久しぶりに目にした西黒沢中学校は、昔よりも小さく見えた。
 廃校になって何年経ったか思い出せないけれど、ところどころ窓が割れているのを見ると、それなりに時が経ったのだろうと予想できる。
 かつて走り回ったグラウンドは、草が生い茂っていた。
 誰もいなくなった西黒沢地区。
 もう、草を刈る人もいない。
「……」
 懐かしい夢を見ていた気がした。
 かつてここで過ごした、短い青春。

 高校に進学した僕は、そのあと関西の大学に行った。
 大学卒業後は西黒沢に戻ろうと思っていた。でも、戻ったところで仕事なんてない。
 父は早くに他界し、母がひとり西黒沢で過ごしていた。
 でも年老いた母もひとりでは限界そうだった。
 だから僕は通った高校の近くで就職し、家も構えて母と過ごし始めた。
 西黒沢地区は、〝無人集落〟になった。

 今日ここに戻ってきたのは、母が「前の家に忘れ物をした」と言うのを、どうにも無下にできなかったからだ。
 前の家は解体したから残っていないのに。
 母の記憶が心配に思えるこの頃。僕も含めて、人間の衰えというものは、時に悲しくて切なく思う。

「……あっ」
 西黒沢中学校の校舎周りを歩いていると、体育館に繋がる渡り廊下に着いた。
 悩んだときは、ここで過ごした。
 進学で悩んだときも、クロと坂本先生と一緒に、雪の中でいろいろと話した。
 あれからもクロの目撃情報はなかった。
 急に現れたかと思ったら、急にいなくなる。クロは大切なときだけ僕らの側にいてくれて、何も言わずに、何も言わせずに、静かに消えていった。
 またすこし歩いて、今度は割れた窓から中を見た。
 3年1組の教室、黒板に書いた僕たちの言葉が、今もそのまま残っていた。
 10人全員が、西黒沢への想いとクロへの感謝を書いていた。
「クロは今もきっと、僕たちのそばにいる」
 風が吹き、教室の中に貼られたままのポスターが揺れる。
 時が止まったままの教室。教卓には今も、クロが使っていたクッションが置かれていた。
 
 ——そのとき、どこからともなく猫の鳴き声が聞こえた。

「にゃーん」
「……え?」
 クロなわけがない。何年経っていると思うのか。
 それでも僕は声の方向に駆け寄った。
「……」
 岩陰に猫がいた。でもそれは、三毛猫だった。
「……違うに決まっている」
 どこかで運命とやらを期待した僕だけど、あたりまえだが、人生はそう思い通りにいかない。
 もう帰ろう。
 母が家で待っている。山を降りて、西黒沢にさようならを告げよう。
 そう思ったとき、また猫の鳴き声が聞こえた。
「んにゃーん」
「……」
 今度の鳴き声は、三毛猫ではなかった。
 胸の奥がきゅっとした。
 僕はそこで確信した。
 クロはきっと、どこかにいる。どこかで、今ここにいる僕を見ているのだと。
「……クロ」
「にゃーん」
 姿は見えないけれど、間違いなくクロだと思った。
 僕は叫ぶ。誰もいない西黒沢中学校のグラウンドで。あの頃よりも歳を取ったけれど、心は——あの頃のままで。
「……ありがとう、クロ。またね、クロ」
 風で木が揺れ、優しい音を立てる。
 もう猫の声は聞こえない。三毛猫もいつの間にかいなくなっている。
 誰もいない静かな西黒沢に、季節外れの雪がひとつ舞った。





またね、クロ  終