朝のチャイムが鳴る。
春の光が窓から差し込み、教室の埃がきらきらと舞っていた。
この教室の匂い——チョークと木の机、そして桜の花びらの混ざった甘い空気。
すべてが懐かしいのに、どこか新しい。
舞は、自分の机に座りながら、改めて思った。
——やり直すんだ。
今度こそ、心を閉ざさない。
六年A組の担任、友田誠先生は黒板にチョークを走らせていた。
背筋の伸びた姿勢。
手の動きが滑らかで、まるで言葉そのものを踊らせているようだった。
「さて、みんな。新しい学年になったということで、クラスの目標を決めようと思う。何かいい案がある人はいるかな?」
何人かが手を挙げた。
“勉強をがんばる”“運動会で優勝”“仲良くする”——
どれも真っ直ぐな声に、先生は嬉しそうに頷く。
「いいねぇ。でも“仲良くする”って、簡単そうで一番むずかしい。——誰かが困ってたら、どうする?」
「助ける!」
「うん、それでいい。でも、助ける前に“話しかける勇気”も大事だよ」
その言葉に、舞の胸が小さく震えた。
——話しかける勇気。
それが、あの頃の自分にはなかった。
気づけば、チョークで書かれた文字が目に入る。
「6年A組の目標:話すことからはじめよう!」
それを見た瞬間、舞の胸の奥に何かが灯った。
“話すことから”——
たったそれだけで、世界は変わるのかもしれない。
【 放課後、校庭にて 】
午後の授業が終わると、男子たちは校庭に飛び出していった。
グラウンドの土の匂い、遠くから聞こえる汽笛のような風の音。
舞は、教室に残って机を片づけていたが、ふと窓の外に目を向けた。
サッカーボールを蹴る大樹の姿が見える。
ボールを追うたびに、陽射しの中で髪がきらめく。
子どもの顔立ちの中に、未来の彼の面影がちらついた。
——もう一度、出会えた。
それだけで、胸がいっぱいになる。
「綾瀬さ~ん!」
突然、教室の入り口から声がした。振り返ると、川口沙織が手を振っている。
「ねぇ、一緒に帰ろうよ!」
「え、、私と?」
「うん! だって家近いでしょー? 前は別々だったけど、六年は同じになったしさ!」
胸の奥が温かくなる。
前の人生では、沙織とはまともに話したことがなかった。
いつも明るい彼女の輪の外で、自分はただ笑って見ていただけだった。
「……うん、行こう!」
二人で歩く帰り道。
道端のタンポポが風に揺れ、遠くで子どもたちの笑い声が響いている。
「ねえ、綾瀬さんって、字きれいだよね。ノート見てびっくりした。」
「え? そ、そんなことないよ」
「ほんとほんと! うちの字なんて、先生に“解読不能”って言われるんだから。」
「ふふ、何それ~」
笑いながら、沙織が空を見上げた。
「今年は、運動会、勝ちたいね。」
「うん……勝ちたい。」
あの日、みんなで踊った“いろは節”の記憶が蘇る。
笑顔で踊る先生、手をつないだクラスメートたち。
自分だけ、輪の外にいた。
(今度こそ、あの輪の中に入りたい)
舞は、夕焼け空を見上げて小さく微笑んだ。
【 新しい毎日 】
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
朝、沙織が「おはよう!」と元気に声をかけてくれる。
給食の時間には、男子の佐々木くんがくだらない冗談で笑わせてくれる。
いつの間にか、教室の真ん中にいる時間が増えていた。
宮澤くんとは、体育の時間で一緒にバスケットボールをした。
舞は運動が苦手だったが、大樹は何度も「ナイス!」と声をかけてくれた。
そのたびに、胸が跳ねる。
「綾瀬、前より明るくなったよな!」
「え?」
「なんか、最初会ったときと違う。最初はもっと……静かだったけど、今はすげー楽しそう。」
その言葉に、舞は照れくさそうに笑った。
「……そうかな、ありがとう。」
「うん。いいんじゃね?そういうの。」
ニカッっと笑うその笑顔を見た瞬間、胸の奥に甘い痛みが走った。
——この人に、もう一度恋をしている。
【 友田先生の笑顔 】
放課後、職員室に呼ばれた。
“保健委員の手伝いをお願いできるか?”という話だった。
「綾瀬、よく来たね。ちょっと書類を運ぶのを手伝ってほしくて。」
「はい、わかりました。」
先生は書類を手に取り、柔らかく微笑んだ。
「助かるよ。綾瀬は何事にも丁寧だから、頼もしいね。」
その笑顔に、舞の胸が熱くなる。
——この人を、絶対に失いたくない。
「…あいたたー。」
ふと、先生が右膝を押さえて苦笑した。
「いやあ、歳には勝てないな。最近、膝が痛くてさー。」
「先生!!それ……ちゃんと病院、行ったほうがいいですよ。」
「はは、そんな大げさなもんじゃないよ。立ちっぱなしが多いだけさ。」
そう言いながら、また笑う。
その笑顔が、あまりにも無防備で、優しくて。
だからこそ、怖かった。
(この笑顔を守りたい)
舞は小さく拳を握りしめた。
【 放課後の空 】
教室に戻ると、窓の外はもう夕暮れだった。
空が淡いオレンジから紫へと変わり、雲がゆっくりと流れていく。
その雲を見ながら、舞は小さく呟いた。
「——あの日と、同じ空。か。」
そこへ、大樹が顔を出した。
「お、綾瀬、まだ残ってたの? 帰ろうぜー。」
「あ……うん、ちょっと片づけしてて。」
「真面目だなぁ。そういうとこ、綾瀬らしいわ。」
何気ない会話。
でもその一言が、なぜか心を柔らかくする。
二人で下駄箱へ向かう途中、廊下に差し込む夕日が眩しかった。
光の粒が床に揺れて、二人の影を並べて伸ばす。
「ねぇ、宮澤くん。……もし、時間が巻き戻ったら、何がしたい?」
「時間が……? なんだよ、いきなり。」
「ううん、ちょっと気になって。」
「そうだなぁ……んー、もっとサッカー練習しとくかも。」
「ふふ、やっぱり。」
「でもさ、もし本当に戻れたら——後悔しないように、誰かにちゃんと気持ち伝えるかもな。」
その言葉に、舞の心臓が止まりそうになった。
視線を合わせると、大樹はどこか照れくさそうに笑っている。
夕日の中、二人の距離がほんの少しだけ近づいた。
【 夜の独白 】
家に帰り、机の引き出しを開けると、友田先生からもらったお守りがそこにあった。
未来から持ってきたはずのもの。
なのに、十八年前のこの世界でも、変わらず光を宿している。
舞は、お守りをそっと手のひらに乗せて呟いた。
「先生、私はちゃんと変われていますか?」
「今度こそ、手からこぼれ落ちてしまったものを、救えるでしょうか…。」
外では、春の風が窓を揺らしていた。
ふと、遠くで汽笛のような音が聞こえる。
それはまるで——銀河鉄道の機関車の音のように。
(先生の好きだった、あの列車の音……)
胸がきゅっと痛んだ。
でも同時に、心の中で何かが確かに前へと動き出していた。
明日も学校へ行こう。
もっと話そう。
もっと笑おう。
そして——この運命を変える方法を探そう。
舞は窓の外の月を見上げ、静かに目を閉じた。
その夜、夢の中で、誰かの声が聞こえた気がした。
「——ありがとう。」
優しくて、懐かしい声。
それが誰の声だったのかは、まだわからなかった。



