、外の風鈴がかすかに鳴る。
その音さえ、少し冷たく感じられた。

ミモザは言葉を知らない。
でも、そっと膝の上で丸まり、彼女の手に頬を押し当てた。
“ここにいるよ”ということだけは、伝えられる。

そのとき、ベルが再び鳴った。
顔を上げると、背の高い少年が立っていた。
制服の襟が少し乱れて、息を切らしている。
――悠真だ。

「あ、あかり……やっぱりここにいた」
その声に、あかりの肩が小さく揺れた。
ミモザは静かに彼女の膝から降り、テーブルの上に飛び乗る。

「なんで来たの」
「……心配だったから」
「返事、くれなかったのに」
「ごめん。……言いたいこと、ちゃんと伝えられなかった」

空気が少し張りつめる。
コーヒーの香りと沈黙のあいだに、言葉にならない想いが滲む。

「私……待ってたのに」
「わかってた。でも、怖かったんだ」
「怖い?」
「“好き”って言ったら、壊れそうで」

あかりの目が大きく見開かれる。
ミモザは小さく「にゃ」と鳴き、二人の間を見上げた。
テーブルの上で尻尾をゆっくり揺らす。
まるで、「もういいでしょ」と言うように。

田嶋がカウンターの奥から微笑みながら言った。
「ミモザの“仲直りサイン”だね」

ふたりは同時に顔を見合わせ、そして、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔が、さっきまでの沈黙をやわらかく溶かしていく。

――よかった。
ミモザは心の中でつぶやく。
カフェ・コトリは、今日もまた小さな奇跡をひとつ生んだ。

日が暮れる頃、ふたりは並んで店を出た。
夕焼けが街を染め、ミモザの影も長く伸びる。
扉のガラスに映る二人の背中が、少しずつ遠ざかっていった。

カウンターで田嶋が片づけをしながら、ふとミモザに話しかける。
「ミモザ。あんた、ほんとに人の気持ちがわかるのかい?」
ミモザは振り向かず、尻尾をふわりと揺らした。
それは、否定でも肯定でもない。ただ、“ここにいる”という合図。

夜になり、カウンターの上で丸くなりながら、ミモザは目を閉じた。
カフェオレの香りが、まだ空気の中に残っている。
苦くて、でも少し甘い。まるで人の心みたいだ。

――恋は、カフェオレのようなもの。
冷めても、もう一度温め直せば、きっとまたやさしくなれる。

ミモザの喉が、静かに鳴る。
外の街灯の下、二つの影が並んで歩いていく。
外の光景を見届けながら、
カフェ・コトリの夜は、ゆっくりと更けていった。