雪が降った。
豪雪地帯と呼ばれる西黒沢地区は、どこ見ても雪景色になっていた。
学校までの雪道を、ゆっくりと歩いて進んでいく。
「おはよー、和政」
「あ、坂本先生。おはよう」
校門に近づくと、ザクッザクッと雪を掻く音が聞こえてきた。その音に重なって、優しく僕の名前を呼ぶ声も聞こえてくる。
「今日は寒いねぇ」
「死んでしまう~」
「子供は風の子じゃろ」
笑いながら、坂本先生は雪かきの手を止めた。
先生は手袋にニット帽、耳当てをつけて、温かそうな格好をしている。それでも吐く息は白くて、すぐに空に溶けていく。
「クロ、もう来とるよ」
先生が顎で校舎の方を示す。
来ているというか、教室がクロの部屋である。来とるも何もない気がする。
その言い方がなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。
◇
教室はストーブの熱気でモワッとしていた。
教卓には小さなクッションが置かれ、可愛い水色の服を着せてもらったクロが、その上で丸くなっている。
窓の外ではいつまでも雪が降り続き、寒暖差で窓は結露している。
同級生たちはストーブの周りに集まり、結末のない話を永遠としていた。
「クロ、それ誰に着せてもらったの。可愛いじゃん」
「……んにゃー」
満更でもない様子のクロを、そっと撫でる。
クロは夜も教室で過ごしているけれど、寒くはなかっただろうか。なんとなく心配に思いながら、クロを撫で続ける。今日も喉をゴロゴロと鳴らしていた。
「そういや和政、進学先は決まったん?」
「……え?」
ふいに投げかけられた言葉に、僕は瞬時に固まってしまった。
それは、ただの雑談にすぎないだろう。春太はストーブに手をかざしながら、キラキラとした瞳を僕に向けていた。
他の子たちも同じだった。
みんなが何やら期待に満ちた瞳を、僕に向けていた。
「……進学先ねぇ、まだ決まっとらん」
「え、そうなん!? もうすぐ最終決定じゃろ!」
「うん、そうだけど。坂本先生にはギリギリまで待ってもらうようにしとる」
僕の返答が面白くなかったのか、向けられていた瞳は他所を向き、それぞれが進学先について話し始めた。
ここから車で1時間半の場所にある高校。市の中心部にある商業高校、工業高校、もしくは私立高校。どうせ実家を出るならと、思い切って県外に行く人。
僕を除いて9人しかいないのに、9人全員の進む先がバラバラだった。そしてみんなが、ひとり暮らしをすると決めていたのだった。
「……ねぇ」
「ん?」
「……みんなはさ、西黒沢から出ることに、ためらいはないん?」
「え?」
思わず漏れた言葉だった。僕の言葉に、みんなの視線がまたこちらを向く。
何を言っているんだ、とでも言いたげな空気に、小さく唾を飲み込む。すると、春太は首をかしげて笑いながら、大きな声を発した。
「そりゃ、ちょっとはあるよ。でもさ……出んと、なんも始まらんじゃん」
そんな春太の言葉に明菜が大きく頷き、ストーブ越しに言う。
「うち豆腐屋じゃけど、家の仕事継ぐつもりないし。都会でバイトして、遊んで、可愛いケーキとか食べてさ! ためらい以上に、いろんなもの見てみたい気持ちんが強いんよね」
健作はパンを食べながら、もごもごと言う。
「オレはひとり暮らししたら、夜更かしし放題じゃけぇ楽しみ。それに、どんだけ甘いお菓子食べても、かあさんに叱られんじゃろ」
「健作らしい理由すぎる!」
他のみんなも、明るい言葉を発した。
それは、誰もが自然に持っている〝前に進む言葉〟だった。
「和政、お前の気持ちはわかる。大なり小なり、誰だって西黒沢から離れる寂しさは感じとる」
「……」
みんなが優しくうなずく。
眩しくて、輝かしくて、みんな前向きで……僕は、何も言えなかった。
「……んにゃ」
教卓の上のクロが立ち上がり、軽く体を伸ばす。そして軽い足取りで教卓を降りて、僕の足に擦り寄ってきた。
まるでクロが——慰めてくれているみたいだった。
「……クロ」
ストーブの音が、教室に広がっていく。
みんなが笑っている。それなのに僕だけが、なんだか遠ざかっていくような気がした。
◇
「……ねぇ、クロ。僕はおかしいんかな?」
やりきれない感情を、白い息と共に吐き出す。
校舎の裏口からクロと一緒に出て、体育館への渡り廊下で腰を下ろした。
コートを着て手袋もしたけれど、それでも寒い。
ここ西黒沢地区の冬は、気温がマイナスになることの方が多い。
僕は寒さに慣れているつもりだけど、それでも寒いものは寒い。
「クロ。僕たちが卒業したら、君はどうするん?」
僕の膝の上で体を丸めて、持っていたタオルに包まる。
クロは何も言わないけれど、静かにいてくれる。
桜舞う春、ピンクと緑と、川の青。
真っ青な空に、真っ白な入道雲。暑いのに爽やかな夏。
赤と黄の葉がアスファルトを埋める。どんぐり、まつぼっくり、秋の匂い。
雪が舞い、静かな西黒沢が白くなる冬。
考えれば考えるほど、西黒沢の四季が鮮明に思い浮かぶ。どれも大好きで、心に残る故郷の情景。
そのとき、ふと自分の感情に気づいた。
あぁ、そうか。
僕はきっと——西黒沢の自然が好きなんだ。
雪は今も静かに降り続けていた。
世界の音が、全部、雪に吸い込まれていくみたいだった。
「和政」
「……」
振り返ると、後ろに坂本先生が立っていた。
先生は上着を着ずに出てきて、「さむっ」と身震いをしている。
「和政、中入りんさい。クロが寒そうだよ。君も風邪引く」
「……先生」
その瞬間、涙がひとつ零れ落ちるのがわかった。
冷えた頬に涙が伝って、微妙な温もりを感じる。
驚いた顔をした先生は、急いで僕の元に駆け寄ってしゃがみ込む。そしてポケットから取り出したハンカチで、目元を拭ってくれた。
「まだ、進路を悩んどるん?」
「……うん」
消えそうな声で返事をすると、先生はふぅと小さく息を吐いて頷く。
「まぁ、そうよね」
僕たちを静寂が包み込む。先生はそのまま黙り込んでしまった。
「……ねぇ、先生。クロは僕が悩んどると、そばにいてくれる」
「クロはいつもそうだよ。悩んどる子に寄り添ってくれる。今は和政」
「……」
水色の服を着たままのクロは、体を丸めて僕にピッタリとくっつく。
先生の言うとおり、寒そう。
暖かい教室に戻ろうと腰を上げると、先生は「和政」と僕を呼んだ。
「西黒沢を出て、違う世界で生きてみるのも悪くないと思う。そうすればきっと、西黒沢の良さを、より実感できると思うんよね」
「……」
「違う世界を見て、それでも西黒沢にいたいと思ったら、また戻ってくればいい」
よく冷えた先生の手が僕の頭に乗り、優しく髪をわしゃわしゃとかき乱す。僕の膝上で丸くなっていたクロは「んにゃー」と鳴き声を出す。
なんだかクロも、先生の言うことを肯定しているようだった。
いつまで逃げていても、何も始まらない。
高校に行かないという選択肢はない。家から送迎はしてもらえない。ならば、西黒沢を出てひとり暮らしをするしかない。
結論は出ているんだから。
あとは——僕が覚悟を決めるだけ。
「……先生」
「ん?」
「ありがとう。クロも、ありがとう。僕、覚悟を決める。進路、決めるよ」
「……うん」
「にゃーん」
満面の笑みを浮かべた先生は、身震いをしてくしゃみをした。
僕はクロを抱えて校舎内に戻り、教室に歩いて行く。先生は職員室に入って行く。
ギシギシと軋む木の床。壁の隙間から入り込む冷気。
西黒沢中学校との別れまで、あとすこし。



