喫茶コトリ

朝の陽ざしが、静かに店の窓辺を照らしていた。
木の扉の上には、少し色あせた看板——「カフェ・コトリ」
街角の交差点から一本入っただけなのに、ここだけ時間がゆっくり流れている。

カウンターの上で、ミモザは尻尾をくるりと巻いた。
ふわふわの白毛にうっすらと茶色の混じる、ちょっと気の強そうな三毛猫。
でも、彼女の本領はその見た目ではなく、“耳”だった。
人の言葉を、だいたい半分くらい理解できる。
正確に言えば、理解しようと「努力している」猫だった。

マスターが豆を挽く音を聞きながら、ミモザは欠伸をひとつ。
コーヒーの香りは、彼女にとって「朝が来たよ」という合図だ。
店内の時計はまだ八時半。
開店準備の音だけが響く、いちばん好きな時間帯だった。

「ミモザ、今日もよろしくな」
カウンターの奥で、マスターが声をかける。
彼の名は田嶋。四十代後半、穏やかな笑みの似合う人だ。
言葉少なだけど、ミモザの気持ちはだいたいわかってくれる。
だから、彼女は気に入っていた。

ミモザはカウンターから飛び降り、店の入り口へと歩く。
開店前のルーティン。ドアの前で座り、しっぽを二回ふる。
“今日も、ちゃんと人が来ますように。”
そう祈るように目を細めた瞬間、扉の向こうから誰かの足音が近づいてきた。

「おや、もう来ちゃったか」
ガラス越しに見えるのは、花柄のエプロン姿の女性——常連の木村さんだった。
「おはようございます、マスター。あら、ミモザちゃん、今日も早いのねぇ」
扉が開くと同時に、ミモザは軽やかに足元へすり寄る。
木村さんは少しだけ笑って、手提げ袋から何かを取り出した。

「これね、昨日焼いたスコーン。あなたの分もあるのよ」
そう言って、ミモザの小皿にひと欠けらを落とす。
猫用じゃないけれど、彼女は知っている。
“愛情の味”は、どんなお菓子よりも甘い。

マスターがコーヒーを淹れる間、木村さんはいつもの席に座る。
彼女の視線は窓の外——街路樹の枝にとまる小鳥たちを追っていた。
その横顔には、少しだけ“何かを思い出している”影がある。

ミモザはテーブルの下に移動して、静かに座り込んだ。
人間が話す“心の重たさ”の音を、猫の耳は感じ取る。
でも、彼女はそれを言葉にできない。
できるのは、そっと足に体を寄せることだけ。
それでも、木村さんは微笑んだ。
「ありがとうね、ミモザちゃん。……ほんと、優しい子」

その一言に、ミモザのしっぽがふわりと揺れた。
“優しい”という言葉は好きだ。
それが褒め言葉なのか、ただの挨拶なのかはわからないけれど、
胸の奥があたたかくなる。

マスターがそっとカップを置いた。
「今日は少し、苦めにしておきました。雨が降りそうですから」
木村さんは驚いたように顔を上げる。
「どうしてわかるの?」
「お客さんの表情で、だいたい天気が読めるんですよ」
マスターが冗談めかして言うと、ミモザの耳がぴくりと動いた。
——違う。
“今日は木村さんが少し、泣きそうな顔をしていた”からだ。

そんなミモザの心を知ってか知らずか、
店の中にはやさしいコーヒーの香りが満ちていく。
ガラス窓の外では、小鳥たちが羽を震わせ、曇り空を見上げていた。

一杯のコーヒー。
一匹の猫。
それだけで、この店はちゃんと回っていく。

“人間って、不思議。”
ミモザは目を閉じて思う。
忙しそうにして、悩んで、泣いて、それでもまた「おはよう」と笑う。
そんな人たちのそばで、今日も彼女はしっぽを揺らす。

——小さな喫茶店「カフェ・コトリ」。
ここには、誰かを救う大げさな奇跡も、魔法のような出来事もない。
けれど、猫の仕事はいつだって静かで確かなもの。

カラン、と扉のベルが鳴った。
ミモザが顔を上げると、制服姿の女子高生が立っていた。
少し不安そうな目をして、それでも笑おうとしている。
新しい“物語の香り”が、ミモザの鼻先をくすぐる。

今日もまた、誰かの心が少しだけ軽くなりますように。
ミモザは胸の奥でそうつぶやき、
カウンターの上にひらりと飛び乗った。