校庭の白樺で鳴く蝉の声がけたたましい。連日の猛暑で校内はむせ返るような暑さだった。
思わずノートでぱたぱたと仰ぐと、前の席から苦情が飛んでくる。
「ラメがとんでっちゃうよ」
「ごめん」
ポニーテールを揺らす奈々子の机の上には色とりどりのネイルの瓶が並んでいた。
「奈々子は器用だねぇ」
「望のもやってあげるっていってるのに」
「ありがと、嬉しいけど親に怒られちゃうから」
「望の家は厳しいね、箱入りなんだから」
憐れむ表情をする奈々子に、私は曖昧な笑みを返した。お母さんが身だしなみに厳しいのは、何も私のためじゃない。
ほどなくして先生がホームルームを始める。窓の外を優雅に歩く猫に視線を移していた私は、先生の話を上の空で聞いていた。
明日からの夏休み、どこで過ごすべきか思い悩んでしまう。
チャイムの音とともにホームルームは終わり、席を立つ音を皮切りに教室は騒々しさを取り戻した。
「望、買い物行こう」
「いいね、行こう行こう」
綺麗にネイルが施された爪で髪を払いながら奈々子が後ろを振り返ってきた。
そのまま仲の良い友達と連れ立って繁華街に繰り出して、買い物したりカフェで恋バナしたり。特に奈々子の話は華やかだ。
「バイト先の先輩から告られたんだけどさ」
「奈々子彼氏いるじゃん」
「だからもちろん断ったんだけどさ、なんか未練がましくて困ってるんだよね」
奈々子は華やかに染まった指でポニーテールの毛先をくるくると巻き取っている。
「修羅場にならないようにねぇ」
「なんないなんない。でも最近彼氏がバイト先まで迎えに来てくれるようになった」
「愛されてるねぇ奈々子は」
「過保護すぎて困ってるんだけどねぇ。束縛?」
可愛くて明るい奈々子のことを好きにならない人なんかいないと思う。私も例外ではない。
奈々子の悩みを「大変そうだな」と聞いていると、「望はさ」と突然話題が振られて驚いた。
「彼氏とどう?」
どう? と聞かれても困ってしまう。私は、ひゅうと吹き抜ける風とともに小さなため息をついた。
「それがさ、この前別れちゃったんだよね。性格が合わなかったというか、振られちゃったというか」
「そっか。正解だよ、あんなやつに望はもったいないもったいない」
「望の彼氏って奈々子の前の彼氏の友達でしょ、別れちゃったんだ、結構格好良かったのに」
今まで男っ気のなかった私にも、少しだけ付き合った男の子がいる。奈々子の紹介で知り合った違う学校の子だった。奈々子の彼の友達。
四人で遊ぶうちになんとなく流れで付き合うことになったけど、誰かと付き合うなんて初めてだった私にはそもそも『誰かと付き合う』ということがどういうことなのかわかっていなかったのだと思う。
ある日、その子が奈々子の彼氏に「思ってたのと違う」といっていたのを聞いてしまった。
その後どんな顔をして会ったら良いのかわからなくなってしまって、結局別れることになった。
私から別れ話を切り出したとき、ホッとしたようなあの子の顔が今でも頭に残っている。
きっとあの子は、奈々子みたいな女の子を私に求めていたんだと思う。
彼にとっても、私は不良品だったのだろう。
「早く新しい恋を見つけようよ! 気になる人とかいないの?」
問われて私は曖昧な笑みをこぼした。
「いないなぁ」
「その辺の男に望は渡せませんからぁ、私のお眼鏡に適わないと」
奈々子がそういって私の頭を撫でてくるから、私は「あはは」と笑った。別に恋愛に興味がないわけじゃないし、誰かの恋バナは大好きなんだけど。私は恋なんてできないと思う。
「じゃぁまたねぇ」
「夏休み中も連絡するから遊ぼ」
「バイト忙しいかも」
「空いてる日あったら連絡して」
太陽が傾きかけたころ、みんなと別れて帰路につく。一人になると何ともいえない寂しさが襲ってくる。友達と過ごす時間は楽しいけれど、それは刹那的なもので、私の中の言葉にしがたい孤独を埋めてくれるものではない。
「帰りたくないな」
オレンジ色に染まり始めた雲が浮かぶ空を見上げて、私はため息を吐いた。ワクワクとしたものであるはずの夏の香りは、今の私には息苦しい。
家に、帰りたくない。
自ずと足は自宅とは反対方向にある森へと向かう。家の近くには町中だというのに小さな森があった。木々の生い茂った森はまるで異世界のようだ。
日が陰り始めた森の中に、私は逃げるように足を進めていた。子供のころからよく遊びに来た森だけど、思いのほか奥深く、つい最近まで行ったことのない場所があった。そこに忘れ去られたような古い社がある。朽ちた朱色の鳥居の向こうに佇む小さな社。
去年の夏、受験の息抜きにとこの森をぶらぶらしているときに見つけたのだ。小さな鳥居と、一畳ほど大きさの社には、誰かが餌付けをしているのか、多くの猫が住み着いていた。中には首輪をしている子もいるから野良猫ばっかりじゃないのかもしれない。
猫の姿を見ていると落ち着く。私の理解者は、かつて仲が良かった大親友の猫だけだから。
どの猫も人に慣れていて、私のことを怖がらない。中でも一匹の子猫が私に懐いてくれていた。その子は私の姿を見るとすぐによってきてくれる。
金色帯びたその猫のことを、私は勝手にムーンと呼んでいる。ムーンは私の大親友にそっくりだぅた。まるで生まれ変わりではないかと思うほどに、陽だまりで丸くなる姿も似ている。
私が近づくと、ムーンは今日も私に寄ってくる。
「こんにちはムーン、今日も出迎えてくれるのね。ありがとう」
私はムーンに微笑みかける。
猫が好きだ。猫だけじゃない、犬も、ウサギなんかの小動物も、動物園にいるような大きな動物も、私は大好きだ。
だけど家ではもう飼えない。だから猫好きの私にとってこの社は最高の場所だった。
「帰りたくないなぁ」
思わずこぼれた言葉に、私の足元で丸まっていたムーンが体を起こした。私の言葉がわかるのだろうか、ムーンは私を見て丸い目を瞬かせる。
「もしかして、どうしたのって聞いてくれるの?」
猫相手だ、私は話してみてもいいような気がする。私の親友は、いつだって猫なのだ。
私の中を満たしている不安が思わずこぼれそうになる。だけど、言葉にしてしまうと、なんだか余計に虚しくなるような気がして、私は自分の中を満たしている感情を曖昧な笑みとともに飲み込んだ。
「ううん、なんでもないんだ。また明日来るね、じゃあね」
私はムーンの喉を撫で、猫たちに手を振ると、重たい足を引きずるようにとぼとぼと森を抜けた。
海沿いの商店街を抜けると石畳の階段がある。その階段を半分くら上ると私の家があった。
二階の部屋の明かりが煌々とついている。
玄関の扉を音を立てないように静かに開けた。
音を立てないように慎重に扉を閉めてから、忍ぶように家の中に入る。その場で「ただいま」とはいわずに、きっちりと閉められたリビングの扉を開けた。キッチンで夕食の用意をしている母の背中が見えてから、小さな声で「ただいま」とつぶやく。
「あら、望、帰ってきたのね。お姉ちゃん上で勉強してるから邪魔しないように。テレビ、つけないでね」
「わかってるよ」
二階ではお姉ちゃんが受験勉強をしている。浪人が決まって以来、お姉ちゃんは当然のこと、お母さんもどこかピリついた空気をまとっていた。その色が日に日に濃くなるような気がする。空気が薄く息苦しく感じてしまうのは、気のせいじゃない。
「華はまだ降りてこないから先に夜ご飯食べちゃいなさい。あ、待って、やっぱり先にお風呂に入って、後で華が入りたがるかもしれないから今のうちに」
リビングの隅に鞄を置いた私は、寝間着を取り出してきて風呂に向かう。お腹はかなり空いていたけれど、ここで私に選択権はない。
いつだって、我が家の中心にはお姉ちゃんがいる。私は、お姉ちゃんの邪魔をしないよに、迷惑をかけないように生活しなければならない。
そんなことは別にいい。少し不便だけど、慣れたら気にするほどではない。私が恐れているのは、そんなことじゃない。
お風呂に向かうと二階から降りてきたお姉ちゃんと鉢合わせた。思わず身を固くする。
「お、お姉ちゃんお風呂にする? ごはん? 私、これからお風呂に……」
「お風呂入るならさっさと行って」
「うん」
嫌なものでも見るような目でいわれて、私は慌てて脱衣場に駆けこんだ。
一度目の大学受験に失敗してから、お姉ちゃんは人が変わったようになった。もともとこういう性格だったのかもしれないなんて、思いたくない。
小学生のころは仲が良かった。可愛くて賢いお姉ちゃんのことを、私も好きだった。取り柄のない私は、ずっとお姉ちゃんみたいになりたいと思っていたくらいだ。あの頃はお姉ちゃんも私に優しかった。大親友の猫もいた。あの頃は本当に毎日が楽しかった。
過ぎ去ってしまった日々は、今では夢であったかのようだ。
高校に入ってからお姉ちゃんは少し変わった。風邪をひいて志望校に落ちてしまったからかもしれない。滑り止めの高校に入ってから、お姉ちゃんは少しイライラするようになった気がする。
その後私がお姉ちゃんと同じ高校に合格したのも気に入らなかったみたい。
そんなことはどうでもいいのだ。もう慣れたから。今の私には目下考えるべき事柄があった。明日からの夏休み、どれだけ家にいないことができるのか、私は考える必要がある。期末試験なんかよりもこちらの方が難題だ。
奈々子たちだって各々の予定があるのだから私に付き合わせるわけにはいかない。お家でくつろぐ時間だってあるだろう。
私は家にいたってくつろげるわけじゃない。
お姉ちゃんの視界に少しでも入らないようにするためにも、家を空ける必要があった。
湯船に沈むと空腹が和らぐ。お母さんの作っていた夕食を思い出した。どれもお姉ちゃんの好きな食べ物ばかり。
思えばここ数年いつもそうだった。私の好きな食べ物はなんだったかなって考えちゃうくらい。
二人で使用することになっていた二階の子供部屋は、いつの間にかお姉ちゃんだけの部屋になった。私の寝具がおいてあるのは、物置として使っている洋間の手前半分。ベッドを置いたら、もう一歩も歩くスペースはない。勉強はリビングのテーブルでやっている。
明日からは本と宿題をもって、可能な限り図書館やあの森の社で時間をつぶすしかない。
図書館での長居は難しいだろう。家での勉強に疲れたお姉ちゃんが来るかもしれない。
本だけを借りて、社で過ごすのがいい。飽きるまでそうしてみよう。社を借りる代わりに猫たちに食事を提供してもいいかもしれない。いつしか減らされたお小遣いでだって、猫のご飯を少しくらい買うことはできるはずだ。
私は長い夏休みを森の中で過ごすことに決めた。
手早く風呂から上がり、そそくさと食事を済ませると早々に洋間に身を隠す。東側に設けられた窓から、瞬くような星が見えた。
今夜は新月なのだろう。月の光のない夜は、星がやけに綺麗だった。
思わずノートでぱたぱたと仰ぐと、前の席から苦情が飛んでくる。
「ラメがとんでっちゃうよ」
「ごめん」
ポニーテールを揺らす奈々子の机の上には色とりどりのネイルの瓶が並んでいた。
「奈々子は器用だねぇ」
「望のもやってあげるっていってるのに」
「ありがと、嬉しいけど親に怒られちゃうから」
「望の家は厳しいね、箱入りなんだから」
憐れむ表情をする奈々子に、私は曖昧な笑みを返した。お母さんが身だしなみに厳しいのは、何も私のためじゃない。
ほどなくして先生がホームルームを始める。窓の外を優雅に歩く猫に視線を移していた私は、先生の話を上の空で聞いていた。
明日からの夏休み、どこで過ごすべきか思い悩んでしまう。
チャイムの音とともにホームルームは終わり、席を立つ音を皮切りに教室は騒々しさを取り戻した。
「望、買い物行こう」
「いいね、行こう行こう」
綺麗にネイルが施された爪で髪を払いながら奈々子が後ろを振り返ってきた。
そのまま仲の良い友達と連れ立って繁華街に繰り出して、買い物したりカフェで恋バナしたり。特に奈々子の話は華やかだ。
「バイト先の先輩から告られたんだけどさ」
「奈々子彼氏いるじゃん」
「だからもちろん断ったんだけどさ、なんか未練がましくて困ってるんだよね」
奈々子は華やかに染まった指でポニーテールの毛先をくるくると巻き取っている。
「修羅場にならないようにねぇ」
「なんないなんない。でも最近彼氏がバイト先まで迎えに来てくれるようになった」
「愛されてるねぇ奈々子は」
「過保護すぎて困ってるんだけどねぇ。束縛?」
可愛くて明るい奈々子のことを好きにならない人なんかいないと思う。私も例外ではない。
奈々子の悩みを「大変そうだな」と聞いていると、「望はさ」と突然話題が振られて驚いた。
「彼氏とどう?」
どう? と聞かれても困ってしまう。私は、ひゅうと吹き抜ける風とともに小さなため息をついた。
「それがさ、この前別れちゃったんだよね。性格が合わなかったというか、振られちゃったというか」
「そっか。正解だよ、あんなやつに望はもったいないもったいない」
「望の彼氏って奈々子の前の彼氏の友達でしょ、別れちゃったんだ、結構格好良かったのに」
今まで男っ気のなかった私にも、少しだけ付き合った男の子がいる。奈々子の紹介で知り合った違う学校の子だった。奈々子の彼の友達。
四人で遊ぶうちになんとなく流れで付き合うことになったけど、誰かと付き合うなんて初めてだった私にはそもそも『誰かと付き合う』ということがどういうことなのかわかっていなかったのだと思う。
ある日、その子が奈々子の彼氏に「思ってたのと違う」といっていたのを聞いてしまった。
その後どんな顔をして会ったら良いのかわからなくなってしまって、結局別れることになった。
私から別れ話を切り出したとき、ホッとしたようなあの子の顔が今でも頭に残っている。
きっとあの子は、奈々子みたいな女の子を私に求めていたんだと思う。
彼にとっても、私は不良品だったのだろう。
「早く新しい恋を見つけようよ! 気になる人とかいないの?」
問われて私は曖昧な笑みをこぼした。
「いないなぁ」
「その辺の男に望は渡せませんからぁ、私のお眼鏡に適わないと」
奈々子がそういって私の頭を撫でてくるから、私は「あはは」と笑った。別に恋愛に興味がないわけじゃないし、誰かの恋バナは大好きなんだけど。私は恋なんてできないと思う。
「じゃぁまたねぇ」
「夏休み中も連絡するから遊ぼ」
「バイト忙しいかも」
「空いてる日あったら連絡して」
太陽が傾きかけたころ、みんなと別れて帰路につく。一人になると何ともいえない寂しさが襲ってくる。友達と過ごす時間は楽しいけれど、それは刹那的なもので、私の中の言葉にしがたい孤独を埋めてくれるものではない。
「帰りたくないな」
オレンジ色に染まり始めた雲が浮かぶ空を見上げて、私はため息を吐いた。ワクワクとしたものであるはずの夏の香りは、今の私には息苦しい。
家に、帰りたくない。
自ずと足は自宅とは反対方向にある森へと向かう。家の近くには町中だというのに小さな森があった。木々の生い茂った森はまるで異世界のようだ。
日が陰り始めた森の中に、私は逃げるように足を進めていた。子供のころからよく遊びに来た森だけど、思いのほか奥深く、つい最近まで行ったことのない場所があった。そこに忘れ去られたような古い社がある。朽ちた朱色の鳥居の向こうに佇む小さな社。
去年の夏、受験の息抜きにとこの森をぶらぶらしているときに見つけたのだ。小さな鳥居と、一畳ほど大きさの社には、誰かが餌付けをしているのか、多くの猫が住み着いていた。中には首輪をしている子もいるから野良猫ばっかりじゃないのかもしれない。
猫の姿を見ていると落ち着く。私の理解者は、かつて仲が良かった大親友の猫だけだから。
どの猫も人に慣れていて、私のことを怖がらない。中でも一匹の子猫が私に懐いてくれていた。その子は私の姿を見るとすぐによってきてくれる。
金色帯びたその猫のことを、私は勝手にムーンと呼んでいる。ムーンは私の大親友にそっくりだぅた。まるで生まれ変わりではないかと思うほどに、陽だまりで丸くなる姿も似ている。
私が近づくと、ムーンは今日も私に寄ってくる。
「こんにちはムーン、今日も出迎えてくれるのね。ありがとう」
私はムーンに微笑みかける。
猫が好きだ。猫だけじゃない、犬も、ウサギなんかの小動物も、動物園にいるような大きな動物も、私は大好きだ。
だけど家ではもう飼えない。だから猫好きの私にとってこの社は最高の場所だった。
「帰りたくないなぁ」
思わずこぼれた言葉に、私の足元で丸まっていたムーンが体を起こした。私の言葉がわかるのだろうか、ムーンは私を見て丸い目を瞬かせる。
「もしかして、どうしたのって聞いてくれるの?」
猫相手だ、私は話してみてもいいような気がする。私の親友は、いつだって猫なのだ。
私の中を満たしている不安が思わずこぼれそうになる。だけど、言葉にしてしまうと、なんだか余計に虚しくなるような気がして、私は自分の中を満たしている感情を曖昧な笑みとともに飲み込んだ。
「ううん、なんでもないんだ。また明日来るね、じゃあね」
私はムーンの喉を撫で、猫たちに手を振ると、重たい足を引きずるようにとぼとぼと森を抜けた。
海沿いの商店街を抜けると石畳の階段がある。その階段を半分くら上ると私の家があった。
二階の部屋の明かりが煌々とついている。
玄関の扉を音を立てないように静かに開けた。
音を立てないように慎重に扉を閉めてから、忍ぶように家の中に入る。その場で「ただいま」とはいわずに、きっちりと閉められたリビングの扉を開けた。キッチンで夕食の用意をしている母の背中が見えてから、小さな声で「ただいま」とつぶやく。
「あら、望、帰ってきたのね。お姉ちゃん上で勉強してるから邪魔しないように。テレビ、つけないでね」
「わかってるよ」
二階ではお姉ちゃんが受験勉強をしている。浪人が決まって以来、お姉ちゃんは当然のこと、お母さんもどこかピリついた空気をまとっていた。その色が日に日に濃くなるような気がする。空気が薄く息苦しく感じてしまうのは、気のせいじゃない。
「華はまだ降りてこないから先に夜ご飯食べちゃいなさい。あ、待って、やっぱり先にお風呂に入って、後で華が入りたがるかもしれないから今のうちに」
リビングの隅に鞄を置いた私は、寝間着を取り出してきて風呂に向かう。お腹はかなり空いていたけれど、ここで私に選択権はない。
いつだって、我が家の中心にはお姉ちゃんがいる。私は、お姉ちゃんの邪魔をしないよに、迷惑をかけないように生活しなければならない。
そんなことは別にいい。少し不便だけど、慣れたら気にするほどではない。私が恐れているのは、そんなことじゃない。
お風呂に向かうと二階から降りてきたお姉ちゃんと鉢合わせた。思わず身を固くする。
「お、お姉ちゃんお風呂にする? ごはん? 私、これからお風呂に……」
「お風呂入るならさっさと行って」
「うん」
嫌なものでも見るような目でいわれて、私は慌てて脱衣場に駆けこんだ。
一度目の大学受験に失敗してから、お姉ちゃんは人が変わったようになった。もともとこういう性格だったのかもしれないなんて、思いたくない。
小学生のころは仲が良かった。可愛くて賢いお姉ちゃんのことを、私も好きだった。取り柄のない私は、ずっとお姉ちゃんみたいになりたいと思っていたくらいだ。あの頃はお姉ちゃんも私に優しかった。大親友の猫もいた。あの頃は本当に毎日が楽しかった。
過ぎ去ってしまった日々は、今では夢であったかのようだ。
高校に入ってからお姉ちゃんは少し変わった。風邪をひいて志望校に落ちてしまったからかもしれない。滑り止めの高校に入ってから、お姉ちゃんは少しイライラするようになった気がする。
その後私がお姉ちゃんと同じ高校に合格したのも気に入らなかったみたい。
そんなことはどうでもいいのだ。もう慣れたから。今の私には目下考えるべき事柄があった。明日からの夏休み、どれだけ家にいないことができるのか、私は考える必要がある。期末試験なんかよりもこちらの方が難題だ。
奈々子たちだって各々の予定があるのだから私に付き合わせるわけにはいかない。お家でくつろぐ時間だってあるだろう。
私は家にいたってくつろげるわけじゃない。
お姉ちゃんの視界に少しでも入らないようにするためにも、家を空ける必要があった。
湯船に沈むと空腹が和らぐ。お母さんの作っていた夕食を思い出した。どれもお姉ちゃんの好きな食べ物ばかり。
思えばここ数年いつもそうだった。私の好きな食べ物はなんだったかなって考えちゃうくらい。
二人で使用することになっていた二階の子供部屋は、いつの間にかお姉ちゃんだけの部屋になった。私の寝具がおいてあるのは、物置として使っている洋間の手前半分。ベッドを置いたら、もう一歩も歩くスペースはない。勉強はリビングのテーブルでやっている。
明日からは本と宿題をもって、可能な限り図書館やあの森の社で時間をつぶすしかない。
図書館での長居は難しいだろう。家での勉強に疲れたお姉ちゃんが来るかもしれない。
本だけを借りて、社で過ごすのがいい。飽きるまでそうしてみよう。社を借りる代わりに猫たちに食事を提供してもいいかもしれない。いつしか減らされたお小遣いでだって、猫のご飯を少しくらい買うことはできるはずだ。
私は長い夏休みを森の中で過ごすことに決めた。
手早く風呂から上がり、そそくさと食事を済ませると早々に洋間に身を隠す。東側に設けられた窓から、瞬くような星が見えた。
今夜は新月なのだろう。月の光のない夜は、星がやけに綺麗だった。



