その日の夜。
 少し熱が引いた美月は、ホームズに礼を言いに部屋を訪ねた。

 机の上には、書き散らされたメモとルーペ、そして紅茶の香り。
 ホームズは椅子にもたれながら、分厚い書簡を閉じる。

「どうした、美月。まだ休んでいないのか」

「お礼を言いたくて……昨日は、本当にありがとうございました」

「礼などいらない。私は――」

 ふと、彼の言葉が止まった。
 静かな沈黙。
 ホームズは、視線を紅茶の表面に落としたまま、ぽつりと呟く。

「……お前がいない未来を考えると、推理が鈍る。おそらく、熱でもうつったのだろう。」

 その声は、冗談めいていた。
 けれど、美月の心臓が跳ねた。


ホームズがゆっくりと視線を上げる。





「無理をするな。……お前がここにいる間くらい、私が守る。」




 美月の胸が熱くなる。
 彼の表情は変わらない。けれど、瞳の奥にある微かな光が、確かに“優しさ”を宿していた。

「……はい。」

その返事に、ホームズは小さく頷いた。

「よし。では、熱が完全に下がるまで、君の外出は禁止だ。」

「えぇ~っ、子ども扱い!」

「当然だ。十八歳はまだ子どもだ。」

「またそれ! いじわるです!」



 そう言って頬を膨らませる美月に、ホームズは小さく笑った。


「……その顔、ワトソンに見せたら喜びそうだ。」

「見せません!」



 二人の声が、暖炉の音に混じって優しく響いた。

 外では、霧が少しずつ晴れ、ロンドンの夜空に星が滲み始めていた。





 ――不思議と、遠い未来のことは、もう怖くなかった。