ヴァルミア王国は、長き戦争の果てにようやく剣を収めた。
十年以上続いたラグネス帝国との国境争いは、両国に多くの犠牲をもたらし、そして今、王国はその爪痕と向き合っていた。
戦争が終われば平和が訪れる——そんな希望は、すでに誰も抱いてはいなかった。
戦いから戻った兵士たちは、疲れた顔で街をさまよい、浮浪者や戦災孤児が増え続ける。
農地は荒れ、交易は停滞し、人々は食料を求めて長い列を作っていた。
ヴァルミア王国の中心、王城エルヴェール宮。
厚い石造りの壁に囲まれたその城の奥深くで、国の未来を決める会議が開かれていた。
国王ライオネル三世、各大臣、騎士団団長、巫女レオノーラ・ルトリッジ。
彼らは、今のヴァルミアを動かす最重要人物たちである。
議題は多岐にわたった。
戦後復興、食料供給、疫病対策、貴族間の権力争い——そして最後に持ち上がったのが、川で発見された水死体についてだった。
「12人の司祭のうちの一人、オルセン司祭が殺害された」
その言葉に、会議室の空気が張り詰める。
「死因は溺死だが、遺体の額には"レイヴェント教団"の紋様が焼き付けられていた」
会議室に重苦しい沈黙が広がる。
レイヴェント教団。
それは、巫覡・巫女の権威を否定し、「ヴァルミアの信仰は偽りだ」と民衆を煽動する新興宗教だった。
戦争で希望を失った民たちが次々と信者になり、今では王国の統治を脅かしかねない勢力にまで成長していた。
神聖なるヴァルミア教を統べる巫女レオノーラは冷静な口調で言い放つ。
「レイヴェント教団は、すでにこの王国の深いところに根を張っています」
その穏やかだが冷徹な声音が、会議室全体に響き渡った。
「…今、手を打たなければ、ヴァルミアはさらに混乱の渦へと飲み込まれるでしょう」
誰もが重く口を閉ざし、国の命運を左右する会議は静かに幕を閉じた。
ヴァルミア大神院の一角。
青と白を基調とした回廊の奥、装飾を抑えた静謐な部屋の中で、クーパー・ルトリッジは腕を組んで座っていた。
「巫覡なんて、絶対になりたくありません」
そう言い切った彼の前で、叔母である巫女レオノーラは静かに紅茶を口に運んだ。
「ですが、あなたはルトリッジ家の次子。生まれながらにして巫覡になる定めを負っています」
「そんなの、勝手な決まりじゃないですか」
クーパーは苛立たしげに椅子の背にもたれた。
巫覡——それはヴァルミア大神院の象徴的な存在であり、国の精神的支柱となる役目を持つ。
長子は騎士に、次子は巫覡または巫女に。
それがルトリッジ家に代々受け継がれる掟だった。
「僕は剣を握りたいんです。騎士になって、この国を守りたい」
「騎士が守るのは、王国の"身体"です。巫覡・巫女が守るのは、王国の"心"なのですよ」
レオノーラは静かに微笑み、カップを置いた。
「この戦で、民の心は疲弊しています。だからこそ、巫覡の存在は必要なのです」
クーパーは立ち上がり、話を終わらせるようにドアへ向かう。
「僕は騎士になります。巫覡なんか、なってたまるものですか」
レオノーラは、何も言わなかった。
大神院を出たクーパーは、そのまま城内の訓練場へ向かった。
ヴァルミア王国最強の騎士団《白鷹騎士団》。
そこに属するのが、クーパーの姉であり、王国屈指の剣士シルヴィア・ルトリッジだった。
訓練場では、彼女が数人の若手騎士を相手に模擬戦を行っている。
鋭い剣筋と大胆な動き。まるで獣のような戦いぶりに、見ている騎士たちが息を呑む。
「姉上!」
クーパーが声をかけると、シルヴィアは剣を振り払って振り向いた。
「…なんだ、お坊ちゃん」
「僕に剣を教えてください!」
クーパーの言葉に、騎士たちの間から失笑が漏れる。
「お前が? 剣を?」
「はい! 僕は騎士になります!」
すると、シルヴィアはにやりと笑った。
「いいぜ。ちょうど手合わせの相手が欲しかったところだ」
彼女は近くの兵士から木剣を受け取ると、クーパーに放った。
「さあ、かかってこい」
クーパーは剣を構え、一歩踏み込んだ——
だが、その瞬間、シルヴィアの剣がうなりを上げた。
「——っ!!」
受け止める暇もなく、クーパーの木剣は弾かれ、あっという間に地面に転がった。
「…遅い」
シルヴィアは剣を肩に担ぎ、つまらなさそうに言う。
「次期巫覡のくせに、騎士を目指すなんてな」
クーパーは悔しさに唇を噛み締める。
シルヴィアの言葉が、胸に突き刺さる。
「…僕は、巫覡なんかじゃありません」
クーパーはそう言い捨て、訓練場を後にした。
シルヴィアに叩きのめされてから数日後——。
クーパーは森の奥へと足を踏み入れていた。
かつて王国でも屈指の騎士と呼ばれた男が、森に隠れ住んでいる。
そんな噂を、城下町で耳にしたのだ。
トレイス・ガーランド——。
かつて名を馳せた名将。だが、とある事件で騎士資格をはく奪され、追放された男。
今はみすぼらしい格好で薪を割る日々を送っているらしい。
——ならば。
城の騎士たちには頼れない。
だが、かつて王国最強と称えられた男が、この森の奥で生きているなら——。
クーパーは迷わず、彼のもとを訪れることを決めた。
木々が鬱蒼と生い茂る道を進みながら、心の奥で微かな期待と不安が入り混じる。
本当に、こんな所にいるのか?
そして、もし出会えたとして——彼は、自分に剣を教えてくれるのだろうか?
クーパーは深く息を吐き、森の奥へと歩を進めた。
木々が生い茂る静寂の中に、一軒の小さな小屋があった。
見たところ、かなりの年月が経っているが、手入れはされているようだ。
「…ここに、本当に?」
クーパーは扉の前に立ち、軽くノックした。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
返事はない。
もう一度ノックしようとしたとき——
「帰れ」
低く、重い声が響いた。
扉が開き、そこに現れたのは、一人の男だった。
鋭い目つき、短く刈られた黒髪、無精ひげの生えた顔。
がっしりとした体躯に、粗末なシャツとズボンを身にまとっている。
「…あなたが、トレイス・ガーランドさんですか?」
クーパーが尋ねると、男はじろりとこちらを見下ろした。
「貴族の坊ちゃんか…何の用だ?」
「僕はクーパー・ルトリッジと申します」
「ルトリッジ…巫覡になるガキか」
「違います! 僕は騎士になりたいんです!」
「知らねえよ」
トレイスはバタンと扉を閉めようとする。
「待ってください!」
クーパーはとっさに腕を伸ばし、扉を押さえた。
「あなたは、かつて王国屈指の騎士だったと聞きました! 僕に剣を教えてくれませんか?」
「…剣を?」
トレイスは眉をひそめ、じろりとクーパーを見下ろした。
「坊ちゃん、騎士ってのは甘いもんじゃねえぞ?」
「わかっています!」
「なら…試してやるか」
次の瞬間、クーパーの手首が鋭く引かれた。
「——っ!」
不意を突かれ、小屋の中に引き込まれる。
背中がベッドに押し倒され、トレイスがその上にのしかかった。
「な…っ」
「騎士になりてえなら、"修行代"がいるよな?」
耳元で囁くような低い声。
クーパーは動こうとするが、鍛え抜かれた腕に抑え込まれ、身動きが取れない。
体格差が違いすぎる。
「払えるのか? それとも帰るか?」
静寂の中で、クーパーの喉がかすかに鳴った。
「…僕は…騎士になりたい」
「…なら、決まりだ」
トレイスはニヤリと笑うと、クーパーの襟元を掴み——
次の瞬間、その唇を奪った。
「っ……!」
強く押しつけられた感触に、クーパーは息をのむ。
抵抗しようとするが、トレイスの体重がのしかかり、腕を動かすことすらできない。
熱を帯びた唇が、力強く自分のものを塞ぐ。
歯が軽く当たり、呼吸すら奪われる。
「ん…っ」
わずかに顔を逸らそうとすると、トレイスの手が顎をつかみ、逃げ道をふさぐ。
「騎士になりたいってのは、そういう覚悟があるってことだろ?」
「ち、違いま——」
「どっちでもいいさ。払えるなら、それでいい」
トレイスの手がクーパーの肩に触れ、ゆっくりと布を滑らせていく。
硬い指先が鎖骨をなぞり、肌にかすかな電流が走る。
「お前、思ったより細いな」
クーパーは歯を食いしばった。
逃げられないことはわかっていた。
それでも、心のどこかで、何かが揺れている。
トレイスの顔が近づき、再び唇を重ねようとする——
「…修行代だ」
低い声が耳元で囁かれた瞬間、クーパーは息をのんだ。
体を押しつけられ、重たい熱がまとわりつくような感覚が襲う。
「っ…」
強引に奪われた唇から、息が漏れる。
それは、思った以上に熱く、激しい時間だった。
無骨な指先が肌をなぞるたび、敏感に反応する自分が悔しかった。
力では抗えないことはわかっていたが、それでも心だけは屈したくなかった。
けれど——
抗おうとすればするほど、トレイスは容赦なく奪っていった。
どれくらいの時間が経ったのか。
ふと気づけば、窓の外には西日が差し込み、部屋には静寂と、ひんやりとした空気が満ちていた。
熱に浮かされていた肌も、次第に冷えていく。
クーパーは薄い布を体に巻きつけるようにしながら、トレイスに背を向けた。
まだ、心臓が速く打っているのを感じる。
一方で、トレイスは淡々と酒の入ったグラスを傾けていた。
低く喉を鳴らしながら、一口飲むたびに氷がかすかに音を立てる。
その片方の手が、無造作にクーパーの腕を撫でていた。
まるで、そこに転がる獲物の感触を確かめるように。
「とりあえず、一日分の修行代はもらった」
静かな声が落ちてくる。
「明日の朝もここに来い」
そう言うと、再びグラスに口をつけた。
クーパーは答えなかった。
ただ黙って、ゆっくりとベッドから身を起こし、脱ぎ捨てられた服を拾う。
震える指先でそれを羽織り、いつもの整った姿に戻ると、何も言わずに小屋の扉を開けた。
冷たい夜の風が、火照った肌に突き刺さるようだった。
それでもクーパーは振り返らず、そのまま森の中へと歩き出した。
森の朝は冷たい。
薪を割る乾いた音が、静寂を断ち切るように響いていた。
トレイスは無心で斧を振り下ろし、整然と薪を積んでいく。
そんな彼のもとに、再び訪れる足音があった。
「おはようございます!」
クーパー・ルトリッジが、まっすぐこちらを見つめて立っていた。
「…お前、本当に来たのか?」
トレイスは眉をひそめる。
「当然です。しゅ、修行代も払いましたし」
昨日の夜のことを思い出したのか、クーパーはわずかに頬を赤く染めている。
トレイスは内心困惑しながらも、ため息をついた。
「…そうかよ」
頭を掻きながら、小屋のそばに積まれた薪を顎で示す。
「なら、まずは薪を割れ」
「え?」
クーパーは思わずきょとんとした。
「なんで薪割りなんか…」
「修行だ」
トレイスは無造作に斧を手に取り、クーパーの胸に押しつけた。
思った以上に重たく、クーパーはとっさに両手で抱え込む。
「…見てるだけですか?」
すると、トレイスは酒瓶を片手に、椅子へとどっかり腰を下ろした。
「俺はもう40過ぎたおっさんだぞ。朝から畑仕事に薪割までしてるんだ。休憩くらいさせろよ」
クーパーは納得できないまま、それでも文句を言うのをぐっと飲み込んだ。
トレイスの目が笑っているのが、余計に腹立たしい。
「ほら、さっさと始めろ。そこの丸太、全部だ」
顎で指された先には、想像以上に積み上げられた丸太の山があった。
クーパーは何か言いたげだったが、仕方なく斧を振り上げた。
薪を割り終えた頃には、汗だくになっていた。
呼吸を整えようと膝に手をつくと、目の前に水の入った器が差し出された。
「飲め」
クーパーは驚いたが、すぐに器を受け取り、喉を潤した。
「…ありがとうございます」
「次は剣の修行だ」
トレイスは無造作に木刀をクーパーへと投げた。
クーパーはすぐにそれを構え、深く息を吸う。
「いきます!」
駆け出し、渾身の力で木刀を振る。
しかし——
バシィンッ!!
「——っ!」
衝撃が走り、クーパーは地面に転がった。
「…甘すぎる」
トレイスは微動だにせず、木刀を肩に担いでいる。
「もう一度…!」
クーパーはすぐに立ち上がる。
薪割りで疲れた腕が悲鳴を上げていたが、それでも諦めるつもりはなかった。
「よし、かかってこい」
バシンッ!!
またしても、一撃で地面に叩き伏せられた。
「ぐ…っ!」
「お前、本当に騎士になりたいのか?」
クーパーは悔しさに唇を噛む。
「なりたい…です…!」
「なら甘えるな」
トレイスの目が鋭くなる。
「敵はどんなに疲れていても、お前を休ませてはくれない」
「…!」
そのまま、木刀の修行は続いた。
何度も倒され、汗と埃にまみれながら、それでもクーパーは食らいついていく。
腕が震え、脚に力が入らなくなってきた頃——
「…今日はここまでだ」
トレイスが、ふっと木刀を下ろした。
クーパーはその場に仰向けに倒れ込む。
息を荒げながら、ただ空を仰いだ。
「…よし、これで修行代分は付き合ってやった。あとは勝手にやれ」
トレイスはそう言い残し、家へと向かおうとする。
しかし——
「待ってください!」
クーパーは朦朧とした意識の中、必死に上体を起こした。
「まだ…お願いします…!」
「…は?」
トレイスが振り返る。
クーパーは顔を赤くしながら、それでも真剣な目を彼に向けた。
「修行代は…払います」
「…っ」
トレイスは一瞬、何かを言いかけて、しかしすぐに口を閉じた。
そして、深く息を吐く。
「なら、飯を作れ。風呂も沸かせ。そして、俺と朝まで寝ろ」
「…!」
「お前が満足するまで、毎日だ」
言いながら、トレイスは家の中へと入る。
その背中で、クーパーには見えなかったが——
扉を閉める直前、トレイスの顔には、微かに複雑な色が浮かんでいた。
クーパーには知る由もない。
ただ、彼は少しの間黙っていた後——
「はい!」
笑顔で答え、小屋の中へと入っていった。
修行を初めて数週間が経った。
「ただいま戻りましたー!」
森の小さな小屋の扉が勢いよく開く。
両手に買い物袋を抱えたクーパーが、弾んだ声で中に入ってきた。
「…ずいぶん楽しそうだな」
奥の椅子に座っていたトレイスが、軽く酒瓶を傾けながら顔を上げる。
「ええ。市場でいい野菜が手に入ったんです。それと…新聞も買いましたよ」
テーブルに新聞を置くと、クーパーは食材を取り出しながら手際よく食事の準備を始める。
トレイスは新聞を手に取り、ざっと目を通した。
「…レイヴェント教団がまた暴れたらしいぞ」
「え?」
「地方の大神院の教会が襲撃され、司祭たちが皆殺しにされた」
クーパーの手が、一瞬止まる。
「…また、ですか」
「今度の犠牲者は新しい司祭だったらしい」
クーパーは静かに包丁を握り直しながら、食材を刻み始めた。
「ヴァルミア教の教えが否定されるなんて、信じられません」
「信じられなくても、事実だ」
トレイスは新聞を折り畳み、テーブルに置く。
「ヴァルミア教は偽物で、新興宗教こそが真実…そう信じる奴が増えてるってことだな」
「…そんなもの、僕が強くなって、騎士として大神院を守れば——」
「お前は次子だろ?」
トレイスの言葉が、クーパーの言葉を遮る。
「とっとと騎士は諦めろよ」
クーパーはわずかに表情を曇らせたが、すぐに微笑んでみせた。
「たとえ掟でも、僕は騎士になります」
そう言うと、彼は手際よく料理を盛りつけ、テーブルに並べた。
「さあ、食事ができましたよ」
そして、何事もなかったかのように、席に着く。
トレイスはしばらくクーパーを見つめていたが——
「…そうかよ」
そう一言だけ呟き、スプーンを手に取った。
クーパーは、静かに食事を始める。
レイヴェント教団の話題は、それきり口にしなかった。
クーパーは小道を歩いていた。
森の中にぽつんと存在する小さな集落。
ここは、彼がトレイスの家に通うようになってから、毎日通る道の途中にあった。
最初は気にも留めていなかったが、今では住人たちと挨拶を交わすくらいの顔見知りになっていた。
「お兄ちゃん、今日も買い物?」
「そうだよ。今日は市場で新鮮な野菜が手に入ったよ」
小さな男の子が笑顔で手を振る。
「おや、またトレイスのところかい?」
農作業をしていた老人が声をかける。
「ええ。お世話になっているので」
クーパーは微笑みながら答えた。
トレイスはあんなぶっきらぼうな男だが、この集落では意外と慕われているらしい。
困ったときには手を貸してくれるし、病気の者が出れば薬を分けたりもするという。
「本当は、ああいう人が騎士に向いてるのかもしれないな…」
クーパーはそう思いながら、再び歩き出した。
しかし——
ふと、鼻を突く異様な臭いに気づいた。
——煙だ。
集落の奥から、黒煙が立ち上っていた。
「…?」
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
だが次の瞬間——
「ぎゃああああっ!!」
悲鳴が響き渡る。
クーパーの全身が、一気に冷たくなった。
「——っ!!」
彼は持っていた買い物袋を投げ捨て、腰の剣を抜いた。
そして、一気に駆け出す。
「うわああああっ!!」
村人が逃げ惑っている。
火の手が上がり、いくつかの家屋が燃え始めていた。
その中にいたのは——
屈強な体格の男たち。
目つきが鋭く、粗雑な鎧をまとい、手には血のついた剣を握っている。
——盗賊だ。
「くそっ…!」
クーパーは歯を食いしばった。
すでに数人の村人が斬られ、地面に倒れている。
その傍では、小さな女の子が泣き叫んでいた。
「やめろおおおっ!!」
クーパーは叫びながら、一番近くにいた盗賊に斬りかかる。
ガキィンッ!!
刃と刃がぶつかり合う。
「——ほう?」
盗賊の男がニヤリと笑った。
「この辺に、こんな坊ちゃん剣士がいたとはな」
「うるさい!!」
クーパーは力いっぱい剣を振るう。
しかし——
「おせぇ」
盗賊の剣が重く振り下ろされる。
ガッ!!
「ぐっ…!!」
クーパーは何とか受け止めたが、衝撃が腕に響く。
——重い!!
トレイスの稽古を受けていなければ、一撃で倒されていただろう。
しかし、それでも足がすくむ。
「ちっ、ひよっこが!」
盗賊は容赦なく次の一撃を繰り出してきた。
クーパーは必死で防戦するが、すぐに追い詰められていく。
そして——
「——しまっ…!」
背後に、もう一人の盗賊が迫っていた。
クーパーが振り向くよりも早く、鋭い刃が振り下ろされる——
「——!!?」
その瞬間——
ゴッ!!
盗賊の後頭部に、何かが直撃した。
「がっ…!?」
盗賊がよろめき、そのまま地面に崩れ落ちる。
クーパーは息をのんだ。
そして、視線を向けると——
トレイスが、そこに立っていた。
「…ったく」
トレイスは無造作に、小石をもう一つ手に取り、軽く放り投げる。
「外に出てみれば黒煙が立ってる。来てみれば馬鹿弟子が情けない戦いしてるじゃねえか」
「…すみません」
クーパーは息を切らしながら、悔しそうに言った。
「あとで説教な」
トレイスはそう言い捨てると、鞘から剣を抜いた。
「その前に——」
——次の瞬間、風が切れた。
「なっ…!?」
クーパーが目を瞬く間に、トレイスの剣が盗賊の喉を貫いた。
「が…っ!?」
盗賊が血を噴きながら倒れる。
そのまま、トレイスは動きを止めず、次々と敵を薙ぎ払っていった。
——まるで、一匹の猛獣だった。
戦いが終わる頃には、盗賊たちは全滅していた。
トレイスは剣を振り払い、血を落とすと、あくびをしながら言った。
「さあ、帰るぞ」
「待ってください!」
クーパーはすぐに振り向いた。
「怪我人の手当てをしないと…!」
「勝手にしろ」
トレイスは肩をすくめると、そのまま背を向けた。
しかし——
クーパーが負傷者の手当てをしながら、ふと顔を上げると——
トレイスもまた、黙々と村人の傷の手当てをしていた。
クーパーは、思わず微笑んだ。
(やっぱり、あの人は——)
どんなにぶっきらぼうでも、本当は優しいのだ。
家に戻る頃には、すっかり夜になっていた。
クーパーは深いため息をつき、重い体を引きずるように玄関をくぐる。
——疲れた。
体の芯までどっと疲労が押し寄せてくる。
傷の手当てや村人のケアで、すでに立っているのもやっとだった。
それでも、食事の準備と風呂の用意をしなければならない。
「…よし」
気合を入れて台所に向かおうとした瞬間——
「お前は座ってろ」
トレイスの低い声が響いた。
クーパーが驚いて顔を上げると、トレイスは無言のまま調理場に立ち、黙々と食材を取り出していた。
「…え?」
「いいから、座ってろ」
短い一言だったが、それが自分を気遣う言葉であることはすぐにわかった。
トレイスは、何も言わずとも、こういう形で優しさを見せる。
それが彼なりのやり方なのだろう。
クーパーは、その広い背中をじっと見つめた。
そして、無性に——
抱きつきたくなった。
気づけば、クーパーは立ち上がり、包丁で野菜の皮を剥いているトレイスの背中にそっと顔を埋めていた。
「…バカ、手元が狂って怪我したらどうする」
驚いたようにトレイスが動きを止める。
「あなたほどの騎士が、そんなことで怪我なんてしませんよ」
クーパーは笑いながら、腕を回したまま離れようとしなかった。
「…今はこうしていたいんです」
トレイスは短く息を吐き、しばらく無言でいた。
そして、ゆっくりと振り向いた。
二人の視線が交わる。
そのまま——
唇が重なった。
初めて出会ったときのような強引なものではない。
お互いを確かめ合うような、穏やかで優しい口づけだった。
その夜、二人はベッドを共にした。
クーパーは、トレイスの腕に頭を乗せ、片手を彼の胸に添えていた。
夜の静寂が心地よく、今だけは戦いや悩みを忘れられるような気がした。
しかし——
「…お前は、まだ騎士になりたいか?」
トレイスの低い声が、静かな部屋に響いた。
クーパーは、顔を曇らせる。
「…正直、悩んでいます」
小さく呟くように言った。
「今日は、僕は何もできなかった。あんなに修行したのに……」
昼間の戦いが脳裏に蘇る。
必死に剣を振るった。
けれど、何もできなかった。
「…人には、その人間に合った役目がある」
トレイスの声が、穏やかに続く。
「役目…?」
「お前が騎士になりたい理由はなんだ?」
クーパーは迷わず答えた。
「…人を守りたいから」
「なら、守る方法は何も剣で戦うことだけじゃないだろ」
「…?」
クーパーはトレイスを見上げる。
「ま、そのうちわかるさ」
トレイスは微かに笑うと、クーパーの頭をぽんっと撫でた。
「今日は寝ろ。明日、またあの集落に行くぞ」
「…はい」
クーパーはトレイスの温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
翌朝、クーパーとトレイスは集落に向かった。
夜が明けても、村人たちは休むことなく動き続けていた。
壊れた家屋の修理、瓦礫の撤去、傷ついた仲間の世話——。
クーパーはその様子を黙って見つめる。
誰もが疲れた顔をしているはずなのに、不思議とその表情には希望があった。
そんな中、小さな足音が近づいてくる。
クーパーが振り向くと、昨日助けた女の子が、手に何かを握りしめていた。
「お兄ちゃん」
女の子は照れたように足元でモジモジしながら、手に持っていた小さな花束を差し出した。
「昨日はありがとう」
「え…」
クーパーは驚きながらも、その花をそっと受け取る。
「…ありがとう」
女の子はぱっと笑顔を浮かべると、くるりと踵を返し、両親のもとへと駆けていった。
その後も、集落の人々が次々とクーパーに声をかける。
「昨日は本当にありがとう」
「お前さんの言葉に救われたよ」
「また遊びに来てくれよな」
——僕の言葉に、救われた?
胸が、じんわりと熱くなる。
剣ではなく、ただ寄り添い、励まし、癒やすこと。
それが、こんなにも人の心を動かすのだと、初めて実感した。
「…これがお前の役目なんじゃないか?」
不意に、隣にいたトレイスが口を開いた。
「民の心を守ることは、剣で守るよりも難しい。俺にはとてもできねえな」
クーパーは、静かにトレイスを見上げた。
「まだ、騎士になりたいか?」
——答えは、もう決まっていた。
クーパーはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ」
握りしめた花を見つめながら、息を吐く。
「僕の役目がわかりました。ありがとうございます」
そして——
「僕は、巫覡になります」
その言葉に、トレイスはふっと目を細めた。
「そうか」
その表情はどこか寂しげだった。
クーパーは、それ以上何も言わなかった。
二人は、集落の人々を手伝い終えると、帰路についた。
小道を歩きながら、クーパーはぽつりと口を開いた。
「トレイス…僕と一緒に都に戻りましょう」
そう言いかけて、少し言葉を変える。
「いえ、一緒に来てください」
トレイスの足が止まる。
そして、静かに首を横に振った。
「それはできない」
「……!」
クーパーも立ち止まる。
「巫覡になる者の儀式は、知っているな?」
クーパーは、表情を曇らせた。
「…はい」
「なら、俺が行って何になる。俺はここに残る」
冷たく突き放すような声だった。
「お別れだ」
「いやです!」
クーパーは、思わず叫ぶように言った。
「僕はあなたを愛しています。離れたくない!」
そう言って、トレイスの腕にしがみつく。
トレイスも、クーパーをしっかりと抱きしめ返した。
しかし——
「…クーパー」
トレイスは、すぐにその手を離す。
「お前はこのまま都に帰れ」
クーパーの肩をそっと押しながら、低く囁いた。
「じゃあな」
そう言い残し、踵を返す。
クーパーは、その背中を見つめることしかできなかった。
それでも——
「僕は諦めません!」
泣きながら、必死に声を張り上げる。
「絶対に…!」
しかし、トレイスは振り向かなかった。
そのまま、ゆっくりと歩き去っていく。
クーパーは、ただ立ち尽くしていた。
手の中には、まだ女の子からもらった花が残っていた——。
かつて、この地にはルシアス王国という国があった。
しかし、その国は戦乱と混乱に満ち、人々は未来を見失っていた。
その混乱を終わらせたのは、二人の若き騎士ルシウスとガイゼル、そしてルトリッジ家の兄妹だった。
彼らは民を率いてルシアス王国に反旗を翻し、剣を取り、暴政に苦しむ者たちを守り、戦い続けた。
一方で、ルトリッジ家の妹はヴァルミア教の巫女として、民の心を支えていた。
そんな中、巫女とルシウスは、禁じられた恋に落ちた。
巫女は本来、異性と交わることを許されない存在だった。
清らかな存在でなければならず、俗世の情に流されることはあってはならない。
だが、二人の心は惹かれ合い、その禁忌を犯した。
そして——
その時、巫女は神の声を聞き、神託を告げた。
彼女の神託に従い、ルシウスとガイゼルは戦を進めた。
そして、ついにルシアス王国は滅び、新たな国——ヴァルミア王国が誕生した。
ガイゼルは初代国王としてヴァルミア王国を築き、国を治めた。
ルトリッジ家の兄とルシウスは、新たな王国の守護者として騎士団を率いた。
そして、巫女はヴァルミア教の最高司祭となり、国の精神的支柱となった。
ヴァルミア大神院の奥深く——。
格式高い装飾が施された静謐な空間に、重い沈黙が垂れ込めていた。
中央の椅子に座すのは、レオノーラ。
その前には、クーパーと彼の家族が並び、彼女の言葉を待っていた。
レオノーラはゆっくりと目を開き、静かに尋ねる。
「——それで、今日は何の話かしら?」
彼女の澄んだ視線がクーパーへと向けられる。
クーパーは一度深く息を吸い、家族の顔を一瞥すると、まっすぐレオノーラを見据えた。
「…僕は、巫覡として生きることを決めました」
その言葉が放たれた瞬間、微かな緊張が場に走る。
母ヴァレリアは腕を組んだまま、静かに息を吐く。
シルヴィアは苦笑しながら肩をすくめた。
「やっと決めたのね。正直、あなたが騎士になるなんて、最初から無理だと思ってたわ」
「…姉上、失礼ですよ」
クーパーがむっとした表情を見せると、ヴァレリアが低い声で告げた。
「決めたのなら、それでいい。巫覡としての責務を果たせ」
レオノーラは静かに微笑み、ゆっくりと頷く。
「では、早速国中に発表し、次期巫覡の継承の儀式を執り行いましょう」
クーパーは思わず眉をひそめる。
「…そんなに早く?」
「ええ。今、レイヴェント教団の影響でヴァルミア神への信仰が揺らいでいます。
こういう時こそ、新しい巫覡が誕生し、民の心を一つにすることが大切なのです」
レオノーラの瞳には強い決意が宿っていた。
「このような時によくぞ決断してくれました。これもヴァルミア神のお導きです」
彼女は誇らしげに微笑んだ。
「しかし、伯母上」
突然、シルヴィアが口を挟む。
「クーパーの相手はいかがなさいます?」
部屋に一瞬、沈黙が落ちる。
レオノーラはゆっくりとクーパーに視線を向けた。
「…そうですね。クーパー、あなたはもうお相手を決めていますか?」
クーパーは一度目を伏せ、そして意を決したように顔を上げた。
「はい」
そして、はっきりと告げる。
「トレイスです」
その瞬間——
室内の空気が凍りついた。
「…まさか、トレイス・ヴァルクナーのことか?」
ヴァレリアの低く鋭い声が響く。
ヴァレリア・ルトリッジ——南方騎士団団長。
数々の戦場で功績を上げ、王国最強の戦士として名を馳せる女騎士。
彼女の厳しい眼差しが、クーパーを射抜いた。
クーパーは息を呑んだが、動じずに頷く。
「…はい」
「バカ者!!」
ヴァレリアが激昂し、勢いよく立ち上がる。
「あいつは騎士を追放された身だ。しかも、男だ。許すことはできない!!」
「ですが、母上——!」
「ダメだ!!」
ヴァレリアの声が鋭く響く。
「レオノーラ、私に当てがある。その者を用意する」
「母上、勝手です!」
クーパーが必死に訴えるが——
「黙れ!!」
ヴァレリアは腰の剣を引き抜き、目の前のテーブルを真っ二つに叩き斬った。
——ガシャンッ!!
木片が床に散らばり、部屋に静寂が訪れる。
「姉上もクーパーも落ち着いてください」
レオノーラが静かに口を開く。
「トレイス・ヴァルクナーはよく知っています。彼はこの国の英雄といえるほどの騎士でした。しかし、大罪を犯した。いえ、それもおそらくは彼を陥れるために仕組まれたことでしょう」
その時、父ガイウス・ルトリッジが、おずおずと口を挟む。
「…あの、よろしいですか?」
彼は貴族大臣の地位に就いているが、それはルトリッジ家に婿養子として迎えられたからこその役職だった。
男勝りな妻と娘に挟まれ、肩身の狭い日々を送っている。
クーパーは、たまにこの父を気の毒に思う。
「私どもの調べによりますと、トレイスと不仲だったパーナム卿の策略による冤罪の可能性が高いとする証拠が揃いました。近日中にパーナム卿を逮捕し、トレイスの騎士資格を返還する予定です」
「だからなんだ?」
ヴァレリアが夫を鋭く睨みつける。
「人心が離れている今、必要なのは新たな光だ。そのために、クーパーは巫覡として子を儲けねばならない。長子は騎士、次子は巫女、巫覡になる。その子こそが新たな希望なのだ。なのに、男では子を儲けることはできん!」
その言葉に、ガイウスは肩をすくめる。
「姉上のおっしゃる通りです」
レオノーラが厳かな声で続けた。
「大事なのは国に新たなる光をもたらすことです。クーパー、あなたの気持ちはわかります。ですが、これは巫女としての決定です」
クーパーが何かを言おうとした瞬間——
レオノーラは強い視線で彼を抑え、静かに言った。
「以上です」
そう言い切ると、彼女は静かに目を閉じた。
それ以上、誰も何も言えなかった。
ヴァルミア大神院の大広間には、貴族や高位の神官たちが集まっていた。
壇上に立つレオノーラは、厳かな声で告げる。
「ここに、新たなる巫覡が誕生します」
人々の視線がクーパーに向けられる。
「次期巫覡、クーパー・ルトリッジは、正式に巫覡の位を継承いたします。これより一年の準備期間を経て、巫覡としての務めを果たすこととなります」
場内に拍手が響く。
この発表は瞬く間に国中へと広まった。
人々は新たな巫覡の誕生に期待を寄せ、王都の至る所で話題に上ることとなった。
クーパーは淡々と受け止めていたが、心の中には複雑な感情が渦巻いていた。
数日後、クーパーの婚儀の相手が決定した。
母ヴァレリアの紹介で、北方騎士団団長・バトン公爵の令嬢、アナスタシア・バトン。
金髪碧眼の美しい女性で、礼儀作法も完璧。騎士の家系に生まれ育ち、誇り高き精神を持つ令嬢だった。
「お会いできて光栄です、クーパー様」
微笑みながら話すアナスタシアを前に、クーパーは無理に微笑みを返した。
「こちらこそ…」
しかし、クーパーの頭の中には、どうしてもトレイスの姿がちらつく。
彼女の言葉は耳に届かず、何を話したのかすら覚えていなかった。
数か月にわたる準備が進み、ついに儀式の前夜を迎えた。
クーパーは机に向かい、ペンを握る。
「トレイスへ」
書き出した途端、胸が締め付けられる。
数行の短い手紙を書き、封を閉じた。
「これを、トレイス・ヴァルクナーに届けてください」
使用人が恭しく受け取り、静かに部屋を出る。
クーパーはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
遠く森の方角を見つめるが、暗闇に包まれた木々の向こうにトレイスの家は見えない。
それでも——
彼があの場所にいて、まだ自分を想っていてくれると信じていた。
夜空には美しい月が浮かんでいる。
「…あなたも、この月を見ていますか?」
クーパーは静かに呟いた。
森の奥の小さな家。
トレイスは窓を開け、酒の入ったグラスを傾けながら、無言で夜空を仰いでいた。
月が、冴え冴えと輝いている。
彼もまた、同じ月を見ていた。
ヴァルミア王国の奥深く、神聖な森の中に佇む「聖なる神殿」。
古の時代から巫覡・巫女の儀式が執り行われてきた神域であり、外部の者が容易に足を踏み入れることは許されない。
今日、この地で新たな巫覡が誕生する。
神殿を囲む森には、王国の精鋭たちが厳重な警備を敷いていた。
だが、神殿内部に足を踏み入れられるのは限られた者のみ。
王、巫女、次期巫覡とルトリッジ家、そして「交わる者」だけ。
静寂の中、力者に担がれた二つの四方を幕で覆われた輿がゆっくりと神殿へと運ばれていく。
その中には、それぞれの役目を背負った者が、静かに座していた。
一つの輿には、クーパー・ルトリッジ。
もう一つの輿には、アナスタシア・バトンが乗っている。
神官たちの先導のもと、神殿内へと運び込まれた輿は、儀式の間の手前にあるホールへと慎重に安置される。
神官たちは恭しく一礼すると、扉を閉じ、静かに退室した。
荘厳な静けさが広がる中、レオノーラが柔らかく声をかける。
「——出てきていいですよ。」
その瞬間——
片方の輿の扉が開かれ、クーパーが姿を現す。
そして——
もう一方の輿から、トレイス・ヴァルクナーが現れた。
会場がどよめく。
アナスタシアのはずだったその輿から、無骨な男が堂々と現れたのだ。
クーパーは驚きのあまり、一瞬動けなかった。
しかし、次の瞬間——
涙を流しながら、トレイスへと駆け寄る。
「トレイス…!」
強く、強く抱きしめる。
「…遅いんですよ、あなたは…!」
クーパーの震える声に、トレイスは静かに目を閉じた。
「…悪いな」
腕を回し、クーパーを抱きしめ返す。
しかし——その光景を許さない者がいた。
——シャリンッ!
鋭い金属音が響く。
「…この場で何をしている。」
ヴァレリア・ルトリッジの声は低く、だが確かな怒気を帯びていた。
抜き放たれた剣の刃が、トレイスに向けられる。
「巫覡の儀式を侮辱する気か、トレイス・ヴァルクナー」
「母上、やめてください!」
クーパーは即座にトレイスの前に立ちはだかった。
彼の前で、まっすぐヴァレリアを見つめる。
ヴァレリアは息子を睨みつけたまま、剣を下げない。
「どけ、クーパー」
「嫌です」
クーパーは涙を拭い、この場にいる全員を見渡した。
「僕は…巫覡として生きると決めました。でも、それは“形式”のためじゃない。僕は、この国を、民を、そして愛する人を守るために巫覡になるんです!」
「トレイスは、僕のすべてです」
「彼がいなかったら、僕は何者でもない」
「彼なしに巫覡になど、なりたくない!」
クーパーの真摯な言葉に、会場は静まり返った。
次に口を開いたのは、トレイスだった。
「…俺には、何もない」
しわがれた声が響く。
「名誉も、地位も、金も…若さすらねぇ。だけど、たったひとつ、誇れるものがある。それは——クーパーを心から愛しているってことだ」
彼はまっすぐにヴァレリアを見据えた。
「俺のような男が、みっともないがな」
ヴァレリアは一瞬、躊躇した。
それは、彼女にとって未だかつてなかった感情だった。
無敗の女戦士が、敵を前にしたことのない迷いを覚えた。
だが——
——ドォォォォン!!!!!
扉の外で、轟音が響く。
爆発音だった。
「何事だ?」
トレイスに向けていた剣を下ろし、ヴァレリアが扉へと向かいながら叫ぶ。
すると、焦り切った神官の声が返ってきた。
「レイヴェント教団の襲撃です! 門が突破され、奴らが神殿の中に——!」
「チッ…!」
ヴァレリアは舌打ちし、即座に踵を返す。
「シルヴィア、来い。奴らを倒すぞ」
そして、ヴァレリアは鋭い眼光でレオノーラを見据えた。
「レオノーラ、儀式は取りやめだ」
しかし、レオノーラは微動だにせず、毅然と答えた。
「それはできません」
「…なんだと?」
「もう一度言います、姉上。できません」
ヴァレリアの表情が険しくなる。
「ふざけるな。外では敵が攻めてきているのだぞ? そんな状況で、呑気に儀式を続けるというのか?」
「敵の狙いは何でしょう?」
レオノーラは静かに問いかけた。
ヴァレリアは怪訝な顔をする。
「…そんなもの、巫覡の誕生を阻止することだろう」
「その通りです。つまり、ここで儀式を取りやめれば、敵の思うつぼということになります」
レオノーラの言葉に、場の空気が張り詰める。
「今、この国は揺れています。レイヴェント教団は、ヴァルミア神に仕える巫女、巫覡を否定し、人々の信仰を奪おうとしている。だからこそ、今こそ新たな巫覡が誕生する瞬間を示さなければならないのです」
ヴァレリアは眉をひそめた。
「…だが、それが男同士の儀式でいいというのか?」
「はい」
即答だった。
「気でも狂ったか?」
「私は正常です」
レオノーラの言葉は、静かだったが、その響きには絶対的な威厳があった。
「これは、巫女である私の決定です。たとえ、王であっても反対は許しません」
レオノーラの視線が、王へと向けられる。
若く気弱な王は、その視線に圧倒され、何も言えなかった。
ヴァレリアは奥歯を噛みしめ、剣を握る手に力を込めた。
「バカ者! そんなこと——」
ヴァレリアが言葉を続けようとしたその瞬間——。
「いい加減にしろ!! バカ者!!」
怒号が響いた。
場の全員が驚き、声の主を見る。
それは、ガイウス・ルトリッジだった。
クーパーもシルヴィアも、父が母に怒鳴る姿を初めて見た。
ヴァレリアですら、一瞬動きを止めるほどの剣幕だった。
「息子の幸せを考えない母親がどこにいる!!」
堂々と、ガイウスは言い放った。
「クーパーには、クーパーの人生がある! それを私たちが応援せずにどうする!」
クーパーは思わず父を見つめた。
しかし——
ヴァレリアの目がギラリと光った。
ガイウスの背筋に冷たいものが走る。
「なっ…いや、あの…」
すると、ガイウスは小さく「ごめんなさい」と縮こまった。
クーパーもシルヴィアも、思わず顔を見合わせる。
ヴァレリアは数秒間、夫を睨みつけた後、無言で踵を返した。
扉に手をかけると、低く言い放つ。
「…お前たちの好きにしろ」
その声は、とても優しかった。
それだけ言い残し、彼女は剣を手に、戦場へと向かった。
ヴァレリアの後に続き、シルヴィアも扉の前に立つ。
「まあ、私は儀式とかどうでもいいんだけどさ」
そう言って、クーパーに向かってウインクをする。
「せいぜい、頑張れよ」
彼女はそう言い残し、扉を開けた。
外の世界へと足を踏み出す。
そして——
扉が、静かに閉じられた。
静寂が戻る。
レオノーラは、静かに息を吐くと、クーパーとトレイスを見つめた。
「…さあ、二人とも、お行きなさい。これが正しいことかは、私にもわかりません。ですが、あとは神の御心しだいです」
静かに、だが確かな決意を込めた声だった。
クーパーは深く息を吸い、トレイスの手を取った。
トレイスも、その手をしっかりと握り返す。
そして——
二人は儀式の間の扉を開けた。
クーパーとトレイスは、静かに扉を押し開いた。
その瞬間、ひんやりとした風が二人を包み込む。
「…風?」
トレイスが呟く。
だが、ここは建物の中のはずだった。
なのに——
目の前に広がっていたのは、静寂に包まれた森。
天井はなく、空が広がっているかのように感じられる——だが、確かにここは屋内だった。
足元には柔らかな苔が広がり、小さな花々が咲き誇る。
奥には清らかな水が流れる細い小川があり、せせらぎの音が微かに響いていた。
どこからか鳥の囀りさえ聞こえてくる。
二人の前に続く、ゆるやかな丘。
丘の上には、円柱の柱に支えられた白い神殿が佇んでいた。
天井を持たないその神殿は、自然と一体化した神聖な場としてそこに存在している。
風に揺れる白い帳が神殿の内部を隠していたが、その奥には、一つの寝台が置かれているのがわかった。
「…すごい」
クーパーが息を呑む。
「ここが…儀式の間」
トレイスもまた、神秘的な光景に圧倒されていた。
その瞬間——
ふっと、二人の衣服が消えた。
クーパーは思わず自分の身体を見下ろした。
何も纏っていない。
トレイスも同じだった。
「これは…神の導き、ということでしょうか…?」
クーパーは頬を赤くしながら、そっとトレイスの腕を掴む。
「…行きましょう」
トレイスは微かに笑い、クーパーの手をしっかりと握った。
二人は静かに、丘を登る。
白い神殿に足を踏み入れると、風が優しく二人の身体を包み込む。
その中心には、白い絹の寝台が静かに置かれていた。
クーパーとトレイスは、そっと寝台に腰を下ろす。
クーパーは、トレイスを見つめた。
「…来てくれて、嬉しいです」
「お前が、待っていたからな」
トレイスは、クーパーの手を包み込むように握る。
「…僕の手紙、読みましたか?」
「…ああ」
トレイスは微かに目を伏せる。
「正直…来るつもりはなかった」
「……」
「俺なんか、お前に相応しくないと思っていた。巫覡になるお前には、もっと…国にとってふさわしい相手がいるべきだと」
トレイスは静かに息を吐き、クーパーの頬に触れる。
「だけど、お前の言葉が、俺の心を動かした」
クーパーは少し照れながら微笑む。
「“僕は、あなたを愛しています。もし、あなたも僕を愛しているなら——迎えに来てください。”」
「…お前は、卑怯だな」
トレイスは苦笑しながら、そっとクーパーの顎を持ち上げる。
「そんなことを言われて、迎えに行かない男がどこにいる?」
クーパーの頬が赤く染まる。
「…僕は、ずっとあなたを待っていました」
その言葉が合図だったかのように——
二人の唇が、重なる。
最初は、ただ確かめ合うような口づけだった。
だが——
次第にそれは熱を帯び、互いの心と身体を求め合う動きへと変わっていく。
トレイスはクーパーを寝台へ押し倒し、そっと髪を撫でた。
「…本当に、いいんだな?」
クーパーは、何の迷いもなく微笑む。
「僕は、あなたがいい」
トレイスの目が、優しく細められる。
「…なら、もう止まらねぇぞ」
クーパーの胸元に唇を落としながら、彼の身体をそっと抱き寄せる。
クーパーもまた、トレイスの肌に触れながら、彼の温もりを確かめるように手を這わせる。
「…あなたのすべてが、欲しい…」
その囁きに、トレイスは息を呑み——
そして、二人はひとつになった。
激しく、貪るように絡み合う唇。
熱を帯びた肌と肌が触れ合い、互いの存在を確かめ合う。
最後に、トレイスの熱い想いが、クーパーの中へと注がれる。
その瞬間——
風が、そっと神殿を吹き抜けた。
まるで、神が二人の誓いを祝福しているかのように——。
静寂の中、微かに揺れる白い帳。
クーパーは、息を整えながらトレイスの腕の中で微笑んだ。
「…終わりましたね。」
トレイスは、満足げにクーパーの髪を指先で梳きながら、低く囁いた。
「ああ。…これで、お前は正式に巫覡だ」
二人はしばし、余韻に浸るように互いの体温を感じ合う。
しかし——
——ドォン!!
遠くから、爆発音が響いた。
クーパーの身体がびくりと震える。
「そうだ…! レイヴェント教団が…!」
現実が、二人を急激に引き戻した。
戦いはまだ終わっていない。
儀式の間にいる間にも、外では血が流れているのかもしれない。
クーパーは慌てて起き上がろうとしたが——
自身の姿を見て、顔が一気に赤くなる。
「服…!」
トレイスもまた、周囲を見渡したが、二人の衣服はどこにもなかった。
「…くそ、戻ってこねぇのか。」
「どうしましょう?」
クーパーは辺りを見回し、寝台の薄い布を掴むと、全身を包み込むように巻きつけた。
トレイスはそれを見て、仕方なさそうに短く笑うと、もう一枚の布を腰に巻きつける。
「…情けねえな。」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!」
「はいはい、わかったよ。行くぞ」
クーパーとトレイスが儀式の間を出ると、ホールは静寂に包まれていた。
戦いが終わったのだ。
ホールから出て行ったヴァレリアとシルヴィアも戻ってきていた。
二人の顔には血と煤の跡があり、衣服には敵の返り血が飛び散っている。
しかし——
最強の騎士である二人の身体に刻まれた傷は、わずかだった。
クーパーはほっと息を吐く。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
ヴァレリアが鋭い視線で二人を見据え、無言のまま——
カチリ
鞘から剣を引き抜いた。
「…これで妊娠していなければ——」
冷たい光を放つ刃が、クーパーに向けられる。
「わかっているな?」
クーパーはごくりと喉を鳴らし、恐る恐る頷いた。
「…はい。」
そして——
その切っ先をトレイスへと向けた。
「お前もだ」
トレイスは肩をすくめ、苦笑する。
「へえ…俺もかよ」
「当然だ。」
ヴァレリアは迷いなく言い放つ。
クーパーが苦笑しながら割って入った。
「…母上、敵は?」
ヴァレリアは剣を静かに鞘へと戻し、短く答えた。
「殲滅した」
続けて、シルヴィアが腕を組みながら言葉を継ぐ。
「レイヴェント教団の教祖も逮捕した。残党が逃げるために最後の爆弾を放ったようだが、そいつらも部下たちが追っている」
「そう…ですか」
クーパーは胸を撫でおろした。
だが、戦いは終わったとはいえ、第二、第三のレイヴェント教団が現れる可能性はある。
そして、離れてしまった人心を取り戻すことも——
それが、自分の果たすべき役目なのだと、クーパーは改めて実感した。
その肩にのしかかる重責に、思わず拳を握り締める。
すると——
「……」
トレイスが、黙ってその手を包んでくれた。
強く、優しく。
その温もりに、クーパーは力強く頷く。
そして、トレイスを見つめ、微笑んだ。
そんな二人のやり取りを見届けると——
ヴァレリアは無言でホールを出て行った。
しかし——
その口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
儀式を終えた二人は、そのままヴァルミア大神院で過ごすこととなった。
大神院の奥には、巫覡や巫女が住まうための居住区があり、クーパーとトレイスには広く豪華な一室が与えられた。
金細工の施された白い調度品に、大きな天蓋付きの寝台。
窓からは大神院の庭が見渡せ、朝には鳥の囀りと共に陽光が差し込み、夜には静かに月明かりが揺れる。
「…随分と立派な部屋です。」
クーパーがベッドの縁に腰掛け、部屋を見渡す。
「そりゃそうだろ。お前はもう、国の象徴なんだからな。」
トレイスは腕を組みながら、どこか落ち着かない様子だった。
「…ってことは、俺もここで暮らすのか?」
「当たり前でしょう。僕の護衛なんですから。」
そう言ってクーパーは微笑んだ。
トレイスは騎士資格を返還され、正式に王国騎士へと復帰した。
そして、クーパーの夫であり、巫覡の護衛として、その傍に仕えることが決まったのだった。
トレイスは渋い顔をしながらも、小さく息を吐いた。
「……変な感じだな。俺みたいな粗野な男が、こんな立派な場所で暮らすなんて。」
「僕は嬉しいですけどね。こうして、あなたと一緒にいられることが。」
クーパーがそっと手を伸ばし、トレイスの指を絡める。
トレイスは一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがて静かに微笑み、クーパーの手を握り返した。
「…そうだな。」
それからの生活は、穏やかで、甘いものだった。
大神院での生活は、騎士を目指していた頃とはまるで違っていた。
剣の修行に励む代わりに、巫覡としての務めを学びながら日々を過ごす。
最初は落ち着かなかったが、トレイスと共に過ごす時間は心地よく、クーパーにとって新しい生活の中での何よりの支えとなった。
そんな中——
クーパーの身体に、少しずつ異変が現れ始めた。
朝、目が覚めると、酷い倦怠感が襲ってくる。
階段を上るだけで息が切れることもあった。
「…最近、疲れやすい気がするんです。」
クーパーがぽつりと呟くと、トレイスは心配そうに彼を見つめた。
「慣れねぇ生活が続いてるからな。無理すんなよ。」
トレイスはそう言って、何かとクーパーを気遣った。
食事の際には「しっかり食えよ」と料理を取り分けたり、夜は「今日はもう休め」と言って、クーパーが眠りにつくまで隣にいてくれることもあった。
クーパーはそんな彼の優しさに、何度も胸を熱くした。
——だが、その異変は次第に大きくなっていった。
その日も、二人はいつも通り夕食の席についていた。
トレイスは鹿肉の煮込みを食べながら、クーパーに視線を向ける。
「お前、ちゃんと食えてるか?」
「ええ、大丈夫です。」
クーパーは笑顔を作りながら、スープを一口すする。
しかし——
次の瞬間。
「…っ!!」
クーパーは突然、顔を青ざめさせた。
胃の奥から込み上げてくる感覚——
「…気持ち悪い…!」
そう呟くと同時に、クーパーは席を立ち、口を押さえて部屋の隅へ駆け込んだ。
そして——
「…うっ…!」
——嘔吐した。
「クーパー!?」
トレイスがすぐに駆け寄り、背中をさする。
クーパーは荒い息をつきながら、床に手をついた。
「…ごめんなさい…急に…っ…」
トレイスはその背中を支えながら、険しい顔をする。
「これは……さすがに、ただの疲れじゃねぇな。」
すぐにレオノーラが呼ばれ、クーパーは寝台へと運ばれた。
彼女は静かにクーパーの額に手を当て、しばらく目を閉じる。
トレイスは固唾を呑んで見守る。
やがて、レオノーラはゆっくりと目を開き——
静かに、しかし、確信に満ちた声で告げた。
「クーパー…あなたは…子を宿しています。」
クーパーは目を見開き——
トレイスもまた、言葉を失った。
「巫覡が、子を宿した——!」
その知らせは、瞬く間に国中へと広がった。
ヴァルミア王国の歴史の中で、男性の巫覡が子を宿した例は一度もなかった。
それはまさに奇跡と呼ぶべき出来事。
人々はクーパーを「奇跡の巫覡」として称え、巫覡・巫女の権威は再び強固なものとなりつつあった。
王宮や大神院には民からの祝福の品が次々と届けられ、神殿の前には「巫覡様に神の祝福を!」と願う者たちが毎日のように集まった。
まさに、クーパーの妊娠は国に新たなる光をもたらしたのだった。
ヴァルミア大神院——
クーパーとトレイスが暮らす部屋には、巫女レオノーラをはじめ、ルトリッジ家の面々が揃っていた。
ヴァレリアは厳しい表情を崩さぬまま腕を組み、シルヴィアは興味深そうにクーパーを観察している。
父ガイウスは、緊張した様子で妻と娘の間に挟まれ、落ち着かない様子だった。
そんな中、クーパーは寝台に腰掛け、緊張した面持ちで皆を見つめていた。
トレイスは彼の傍に立ち、黙ってその肩に手を添える。
そして——
部屋の中央に立つレオノーラが、静かに口を開いた。
「本日、神託が下りました」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。
レオノーラは神聖な視線でクーパーを見つめ、厳かに告げた。
「来月、巫覡の就任式を執り行います」
クーパーの目がわずかに揺れる。
「来月、ですか…?」
「はい」
レオノーラは静かに頷いた。
「本来なら、巫覡の就任にはまだ数カ月の準備期間を要します。 しかし、あなたの妊娠がもたらしたのは、ただの新たな命ではありません。これは、神がこの国に与えた奇跡です」
「…奇跡」
クーパーが呟くと、レオノーラは微笑みながら続ける。
「あなたの誕生がそうであったように、あなたの子もまた、この国の未来を象徴する存在となるでしょう」
クーパーは息を呑み、トレイスの方を見上げた。
トレイスは無言のまま、クーパーの手を優しく握る。
レオノーラは少しだけ表情を和らげると、静かに言った。
「クーパー…新たな巫覡として、あなたはこれから何をすべきか、考えなさい」
クーパーは一度目を閉じ、そして——
「…わかりました」
静かに、しかしはっきりと頷いた。
その瞬間、ルトリッジ家の者たちはそれぞれの思いを胸に秘めながら、クーパーを見つめる。
クーパーの運命が、いよいよ定まった瞬間だった。
——ヴァルミア大神院、巫覡就任式の日。
大神院の前には、数えきれないほどの人々が集まっていた。
巫覡が誕生する瞬間を見届けるために。
「奇跡の巫覡」と称えられるクーパーが、正式にこの国の精神的支柱となるその時を。
大神院の白亜のテラスに続く扉の前。
その控室で、クーパーは落ち着かない様子で衣の裾を弄っていた。
「…緊張しているのか?」
隣で腕を組みながら、トレイスが苦笑する。
「…はい」
クーパーはぎこちなく頷いた。
トレイスは軽くクーパーの肩を叩き、にやりと笑う。
「大丈夫だ。お前なら国民も納得する。なんせ『奇跡の巫覡様』だからな」
「…からかわないでください」
クーパーはムッとしながら、トレイスを睨む。
だが、トレイスは微笑みながら、クーパーの顔をくいっと持ち上げた。
「大丈夫だ。俺もいる」
そう言って、そっと唇を重ねる。
クーパーの目が一瞬大きく見開かれるが、すぐにふっと力が抜けたように目を閉じた。
——どんな時も、この人が傍にいてくれる。
たったそれだけのことで、不安が消えていく気がした。
唇が離れると、クーパーはわずかに頬を染めながら、唇にそっと触れる。
「もう…! みんなの前に出るのに…顔が赤くなってしまいますよ?」
「ははは、大丈夫。なんならもう一回いっとくか?」
トレイスがいたずらっぽく笑い、再び唇を近づける。
しかし——
「ダメです!」
クーパーはすっと手を差し出し、トレイスの唇を制止した。
「続きはこれが終わった後に…ベッドの上でしましょう」
そう言って、ウインクする。
今度は、トレイスの顔が赤くなる番だった。
「お前な…」
咳払いしながら顔を逸らすトレイスに、クーパーはくすっと笑う。
「何か問題でも?」
「…なら、とっとと行くぞ」
トレイスは、誤魔化すように言って扉の方へ歩き出す。
クーパーは微笑みながらその背を追い、彼の手を取った。
——あなたと共に。
「はい」
そして——
二人は、光のさすテラスへと歩み出した。
その先に待つ、新たな未来へと向かって。
十年以上続いたラグネス帝国との国境争いは、両国に多くの犠牲をもたらし、そして今、王国はその爪痕と向き合っていた。
戦争が終われば平和が訪れる——そんな希望は、すでに誰も抱いてはいなかった。
戦いから戻った兵士たちは、疲れた顔で街をさまよい、浮浪者や戦災孤児が増え続ける。
農地は荒れ、交易は停滞し、人々は食料を求めて長い列を作っていた。
ヴァルミア王国の中心、王城エルヴェール宮。
厚い石造りの壁に囲まれたその城の奥深くで、国の未来を決める会議が開かれていた。
国王ライオネル三世、各大臣、騎士団団長、巫女レオノーラ・ルトリッジ。
彼らは、今のヴァルミアを動かす最重要人物たちである。
議題は多岐にわたった。
戦後復興、食料供給、疫病対策、貴族間の権力争い——そして最後に持ち上がったのが、川で発見された水死体についてだった。
「12人の司祭のうちの一人、オルセン司祭が殺害された」
その言葉に、会議室の空気が張り詰める。
「死因は溺死だが、遺体の額には"レイヴェント教団"の紋様が焼き付けられていた」
会議室に重苦しい沈黙が広がる。
レイヴェント教団。
それは、巫覡・巫女の権威を否定し、「ヴァルミアの信仰は偽りだ」と民衆を煽動する新興宗教だった。
戦争で希望を失った民たちが次々と信者になり、今では王国の統治を脅かしかねない勢力にまで成長していた。
神聖なるヴァルミア教を統べる巫女レオノーラは冷静な口調で言い放つ。
「レイヴェント教団は、すでにこの王国の深いところに根を張っています」
その穏やかだが冷徹な声音が、会議室全体に響き渡った。
「…今、手を打たなければ、ヴァルミアはさらに混乱の渦へと飲み込まれるでしょう」
誰もが重く口を閉ざし、国の命運を左右する会議は静かに幕を閉じた。
ヴァルミア大神院の一角。
青と白を基調とした回廊の奥、装飾を抑えた静謐な部屋の中で、クーパー・ルトリッジは腕を組んで座っていた。
「巫覡なんて、絶対になりたくありません」
そう言い切った彼の前で、叔母である巫女レオノーラは静かに紅茶を口に運んだ。
「ですが、あなたはルトリッジ家の次子。生まれながらにして巫覡になる定めを負っています」
「そんなの、勝手な決まりじゃないですか」
クーパーは苛立たしげに椅子の背にもたれた。
巫覡——それはヴァルミア大神院の象徴的な存在であり、国の精神的支柱となる役目を持つ。
長子は騎士に、次子は巫覡または巫女に。
それがルトリッジ家に代々受け継がれる掟だった。
「僕は剣を握りたいんです。騎士になって、この国を守りたい」
「騎士が守るのは、王国の"身体"です。巫覡・巫女が守るのは、王国の"心"なのですよ」
レオノーラは静かに微笑み、カップを置いた。
「この戦で、民の心は疲弊しています。だからこそ、巫覡の存在は必要なのです」
クーパーは立ち上がり、話を終わらせるようにドアへ向かう。
「僕は騎士になります。巫覡なんか、なってたまるものですか」
レオノーラは、何も言わなかった。
大神院を出たクーパーは、そのまま城内の訓練場へ向かった。
ヴァルミア王国最強の騎士団《白鷹騎士団》。
そこに属するのが、クーパーの姉であり、王国屈指の剣士シルヴィア・ルトリッジだった。
訓練場では、彼女が数人の若手騎士を相手に模擬戦を行っている。
鋭い剣筋と大胆な動き。まるで獣のような戦いぶりに、見ている騎士たちが息を呑む。
「姉上!」
クーパーが声をかけると、シルヴィアは剣を振り払って振り向いた。
「…なんだ、お坊ちゃん」
「僕に剣を教えてください!」
クーパーの言葉に、騎士たちの間から失笑が漏れる。
「お前が? 剣を?」
「はい! 僕は騎士になります!」
すると、シルヴィアはにやりと笑った。
「いいぜ。ちょうど手合わせの相手が欲しかったところだ」
彼女は近くの兵士から木剣を受け取ると、クーパーに放った。
「さあ、かかってこい」
クーパーは剣を構え、一歩踏み込んだ——
だが、その瞬間、シルヴィアの剣がうなりを上げた。
「——っ!!」
受け止める暇もなく、クーパーの木剣は弾かれ、あっという間に地面に転がった。
「…遅い」
シルヴィアは剣を肩に担ぎ、つまらなさそうに言う。
「次期巫覡のくせに、騎士を目指すなんてな」
クーパーは悔しさに唇を噛み締める。
シルヴィアの言葉が、胸に突き刺さる。
「…僕は、巫覡なんかじゃありません」
クーパーはそう言い捨て、訓練場を後にした。
シルヴィアに叩きのめされてから数日後——。
クーパーは森の奥へと足を踏み入れていた。
かつて王国でも屈指の騎士と呼ばれた男が、森に隠れ住んでいる。
そんな噂を、城下町で耳にしたのだ。
トレイス・ガーランド——。
かつて名を馳せた名将。だが、とある事件で騎士資格をはく奪され、追放された男。
今はみすぼらしい格好で薪を割る日々を送っているらしい。
——ならば。
城の騎士たちには頼れない。
だが、かつて王国最強と称えられた男が、この森の奥で生きているなら——。
クーパーは迷わず、彼のもとを訪れることを決めた。
木々が鬱蒼と生い茂る道を進みながら、心の奥で微かな期待と不安が入り混じる。
本当に、こんな所にいるのか?
そして、もし出会えたとして——彼は、自分に剣を教えてくれるのだろうか?
クーパーは深く息を吐き、森の奥へと歩を進めた。
木々が生い茂る静寂の中に、一軒の小さな小屋があった。
見たところ、かなりの年月が経っているが、手入れはされているようだ。
「…ここに、本当に?」
クーパーは扉の前に立ち、軽くノックした。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
返事はない。
もう一度ノックしようとしたとき——
「帰れ」
低く、重い声が響いた。
扉が開き、そこに現れたのは、一人の男だった。
鋭い目つき、短く刈られた黒髪、無精ひげの生えた顔。
がっしりとした体躯に、粗末なシャツとズボンを身にまとっている。
「…あなたが、トレイス・ガーランドさんですか?」
クーパーが尋ねると、男はじろりとこちらを見下ろした。
「貴族の坊ちゃんか…何の用だ?」
「僕はクーパー・ルトリッジと申します」
「ルトリッジ…巫覡になるガキか」
「違います! 僕は騎士になりたいんです!」
「知らねえよ」
トレイスはバタンと扉を閉めようとする。
「待ってください!」
クーパーはとっさに腕を伸ばし、扉を押さえた。
「あなたは、かつて王国屈指の騎士だったと聞きました! 僕に剣を教えてくれませんか?」
「…剣を?」
トレイスは眉をひそめ、じろりとクーパーを見下ろした。
「坊ちゃん、騎士ってのは甘いもんじゃねえぞ?」
「わかっています!」
「なら…試してやるか」
次の瞬間、クーパーの手首が鋭く引かれた。
「——っ!」
不意を突かれ、小屋の中に引き込まれる。
背中がベッドに押し倒され、トレイスがその上にのしかかった。
「な…っ」
「騎士になりてえなら、"修行代"がいるよな?」
耳元で囁くような低い声。
クーパーは動こうとするが、鍛え抜かれた腕に抑え込まれ、身動きが取れない。
体格差が違いすぎる。
「払えるのか? それとも帰るか?」
静寂の中で、クーパーの喉がかすかに鳴った。
「…僕は…騎士になりたい」
「…なら、決まりだ」
トレイスはニヤリと笑うと、クーパーの襟元を掴み——
次の瞬間、その唇を奪った。
「っ……!」
強く押しつけられた感触に、クーパーは息をのむ。
抵抗しようとするが、トレイスの体重がのしかかり、腕を動かすことすらできない。
熱を帯びた唇が、力強く自分のものを塞ぐ。
歯が軽く当たり、呼吸すら奪われる。
「ん…っ」
わずかに顔を逸らそうとすると、トレイスの手が顎をつかみ、逃げ道をふさぐ。
「騎士になりたいってのは、そういう覚悟があるってことだろ?」
「ち、違いま——」
「どっちでもいいさ。払えるなら、それでいい」
トレイスの手がクーパーの肩に触れ、ゆっくりと布を滑らせていく。
硬い指先が鎖骨をなぞり、肌にかすかな電流が走る。
「お前、思ったより細いな」
クーパーは歯を食いしばった。
逃げられないことはわかっていた。
それでも、心のどこかで、何かが揺れている。
トレイスの顔が近づき、再び唇を重ねようとする——
「…修行代だ」
低い声が耳元で囁かれた瞬間、クーパーは息をのんだ。
体を押しつけられ、重たい熱がまとわりつくような感覚が襲う。
「っ…」
強引に奪われた唇から、息が漏れる。
それは、思った以上に熱く、激しい時間だった。
無骨な指先が肌をなぞるたび、敏感に反応する自分が悔しかった。
力では抗えないことはわかっていたが、それでも心だけは屈したくなかった。
けれど——
抗おうとすればするほど、トレイスは容赦なく奪っていった。
どれくらいの時間が経ったのか。
ふと気づけば、窓の外には西日が差し込み、部屋には静寂と、ひんやりとした空気が満ちていた。
熱に浮かされていた肌も、次第に冷えていく。
クーパーは薄い布を体に巻きつけるようにしながら、トレイスに背を向けた。
まだ、心臓が速く打っているのを感じる。
一方で、トレイスは淡々と酒の入ったグラスを傾けていた。
低く喉を鳴らしながら、一口飲むたびに氷がかすかに音を立てる。
その片方の手が、無造作にクーパーの腕を撫でていた。
まるで、そこに転がる獲物の感触を確かめるように。
「とりあえず、一日分の修行代はもらった」
静かな声が落ちてくる。
「明日の朝もここに来い」
そう言うと、再びグラスに口をつけた。
クーパーは答えなかった。
ただ黙って、ゆっくりとベッドから身を起こし、脱ぎ捨てられた服を拾う。
震える指先でそれを羽織り、いつもの整った姿に戻ると、何も言わずに小屋の扉を開けた。
冷たい夜の風が、火照った肌に突き刺さるようだった。
それでもクーパーは振り返らず、そのまま森の中へと歩き出した。
森の朝は冷たい。
薪を割る乾いた音が、静寂を断ち切るように響いていた。
トレイスは無心で斧を振り下ろし、整然と薪を積んでいく。
そんな彼のもとに、再び訪れる足音があった。
「おはようございます!」
クーパー・ルトリッジが、まっすぐこちらを見つめて立っていた。
「…お前、本当に来たのか?」
トレイスは眉をひそめる。
「当然です。しゅ、修行代も払いましたし」
昨日の夜のことを思い出したのか、クーパーはわずかに頬を赤く染めている。
トレイスは内心困惑しながらも、ため息をついた。
「…そうかよ」
頭を掻きながら、小屋のそばに積まれた薪を顎で示す。
「なら、まずは薪を割れ」
「え?」
クーパーは思わずきょとんとした。
「なんで薪割りなんか…」
「修行だ」
トレイスは無造作に斧を手に取り、クーパーの胸に押しつけた。
思った以上に重たく、クーパーはとっさに両手で抱え込む。
「…見てるだけですか?」
すると、トレイスは酒瓶を片手に、椅子へとどっかり腰を下ろした。
「俺はもう40過ぎたおっさんだぞ。朝から畑仕事に薪割までしてるんだ。休憩くらいさせろよ」
クーパーは納得できないまま、それでも文句を言うのをぐっと飲み込んだ。
トレイスの目が笑っているのが、余計に腹立たしい。
「ほら、さっさと始めろ。そこの丸太、全部だ」
顎で指された先には、想像以上に積み上げられた丸太の山があった。
クーパーは何か言いたげだったが、仕方なく斧を振り上げた。
薪を割り終えた頃には、汗だくになっていた。
呼吸を整えようと膝に手をつくと、目の前に水の入った器が差し出された。
「飲め」
クーパーは驚いたが、すぐに器を受け取り、喉を潤した。
「…ありがとうございます」
「次は剣の修行だ」
トレイスは無造作に木刀をクーパーへと投げた。
クーパーはすぐにそれを構え、深く息を吸う。
「いきます!」
駆け出し、渾身の力で木刀を振る。
しかし——
バシィンッ!!
「——っ!」
衝撃が走り、クーパーは地面に転がった。
「…甘すぎる」
トレイスは微動だにせず、木刀を肩に担いでいる。
「もう一度…!」
クーパーはすぐに立ち上がる。
薪割りで疲れた腕が悲鳴を上げていたが、それでも諦めるつもりはなかった。
「よし、かかってこい」
バシンッ!!
またしても、一撃で地面に叩き伏せられた。
「ぐ…っ!」
「お前、本当に騎士になりたいのか?」
クーパーは悔しさに唇を噛む。
「なりたい…です…!」
「なら甘えるな」
トレイスの目が鋭くなる。
「敵はどんなに疲れていても、お前を休ませてはくれない」
「…!」
そのまま、木刀の修行は続いた。
何度も倒され、汗と埃にまみれながら、それでもクーパーは食らいついていく。
腕が震え、脚に力が入らなくなってきた頃——
「…今日はここまでだ」
トレイスが、ふっと木刀を下ろした。
クーパーはその場に仰向けに倒れ込む。
息を荒げながら、ただ空を仰いだ。
「…よし、これで修行代分は付き合ってやった。あとは勝手にやれ」
トレイスはそう言い残し、家へと向かおうとする。
しかし——
「待ってください!」
クーパーは朦朧とした意識の中、必死に上体を起こした。
「まだ…お願いします…!」
「…は?」
トレイスが振り返る。
クーパーは顔を赤くしながら、それでも真剣な目を彼に向けた。
「修行代は…払います」
「…っ」
トレイスは一瞬、何かを言いかけて、しかしすぐに口を閉じた。
そして、深く息を吐く。
「なら、飯を作れ。風呂も沸かせ。そして、俺と朝まで寝ろ」
「…!」
「お前が満足するまで、毎日だ」
言いながら、トレイスは家の中へと入る。
その背中で、クーパーには見えなかったが——
扉を閉める直前、トレイスの顔には、微かに複雑な色が浮かんでいた。
クーパーには知る由もない。
ただ、彼は少しの間黙っていた後——
「はい!」
笑顔で答え、小屋の中へと入っていった。
修行を初めて数週間が経った。
「ただいま戻りましたー!」
森の小さな小屋の扉が勢いよく開く。
両手に買い物袋を抱えたクーパーが、弾んだ声で中に入ってきた。
「…ずいぶん楽しそうだな」
奥の椅子に座っていたトレイスが、軽く酒瓶を傾けながら顔を上げる。
「ええ。市場でいい野菜が手に入ったんです。それと…新聞も買いましたよ」
テーブルに新聞を置くと、クーパーは食材を取り出しながら手際よく食事の準備を始める。
トレイスは新聞を手に取り、ざっと目を通した。
「…レイヴェント教団がまた暴れたらしいぞ」
「え?」
「地方の大神院の教会が襲撃され、司祭たちが皆殺しにされた」
クーパーの手が、一瞬止まる。
「…また、ですか」
「今度の犠牲者は新しい司祭だったらしい」
クーパーは静かに包丁を握り直しながら、食材を刻み始めた。
「ヴァルミア教の教えが否定されるなんて、信じられません」
「信じられなくても、事実だ」
トレイスは新聞を折り畳み、テーブルに置く。
「ヴァルミア教は偽物で、新興宗教こそが真実…そう信じる奴が増えてるってことだな」
「…そんなもの、僕が強くなって、騎士として大神院を守れば——」
「お前は次子だろ?」
トレイスの言葉が、クーパーの言葉を遮る。
「とっとと騎士は諦めろよ」
クーパーはわずかに表情を曇らせたが、すぐに微笑んでみせた。
「たとえ掟でも、僕は騎士になります」
そう言うと、彼は手際よく料理を盛りつけ、テーブルに並べた。
「さあ、食事ができましたよ」
そして、何事もなかったかのように、席に着く。
トレイスはしばらくクーパーを見つめていたが——
「…そうかよ」
そう一言だけ呟き、スプーンを手に取った。
クーパーは、静かに食事を始める。
レイヴェント教団の話題は、それきり口にしなかった。
クーパーは小道を歩いていた。
森の中にぽつんと存在する小さな集落。
ここは、彼がトレイスの家に通うようになってから、毎日通る道の途中にあった。
最初は気にも留めていなかったが、今では住人たちと挨拶を交わすくらいの顔見知りになっていた。
「お兄ちゃん、今日も買い物?」
「そうだよ。今日は市場で新鮮な野菜が手に入ったよ」
小さな男の子が笑顔で手を振る。
「おや、またトレイスのところかい?」
農作業をしていた老人が声をかける。
「ええ。お世話になっているので」
クーパーは微笑みながら答えた。
トレイスはあんなぶっきらぼうな男だが、この集落では意外と慕われているらしい。
困ったときには手を貸してくれるし、病気の者が出れば薬を分けたりもするという。
「本当は、ああいう人が騎士に向いてるのかもしれないな…」
クーパーはそう思いながら、再び歩き出した。
しかし——
ふと、鼻を突く異様な臭いに気づいた。
——煙だ。
集落の奥から、黒煙が立ち上っていた。
「…?」
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
だが次の瞬間——
「ぎゃああああっ!!」
悲鳴が響き渡る。
クーパーの全身が、一気に冷たくなった。
「——っ!!」
彼は持っていた買い物袋を投げ捨て、腰の剣を抜いた。
そして、一気に駆け出す。
「うわああああっ!!」
村人が逃げ惑っている。
火の手が上がり、いくつかの家屋が燃え始めていた。
その中にいたのは——
屈強な体格の男たち。
目つきが鋭く、粗雑な鎧をまとい、手には血のついた剣を握っている。
——盗賊だ。
「くそっ…!」
クーパーは歯を食いしばった。
すでに数人の村人が斬られ、地面に倒れている。
その傍では、小さな女の子が泣き叫んでいた。
「やめろおおおっ!!」
クーパーは叫びながら、一番近くにいた盗賊に斬りかかる。
ガキィンッ!!
刃と刃がぶつかり合う。
「——ほう?」
盗賊の男がニヤリと笑った。
「この辺に、こんな坊ちゃん剣士がいたとはな」
「うるさい!!」
クーパーは力いっぱい剣を振るう。
しかし——
「おせぇ」
盗賊の剣が重く振り下ろされる。
ガッ!!
「ぐっ…!!」
クーパーは何とか受け止めたが、衝撃が腕に響く。
——重い!!
トレイスの稽古を受けていなければ、一撃で倒されていただろう。
しかし、それでも足がすくむ。
「ちっ、ひよっこが!」
盗賊は容赦なく次の一撃を繰り出してきた。
クーパーは必死で防戦するが、すぐに追い詰められていく。
そして——
「——しまっ…!」
背後に、もう一人の盗賊が迫っていた。
クーパーが振り向くよりも早く、鋭い刃が振り下ろされる——
「——!!?」
その瞬間——
ゴッ!!
盗賊の後頭部に、何かが直撃した。
「がっ…!?」
盗賊がよろめき、そのまま地面に崩れ落ちる。
クーパーは息をのんだ。
そして、視線を向けると——
トレイスが、そこに立っていた。
「…ったく」
トレイスは無造作に、小石をもう一つ手に取り、軽く放り投げる。
「外に出てみれば黒煙が立ってる。来てみれば馬鹿弟子が情けない戦いしてるじゃねえか」
「…すみません」
クーパーは息を切らしながら、悔しそうに言った。
「あとで説教な」
トレイスはそう言い捨てると、鞘から剣を抜いた。
「その前に——」
——次の瞬間、風が切れた。
「なっ…!?」
クーパーが目を瞬く間に、トレイスの剣が盗賊の喉を貫いた。
「が…っ!?」
盗賊が血を噴きながら倒れる。
そのまま、トレイスは動きを止めず、次々と敵を薙ぎ払っていった。
——まるで、一匹の猛獣だった。
戦いが終わる頃には、盗賊たちは全滅していた。
トレイスは剣を振り払い、血を落とすと、あくびをしながら言った。
「さあ、帰るぞ」
「待ってください!」
クーパーはすぐに振り向いた。
「怪我人の手当てをしないと…!」
「勝手にしろ」
トレイスは肩をすくめると、そのまま背を向けた。
しかし——
クーパーが負傷者の手当てをしながら、ふと顔を上げると——
トレイスもまた、黙々と村人の傷の手当てをしていた。
クーパーは、思わず微笑んだ。
(やっぱり、あの人は——)
どんなにぶっきらぼうでも、本当は優しいのだ。
家に戻る頃には、すっかり夜になっていた。
クーパーは深いため息をつき、重い体を引きずるように玄関をくぐる。
——疲れた。
体の芯までどっと疲労が押し寄せてくる。
傷の手当てや村人のケアで、すでに立っているのもやっとだった。
それでも、食事の準備と風呂の用意をしなければならない。
「…よし」
気合を入れて台所に向かおうとした瞬間——
「お前は座ってろ」
トレイスの低い声が響いた。
クーパーが驚いて顔を上げると、トレイスは無言のまま調理場に立ち、黙々と食材を取り出していた。
「…え?」
「いいから、座ってろ」
短い一言だったが、それが自分を気遣う言葉であることはすぐにわかった。
トレイスは、何も言わずとも、こういう形で優しさを見せる。
それが彼なりのやり方なのだろう。
クーパーは、その広い背中をじっと見つめた。
そして、無性に——
抱きつきたくなった。
気づけば、クーパーは立ち上がり、包丁で野菜の皮を剥いているトレイスの背中にそっと顔を埋めていた。
「…バカ、手元が狂って怪我したらどうする」
驚いたようにトレイスが動きを止める。
「あなたほどの騎士が、そんなことで怪我なんてしませんよ」
クーパーは笑いながら、腕を回したまま離れようとしなかった。
「…今はこうしていたいんです」
トレイスは短く息を吐き、しばらく無言でいた。
そして、ゆっくりと振り向いた。
二人の視線が交わる。
そのまま——
唇が重なった。
初めて出会ったときのような強引なものではない。
お互いを確かめ合うような、穏やかで優しい口づけだった。
その夜、二人はベッドを共にした。
クーパーは、トレイスの腕に頭を乗せ、片手を彼の胸に添えていた。
夜の静寂が心地よく、今だけは戦いや悩みを忘れられるような気がした。
しかし——
「…お前は、まだ騎士になりたいか?」
トレイスの低い声が、静かな部屋に響いた。
クーパーは、顔を曇らせる。
「…正直、悩んでいます」
小さく呟くように言った。
「今日は、僕は何もできなかった。あんなに修行したのに……」
昼間の戦いが脳裏に蘇る。
必死に剣を振るった。
けれど、何もできなかった。
「…人には、その人間に合った役目がある」
トレイスの声が、穏やかに続く。
「役目…?」
「お前が騎士になりたい理由はなんだ?」
クーパーは迷わず答えた。
「…人を守りたいから」
「なら、守る方法は何も剣で戦うことだけじゃないだろ」
「…?」
クーパーはトレイスを見上げる。
「ま、そのうちわかるさ」
トレイスは微かに笑うと、クーパーの頭をぽんっと撫でた。
「今日は寝ろ。明日、またあの集落に行くぞ」
「…はい」
クーパーはトレイスの温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
翌朝、クーパーとトレイスは集落に向かった。
夜が明けても、村人たちは休むことなく動き続けていた。
壊れた家屋の修理、瓦礫の撤去、傷ついた仲間の世話——。
クーパーはその様子を黙って見つめる。
誰もが疲れた顔をしているはずなのに、不思議とその表情には希望があった。
そんな中、小さな足音が近づいてくる。
クーパーが振り向くと、昨日助けた女の子が、手に何かを握りしめていた。
「お兄ちゃん」
女の子は照れたように足元でモジモジしながら、手に持っていた小さな花束を差し出した。
「昨日はありがとう」
「え…」
クーパーは驚きながらも、その花をそっと受け取る。
「…ありがとう」
女の子はぱっと笑顔を浮かべると、くるりと踵を返し、両親のもとへと駆けていった。
その後も、集落の人々が次々とクーパーに声をかける。
「昨日は本当にありがとう」
「お前さんの言葉に救われたよ」
「また遊びに来てくれよな」
——僕の言葉に、救われた?
胸が、じんわりと熱くなる。
剣ではなく、ただ寄り添い、励まし、癒やすこと。
それが、こんなにも人の心を動かすのだと、初めて実感した。
「…これがお前の役目なんじゃないか?」
不意に、隣にいたトレイスが口を開いた。
「民の心を守ることは、剣で守るよりも難しい。俺にはとてもできねえな」
クーパーは、静かにトレイスを見上げた。
「まだ、騎士になりたいか?」
——答えは、もう決まっていた。
クーパーはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ」
握りしめた花を見つめながら、息を吐く。
「僕の役目がわかりました。ありがとうございます」
そして——
「僕は、巫覡になります」
その言葉に、トレイスはふっと目を細めた。
「そうか」
その表情はどこか寂しげだった。
クーパーは、それ以上何も言わなかった。
二人は、集落の人々を手伝い終えると、帰路についた。
小道を歩きながら、クーパーはぽつりと口を開いた。
「トレイス…僕と一緒に都に戻りましょう」
そう言いかけて、少し言葉を変える。
「いえ、一緒に来てください」
トレイスの足が止まる。
そして、静かに首を横に振った。
「それはできない」
「……!」
クーパーも立ち止まる。
「巫覡になる者の儀式は、知っているな?」
クーパーは、表情を曇らせた。
「…はい」
「なら、俺が行って何になる。俺はここに残る」
冷たく突き放すような声だった。
「お別れだ」
「いやです!」
クーパーは、思わず叫ぶように言った。
「僕はあなたを愛しています。離れたくない!」
そう言って、トレイスの腕にしがみつく。
トレイスも、クーパーをしっかりと抱きしめ返した。
しかし——
「…クーパー」
トレイスは、すぐにその手を離す。
「お前はこのまま都に帰れ」
クーパーの肩をそっと押しながら、低く囁いた。
「じゃあな」
そう言い残し、踵を返す。
クーパーは、その背中を見つめることしかできなかった。
それでも——
「僕は諦めません!」
泣きながら、必死に声を張り上げる。
「絶対に…!」
しかし、トレイスは振り向かなかった。
そのまま、ゆっくりと歩き去っていく。
クーパーは、ただ立ち尽くしていた。
手の中には、まだ女の子からもらった花が残っていた——。
かつて、この地にはルシアス王国という国があった。
しかし、その国は戦乱と混乱に満ち、人々は未来を見失っていた。
その混乱を終わらせたのは、二人の若き騎士ルシウスとガイゼル、そしてルトリッジ家の兄妹だった。
彼らは民を率いてルシアス王国に反旗を翻し、剣を取り、暴政に苦しむ者たちを守り、戦い続けた。
一方で、ルトリッジ家の妹はヴァルミア教の巫女として、民の心を支えていた。
そんな中、巫女とルシウスは、禁じられた恋に落ちた。
巫女は本来、異性と交わることを許されない存在だった。
清らかな存在でなければならず、俗世の情に流されることはあってはならない。
だが、二人の心は惹かれ合い、その禁忌を犯した。
そして——
その時、巫女は神の声を聞き、神託を告げた。
彼女の神託に従い、ルシウスとガイゼルは戦を進めた。
そして、ついにルシアス王国は滅び、新たな国——ヴァルミア王国が誕生した。
ガイゼルは初代国王としてヴァルミア王国を築き、国を治めた。
ルトリッジ家の兄とルシウスは、新たな王国の守護者として騎士団を率いた。
そして、巫女はヴァルミア教の最高司祭となり、国の精神的支柱となった。
ヴァルミア大神院の奥深く——。
格式高い装飾が施された静謐な空間に、重い沈黙が垂れ込めていた。
中央の椅子に座すのは、レオノーラ。
その前には、クーパーと彼の家族が並び、彼女の言葉を待っていた。
レオノーラはゆっくりと目を開き、静かに尋ねる。
「——それで、今日は何の話かしら?」
彼女の澄んだ視線がクーパーへと向けられる。
クーパーは一度深く息を吸い、家族の顔を一瞥すると、まっすぐレオノーラを見据えた。
「…僕は、巫覡として生きることを決めました」
その言葉が放たれた瞬間、微かな緊張が場に走る。
母ヴァレリアは腕を組んだまま、静かに息を吐く。
シルヴィアは苦笑しながら肩をすくめた。
「やっと決めたのね。正直、あなたが騎士になるなんて、最初から無理だと思ってたわ」
「…姉上、失礼ですよ」
クーパーがむっとした表情を見せると、ヴァレリアが低い声で告げた。
「決めたのなら、それでいい。巫覡としての責務を果たせ」
レオノーラは静かに微笑み、ゆっくりと頷く。
「では、早速国中に発表し、次期巫覡の継承の儀式を執り行いましょう」
クーパーは思わず眉をひそめる。
「…そんなに早く?」
「ええ。今、レイヴェント教団の影響でヴァルミア神への信仰が揺らいでいます。
こういう時こそ、新しい巫覡が誕生し、民の心を一つにすることが大切なのです」
レオノーラの瞳には強い決意が宿っていた。
「このような時によくぞ決断してくれました。これもヴァルミア神のお導きです」
彼女は誇らしげに微笑んだ。
「しかし、伯母上」
突然、シルヴィアが口を挟む。
「クーパーの相手はいかがなさいます?」
部屋に一瞬、沈黙が落ちる。
レオノーラはゆっくりとクーパーに視線を向けた。
「…そうですね。クーパー、あなたはもうお相手を決めていますか?」
クーパーは一度目を伏せ、そして意を決したように顔を上げた。
「はい」
そして、はっきりと告げる。
「トレイスです」
その瞬間——
室内の空気が凍りついた。
「…まさか、トレイス・ヴァルクナーのことか?」
ヴァレリアの低く鋭い声が響く。
ヴァレリア・ルトリッジ——南方騎士団団長。
数々の戦場で功績を上げ、王国最強の戦士として名を馳せる女騎士。
彼女の厳しい眼差しが、クーパーを射抜いた。
クーパーは息を呑んだが、動じずに頷く。
「…はい」
「バカ者!!」
ヴァレリアが激昂し、勢いよく立ち上がる。
「あいつは騎士を追放された身だ。しかも、男だ。許すことはできない!!」
「ですが、母上——!」
「ダメだ!!」
ヴァレリアの声が鋭く響く。
「レオノーラ、私に当てがある。その者を用意する」
「母上、勝手です!」
クーパーが必死に訴えるが——
「黙れ!!」
ヴァレリアは腰の剣を引き抜き、目の前のテーブルを真っ二つに叩き斬った。
——ガシャンッ!!
木片が床に散らばり、部屋に静寂が訪れる。
「姉上もクーパーも落ち着いてください」
レオノーラが静かに口を開く。
「トレイス・ヴァルクナーはよく知っています。彼はこの国の英雄といえるほどの騎士でした。しかし、大罪を犯した。いえ、それもおそらくは彼を陥れるために仕組まれたことでしょう」
その時、父ガイウス・ルトリッジが、おずおずと口を挟む。
「…あの、よろしいですか?」
彼は貴族大臣の地位に就いているが、それはルトリッジ家に婿養子として迎えられたからこその役職だった。
男勝りな妻と娘に挟まれ、肩身の狭い日々を送っている。
クーパーは、たまにこの父を気の毒に思う。
「私どもの調べによりますと、トレイスと不仲だったパーナム卿の策略による冤罪の可能性が高いとする証拠が揃いました。近日中にパーナム卿を逮捕し、トレイスの騎士資格を返還する予定です」
「だからなんだ?」
ヴァレリアが夫を鋭く睨みつける。
「人心が離れている今、必要なのは新たな光だ。そのために、クーパーは巫覡として子を儲けねばならない。長子は騎士、次子は巫女、巫覡になる。その子こそが新たな希望なのだ。なのに、男では子を儲けることはできん!」
その言葉に、ガイウスは肩をすくめる。
「姉上のおっしゃる通りです」
レオノーラが厳かな声で続けた。
「大事なのは国に新たなる光をもたらすことです。クーパー、あなたの気持ちはわかります。ですが、これは巫女としての決定です」
クーパーが何かを言おうとした瞬間——
レオノーラは強い視線で彼を抑え、静かに言った。
「以上です」
そう言い切ると、彼女は静かに目を閉じた。
それ以上、誰も何も言えなかった。
ヴァルミア大神院の大広間には、貴族や高位の神官たちが集まっていた。
壇上に立つレオノーラは、厳かな声で告げる。
「ここに、新たなる巫覡が誕生します」
人々の視線がクーパーに向けられる。
「次期巫覡、クーパー・ルトリッジは、正式に巫覡の位を継承いたします。これより一年の準備期間を経て、巫覡としての務めを果たすこととなります」
場内に拍手が響く。
この発表は瞬く間に国中へと広まった。
人々は新たな巫覡の誕生に期待を寄せ、王都の至る所で話題に上ることとなった。
クーパーは淡々と受け止めていたが、心の中には複雑な感情が渦巻いていた。
数日後、クーパーの婚儀の相手が決定した。
母ヴァレリアの紹介で、北方騎士団団長・バトン公爵の令嬢、アナスタシア・バトン。
金髪碧眼の美しい女性で、礼儀作法も完璧。騎士の家系に生まれ育ち、誇り高き精神を持つ令嬢だった。
「お会いできて光栄です、クーパー様」
微笑みながら話すアナスタシアを前に、クーパーは無理に微笑みを返した。
「こちらこそ…」
しかし、クーパーの頭の中には、どうしてもトレイスの姿がちらつく。
彼女の言葉は耳に届かず、何を話したのかすら覚えていなかった。
数か月にわたる準備が進み、ついに儀式の前夜を迎えた。
クーパーは机に向かい、ペンを握る。
「トレイスへ」
書き出した途端、胸が締め付けられる。
数行の短い手紙を書き、封を閉じた。
「これを、トレイス・ヴァルクナーに届けてください」
使用人が恭しく受け取り、静かに部屋を出る。
クーパーはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
遠く森の方角を見つめるが、暗闇に包まれた木々の向こうにトレイスの家は見えない。
それでも——
彼があの場所にいて、まだ自分を想っていてくれると信じていた。
夜空には美しい月が浮かんでいる。
「…あなたも、この月を見ていますか?」
クーパーは静かに呟いた。
森の奥の小さな家。
トレイスは窓を開け、酒の入ったグラスを傾けながら、無言で夜空を仰いでいた。
月が、冴え冴えと輝いている。
彼もまた、同じ月を見ていた。
ヴァルミア王国の奥深く、神聖な森の中に佇む「聖なる神殿」。
古の時代から巫覡・巫女の儀式が執り行われてきた神域であり、外部の者が容易に足を踏み入れることは許されない。
今日、この地で新たな巫覡が誕生する。
神殿を囲む森には、王国の精鋭たちが厳重な警備を敷いていた。
だが、神殿内部に足を踏み入れられるのは限られた者のみ。
王、巫女、次期巫覡とルトリッジ家、そして「交わる者」だけ。
静寂の中、力者に担がれた二つの四方を幕で覆われた輿がゆっくりと神殿へと運ばれていく。
その中には、それぞれの役目を背負った者が、静かに座していた。
一つの輿には、クーパー・ルトリッジ。
もう一つの輿には、アナスタシア・バトンが乗っている。
神官たちの先導のもと、神殿内へと運び込まれた輿は、儀式の間の手前にあるホールへと慎重に安置される。
神官たちは恭しく一礼すると、扉を閉じ、静かに退室した。
荘厳な静けさが広がる中、レオノーラが柔らかく声をかける。
「——出てきていいですよ。」
その瞬間——
片方の輿の扉が開かれ、クーパーが姿を現す。
そして——
もう一方の輿から、トレイス・ヴァルクナーが現れた。
会場がどよめく。
アナスタシアのはずだったその輿から、無骨な男が堂々と現れたのだ。
クーパーは驚きのあまり、一瞬動けなかった。
しかし、次の瞬間——
涙を流しながら、トレイスへと駆け寄る。
「トレイス…!」
強く、強く抱きしめる。
「…遅いんですよ、あなたは…!」
クーパーの震える声に、トレイスは静かに目を閉じた。
「…悪いな」
腕を回し、クーパーを抱きしめ返す。
しかし——その光景を許さない者がいた。
——シャリンッ!
鋭い金属音が響く。
「…この場で何をしている。」
ヴァレリア・ルトリッジの声は低く、だが確かな怒気を帯びていた。
抜き放たれた剣の刃が、トレイスに向けられる。
「巫覡の儀式を侮辱する気か、トレイス・ヴァルクナー」
「母上、やめてください!」
クーパーは即座にトレイスの前に立ちはだかった。
彼の前で、まっすぐヴァレリアを見つめる。
ヴァレリアは息子を睨みつけたまま、剣を下げない。
「どけ、クーパー」
「嫌です」
クーパーは涙を拭い、この場にいる全員を見渡した。
「僕は…巫覡として生きると決めました。でも、それは“形式”のためじゃない。僕は、この国を、民を、そして愛する人を守るために巫覡になるんです!」
「トレイスは、僕のすべてです」
「彼がいなかったら、僕は何者でもない」
「彼なしに巫覡になど、なりたくない!」
クーパーの真摯な言葉に、会場は静まり返った。
次に口を開いたのは、トレイスだった。
「…俺には、何もない」
しわがれた声が響く。
「名誉も、地位も、金も…若さすらねぇ。だけど、たったひとつ、誇れるものがある。それは——クーパーを心から愛しているってことだ」
彼はまっすぐにヴァレリアを見据えた。
「俺のような男が、みっともないがな」
ヴァレリアは一瞬、躊躇した。
それは、彼女にとって未だかつてなかった感情だった。
無敗の女戦士が、敵を前にしたことのない迷いを覚えた。
だが——
——ドォォォォン!!!!!
扉の外で、轟音が響く。
爆発音だった。
「何事だ?」
トレイスに向けていた剣を下ろし、ヴァレリアが扉へと向かいながら叫ぶ。
すると、焦り切った神官の声が返ってきた。
「レイヴェント教団の襲撃です! 門が突破され、奴らが神殿の中に——!」
「チッ…!」
ヴァレリアは舌打ちし、即座に踵を返す。
「シルヴィア、来い。奴らを倒すぞ」
そして、ヴァレリアは鋭い眼光でレオノーラを見据えた。
「レオノーラ、儀式は取りやめだ」
しかし、レオノーラは微動だにせず、毅然と答えた。
「それはできません」
「…なんだと?」
「もう一度言います、姉上。できません」
ヴァレリアの表情が険しくなる。
「ふざけるな。外では敵が攻めてきているのだぞ? そんな状況で、呑気に儀式を続けるというのか?」
「敵の狙いは何でしょう?」
レオノーラは静かに問いかけた。
ヴァレリアは怪訝な顔をする。
「…そんなもの、巫覡の誕生を阻止することだろう」
「その通りです。つまり、ここで儀式を取りやめれば、敵の思うつぼということになります」
レオノーラの言葉に、場の空気が張り詰める。
「今、この国は揺れています。レイヴェント教団は、ヴァルミア神に仕える巫女、巫覡を否定し、人々の信仰を奪おうとしている。だからこそ、今こそ新たな巫覡が誕生する瞬間を示さなければならないのです」
ヴァレリアは眉をひそめた。
「…だが、それが男同士の儀式でいいというのか?」
「はい」
即答だった。
「気でも狂ったか?」
「私は正常です」
レオノーラの言葉は、静かだったが、その響きには絶対的な威厳があった。
「これは、巫女である私の決定です。たとえ、王であっても反対は許しません」
レオノーラの視線が、王へと向けられる。
若く気弱な王は、その視線に圧倒され、何も言えなかった。
ヴァレリアは奥歯を噛みしめ、剣を握る手に力を込めた。
「バカ者! そんなこと——」
ヴァレリアが言葉を続けようとしたその瞬間——。
「いい加減にしろ!! バカ者!!」
怒号が響いた。
場の全員が驚き、声の主を見る。
それは、ガイウス・ルトリッジだった。
クーパーもシルヴィアも、父が母に怒鳴る姿を初めて見た。
ヴァレリアですら、一瞬動きを止めるほどの剣幕だった。
「息子の幸せを考えない母親がどこにいる!!」
堂々と、ガイウスは言い放った。
「クーパーには、クーパーの人生がある! それを私たちが応援せずにどうする!」
クーパーは思わず父を見つめた。
しかし——
ヴァレリアの目がギラリと光った。
ガイウスの背筋に冷たいものが走る。
「なっ…いや、あの…」
すると、ガイウスは小さく「ごめんなさい」と縮こまった。
クーパーもシルヴィアも、思わず顔を見合わせる。
ヴァレリアは数秒間、夫を睨みつけた後、無言で踵を返した。
扉に手をかけると、低く言い放つ。
「…お前たちの好きにしろ」
その声は、とても優しかった。
それだけ言い残し、彼女は剣を手に、戦場へと向かった。
ヴァレリアの後に続き、シルヴィアも扉の前に立つ。
「まあ、私は儀式とかどうでもいいんだけどさ」
そう言って、クーパーに向かってウインクをする。
「せいぜい、頑張れよ」
彼女はそう言い残し、扉を開けた。
外の世界へと足を踏み出す。
そして——
扉が、静かに閉じられた。
静寂が戻る。
レオノーラは、静かに息を吐くと、クーパーとトレイスを見つめた。
「…さあ、二人とも、お行きなさい。これが正しいことかは、私にもわかりません。ですが、あとは神の御心しだいです」
静かに、だが確かな決意を込めた声だった。
クーパーは深く息を吸い、トレイスの手を取った。
トレイスも、その手をしっかりと握り返す。
そして——
二人は儀式の間の扉を開けた。
クーパーとトレイスは、静かに扉を押し開いた。
その瞬間、ひんやりとした風が二人を包み込む。
「…風?」
トレイスが呟く。
だが、ここは建物の中のはずだった。
なのに——
目の前に広がっていたのは、静寂に包まれた森。
天井はなく、空が広がっているかのように感じられる——だが、確かにここは屋内だった。
足元には柔らかな苔が広がり、小さな花々が咲き誇る。
奥には清らかな水が流れる細い小川があり、せせらぎの音が微かに響いていた。
どこからか鳥の囀りさえ聞こえてくる。
二人の前に続く、ゆるやかな丘。
丘の上には、円柱の柱に支えられた白い神殿が佇んでいた。
天井を持たないその神殿は、自然と一体化した神聖な場としてそこに存在している。
風に揺れる白い帳が神殿の内部を隠していたが、その奥には、一つの寝台が置かれているのがわかった。
「…すごい」
クーパーが息を呑む。
「ここが…儀式の間」
トレイスもまた、神秘的な光景に圧倒されていた。
その瞬間——
ふっと、二人の衣服が消えた。
クーパーは思わず自分の身体を見下ろした。
何も纏っていない。
トレイスも同じだった。
「これは…神の導き、ということでしょうか…?」
クーパーは頬を赤くしながら、そっとトレイスの腕を掴む。
「…行きましょう」
トレイスは微かに笑い、クーパーの手をしっかりと握った。
二人は静かに、丘を登る。
白い神殿に足を踏み入れると、風が優しく二人の身体を包み込む。
その中心には、白い絹の寝台が静かに置かれていた。
クーパーとトレイスは、そっと寝台に腰を下ろす。
クーパーは、トレイスを見つめた。
「…来てくれて、嬉しいです」
「お前が、待っていたからな」
トレイスは、クーパーの手を包み込むように握る。
「…僕の手紙、読みましたか?」
「…ああ」
トレイスは微かに目を伏せる。
「正直…来るつもりはなかった」
「……」
「俺なんか、お前に相応しくないと思っていた。巫覡になるお前には、もっと…国にとってふさわしい相手がいるべきだと」
トレイスは静かに息を吐き、クーパーの頬に触れる。
「だけど、お前の言葉が、俺の心を動かした」
クーパーは少し照れながら微笑む。
「“僕は、あなたを愛しています。もし、あなたも僕を愛しているなら——迎えに来てください。”」
「…お前は、卑怯だな」
トレイスは苦笑しながら、そっとクーパーの顎を持ち上げる。
「そんなことを言われて、迎えに行かない男がどこにいる?」
クーパーの頬が赤く染まる。
「…僕は、ずっとあなたを待っていました」
その言葉が合図だったかのように——
二人の唇が、重なる。
最初は、ただ確かめ合うような口づけだった。
だが——
次第にそれは熱を帯び、互いの心と身体を求め合う動きへと変わっていく。
トレイスはクーパーを寝台へ押し倒し、そっと髪を撫でた。
「…本当に、いいんだな?」
クーパーは、何の迷いもなく微笑む。
「僕は、あなたがいい」
トレイスの目が、優しく細められる。
「…なら、もう止まらねぇぞ」
クーパーの胸元に唇を落としながら、彼の身体をそっと抱き寄せる。
クーパーもまた、トレイスの肌に触れながら、彼の温もりを確かめるように手を這わせる。
「…あなたのすべてが、欲しい…」
その囁きに、トレイスは息を呑み——
そして、二人はひとつになった。
激しく、貪るように絡み合う唇。
熱を帯びた肌と肌が触れ合い、互いの存在を確かめ合う。
最後に、トレイスの熱い想いが、クーパーの中へと注がれる。
その瞬間——
風が、そっと神殿を吹き抜けた。
まるで、神が二人の誓いを祝福しているかのように——。
静寂の中、微かに揺れる白い帳。
クーパーは、息を整えながらトレイスの腕の中で微笑んだ。
「…終わりましたね。」
トレイスは、満足げにクーパーの髪を指先で梳きながら、低く囁いた。
「ああ。…これで、お前は正式に巫覡だ」
二人はしばし、余韻に浸るように互いの体温を感じ合う。
しかし——
——ドォン!!
遠くから、爆発音が響いた。
クーパーの身体がびくりと震える。
「そうだ…! レイヴェント教団が…!」
現実が、二人を急激に引き戻した。
戦いはまだ終わっていない。
儀式の間にいる間にも、外では血が流れているのかもしれない。
クーパーは慌てて起き上がろうとしたが——
自身の姿を見て、顔が一気に赤くなる。
「服…!」
トレイスもまた、周囲を見渡したが、二人の衣服はどこにもなかった。
「…くそ、戻ってこねぇのか。」
「どうしましょう?」
クーパーは辺りを見回し、寝台の薄い布を掴むと、全身を包み込むように巻きつけた。
トレイスはそれを見て、仕方なさそうに短く笑うと、もう一枚の布を腰に巻きつける。
「…情けねえな。」
「そんなこと言ってる場合じゃないですよ!」
「はいはい、わかったよ。行くぞ」
クーパーとトレイスが儀式の間を出ると、ホールは静寂に包まれていた。
戦いが終わったのだ。
ホールから出て行ったヴァレリアとシルヴィアも戻ってきていた。
二人の顔には血と煤の跡があり、衣服には敵の返り血が飛び散っている。
しかし——
最強の騎士である二人の身体に刻まれた傷は、わずかだった。
クーパーはほっと息を吐く。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
ヴァレリアが鋭い視線で二人を見据え、無言のまま——
カチリ
鞘から剣を引き抜いた。
「…これで妊娠していなければ——」
冷たい光を放つ刃が、クーパーに向けられる。
「わかっているな?」
クーパーはごくりと喉を鳴らし、恐る恐る頷いた。
「…はい。」
そして——
その切っ先をトレイスへと向けた。
「お前もだ」
トレイスは肩をすくめ、苦笑する。
「へえ…俺もかよ」
「当然だ。」
ヴァレリアは迷いなく言い放つ。
クーパーが苦笑しながら割って入った。
「…母上、敵は?」
ヴァレリアは剣を静かに鞘へと戻し、短く答えた。
「殲滅した」
続けて、シルヴィアが腕を組みながら言葉を継ぐ。
「レイヴェント教団の教祖も逮捕した。残党が逃げるために最後の爆弾を放ったようだが、そいつらも部下たちが追っている」
「そう…ですか」
クーパーは胸を撫でおろした。
だが、戦いは終わったとはいえ、第二、第三のレイヴェント教団が現れる可能性はある。
そして、離れてしまった人心を取り戻すことも——
それが、自分の果たすべき役目なのだと、クーパーは改めて実感した。
その肩にのしかかる重責に、思わず拳を握り締める。
すると——
「……」
トレイスが、黙ってその手を包んでくれた。
強く、優しく。
その温もりに、クーパーは力強く頷く。
そして、トレイスを見つめ、微笑んだ。
そんな二人のやり取りを見届けると——
ヴァレリアは無言でホールを出て行った。
しかし——
その口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
儀式を終えた二人は、そのままヴァルミア大神院で過ごすこととなった。
大神院の奥には、巫覡や巫女が住まうための居住区があり、クーパーとトレイスには広く豪華な一室が与えられた。
金細工の施された白い調度品に、大きな天蓋付きの寝台。
窓からは大神院の庭が見渡せ、朝には鳥の囀りと共に陽光が差し込み、夜には静かに月明かりが揺れる。
「…随分と立派な部屋です。」
クーパーがベッドの縁に腰掛け、部屋を見渡す。
「そりゃそうだろ。お前はもう、国の象徴なんだからな。」
トレイスは腕を組みながら、どこか落ち着かない様子だった。
「…ってことは、俺もここで暮らすのか?」
「当たり前でしょう。僕の護衛なんですから。」
そう言ってクーパーは微笑んだ。
トレイスは騎士資格を返還され、正式に王国騎士へと復帰した。
そして、クーパーの夫であり、巫覡の護衛として、その傍に仕えることが決まったのだった。
トレイスは渋い顔をしながらも、小さく息を吐いた。
「……変な感じだな。俺みたいな粗野な男が、こんな立派な場所で暮らすなんて。」
「僕は嬉しいですけどね。こうして、あなたと一緒にいられることが。」
クーパーがそっと手を伸ばし、トレイスの指を絡める。
トレイスは一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがて静かに微笑み、クーパーの手を握り返した。
「…そうだな。」
それからの生活は、穏やかで、甘いものだった。
大神院での生活は、騎士を目指していた頃とはまるで違っていた。
剣の修行に励む代わりに、巫覡としての務めを学びながら日々を過ごす。
最初は落ち着かなかったが、トレイスと共に過ごす時間は心地よく、クーパーにとって新しい生活の中での何よりの支えとなった。
そんな中——
クーパーの身体に、少しずつ異変が現れ始めた。
朝、目が覚めると、酷い倦怠感が襲ってくる。
階段を上るだけで息が切れることもあった。
「…最近、疲れやすい気がするんです。」
クーパーがぽつりと呟くと、トレイスは心配そうに彼を見つめた。
「慣れねぇ生活が続いてるからな。無理すんなよ。」
トレイスはそう言って、何かとクーパーを気遣った。
食事の際には「しっかり食えよ」と料理を取り分けたり、夜は「今日はもう休め」と言って、クーパーが眠りにつくまで隣にいてくれることもあった。
クーパーはそんな彼の優しさに、何度も胸を熱くした。
——だが、その異変は次第に大きくなっていった。
その日も、二人はいつも通り夕食の席についていた。
トレイスは鹿肉の煮込みを食べながら、クーパーに視線を向ける。
「お前、ちゃんと食えてるか?」
「ええ、大丈夫です。」
クーパーは笑顔を作りながら、スープを一口すする。
しかし——
次の瞬間。
「…っ!!」
クーパーは突然、顔を青ざめさせた。
胃の奥から込み上げてくる感覚——
「…気持ち悪い…!」
そう呟くと同時に、クーパーは席を立ち、口を押さえて部屋の隅へ駆け込んだ。
そして——
「…うっ…!」
——嘔吐した。
「クーパー!?」
トレイスがすぐに駆け寄り、背中をさする。
クーパーは荒い息をつきながら、床に手をついた。
「…ごめんなさい…急に…っ…」
トレイスはその背中を支えながら、険しい顔をする。
「これは……さすがに、ただの疲れじゃねぇな。」
すぐにレオノーラが呼ばれ、クーパーは寝台へと運ばれた。
彼女は静かにクーパーの額に手を当て、しばらく目を閉じる。
トレイスは固唾を呑んで見守る。
やがて、レオノーラはゆっくりと目を開き——
静かに、しかし、確信に満ちた声で告げた。
「クーパー…あなたは…子を宿しています。」
クーパーは目を見開き——
トレイスもまた、言葉を失った。
「巫覡が、子を宿した——!」
その知らせは、瞬く間に国中へと広がった。
ヴァルミア王国の歴史の中で、男性の巫覡が子を宿した例は一度もなかった。
それはまさに奇跡と呼ぶべき出来事。
人々はクーパーを「奇跡の巫覡」として称え、巫覡・巫女の権威は再び強固なものとなりつつあった。
王宮や大神院には民からの祝福の品が次々と届けられ、神殿の前には「巫覡様に神の祝福を!」と願う者たちが毎日のように集まった。
まさに、クーパーの妊娠は国に新たなる光をもたらしたのだった。
ヴァルミア大神院——
クーパーとトレイスが暮らす部屋には、巫女レオノーラをはじめ、ルトリッジ家の面々が揃っていた。
ヴァレリアは厳しい表情を崩さぬまま腕を組み、シルヴィアは興味深そうにクーパーを観察している。
父ガイウスは、緊張した様子で妻と娘の間に挟まれ、落ち着かない様子だった。
そんな中、クーパーは寝台に腰掛け、緊張した面持ちで皆を見つめていた。
トレイスは彼の傍に立ち、黙ってその肩に手を添える。
そして——
部屋の中央に立つレオノーラが、静かに口を開いた。
「本日、神託が下りました」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。
レオノーラは神聖な視線でクーパーを見つめ、厳かに告げた。
「来月、巫覡の就任式を執り行います」
クーパーの目がわずかに揺れる。
「来月、ですか…?」
「はい」
レオノーラは静かに頷いた。
「本来なら、巫覡の就任にはまだ数カ月の準備期間を要します。 しかし、あなたの妊娠がもたらしたのは、ただの新たな命ではありません。これは、神がこの国に与えた奇跡です」
「…奇跡」
クーパーが呟くと、レオノーラは微笑みながら続ける。
「あなたの誕生がそうであったように、あなたの子もまた、この国の未来を象徴する存在となるでしょう」
クーパーは息を呑み、トレイスの方を見上げた。
トレイスは無言のまま、クーパーの手を優しく握る。
レオノーラは少しだけ表情を和らげると、静かに言った。
「クーパー…新たな巫覡として、あなたはこれから何をすべきか、考えなさい」
クーパーは一度目を閉じ、そして——
「…わかりました」
静かに、しかしはっきりと頷いた。
その瞬間、ルトリッジ家の者たちはそれぞれの思いを胸に秘めながら、クーパーを見つめる。
クーパーの運命が、いよいよ定まった瞬間だった。
——ヴァルミア大神院、巫覡就任式の日。
大神院の前には、数えきれないほどの人々が集まっていた。
巫覡が誕生する瞬間を見届けるために。
「奇跡の巫覡」と称えられるクーパーが、正式にこの国の精神的支柱となるその時を。
大神院の白亜のテラスに続く扉の前。
その控室で、クーパーは落ち着かない様子で衣の裾を弄っていた。
「…緊張しているのか?」
隣で腕を組みながら、トレイスが苦笑する。
「…はい」
クーパーはぎこちなく頷いた。
トレイスは軽くクーパーの肩を叩き、にやりと笑う。
「大丈夫だ。お前なら国民も納得する。なんせ『奇跡の巫覡様』だからな」
「…からかわないでください」
クーパーはムッとしながら、トレイスを睨む。
だが、トレイスは微笑みながら、クーパーの顔をくいっと持ち上げた。
「大丈夫だ。俺もいる」
そう言って、そっと唇を重ねる。
クーパーの目が一瞬大きく見開かれるが、すぐにふっと力が抜けたように目を閉じた。
——どんな時も、この人が傍にいてくれる。
たったそれだけのことで、不安が消えていく気がした。
唇が離れると、クーパーはわずかに頬を染めながら、唇にそっと触れる。
「もう…! みんなの前に出るのに…顔が赤くなってしまいますよ?」
「ははは、大丈夫。なんならもう一回いっとくか?」
トレイスがいたずらっぽく笑い、再び唇を近づける。
しかし——
「ダメです!」
クーパーはすっと手を差し出し、トレイスの唇を制止した。
「続きはこれが終わった後に…ベッドの上でしましょう」
そう言って、ウインクする。
今度は、トレイスの顔が赤くなる番だった。
「お前な…」
咳払いしながら顔を逸らすトレイスに、クーパーはくすっと笑う。
「何か問題でも?」
「…なら、とっとと行くぞ」
トレイスは、誤魔化すように言って扉の方へ歩き出す。
クーパーは微笑みながらその背を追い、彼の手を取った。
——あなたと共に。
「はい」
そして——
二人は、光のさすテラスへと歩み出した。
その先に待つ、新たな未来へと向かって。


