2025-11-28
『包丁』

包丁を見ると思い出すことがある。
あれは僕が小学低学年だった頃か。

「死にたい」と母に言ったことがあった。

夕飯を台所で作っている母に
何の躊躇いもなく真っ直ぐに。

テレビを見ていた姉は視線を外し
僕と母の間に入り込んでくるけど。

母は包丁を取り出して僕のもとへ
一歩ずつ歩を進めて近付いてくる。

ギシギシと音が鳴る。

姉は母に抱きついて止めようとしたけど
やはり子供の力は大人に敵うことがなく。

僕の胸あたりに包丁を向けた母は
「なら私があんたを殺す」と言い。

「けどあんたを殺したらお母さんは」
「捕まっちゃってしまうけどいい?」

まだ餓鬼だった僕は捕まるということが
二度と会えないことを意味している風に
捉えていた節があったから少し悲しくて。

「死ぬのやめた」と言った。

容易に生死を語れるほど
成熟しきっていない餓鬼。

包丁を僕の胸から離し
台所へと戻る母は一言。

「ご飯できるからお父さん呼んできて」

僕は父に「夕飯ができた」と伝えに
隣にあった父の部屋へと歩を進めた。

きっとさっきの出来事は父の部屋まで
聞こえていただろうに怒鳴りには来ず。

淡々とパソコンで仕事をこなす父に
「お父さん、ご飯できた」と言った。

父は一瞬、僕のほうに目をやり
そしてパソコンの電源を落とし
立ち上がって僕のほうへと来る。

父は何も言わず、ただ僕の頭を
ポン、と一度だけ撫でてくれた。

そして僕よりも先に
リビングへと向かう。

「早くしないとご飯冷めちゃうぞ」
そう茶化してきて僕に微笑むけど。

父の手は震えていた。

バレていないと思って
僕に微笑みをかけるが
それには気付いていた。

その日、食卓を囲んだ家族4人。
悪い空気が流れていたけれども。

姉がおならをしたことで
張り詰めていた緊張感は
一瞬でガラリと変わった。

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