馬車の中で、しばらく沈黙が続いた。
ワトソンは向かいの席で眠っている。
ホームズは、窓の外をぼんやり眺めていた。
私は、彼の横顔をそっと見つめる。
いつもより穏やかで、どこか遠いところを見ているような瞳。
「ホームズさん。」
「なんだ。」
「……わたし、やっぱり、あなたの世界が好きです。」
その瞬間、馬車の揺れが少し大きくなった。
ホームズは目を細め、私のほうを見た。
「君は、奇妙なことを言うな。
自分の世界に帰りたいとは思わないのか?」
「うーん……今は、帰りたくないかもしれません。」
「ふむ、理由は?」
「ホームズさんとワトソンさんがいるから。」
「……やはり、君は観察しがいのある被験体だ。」
「え、それ、褒めてます?」
ホームズはわずかに目を伏せ、
そして、ほんの少しだけ笑った。
外の空には、霧を切るように一筋の朝陽が差し込んでいた。
それはまるで、
彼と私の世界が少しだけ重なった瞬間のように思えた。



