【 回想編 】




夜の校舎に、春の風が吹き抜けていた。



 窓の外の桜の枝がゆらゆらと揺れ、教室の蛍光灯が白く机を照らしている。




 舞は誰もいない教室の中で、一人、黒板の前に立っていた。




 チョークで書かれた「6年A組」の文字を指でなぞると、
 胸の奥がじんわりと熱くなる。




 ――友田先生の運命を、変えられるだろうか。










タイムスリップしてから半年。





 舞はこれまで、友田先生の体調をさりげなく気にかけ、
 授業のあとで資料を片付けるふりをしては、
 先生が右膝を押さえて顔をしかめるのを見逃さないようにしていた。






 でも、それでもまだ“決定的な行動”ができずにいた。

 もし自分の行動が、未来の何かを壊してしまったら。






そんな不安が、夜になるたびに舞の胸を締めつけた。






 そんなとき――黒板の前に立っていた舞の中で、





 遠い“あの日の記憶”が、静かに蘇る。













【 銀河鉄道の絵 】



 あの春の光景は、今でも心の奥に鮮やかに残っている。






 教室の窓から差し込む午後の日差しは、まるで粉雪のように柔らかくて、
 黒板の上に浮かぶチョークの粉がきらきらと舞っていた。






 舞は六年A組の教室の、一番後ろの窓際の席に座っていた。
 5時間目の美術の授業の時間だった。






課題は「未来の自分を乗せた銀河鉄道の絵を描こう!」というもの。






 机の上に広げた画用紙の中央に、列車の形を描いてみたものの――舞はどうもしっくりこなかった。







 線路は歪み、車両のバランスも崩れ、何より、自分が描きたい“未来”が、まったく見えてこなかった。




 周りのクラスメートたちは楽しそうに筆を走らせている。






「見て見て!流れ星描いた!」と笑う声があちこちから聞こえてくるのに、
 舞の絵だけが、どこか取り残されたままだった。








 ため息をついた瞬間、背後から穏やかな声がした。





 「綾瀬、どうかしたのか?」







 振り返ると、白いチョークの粉が付いたジャケットの袖を軽く払う友田先生がいた。






 先生は、相変わらずの優しい笑顔で舞の絵をのぞき込む。










「先生、列車が止まっちゃいました。」







 舞が小さくつぶやくと、先生は「なるほどなー。」と言って、少し腰をかがめた。







 「綾瀬の列車は、どこへ行きたいと思ってる?」





 「……わかりません。描いても、変になっちゃうんです。」





 「そうか。でもな、“未来”っていうのは、最初からうまく描けるものじゃないんだよ。」






先生は黒板の方をちらりと見て、指先で空をなぞるように言った。






 「銀河鉄道は、描く人の“心”で動くんだ。線路がぐにゃぐにゃでも、星が少しくらい曲がってても、いいんだよ。
 大切なのは、“自分がそこに乗ってる”って思えるかどうか。それが本当の絵なんだ。」







その言葉に、舞の胸の奥で何かがやわらかくほぐれた気がした。





 筆を握る手が少しずつ動き出す。






 そして、紙の中の列車がゆっくりと夜空を走り出した。


 その車両の窓には、小さく笑う自分を描いた。




 「うん、……できた。」


 「いい顔だな!」


 友田先生はにっこりと笑った。





 その笑顔が、今も舞の記憶の中で一番まぶしい。











次の日の3時間目。






算数の授業で、ノートを広げていた。




 どうしてもわからない問題があった。





正方形の中にある葉っぱの形をした面の面積を求める方法。





 黒板に書かれた公式が暗号に見えて、黒板を穴が空くまで見つめても、頭の中が白くなるだけだった。




 誰かに聞こうにも、声が喉にひっかかる。







 「質問がある人ー?」







先生の声に、他の子たちが次々と手をあげる中、舞の手だけが机の上で固まっていた。





 そのときだった。




 先生の視線が、まっすぐこちらを向いた。






 「綾瀬、どうしたー?」




 舞はびくっとして、思わず下を向く。





 でも、そのあと、ほんの少しだけ勇気を出して、右手をゆっくりとあげた。




「あの…求め方が…わからなくて…。」





 自分でも驚くほど小さな声だった。



 でも先生は、すぐにその声を拾ってくれた。




 「綾瀬、よく言えたな。えらいぞ!」





 そう言って、チョークを手に黒板に歩み寄る。
 ゆっくり、丁寧に説明してくれた。









 先生の説明と優しいトーンで、ふっと心が軽くなった。




 先生が黒板に描いた葉っぱの形をした図を見ながら、なんだか先生が葉っぱに落書きをしているかのように見え、舞は小さく笑った。




先生はゆっくり丁寧に教えてくれた。





「なるほど……!」





 その瞬間、先生が満足そうにうなずく。




 「そう。その顔が見たかったんだ。」




 その言葉が胸に残った。





 “わからない”を“わかった”に変えることが、こんなに嬉しいなんて。





 小さな勇気を出してよかった――。







 舞はその日の帰り道、ノートを抱きしめて歩いた。
















【 命 】






季節は少し進んで、秋。





 教室の窓から見える桜の木の葉が、少しずつ赤く色づいていた。






 道徳の時間、先生はいつもより真剣な顔をして黒板にひとつの言葉を書いた。






 「いのち」



「みんな、“いのち”ってなんだと思う?」



 教室の空気が静まり返る。




 クラスで一番の食いしん坊、田中くんが「食べないと生きられないやつー?」と冗談を言って笑いが起きたが、
 先生は笑わず、穏やかに続けた。







 「たしかにそうだな。でも、もう少しだけ考えてみよう。
 “いのち”って、君たちが誰かに笑ってもらえた瞬間にもあるんだ。






それから、“誰かのために何かをしたい”と思う気持ちの中にもある。」




 先生の目が、一瞬だけ舞のほうを見た。


 舞はどきりとした。




 「綾瀬、この前、美術の時間に友達の筆洗い手伝ってただろ。」





 「えっ……あ、はい。」




「それも“いのち”の使い方の一つだ。
 人のために動けるってことは、自分の“いのち”をちゃんと使えてるってことなんだよ。」






 その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。






 自分の存在が、誰かの役に立てる。






 そんな単純なことが、こんなにうれしいなんて。










【 修学旅行 】





――修学旅行の夜のことを、今でもはっきり覚えている。








 部屋の窓の外には、旅館の庭の灯りがぽつぽつと浮かび、
 外ではまだ友達の笑い声が遠くから聞こえていた。






 舞は布団の上で、体を小さく丸めていた。






 胸のあたりがきゅっと痛くて、息をするのも苦しかった。








お腹を押さえてうずくまっていると、同じ部屋の川口沙織が心配そうに覗き込む。






 「綾瀬さん、大丈夫ー? 友田先生呼ぼっか?」

 「う、ううん……大丈夫……たぶん。」

 けれど、声は力なく震えていた。









 沙織が部屋を出て行った数分後、廊下から足音が近づいてくる。




 障子がそっと開き、優しい声がした。





その声を聞いただけで、少し安心して涙がにじんだ。




 そこに立っていたのは友田先生だった。




 寝巻きの上に旅館のはんてんを羽織り、手には冷たい水の入ったペットボトルを持っている。







 「熱はないな……お腹か?」

 「……はい。」

 「お昼、なに食べたっけ?」

 「お鍋……でも、みんなも食べてたから。」








先生は少し考えこむように顎をさすり、
 「お腹、冷えたかな?」と言って布団を整えてくれた。






 でも、少しして舞は顔を真っ赤にして、ぽつりとつぶやいた。




 「……たぶん、ジャージのゴムがきつかっただけかも。」






 先生は一瞬、目を丸くしたあと――ぷっと吹き出した。






「なんだそれ!?」





 笑いながら、軽く舞のおでこを指で弾く。








 「いたっ。」


 「それは痛いだろう。ほら、ちゃんとゴムゆるめとけー。」


 舞も思わず笑ってしまう。






 先生の笑顔は、旅館のあかりよりずっとあたたかかった。





「先生、笑いすぎですよ!」


 「いや、だって心配して損したわ!」


 「ひどいー。」



 「でも、よかったよ。綾瀬が病気じゃなくて。」





 そのとき、先生の声が本当に優しかった。






 いつもクラス全員の前で堂々としている先生が、
 こんな風に“ひとりの子ども”を見つめてくれるなんて――。





その夜、布団の中で舞は静かに思った。





 ――もし大人になったら、私もこんなふうに人を安心させられる人になりたいな、と。














そして季節は流れ、冬。




 音楽の授業の「歌のテスト」。




 課題曲は、当時の六年A組が大好きだった歌――
 「流れゆく雲を見つめて」。






 “流れゆく雲を見つめて ぼくは今ーー ”
 “果てしなく 続く 明日への道を 歩むーー”





そんな歌詞を聞くたびに、舞の胸はざわついた。





 “明日をかけてゆく”――それが、
 この先、どれだけの時間を超えても叶うとは限らない。





 自分の順番が近づくにつれて、
 心臓が速く鳴り、手のひらに汗がにじんだ。




 「次、綾瀬さん。」



 音楽の先生の声が響く。





ピアノの前に立ったとき、
 扉の隙間から誰かがそっと顔をのぞかせた。





 友田先生だった。
 目が合うと、口の動きでこう言った。









 ――「が、ん、ば、れ」








 その一言だけで、心がすっと軽くなった。


 舞は目を閉じ、歌い出した。




震える声。




 けれど、まっすぐに、胸の奥から出てくる言葉。


 流れるように、歌詞が心の中に染み込んでいく。







 “過ぎし日 思い出して――”






 歌い終わると、教室が静まり返った。


 次の瞬間、音楽の先生より早く、友田先生が言った。









「いい歌声だった!綾瀬」




 その声は、優しくて、まるで包み込むようだった。


 「綺麗だった。人の心に届く歌だったよ。」




 その瞬間、舞の目に涙が溢れた。





 ただ、先生の前で頑張れたことが嬉しかった。







【 卒業式の日のこと 】





そして、卒業式の日。



 体育館のステージの上、窓から射す光が金色に揺れていた。





 舞は胸の奥がざわざわして、何度も深呼吸をした。


 名前を呼ばれ、証書を受け取り、席に戻るとき、
 ちらりと見えた友田先生の目が少し潤んでいた。







式が終わり、教室での最後の時間。





 黒板には大きく「卒業おめでとう」の文字。





 机の上には寄せ書きの色紙が置かれていた。




 「みんな、友達や先生にひとこと書いていこうな!」
 先生がそう言うと、クラス全員が笑顔でペンを手に取った。






舞のページに書かれていた先生の言葉は、今でも鮮明に覚えている。












 綾瀬へ。







  「自信」――君には、まだ見えていない大きな
力がある。

  「挑戦」――失敗を恐れず、前を向いて進め。

  君の列車は、きっと未来まで走り続ける。






                  友田 誠、










その文字を見た瞬間、涙がこぼれそうになった。






 あの美術の時間に描いた銀河鉄道の絵の中で、
 列車の窓からこちらを見ていた“自分”が、少し笑っているように思えた。




回想から現実に戻ると、
 舞の頬を、一筋の涙が伝っていた。






 「……先生。あのときも、今も、ずっと先生は私にとって…先の不安てなふわふわした雲をいつも見守って支えてくれる大空のようでした。」








 胸の奥にある“恐れ”が、少しずつ“勇気”に変わっていく。




 修学旅行の夜に励ましてくれた先生。




 歌のテストで、心の声を受け止めてくれた先生。



 その人を今度は、自分が救いたい。






あの人の笑顔があったから、私はいまも歩けている。









「未来を変えるんだ、絶対に。」

 舞は涙を拭き、拳を握った。