家に戻るとお母さんが慌てて玄関に出てきた。怒られるかもしれない。思わず身構えると、ぎゅっと抱きしめられる。照れくさくなると同時に、鼻の奥がツンとした。
「無事で良かった……心配したよ」
「飛び出してごめん」
私が戻ると二階からお姉ちゃんが降りてきた。一瞬私を見てから、決まり悪そうに目をそらす。
「お祝いのケーキ、どこのにする? 息抜きになるし、私も一緒に選びたい。それから……今までごめん」
ぶっきらぼうな言葉から、お姉ちゃん本来の優しさがにじみ出ているような気がした。心の中が、ほわんと温かくなる。
「ありがとうお姉ちゃん」
「ありがとうとかいわないでよ。悪かったの、私だし」
もしかしたら、昔みたいに仲良くなれるかな。
なれるよって、小麦君とつないだ右手の小指が答えてくれているような気がした。
一晩すぎて、今日は陽だまり亭のバイト最終日だ。私は早くから元気に家を出る。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい、気を付けて」
昨夜、私がどこに行ってるのかという話になって、森の中にある陽だまり亭の話をしたのだ。
お姉ちゃんもお母さんも知らなかった。いつか三人で行こうねって話になったから、今度連れて行ってあげようと思う。
「おはようございます!」
「おはよう望」
「昨日はありがとう」
昨夜、小麦君に泣き顔を見られたのを思い出して少し恥ずかしくなる。顔が熱くなるのは、恥ずかしいからだ。
「良かったな、望」
「うん。あ、看板、めっちゃできてる!」
「今日絶対完成させたいから昨日マスターと一緒に頑張った」
「ありがとう」
出来上がり間近の看板を小麦君と眺めていると、カウンターの奥からマスターが姿を見せた。
「おはよう望ちゃん、早いね」
「今日で最後だから早く来たくって」
「そっか、今日で最後かぁ。すごく助かったよ、望ちゃんいなくなるの寂しいなぁ」
「私の方こそ、本当にお世話になりました。今度お姉ちゃんとお母さんを連れてきます」
「おいでおいで、美味しいコーヒーで迎えてあげるよっていいたいところなんだけど、実はこの店も移動なんだ」
「移動?」
「うん、このお店、トレーラーハウスになっていてね。僕は日本中を旅しながらカフェを営業してるんだ。もう少しこの場所にいるつもりだったけど、呼ばれちゃって」
「なくなっちゃうんですか?」
私は小麦君を見る。
「ごめんな望、俺も行かなくちゃいけない」
私も、私も一緒に行きたい。でも、私の居場所は家だ。やっぱりここじゃない。
「また、会えますか?」
「いつかね」
マスターは答えてくれたけど、小麦君は曖昧に笑っただけだった。その笑顔が、なんだか寂しそうに見えて、私は不安になる。もう、二度と会えないのかもしれない。
「さぁ、満月森での最後の営業だ、よろしく頼むよ二人とも」
最後だから頑張らなくちゃ。恩返しの意も込めて、私は今まで以上に一生懸命働いた。忙しくしていないと、悲しさが込み上げてしまうような気もしたから。
スミレさん、ノワルのおじいさん、いろんな常連さんが来てくれた。みんな今日が最後の日だってわかっていたみたい。
窓から陰り始めた日が見える。もうすぐ終業の時間だ。
「お疲れ様、ちょっと早めに閉めて、コーヒーをご馳走しようかな。今日は小麦も美味しい満月シフォンを焼いてるだろ? 満月アイスコーヒーと一緒に食べよう」
「そうだな、持ってくる」
カウンター席に座って、小麦君が持ってきてくれたシフォンケーキとマスターが入れてくれたコーヒーを飲む。
「今まで食べたどんなケーキよりも、このシフォンケーキが美味しい」
「望にそういわれると嬉しいな」
また食べたいって、いっちゃいけないんだと思う。きっと、小麦君はさっきみたいに困ったよう顔をする。
頬を、一筋の涙が伝った。
「おかしいな、美味しすぎて泣けちゃう」
飲み込んだコーヒーが少ししょっぱい。塩なんか、入っているはずもないのに。
「望、今日は家まで送っていくよ」
「いいの?」
「うん、俺が送りたいから」
コーヒーをゆっくりゆっくり飲み終えて、マスターにお礼をいってから小麦君とお店を出る。
差し出される手を取って、つなぐ。温かな手だ。その温かさが、心を震わせて涙が落ちそうになる。
「ありがとう望」
「それは私のセリフだよ」
「いいや、俺は望に助けられたんだ。だから君のことを助けたかった。恩返しのつもりだたんだけどさ。俺――」
「恩返し?」
言葉を切った小麦君に、私は尋ねる。だけど、私の問いに小麦君は優しく微笑むだけだ。その笑顔があまりに儚げで、このまま消えてしまいそうに見えた。まるでもう二度と、会えないと告げるような笑顔。
「ねぇ、また会えるよね?」
「……ごめんな望」
「嫌だ、嫌だ嫌だ、どこにいくの? また会えるんだよね、いつか、ずっと先の未来でもいいから。約束したよね一緒にお店をやろうって。私――」
小麦君のことが好き。
生まれて初めて感じた感情は、音にできない。
小麦君の右手が私の頬に触れる。その時初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「ありがとう、望。泣いてくれて」
余計に涙が流れてしまう。小麦君の手が、あまりに優しいから。この先はいわないでって、そう告げられているような気がする。
でも、私のままでいいっていってくれたのは、小麦君だから。
「好きだよ、小麦君のことが好き」
思いを、音に乗せる。
私の言葉に、小麦君は嬉しそうな、今にも泣きだしそうな笑顔を見せる。
「ありがとう」
それは、あまりにも優しい拒絶だった。
「ごめんな、約束とかいったのに、今の俺じゃ君の想いに応えられない。でも、めちゃくちゃ嬉しかった。俺のこと、好きになってくれてありがとう。伝えてくれてありがとう」
「小麦君のおかげ、私は私のままでいいっていってくれたから」
小麦君はほほ笑んで小指を立てる。
「そうだよ望、約束だから。君は君らしく」
「うん、約束する」
小麦君の指に小指を絡める。
「またいつか、会える?」って、聞きたいけど聞けない。なんとなく、聞いちゃいけない気がした。行かないで、ともいえない。小麦君はきっと困った顔で笑うから。
手をつないだまま森を抜けて、住宅街に入る。空には糸のように細い月。もうすぐ新月だ。
「望、またね。ずっと先の未来できっと君を迎えに来るから」
家の前で小麦君はそういうと、私のおでこに手を添えた。そっと、柔らかな感触が降りてくる。手を離した小麦君は、小指を立ててにっといつもの笑顔を見せた。私はその指にもう一度自分の小指を絡める。
「約束?」
「うん、約束だ。またね、望」
「またね」その言葉がたまらなく嬉しい。小麦君の約束が嬉しくて、私は涙をぬぐった。
「うん、またね!」
一度大きく手を振って、小麦君は駆けだすと闇に溶けて行った。まるで猫みたいにしなやかな動きだったと、私はあとになって気が付いた。小麦色の髪の毛、小麦君以外にもどこかで見たことがあるような。
家を振り返る。もう玄関を開けるのに深呼吸をしたりしない。
「ただいまー!」
大きな声で扉を開けると、二階からお姉ちゃんの声がした。
「望ぃ遅い! 一緒にお茶しようと思って待ってたのよ。もう夜ご飯の時間じゃん」
「ごめんごめん。息抜き?」
「そう、勉強ばっかやってても頭に入ってこないのよねー」
心の中が温かい。小麦君が触れた額がやけに熱く感じたのは、家の中が涼しかったからかもしれない。そう、思い込むことにした。
あの日以来、森の社でムーンの姿を見ることがなくなった。色素の薄い小麦色の髪を思い出す。もしかしたら――なんて、そんなことあるわけないよね。
またいつか、小麦君に会える日が来るのを、私は心の奥底で願っている。
その時はもう一度、大好きだって伝えるのだ。
「無事で良かった……心配したよ」
「飛び出してごめん」
私が戻ると二階からお姉ちゃんが降りてきた。一瞬私を見てから、決まり悪そうに目をそらす。
「お祝いのケーキ、どこのにする? 息抜きになるし、私も一緒に選びたい。それから……今までごめん」
ぶっきらぼうな言葉から、お姉ちゃん本来の優しさがにじみ出ているような気がした。心の中が、ほわんと温かくなる。
「ありがとうお姉ちゃん」
「ありがとうとかいわないでよ。悪かったの、私だし」
もしかしたら、昔みたいに仲良くなれるかな。
なれるよって、小麦君とつないだ右手の小指が答えてくれているような気がした。
一晩すぎて、今日は陽だまり亭のバイト最終日だ。私は早くから元気に家を出る。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい、気を付けて」
昨夜、私がどこに行ってるのかという話になって、森の中にある陽だまり亭の話をしたのだ。
お姉ちゃんもお母さんも知らなかった。いつか三人で行こうねって話になったから、今度連れて行ってあげようと思う。
「おはようございます!」
「おはよう望」
「昨日はありがとう」
昨夜、小麦君に泣き顔を見られたのを思い出して少し恥ずかしくなる。顔が熱くなるのは、恥ずかしいからだ。
「良かったな、望」
「うん。あ、看板、めっちゃできてる!」
「今日絶対完成させたいから昨日マスターと一緒に頑張った」
「ありがとう」
出来上がり間近の看板を小麦君と眺めていると、カウンターの奥からマスターが姿を見せた。
「おはよう望ちゃん、早いね」
「今日で最後だから早く来たくって」
「そっか、今日で最後かぁ。すごく助かったよ、望ちゃんいなくなるの寂しいなぁ」
「私の方こそ、本当にお世話になりました。今度お姉ちゃんとお母さんを連れてきます」
「おいでおいで、美味しいコーヒーで迎えてあげるよっていいたいところなんだけど、実はこの店も移動なんだ」
「移動?」
「うん、このお店、トレーラーハウスになっていてね。僕は日本中を旅しながらカフェを営業してるんだ。もう少しこの場所にいるつもりだったけど、呼ばれちゃって」
「なくなっちゃうんですか?」
私は小麦君を見る。
「ごめんな望、俺も行かなくちゃいけない」
私も、私も一緒に行きたい。でも、私の居場所は家だ。やっぱりここじゃない。
「また、会えますか?」
「いつかね」
マスターは答えてくれたけど、小麦君は曖昧に笑っただけだった。その笑顔が、なんだか寂しそうに見えて、私は不安になる。もう、二度と会えないのかもしれない。
「さぁ、満月森での最後の営業だ、よろしく頼むよ二人とも」
最後だから頑張らなくちゃ。恩返しの意も込めて、私は今まで以上に一生懸命働いた。忙しくしていないと、悲しさが込み上げてしまうような気もしたから。
スミレさん、ノワルのおじいさん、いろんな常連さんが来てくれた。みんな今日が最後の日だってわかっていたみたい。
窓から陰り始めた日が見える。もうすぐ終業の時間だ。
「お疲れ様、ちょっと早めに閉めて、コーヒーをご馳走しようかな。今日は小麦も美味しい満月シフォンを焼いてるだろ? 満月アイスコーヒーと一緒に食べよう」
「そうだな、持ってくる」
カウンター席に座って、小麦君が持ってきてくれたシフォンケーキとマスターが入れてくれたコーヒーを飲む。
「今まで食べたどんなケーキよりも、このシフォンケーキが美味しい」
「望にそういわれると嬉しいな」
また食べたいって、いっちゃいけないんだと思う。きっと、小麦君はさっきみたいに困ったよう顔をする。
頬を、一筋の涙が伝った。
「おかしいな、美味しすぎて泣けちゃう」
飲み込んだコーヒーが少ししょっぱい。塩なんか、入っているはずもないのに。
「望、今日は家まで送っていくよ」
「いいの?」
「うん、俺が送りたいから」
コーヒーをゆっくりゆっくり飲み終えて、マスターにお礼をいってから小麦君とお店を出る。
差し出される手を取って、つなぐ。温かな手だ。その温かさが、心を震わせて涙が落ちそうになる。
「ありがとう望」
「それは私のセリフだよ」
「いいや、俺は望に助けられたんだ。だから君のことを助けたかった。恩返しのつもりだたんだけどさ。俺――」
「恩返し?」
言葉を切った小麦君に、私は尋ねる。だけど、私の問いに小麦君は優しく微笑むだけだ。その笑顔があまりに儚げで、このまま消えてしまいそうに見えた。まるでもう二度と、会えないと告げるような笑顔。
「ねぇ、また会えるよね?」
「……ごめんな望」
「嫌だ、嫌だ嫌だ、どこにいくの? また会えるんだよね、いつか、ずっと先の未来でもいいから。約束したよね一緒にお店をやろうって。私――」
小麦君のことが好き。
生まれて初めて感じた感情は、音にできない。
小麦君の右手が私の頬に触れる。その時初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「ありがとう、望。泣いてくれて」
余計に涙が流れてしまう。小麦君の手が、あまりに優しいから。この先はいわないでって、そう告げられているような気がする。
でも、私のままでいいっていってくれたのは、小麦君だから。
「好きだよ、小麦君のことが好き」
思いを、音に乗せる。
私の言葉に、小麦君は嬉しそうな、今にも泣きだしそうな笑顔を見せる。
「ありがとう」
それは、あまりにも優しい拒絶だった。
「ごめんな、約束とかいったのに、今の俺じゃ君の想いに応えられない。でも、めちゃくちゃ嬉しかった。俺のこと、好きになってくれてありがとう。伝えてくれてありがとう」
「小麦君のおかげ、私は私のままでいいっていってくれたから」
小麦君はほほ笑んで小指を立てる。
「そうだよ望、約束だから。君は君らしく」
「うん、約束する」
小麦君の指に小指を絡める。
「またいつか、会える?」って、聞きたいけど聞けない。なんとなく、聞いちゃいけない気がした。行かないで、ともいえない。小麦君はきっと困った顔で笑うから。
手をつないだまま森を抜けて、住宅街に入る。空には糸のように細い月。もうすぐ新月だ。
「望、またね。ずっと先の未来できっと君を迎えに来るから」
家の前で小麦君はそういうと、私のおでこに手を添えた。そっと、柔らかな感触が降りてくる。手を離した小麦君は、小指を立ててにっといつもの笑顔を見せた。私はその指にもう一度自分の小指を絡める。
「約束?」
「うん、約束だ。またね、望」
「またね」その言葉がたまらなく嬉しい。小麦君の約束が嬉しくて、私は涙をぬぐった。
「うん、またね!」
一度大きく手を振って、小麦君は駆けだすと闇に溶けて行った。まるで猫みたいにしなやかな動きだったと、私はあとになって気が付いた。小麦色の髪の毛、小麦君以外にもどこかで見たことがあるような。
家を振り返る。もう玄関を開けるのに深呼吸をしたりしない。
「ただいまー!」
大きな声で扉を開けると、二階からお姉ちゃんの声がした。
「望ぃ遅い! 一緒にお茶しようと思って待ってたのよ。もう夜ご飯の時間じゃん」
「ごめんごめん。息抜き?」
「そう、勉強ばっかやってても頭に入ってこないのよねー」
心の中が温かい。小麦君が触れた額がやけに熱く感じたのは、家の中が涼しかったからかもしれない。そう、思い込むことにした。
あの日以来、森の社でムーンの姿を見ることがなくなった。色素の薄い小麦色の髪を思い出す。もしかしたら――なんて、そんなことあるわけないよね。
またいつか、小麦君に会える日が来るのを、私は心の奥底で願っている。
その時はもう一度、大好きだって伝えるのだ。



