「望、今夜は満月祭りがあるから一緒に出掛けよう」

 陽だまり亭で過ごし始めて二週間が経ったころ、小麦君がお祭りのことを教えてくれた。ずっとこの町に住んでいるけれど、満月祭りなんて聞いたことがない。

「お祭りがあるの?」
「うん。この森から向こう側であるお祭りだから、望は知らないんだろうな。いろんな出店が出て楽しいよ、マスターもコーヒーゼリーとアイスキャンディーを出すんだよな?」
「少しだけね。お店は閉めるし、夕方から小麦と一緒に行ってきたらいいよ。望ちゃん、浴衣はあるかな?」

 マスターに問われて、私は曖昧に微笑んで首を横に振った。お姉ちゃんのお古ならあるかもしれないけれど、お祭りに行くなんていい出しにくい。
 お姉ちゃんは夏期講習の真っ最中のはずだ。私だけ遊んでいるとわかったら、お姉ちゃんは嫌な顔をするだろう。

「浴衣は、ないと思います」

 私が答えると、窓際の席からパチンと手をたたくような音がした。

「私が貸してあげるわ、私のお古だけどそんなにデザインは古くないし、着付けもしてあげるわよ」
「本当ですか!」

 にっこりと笑顔を見せてくれたのはスミレさんだった。

「娘の着付けをするみたいで楽しいわ。一度戻って用意してくるわね」
「ありがとうございます!」

 スミレさんやマスター、小麦君の心遣いが嬉しい。夕方が近づくと、お母さんに連絡を入れた。帰りが少し遅くなることを伝えておかなければいけない。帰ってきた返事はそっけなかったけど、今夜ばかりはありがたかった。

「あぁ、可愛いわ、よく似合う」

 控室でスミレさんは手際よく着付けをしてくれる。浴衣なんか着たのはいつぶりだろう。お古だっていっていたけれど、すごく綺麗で、色や模様も私の好みだった。

 水色の生地に、朝顔の絵が描かれている。

「すごく素敵な浴衣ですね」
「もう一度日の目を見せてあげられて嬉しいわ。着てくれてありがとう」
「お礼をいうのは私です、こんなに綺麗な浴衣、着たことありません。本当に、嬉しい!」

 はしゃぐ私を見て、スミレさんは目を細めた。

「昔、この浴衣を着て主人と一緒に満月祭りに行ったのよ」

 スミレさんは懐かしそうに目を細めた。

「そんな大事な浴衣……」
「えぇ、だからこそあなたに着てもらいたかったのよ。今日は楽しんでいらっしゃい」
「ありがとうございます!」

 私はスミレさんに何度もお礼をいって表に出た。私が姿を見せると、小さな歓声があがる。お店の外には甚平姿の小麦君がいた。黒の甚平がよく似合っている。

「よく似合ってる」
「小麦君も! とっても素敵!」
「本当は浴衣が良かったのに、マスターが甚平にしろっていって聞かないんだ。まぁ望が誉めてくれたからいっか」
「本当によく似合ってるよ、とっても格好いい!」

 私がそういうと小麦君は頬を赤く染めた。色白だから赤くなったのはがよくわかる。照れているみたい。

「望の方が似合ってるよ、とっても綺麗だ。さぁ、行こう!」
「え……」

 小麦君はにっと目を細めると、私の手を引いて駆け出した。私はドキドキと鳴る心臓の音がうるさくて、周りの音がよく聞こえてこない。
 繋いだ手が、温かい。

 暗く染まり始めた空で一番星が輝き始める。陽だまり亭から森の奥へ、小道を抜けるとがやがやとした声が聞こえてきた。明るい満月が森の中を照らす。声のする方には一際明るい光が見えた。

「もうすぐだ」

 小麦君に手を引かれるまま光の中へ飛び込む。あまりの眩しさに私は目を閉じた。堅くつむった瞼を少しずつ目を開ける。

「わぁ!」

 そこには賑やかなお祭りの景色が広がっていた。あらゆる場所に灯された提灯や灯篭の明かりが、辺りを煌々と照らしている。

 広い道の両脇には露店が立ち並んでいた。虹色のわたあめ、不思議な形をしたフルーツ飴、美味しそうな匂いを放つ食べ物たちが、所狭しと並べられている。

「すごい! こんなお祭り、来たことないよ」
「今夜は思いっきり楽しもう! この先に満月神社があるからお参りもしていこうな」

 小麦君に手を引かれて、光に照らされた道を歩く。

「何したい? わたあめを食べよう、それともフルーツ飴のほうがいい?」
「わたあめが食べたい」
「よし、あとお面も買おう。何がいい?」

 小麦君はお面の並ぶ露店の前で指をさす。犬に猫、ウサギやハムスターのお面なんかもある。とってもかわいい。

「これ、ムーンに似てるかも。これにしよう」

 私は淡い黄色の猫のお面を指さす。

「似てるかなぁ」
「似てるよ。これをください、いくらですか?」

 私が財布を取り出そうとすると小麦君がその手を止める。

「マスターから二人分のお小遣いをもらってるんだ。だからお代は俺が払うよ」
「そんな! 悪いよ!」
「いいんんだよ、それに、君の持ってるお金じゃきっと使えないからさ」
「え?」

 小麦君はお店の人にお金を手渡す。小麦君も猫のお面を買って、二人でつける。

「似合うな望」
「小麦君も、似合うよ」
「当たり前だろう。俺はなんでも似合うんだ」

 虹色のわたあめを買って、金魚すくいをしたりヨーヨー釣りをしたり。まるで子供のころに戻ったみたい。
 露店の金魚は透明で、熱帯魚みたいにキラキラと光って見えた。小麦君は金魚すくいがすごく上手だ。

「この金魚、お店に置いてもらおうか」
「それいいな。望、ちゃんと餌やれよ」
「もちろんだよ、大事にする!」

 ゆらゆらと泳ぐ金魚を丁寧に運びながら、私は笑顔で答えた。夏休みに入る前は、こんなに楽しい日々が訪れるなんて、少しも思わなかった。

 これもすべて、陽だまり亭で小麦君に出会えたおかげだ。そして小麦君に会えたのは、ムーンのおかげだ。

「小麦君、本当にありがとう」

 思わず思いがあふれだす。こんなに温かな気持ちになれるなんて、思わなかった。

「それはこっちのセリフだよ望。望は俺にとって特別なんだ」
「え?」

 私が隣を歩く小麦君を振り返った瞬間、大きな音がした。

「見て望、花火だ」

 空に大倫の花が咲く。いくつもいくつも、美しい円を描きながら光が散らばっていく。

「望には、笑顔でいてもらいたいんだ。俺は望の笑顔が好きだから。だから約束してくれよ」
「小麦君のおかげで笑顔になれたよ。本当にありがとう。これからもよろしくね」

 胸に灯る温かな灯ともに、言葉が音に乗る。私の言葉に小麦君は曖昧な笑顔で応えたのに、はしゃいでいた私は気が付かなかった。

「この先が神社だ、望にお守りをもらってやるよ」
「お守り?」
「そう、ここのお守りはよく効くんだ。さぁ、まずはお参りをしよう。お賽銭にはこの星を投げて」

 コロンと手の上に乗せられたのは金平糖のような可愛い星だ。どんな素材出てきているのか、小さな星は燃えるようにちらちらとしている。

 お賽銭箱に星を投げ込んで、私は目を閉じた。

 神様、私を陽だまり亭に導いてくれてありがとうございました。おかげで笑顔になれました。

 この夏の出会いに感謝して、私はお参りを終える。

「お守り、好きなのを選んで」

 小麦君に連れられて、色とりどりのお守りを見る。たくさんあるお守りの中で、一つだけ目につくものがあった。淡い黄色のお守りだ。これだけ、ほんの少し光って見えた。

「これがいいな」
「じゃあそれにしよう」

 お守りをもらって、両の掌に乗せると、なんだか少し暖かく感じた。まるで、そこに命があるみたい。そっと手で包んでから、巾着の中に大切にしまう。
 そろそろ、帰らなければいけない。そう思うと足取りが急に重くなる。

「望、帰りたくないの?」

 私の足取りが重たくなったのを、手を引いてくれていた小麦君は気がついたのだろう。心配そうに尋ねてくれる。

「少し、ね。今日があんまりに楽しすぎて、現実に帰るのが少し嫌になる」

 ほんの少し、と少しだけ嘘を吐く。

「じゃぁ俺がこのまま望のことをさらってやろうか」
「え……」
「ずっと遠く、ここじゃない場所で、二人でカフェをやろう、陽だまり亭みたいな」

 そんなことは無理だ、頭ではわかってる。小麦君だって、きっと無理だって思ってる。だけど、月の光のように柔らかな小麦君の優しさが嬉しくて、私は笑顔になった。

「それ、素敵だね」
「じゃあ約束しよう。いつか、きっといつか、二人でカフェをやろう。俺は飛び切りのケーキを焼く。今は少し難しいけど、もう少し待っていてくれる?」
「じゃぁ私はマスターみたいに上手にコーヒーを淹れられるようにならなくちゃ」

 小麦君がそっと右手の小指を差し出したので、私も右手の小指を立てた。ほっそりとした二本の指が絡み合う。

「望! 今、流れ星落ちた! 奇跡みたいだ!」
「きっと叶うね」

 空に弧を描く小さな星。

 小麦君との約束が、私の心を温めてくれる。いつか、いつか私も自分の居場所を自分で作ることができるって。

「私、帰るね。明日が来るように」
「明日も陽だまり亭で待ってる。金魚、きちんと水槽に入れておくよ」
「うん、お願い」

 小麦君は森のはずれの社まで私を送り届けてくれた。

「もう一人で大丈夫だよ、ありがとう」
「望、また明日」
「うん、また明日ね」

 少しだけ軽くなった足取りで家に向かう。

 途中で浴衣を着替えなければいけないことに気が付いたのだけれど、なぜか私は家を出たときに服装に戻っていた。

「あれ、お店で着替えてきたっけ……」

 小麦君と歩いた森の道を思い出す。お店には寄らなかったはずなのに。不思議だ、もしかしたら、今夜のお祭りは夢だったのかもしれない。

 家に着く前に私はポーチの中を見た。そこには巾着に入れたはずのお守りがきちんと入っている。

「夢じゃない」

 夢じゃないはず。もしかしたら、浮ついた心でいたので記憶が飛んでいるのかもしれない。私は自分に起こった不思議な現象をそう片付けることにした。

 自宅が見えてくる。二階の明かりが煌々とついていた。お姉ちゃんはまだ勉強しているのだろう。

 私は小さく息を吐いて、玄関の扉を開ける。運悪くお姉ちゃんが階段を上がるところだった。

「こんな遅くまで遊び歩いて、高校生は気楽だね」

 なんていい返したらいいんだろう。「べつにいいでしょ、受験は終わったんだから」って、喉から飛び出しそうになる言葉を必死に飲み込む。

「勉強、お疲れ様」
「大学受験はね、高校とは全然違うんだから」

 自分を納得させるようにそういうと、お姉ちゃんは階段を駆け上がる。

 今年の冬は二人で受験生だった。二階の部屋は大学受験のお姉ちゃん専用。私はリビングや図書館、学校で勉強していた。
 私が目指したのはお姉ちゃんが通っていた難関校、もちろん滑り止めも受けた。子供のころから出来の良かったお姉ちゃんと同じ高校に入れるだなんて、自分でも思っていなかったけど、自信が欲しくて受験に踏み切った。もしも受かったら、お母さんも少し私のことを見直してくれるんじゃないかって、期待して。

 必死に頑張って頑張って、合格したときはとても嬉しかったのに。

「お姉ちゃんは来年も頑張らなきゃいけないから、望の合格お祝いも来年お姉ちゃんとしようね。だから、今年はあんまり喜んじゃ駄目よ」

 なんで、喜んじゃいけないんだろう。

 私はこんなに嬉しいのに、お母さんはどうして全然嬉しそうじゃないんだろう。

 私ってなんだろう。

 初めてできた彼氏にも「思っていたのと違った」といわれた。

 私って、なんなんだろう。

 自分が何なのかわからなくなっていた。それが、陽だまり亭で過ごすうちに思い出してきた。私は私だ。お姉ちゃんとは、関係ない。

 そう思うとすっと心が軽くなる。

「お母さんただいま、楽しかったよ」

 リビングの扉を勢いよく開けた。

「静かにして、上でお姉ちゃんが勉強してるから」
「わかってるよ。お姉ちゃんの勉強が大事なのはわかってる。でもさ、私の気持ちも大事だよ」

 困ったような顔をするお母さんにそう告げると、お母さんは少し面食らったような顔になった。

「お風呂入ってくるね、おやすみなさい。作ってないと思うけど、ごはんは食べてきたからいらないよ」

 空では、きっとあの優しい満月が私を照らしてくれている。小麦君と交わした約束を胸で温めながら、私は一人リビングを後にした。