雨の匂いが、やけに濃い夜だった。

 会社を辞めてから三週間。時間の感覚がどこかおかしくなっていて、朝と夜の境目が曖昧だ。気づけば、傘もささずに見知らぬ町を歩いていた。

 ポケットから取り出したスマホの画面には、誰からの通知もなく、時刻を示すウィジェットだけが表示される。17時24分。雨粒が滲んで、光がぼやける。

 ただ濡れているという事実だけが、やけにリアルだった。
 坂道を下りきったところで、ふと立ち止まる。

 古びた木の扉の上に、小さな看板が見えた。

「lumière(リュミエール)」

 薄暗い通りの中で、そこだけ柔らかいオレンジ色の光が漏れていた。

 まるで、雨の中に浮かぶ灯台みたいだ。
 吸い込まれるように店の前まで来てしまった。どうやら喫茶店のようだ。
 扉を開けると、カラン、と鈴が鳴った。

 静かな店内には、焙煎した豆の香りが満ちている。

 カウンターの奥で、年配の男性が穏やかにこちらを見た。白いシャツに黒いエプロン。無口そうな顔立ちだが、どこか温かみがある。
「いらっしゃい。……タオル、そこにあるよ」
「あ…ありがとうございます」
 そうだった。傘をささずに来たんだっけ。今になって寒気が身体を襲う。
 促されるまま、入口近くの棚からタオルを借りる。

 椅子に腰を下ろした瞬間、足元で「ニャア」と柔らかい鳴き声がした。

 視線を落とすと、一匹の黒猫がいた。

 グリーンの瞳がまっすぐにこちらを見上げている。
「……おまえ、ここの猫なのか?」
 返事の代わりに、もう一度「ニャア」と鳴いて、するりと膝の上に飛び乗ってきた。

 濡れたズボンの上に温もりが広がる。

 猫はそのまま喉を鳴らしながら、丸くなる。
「ノア!もう…勝手にお客さんの膝に乗らないの」
 カウンターの奥から、若い女性の声がした。

 エプロン姿の彼女は、困ったように、でもどこか理解した顔で控えめに笑っている。

 肩までの髪が、ライトの光にやさしく照らされていた。
 どうやらこの猫はノアという名前らしい。
「すみません。この子、懐くと離れないんです」
「いえ、大丈夫です。むしろ暖かくて、助かります」
 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

 心のどこかが、じんわりと溶けていく感じがした。
「…‼︎。ありがとうございます」

 女性――後に“葵(あおい)さん”と名乗る彼女――がうれしそうに微笑み、カウンターの奥に戻る。

 マスターが手際よくサイフォンに火を入れた。青い炎が小さく揺れる。
 ポコポコ、と心地よい音が店内に響く。

 時計の針の音と雨音だけが、僕の世界を包んでいた。
「ブレンドでいいかな」
 マスターに言われて初めてなにも注文しようとしていなかったことに気づく。
「あ、はい。お願いします…」
 短い返事をして、ノアの背中を撫でた。

 ノアは気持ちよさそうに目を細める。

 掌に伝わる柔らかな体温が、雨の冷たさを消していった。
 やがて、マスターがカップをそっと置いた。

 湯気がふわりと上がる。

 深煎りの香り――苦味の奥に甘い余韻がある。

 一口飲んだ瞬間、胸の奥に静かな波が広がった。
「……おいしい」
 思わず漏れたそれは独り言のつもりだったが、マスターの耳には聞こえたらしい。
「ありがとう。今日は寒いから、少し深めに淹れたんだよ」
 それだけ言うと、マスターはまた黙ってカウンターの奥に戻った。

 この沈黙が、不思議と心地よい。

 何かを話さなくても、店そのものがこちらを受け止めてくれているようだ。
 ふと窓の外を見ると、雨脚が弱まっていた。

 街灯の光の中、雨粒がゆっくりと踊っている。

 ノアが小さく鳴いた。「ほら、もう大丈夫」と言っているみたいに。
「ノアは、いつもここにいるんですか?」
「ええ。うちの看板娘なんです」

 葵が答える声は、穏やかで、少し誇らしげだった。

「落ち込んでる人のところに、勝手に行っちゃうんですよ。不思議ですよね……まるで、わかってるみたいで」
 その言葉に、胸が少し痛んだ。

 自分が“落ち込んでる人”に見えてしまうほど、今の自分は壊れているのかもしれない。

 けれど、ノアの重みと温もりが、それさえも否定してくれる気がした。
「私も落ち込んでいる時に限って、ノアが懐いてくれるんです。普段はあんまり懐いてくれなくて…もっと触りたいのに」
 葵さんは本当に猫が好きなんだな。
 看板猫がいる喫茶店は初めて来たが、実際とても癒された。
「……また、来てもいいですか」
 気づけば、そんな言葉が口をついて出た。

 葵さんは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「もちろん。ノアも、きっと喜びますよ」
 ノアがその名を呼ばれた瞬間、尻尾をゆるやかに振った。

 その仕草がまるで“またおいで”と告げているようで、思わず笑みがこぼれた。
 雨音が遠ざかっていく。

 外に出ると、舗道には光が反射して、町全体が静かに息をしていた。

 膝と掌には、まだノアの温もりが残っていた。