町のはずれ、小さな商店街の角に、一つだけ古い赤いポストがある。
新しい郵便ポストが通りの真ん中に立つようになってからも、それはずっと取り壊されずに残っていた。
白く剥げた塗装の下から鉄の地肌がのぞき、夕陽を受けるたびにぼんやりと光る。
ポストの足もとには、いつも一匹の猫が座っている。
茶色と白のまだら模様。片方の耳が少し折れ、尻尾の先がくるりと丸く曲がっている。
誰がつけたのか、町の人たちはその猫を「ミケ」と呼んだ。
ミケは、いつ見てもそこにいた。
晴れた日は、ポストの影に伸びる陽だまりの中でのびをしながら眠り、
雨の日は、庇の下でじっと通りを見つめる。
商店街を歩く人たちはみんな、ミケの姿を探してはほっと息をつく。
まるでその小さな体が、町の平和の印のようだった。
「おや、今日もいるじゃないか」
八百屋の主人が笑いながら声をかける。
「いい天気だもんな、ミケ」
ミケは何も答えず、ゆっくりと尻尾を揺らしておじさんの足もとに体をすり寄せる。
すると主人は、段ボールの中から形の悪いミカンを一つ取り出してポストの横に置く。
「このミカン、売り物にならんからさ。代わりに魚でも貰ってくるといい」
もちろん、猫がミカンを食べるわけではない。
でも、それを見て笑うおじさんの顔がどこかやさしくて、
通りを通る人もつられて笑う。
パン屋の娘・春菜は、放課後になるとミケの前に小さなビスケットを置く。
「これ、あたしが焼いたんだよ。うまくできたでしょ?」
ミケはその匂いを一度嗅いで、ぺろりと舌を出す。
そのしぐさだけで、春菜はまるで“ほめられたような気分”になってしまうのだという。
——ミケは言葉を話さない。
でも、誰よりも人の気持ちを見つけるのがうまい。
その猫が、なぜこの町に来たのか、誰も知らない。
けれども、もう何年も前から、当たり前のようにポストのそばに座っていた。
そしていつの頃からか、町にはこんな噂が流れ始めた。
——“この猫に手紙を託すと、届けたい相手に
届くらしい”——
最初にそれを言い出したのは、駄菓子屋の女の子だったという。
引っ越してしまった友だちに手紙を書いたけれど、ポストに入れる勇気が出なかった。
その代わり、ミケの首輪のリボンに小さな封筒を結んだ。
すると数日後、その友だちから「手紙、届いたよ」と返事が届いた。
それ以来、ミケは“手紙猫”と呼ばれるようになった。
町の人たちは時々、ポストのそばに宛名のない手紙を置く。
「亡くなったおばあちゃんにもう一度ありがとうを言いたい」
「昔けんかした友だちにごめんを伝えたい」
「遠くに行った自分に、がんばれって言いたい」
——そんな言葉たちを、誰も見ていない夜のうちに置いていく。
封筒の中には、短い一文だけのものもある。
『あなたのことを、まだ忘れていません』
『元気でいてね』
『あの日の笑顔が、今でも私を救っている』
ミケはそれらを見つけると、口にくわえてどこかへ消えていく。
そして翌朝になると、何事もなかったようにポストの前に戻っているのだ。
「ほんとに届けてるのかねぇ」
「さぁな。でも、誰かが少しでも楽になるんなら、それでいいさ」
夜更け、八百屋の主人とクリーニング店の奥さんがそんな話をして笑う。
商店街の明かりが落ちた後も、ポストの前だけはどこか温かく、
まるで小さな灯りがともっているように感じられる。
冬の初めの夜、雪がちらちらと降り始めた。
人通りの絶えた通りに、ミケの足あとが点々と続く。
ポストの赤が雪に埋もれかけ、街灯の光の中で滲んでいる。
ミケは立ち上がり、ゆっくりと首をかしげた。
首輪についた小さな鈴が、かすかに音を立てる。
その音は、遠くの誰かを呼ぶように優しく響く。
口には、一通の白い封筒がくわえられていた。
宛名も差出人もないけれど、その端には花のシールが貼られている。
——誰かが、きっと大切な気持ちを託したのだ。
ミケはポストを一度振り返る。
まるで「行ってくるね」と言っているように。
そして、商店街を抜けて夜の道へと歩き出した。
雪を踏む音だけが、静かに響く。
灯りの消えた店先を通り、川沿いの小道を渡り、
ミケはまっすぐに進んでいく。
その姿は、どこか迷いがなく、まるで行くべき場所を知っているようだった。
途中で、川の向こうに灯る民家の明かりが見えた。
窓の内側で、子どもが笑う声がする。
ミケは立ち止まり、しばらくその光景を見つめてから、また歩き出した。
その背中を、静かな風がやさしく押す。
——その夜、町の誰も知らなかった。
ミケが向かった先に、一人の少女がいることを。
そして、その少女の心の奥に、まだ届いていない“手紙”があることを。
白い雪の中を、ミケは進む。
その足あとが、やがて誰かの心に続いているとも知らずに。
小さな鈴の音だけが、夜の静けさの中で確かに響いていた。
冬の雨は、音が柔らかい。
空から落ちる水の粒が地面に触れるたび、まるで何かを囁くように静かに消えていく。
その日の放課後、莉子は傘も差さずに校門を出た。
グレーの雲の下、アスファルトに映る自分の影は淡く揺れている。
「……別に、濡れてもいいや」
小さく呟く声は、雨に溶けて誰にも届かなかった。
母が亡くなってから三か月。
家の中の空気は、少しずつ色を失っていった。
台所には使われないままのマグカップ。寝室のドレッサーの上には、途中まで使われた香水。
父は仕事に出てばかりで、家に帰ってもほとんど口を開かない。
食卓に並ぶ料理の数が減っていくのと同じように、
莉子の心の中からも“音”が減っていった。
——何をしても、世界が遠い。
そんな気持ちを抱えたまま、彼女はただ歩いていた。
道端の花壇も、ガラス越しに見えるケーキ屋の灯りも、
すべてが薄い膜の向こうにあるように感じられた。
商店街の角を曲がったとき、ふと、視界の隅に小さな影が動いた。
雨に濡れた石畳の上で、猫が一匹、じっと座っている。
茶と白のまだら模様。片方の耳が折れていて、
尻尾の先が丸く曲がっている——。
「……ミケ?」
思わず口からこぼれた。
母と一緒に商店街へ行くたび、ポストの前で見かけた猫。
母はいつも、「この子ね、願いを届けてくれる猫なんだって」と笑っていた。
莉子はその話を半分信じて、半分は子どもじみた冗談だと思っていた。
だが今、目の前のミケは確かにそこにいて、
口には小さな白い封筒をくわえている。
ミケは莉子を見上げた。
その瞳は、雨粒を映して金色に揺れている。
何かを訴えるように一度鳴き、彼女の足もとまで歩いてきた。
「……なに?」
莉子がしゃがみ込むと、ミケは封筒を地面に落とした。
そして軽く尻尾を振り、ポストのある方向へ一度だけ顔を向けた。
まるで「開けてみなよ」と言っているように。
莉子は濡れた手で封筒を拾い上げた。
宛名も差出人も書かれていない。
けれど、封の部分に貼られた小さな花のシールが目に留まる。
それは——母がよく使っていたものだった。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
指先が震えながらも、彼女は封をそっと開けた。
中には、少し黄ばんだ便箋が一枚。
そこに綴られていたのは、たった数行の言葉だった。
りこへ
いつか、あなたが悲しい時。
この手紙が届きますように。
——おかあさん
瞬間、視界が滲んだ。
雨のせいか涙のせいか分からないほど、世界がぼやけていく。
手紙の文字は、間違いなく母の筆跡だった。
丁寧だけれど、少し筆圧が弱くて、最後の「おかあさん」の“ん”だけが途切れている。
きっと体が弱っていた時に書かれたのだろう。
「……うそ、でしょ」
莉子は思わず声を漏らした。
周りには誰もいない。
ミケだけが、静かにその場に座っていた。
封筒を胸に抱きしめると、涙が止まらなかった。
ずっと閉じ込めてきたものが、急に溢れ出したようだった。
「……お母さん」
小さな声で呼んでも、返事はない。
でもその代わりに、ミケがそっと莉子の膝に前足を乗せた。
温かかった。
まるで、母の手が重なったみたいに。
「あなたが、持ってきてくれたの?」
ミケは短く鳴いた。
その瞳に映る光は、どこか懐かしく、
莉子の胸の奥に残っていた冷たい空気を少しずつ溶かしていった。
雨はまだ降り続いている。
でも、頬を伝う涙の方がずっと温かかった。
しばらくそのまま、莉子はミケを抱いたまま動けなかった。
小さな体の鼓動が、確かに伝わってくる。
その音を聞いているうちに、ふと心の奥に柔らかな光が灯ったような気がした。
やがて、雨が少しずつ弱まっていった。
空の隙間から、うっすらと夕陽が覗く。
オレンジの光がポストの赤を照らし、濡れた道に反射してきらめいた。
「……ねえ、ミケ」
莉子がそっと呟く。
「もう少し、ここにいてもいい?」
ミケは鳴かずに、ただ莉子の膝の上で丸くなった。
その姿は、まるで最初からそうするつもりだったかのように自然だった。
遠くで商店街のシャッターが降りる音がした。
夜が近づいている。
莉子はもう一度、母の手紙を読み返した。
何度読んでも、涙がこみ上げる。
でもその涙は、不思議と前よりもやさしかった。
ふと気づくと、ミケが立ち上がっていた。
莉子を見上げ、一度だけ鳴いて、ポストの方へと歩いていく。
その背中を見つめながら、莉子は胸の中で小さくつぶやいた。
「ありがとう」
ミケは振り返らない。
ただ、濡れた足あとを残しながら、静かにポストの前に座った。
その姿は、灯りの下でひとつの影のように溶けていく。
——その夜。
莉子は久しぶりに、机の上に便箋を広げた。
母の手紙をそばに置きながら、自分の言葉を書いていく。
おかあさんへ
まだたくさん話したいことがあるよ。
でも、今日はありがとうって言いたい。
ミケが、ちゃんと届けてくれたよ。
書き終えると、涙の跡でインクがにじんだ。
でも、そのにじみさえも美しく思えた。
莉子は封筒を閉じて、花のシールを貼った。
次の日、朝の光の中で彼女はその手紙をポストの前にそっと置いた。
ミケの姿は見えない。
けれど、風の音に混じって、どこかで小さな鈴の音がした。
それはまるで、「ちゃんと受け取ったよ」と言っているようだった。
春が近づいていた。
商店街の並木道には小さな蕾が芽吹き、風はまだ冷たいけれど、どこかに柔らかさが混じっている。
あの日以来、莉子はよくポストの前に立つようになった。
ミケがそこにいる日もあれば、いない日もある。
けれど、どんな日でも不思議と心は落ち着いた。
ポストの赤が、母の文字のように温かく感じられる。
放課後、制服のポケットに小さな封筒を忍ばせて、莉子はその場所へ向かう。
いつもの角を曲がると、
ミケが屋根の上で陽だまりの中に丸まっていた。
「今日もいるんだね」
莉子が微笑むと、ミケはゆっくりと伸びをして、軽い足取りで屋根から降りてきた。
尻尾をふる姿が、まるで「おかえり」と言っているみたいだった。
ポストの足元には、すでに一通の手紙が置かれていた。
淡いクリーム色の封筒に、震えるような文字でこう書かれている。
たかしくんへ
ごめんね。どうしても伝えたいことがあるの。
莉子は思わず顔を上げた。
誰が置いたのか分からない。
でも、封筒の端に少しだけ涙の跡のようなにじみがあった。
ミケはその手紙のそばに歩み寄り、くんくんと匂いを嗅ぐ。
次の瞬間、くわえて走り出した。
「ミケ!」
莉子は驚いて追いかけた。
ミケは路地を抜け、古いアパートの前で止まる。
二階の階段を軽やかに上り、ある部屋の前でぴたりと座り込んだ。
郵便受けには「たかし」と書かれている。
莉子は胸の奥がじんと熱くなった。
ミケはポン、と手紙をその郵便受けに落とした。
そして振り返ると、何事もなかったかのように階段を降りてくる。
「……本当に、届けるんだ」
莉子は呟いた。
ミケの背中は、小さな体で世界を繋いでいるように見えた。
その夜、莉子は父と食卓を囲んだ。
最近、少しずつ父も話をするようになった。
「今日は学校どうだった?」
「うん、普通。でも……ミケがね、人の手紙を届けてたんだよ」
「はは、あの猫は本当に不思議だな」
父の笑顔は、まだぎこちないけれど確かにあたたかい。
食後、莉子は自分のノートを開いた。
そこには母への手紙と並んで、知らない誰かへの言葉も書かれていた。
誰かが、誰かに想いを届けたい時。
ミケはきっと、その手伝いをしてくれる。
書きながら、胸の奥が少しだけ軽くなった。
⸻
数日後。
商店街にある古いパン屋の店先で、莉子は見覚えのある女の人を見かけた。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、小さなパンを並べている。
その目尻には、優しい笑いじわ。
「こんにちは」
莉子が声をかけると、女性は微笑んだ。
「まあ、あなた。ミケのお友だちなのね?」
「え?」
「よくうちの裏庭で寝ているのよ。あの子、ねえ、面白いの。たまにお客さんの落とした紙切れをくわえてきてね、まるで届けに行くみたいにしてるの」
莉子は思わず笑った。
「本当に郵便屋さんなんだね」
「そうね。昔からあの子はこの町を歩いて、誰かの手紙を運んでるって話があるの」
女性は空を見上げた。
「昔、私の息子にもあの子が手紙を運んでくれたのよ」
「息子さんに?」
「ええ。事故で亡くなった夫の字でね。信じられなかったけれど、その手紙を読んだとき、心の中の何かがほどけた気がしたの」
莉子は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ミケは——本当に、奇跡を起こす猫なのかもしれない。
⸻
その帰り道。
夕暮れの商店街で、ミケがポストの上に座っていた。
沈みかけの陽が、彼の毛並みに金の縁を描いている。
「ミケ、今日はどこに届けるの?」
莉子が問いかけると、ミケはじっと彼女を見つめ、ポストの上からひとつの小さな封筒を落とした。
それは、見覚えのある文字だった。
——父の字。
莉子の心臓がどくんと跳ねた。
封を開けると、中には短い文が綴られていた。
りこへ
お母さんのこと、ずっと話せなくてごめん。
でもね、俺もずっと手紙を書いていたんだ。
ミケが届けてくれるって、信じて。
莉子は息をのんだ。
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、封筒を胸に抱きしめる。
「……お父さん」
その瞬間、後ろから小さな足音が聞こえた。
振り向くと、父が立っていた。
恥ずかしそうに頭を掻きながら、
「その手紙、届いたか?」と笑った。
莉子は頷いた。
そして静かに言った。
「うん、ちゃんと。ミケが、届けてくれたよ」
父は少し空を見上げて、
「ありがとう」と小さく呟いた。
ミケは二人の足もとをすり抜け、ポストの上に跳び乗る。
夕焼けの光の中で、鈴が小さく鳴った。
——それはまるで、「これで、少し前に進めるね」と言っているようだった。
夜明け前の町は、息をひそめている。
商店街の灯りはすべて落ち、通りの隅にあるポストだけが、街灯に照らされて淡く赤く光っていた。
そのポストの前で、ミケが座っている。
風が彼の毛並みを揺らし、首につけられた小さな鈴がかすかに鳴る。
どこか遠くを見つめるように、ミケはじっと空を見上げていた。
——その姿を、莉子は見つけた。
眠れなかった。
昨日、父から届いた手紙を何度も読み返しては、涙が出たり笑ったりして、心が忙しかった。
窓の外に月が沈みかけているのを見て、ふと外に出てみたくなった。
気がつくと、足は自然とポストの方へ向かっていた。
「……ミケ?」
呼びかけると、ミケはゆっくり振り向いた。
いつものように短く鳴くと、尻尾をふって莉子の足もとにすり寄る。
「こんな時間に、どうしたの?」
ミケは答えず、ただ莉子を導くように歩き出した。
朝靄のかかった路地を抜け、古びた木の家の前で止まる。
玄関先の鉢植えには、小さな白い花が並んでいた。
その家の表札には「桐原」と書かれている。
「ここは……?」
ミケは静かに鳴くと、玄関先のポストに前足をかけた。
そのポストの中には、黄ばんだ封筒が一通だけ入っていた。
まるでずっと誰かを待っていたように。
莉子はそっと封筒を取り出した。
宛名はにじんで読めない。けれど、筆跡はどこか懐かしい。
「……これ、ミケの?」
ミケは目を細め、静かに座り込んだ。
その姿は、まるで答えの代わりのようだった。
封筒を開くと、中には丁寧な文字でこう書かれていた。
まさるへ
君と過ごした日々が、今も私の宝物です。
どうか、もしこの手紙が届いたなら——
私は君を恨んでなんかいないと伝えてください。
——桐原 美佐
莉子は息をのんだ。
“桐原”という名前——この家の人だ。
けれど、封筒の紙はもう何年も前のもののように色あせていた。
ミケが小さく鳴いた。
莉子の視線を導くように、彼は玄関の扉の隙間へと歩いていく。
「ミケ、入っちゃだめ……」
そう言いかけた瞬間、扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、白髪の老人だった。
杖をつき、少し驚いた顔をしている。
「……おや、ミケか」
声はかすれていたが、優しい響きがあった。
「君が、また来てくれたのか」
莉子は戸惑いながら頭を下げた。
「す、すみません……この手紙、ポストに入ってて……」
老人は封筒を見つめた途端、息を呑んだ。
震える手で受け取り、目を閉じる。
「……美佐、か」
しばらく、何も言わずに立ち尽くしていた。
ミケは老人の足もとに寄り添い、静かに鳴いた。
その音だけが、沈黙をやさしく包んでいた。
「この猫はね……」老人がぽつりと口を開いた。
「昔、妻が拾ったんだよ。雨の降る日に、ポストの下で震えていた。
“あの子、きっと手紙を届けに来たのよ”って、美佐は笑ってた」
莉子の胸が熱くなった。
ミケの小さな体には、そんな過去があったのだ。
「それからというもの、あの子は不思議と誰かの落とした手紙を拾っては、届けるようになってね。
妻が亡くなったあとも、ずっとそうしていた」
老人は目尻をぬぐい、ミケの頭を撫でた。
「まるで、美佐の代わりのように」
莉子はそっと微笑んだ。
——だから、ミケは今も手紙を届けるのかもしれない。
想いが届かずに止まったままの人たちのために。
老人は、開いた封筒の中身を見て、涙を浮かべた。
「ありがとう……本当に、ありがとう。
君が、またこの手紙を届けてくれたんだね」
ミケはその言葉に応えるように、静かに尻尾を振った。
⸻
帰り道。
東の空が少しずつ白んでいく。
莉子はミケを抱きかかえながら、歩いた。
彼の毛並みは少し冷たかったけれど、心の奥は温かかった。
「ねえ、ミケ。あなたの中には、たくさんの人の想いがあるんだね」
ミケは目を閉じた。
その瞳の奥に、一瞬だけ何かが映った気がした。
——母と、父と、笑い合う若い夫婦の姿。
そしてポストの前で、小さな子猫を抱く女性。
「……美佐さん」莉子は小さく呟いた。
風が吹き、どこからか白い花びらが舞い落ちる。
ミケの鈴がひときわ澄んだ音を立てた。
その音が消えたとき、
莉子の手の中のミケは、いつのまにかいなくなっていた。
「……ミケ?」
辺りを見回しても姿はない。
けれど、ポストの前には小さな封筒が一つ置かれていた。
莉子はそっと拾い上げた。
封筒には、たったひと言だけ書かれていた。
ありがとう。
それは、丸くて優しい文字だった。
たぶん——美佐さんの字。
莉子は胸に抱きしめ、目を閉じた。
静かな朝の空気の中で、どこからか小さな鈴の音が聞こえた。
それはまるで、
「想いは、いつか必ず届くよ」と告げているようだった。
春の風が、やわらかく頬を撫でた。
空は少し霞んでいて、まるで遠くの誰かが笑っているような、そんな優しい明るさをしていた。
商店街の桜並木がいっせいにほころび始めている。
朝の光を透かす花びらが、ゆっくりと舞い落ちるたび、町の色が少しずつ冬から春へと変わっていった。
ポストの前に立つ少女の姿があった。莉子だ。
新しい制服の袖には、まだ白い糸のほつれが残っている。
手には封のされていない便箋と、古びた万年筆。
「ねえ、ミケ。私ね、手紙を書こうと思うの」
ミケの姿はどこにも見えなかった。
けれど、春風が吹くたびに、小さな鈴の音が耳の奥に響く気がした。
まるで見えない場所から、「聞いてるよ」と囁いているように。
莉子は便箋を膝の上に広げ、深呼吸をした。
新しい紙の白さが、心の中のわずかな痛みをそっと照らす。
⸻
未来のわたしへ。
あの冬の日、ミケが手紙を届けてくれた。
あの時、私は世界が止まってしまったみたいに泣いてばかりだったけど、
それでもあの日から少しずつ、前を向けるようになった。
手紙って、不思議だね。
たった一枚の紙なのに、誰かの心を遠くまで運べる。
だから、もしこれからも悲しい夜が来たとしても、
そのたびに私は手紙を書こうと思う。
届かないと思っても、きっとミケが見つけてくれるから。
⸻
筆を置いた。
手の中の温もりが、少しずつ静かに広がっていく。
その時だった。
足もとに影が落ちた。
「……ミケ?」
見上げると、そこにあの猫がいた。
白と茶のまだら模様、少し丸まった耳。
ミケはまっすぐ莉子を見上げ、静かに前足を差し出した。
その仕草が、まるで「さあ、渡して」と言っているようだった。
莉子は笑って便箋を折りたたむと、ミケの前に差し出した。
「お願い、ミケ」
ミケは小さく鳴き、手紙をそっとくわえた。
そして、少しだけ後ずさって莉子を見つめる。
「行くの?」
ミケは、ゆっくりと尻尾を揺らした。
その毛並みが春の光を受けて、淡く金色に染まっていく。
まるで体そのものが光に溶けていくように。
「待って……」
莉子は思わず立ち上がる。
胸が痛くなる。
けれど、その痛みの奥に、あの夜ミケと過ごした時間の温かさが蘇った。
——初めて出会った冬の日。
凍えた手を舐めてくれたこと。
暗い部屋で一緒に丸くなって眠った夜。
そして、母の手紙を届けてくれたあの日。
すべてが光の粒になって、目の前のミケに重なって見えた。
「ありがとう、ミケ」
そう呟くと、風がひとすじ吹き抜けた。
桜の花びらが空へと舞い上がり、世界が淡い色に染まる。
ミケはその中で、最後に一度だけ振り返った。
その瞳は、春の光を閉じ込めたように柔らかかった。
鈴の音がひとつ鳴った。
——チリン。
ミケの姿はゆっくりと薄れていった。
それでも、莉子の胸の中には確かな温もりが残った。
それは悲しみではなく、感謝だった。
⸻
季節が巡った。
商店街のポストは、今も同じ場所にある。
ただ少しだけ新しく塗り直され、屋根には小さな鈴の形をした飾りがつけられていた。
町では、いつのまにかこんな噂が広まっている。
——悲しい手紙をポストに入れると、猫が届けてくれるらしい。
夕暮れ、ひとりの少年がポストの前に立っていた。
手には小さな封筒。
そこには拙い文字で、「天国のおばあちゃんへ」と書かれている。
少年がそれをポストに入れた瞬間、鈴の音がした。
チリン——。
振り向くと、白と茶の猫がいた。
子猫のように小さく、でもその瞳はどこか懐かしい。
猫は手紙をくわえると、静かに路地へと歩いていった。
風が吹き抜け、桜の花びらが一枚、少年の肩に舞い落ちた。
少年は笑った。
「行ってらっしゃい」
⸻
それから数年後。
莉子は町のはずれで、小さな手紙屋を開いていた。
木の看板には、手書きで「風と便箋」と書かれている。
店内には、便箋とインクの瓶、そして誰かが書いた小さな手紙たちが並んでいた。
棚の奥には、一枚の写真が飾られている。
ポストの前で微笑む少女と、膝の上の猫。
その猫の首には、小さな鈴がぶら下がっていた。
午後になると、子どもたちが遊びに来る。
「ねえ、ミケの話して!」と目を輝かせる子もいる。
莉子は笑って、あの日のことを少しだけ語る。
「ミケはね、人の想いを届ける猫だったの」
「本当に届くの?」と子どもが首をかしげる。
「うん。想っている限り、きっと」
その時、窓の外で鈴の音がした。
風が白いカーテンを揺らし、一匹の猫が窓辺に座っていた。
模様は違っても、瞳はあの時のミケと同じ色をしている。
莉子は静かに立ち上がり、机の引き出しを開けた。
中には、一枚の便箋が入っている。
ミケへ。
あなたが繋いでくれた手紙は、今も届き続けています。
だから大丈夫。
あなたの想いは、ちゃんと生きてるよ。
莉子は微笑みながら、その手紙を窓辺に置いた。
猫はしばらくそれを見つめ、やがて口にくわえた。
「——行ってらっしゃい、ミケ」
猫は静かに尻尾を振り、窓の外へ飛び出した。
新しい郵便ポストが通りの真ん中に立つようになってからも、それはずっと取り壊されずに残っていた。
白く剥げた塗装の下から鉄の地肌がのぞき、夕陽を受けるたびにぼんやりと光る。
ポストの足もとには、いつも一匹の猫が座っている。
茶色と白のまだら模様。片方の耳が少し折れ、尻尾の先がくるりと丸く曲がっている。
誰がつけたのか、町の人たちはその猫を「ミケ」と呼んだ。
ミケは、いつ見てもそこにいた。
晴れた日は、ポストの影に伸びる陽だまりの中でのびをしながら眠り、
雨の日は、庇の下でじっと通りを見つめる。
商店街を歩く人たちはみんな、ミケの姿を探してはほっと息をつく。
まるでその小さな体が、町の平和の印のようだった。
「おや、今日もいるじゃないか」
八百屋の主人が笑いながら声をかける。
「いい天気だもんな、ミケ」
ミケは何も答えず、ゆっくりと尻尾を揺らしておじさんの足もとに体をすり寄せる。
すると主人は、段ボールの中から形の悪いミカンを一つ取り出してポストの横に置く。
「このミカン、売り物にならんからさ。代わりに魚でも貰ってくるといい」
もちろん、猫がミカンを食べるわけではない。
でも、それを見て笑うおじさんの顔がどこかやさしくて、
通りを通る人もつられて笑う。
パン屋の娘・春菜は、放課後になるとミケの前に小さなビスケットを置く。
「これ、あたしが焼いたんだよ。うまくできたでしょ?」
ミケはその匂いを一度嗅いで、ぺろりと舌を出す。
そのしぐさだけで、春菜はまるで“ほめられたような気分”になってしまうのだという。
——ミケは言葉を話さない。
でも、誰よりも人の気持ちを見つけるのがうまい。
その猫が、なぜこの町に来たのか、誰も知らない。
けれども、もう何年も前から、当たり前のようにポストのそばに座っていた。
そしていつの頃からか、町にはこんな噂が流れ始めた。
——“この猫に手紙を託すと、届けたい相手に
届くらしい”——
最初にそれを言い出したのは、駄菓子屋の女の子だったという。
引っ越してしまった友だちに手紙を書いたけれど、ポストに入れる勇気が出なかった。
その代わり、ミケの首輪のリボンに小さな封筒を結んだ。
すると数日後、その友だちから「手紙、届いたよ」と返事が届いた。
それ以来、ミケは“手紙猫”と呼ばれるようになった。
町の人たちは時々、ポストのそばに宛名のない手紙を置く。
「亡くなったおばあちゃんにもう一度ありがとうを言いたい」
「昔けんかした友だちにごめんを伝えたい」
「遠くに行った自分に、がんばれって言いたい」
——そんな言葉たちを、誰も見ていない夜のうちに置いていく。
封筒の中には、短い一文だけのものもある。
『あなたのことを、まだ忘れていません』
『元気でいてね』
『あの日の笑顔が、今でも私を救っている』
ミケはそれらを見つけると、口にくわえてどこかへ消えていく。
そして翌朝になると、何事もなかったようにポストの前に戻っているのだ。
「ほんとに届けてるのかねぇ」
「さぁな。でも、誰かが少しでも楽になるんなら、それでいいさ」
夜更け、八百屋の主人とクリーニング店の奥さんがそんな話をして笑う。
商店街の明かりが落ちた後も、ポストの前だけはどこか温かく、
まるで小さな灯りがともっているように感じられる。
冬の初めの夜、雪がちらちらと降り始めた。
人通りの絶えた通りに、ミケの足あとが点々と続く。
ポストの赤が雪に埋もれかけ、街灯の光の中で滲んでいる。
ミケは立ち上がり、ゆっくりと首をかしげた。
首輪についた小さな鈴が、かすかに音を立てる。
その音は、遠くの誰かを呼ぶように優しく響く。
口には、一通の白い封筒がくわえられていた。
宛名も差出人もないけれど、その端には花のシールが貼られている。
——誰かが、きっと大切な気持ちを託したのだ。
ミケはポストを一度振り返る。
まるで「行ってくるね」と言っているように。
そして、商店街を抜けて夜の道へと歩き出した。
雪を踏む音だけが、静かに響く。
灯りの消えた店先を通り、川沿いの小道を渡り、
ミケはまっすぐに進んでいく。
その姿は、どこか迷いがなく、まるで行くべき場所を知っているようだった。
途中で、川の向こうに灯る民家の明かりが見えた。
窓の内側で、子どもが笑う声がする。
ミケは立ち止まり、しばらくその光景を見つめてから、また歩き出した。
その背中を、静かな風がやさしく押す。
——その夜、町の誰も知らなかった。
ミケが向かった先に、一人の少女がいることを。
そして、その少女の心の奥に、まだ届いていない“手紙”があることを。
白い雪の中を、ミケは進む。
その足あとが、やがて誰かの心に続いているとも知らずに。
小さな鈴の音だけが、夜の静けさの中で確かに響いていた。
冬の雨は、音が柔らかい。
空から落ちる水の粒が地面に触れるたび、まるで何かを囁くように静かに消えていく。
その日の放課後、莉子は傘も差さずに校門を出た。
グレーの雲の下、アスファルトに映る自分の影は淡く揺れている。
「……別に、濡れてもいいや」
小さく呟く声は、雨に溶けて誰にも届かなかった。
母が亡くなってから三か月。
家の中の空気は、少しずつ色を失っていった。
台所には使われないままのマグカップ。寝室のドレッサーの上には、途中まで使われた香水。
父は仕事に出てばかりで、家に帰ってもほとんど口を開かない。
食卓に並ぶ料理の数が減っていくのと同じように、
莉子の心の中からも“音”が減っていった。
——何をしても、世界が遠い。
そんな気持ちを抱えたまま、彼女はただ歩いていた。
道端の花壇も、ガラス越しに見えるケーキ屋の灯りも、
すべてが薄い膜の向こうにあるように感じられた。
商店街の角を曲がったとき、ふと、視界の隅に小さな影が動いた。
雨に濡れた石畳の上で、猫が一匹、じっと座っている。
茶と白のまだら模様。片方の耳が折れていて、
尻尾の先が丸く曲がっている——。
「……ミケ?」
思わず口からこぼれた。
母と一緒に商店街へ行くたび、ポストの前で見かけた猫。
母はいつも、「この子ね、願いを届けてくれる猫なんだって」と笑っていた。
莉子はその話を半分信じて、半分は子どもじみた冗談だと思っていた。
だが今、目の前のミケは確かにそこにいて、
口には小さな白い封筒をくわえている。
ミケは莉子を見上げた。
その瞳は、雨粒を映して金色に揺れている。
何かを訴えるように一度鳴き、彼女の足もとまで歩いてきた。
「……なに?」
莉子がしゃがみ込むと、ミケは封筒を地面に落とした。
そして軽く尻尾を振り、ポストのある方向へ一度だけ顔を向けた。
まるで「開けてみなよ」と言っているように。
莉子は濡れた手で封筒を拾い上げた。
宛名も差出人も書かれていない。
けれど、封の部分に貼られた小さな花のシールが目に留まる。
それは——母がよく使っていたものだった。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
指先が震えながらも、彼女は封をそっと開けた。
中には、少し黄ばんだ便箋が一枚。
そこに綴られていたのは、たった数行の言葉だった。
りこへ
いつか、あなたが悲しい時。
この手紙が届きますように。
——おかあさん
瞬間、視界が滲んだ。
雨のせいか涙のせいか分からないほど、世界がぼやけていく。
手紙の文字は、間違いなく母の筆跡だった。
丁寧だけれど、少し筆圧が弱くて、最後の「おかあさん」の“ん”だけが途切れている。
きっと体が弱っていた時に書かれたのだろう。
「……うそ、でしょ」
莉子は思わず声を漏らした。
周りには誰もいない。
ミケだけが、静かにその場に座っていた。
封筒を胸に抱きしめると、涙が止まらなかった。
ずっと閉じ込めてきたものが、急に溢れ出したようだった。
「……お母さん」
小さな声で呼んでも、返事はない。
でもその代わりに、ミケがそっと莉子の膝に前足を乗せた。
温かかった。
まるで、母の手が重なったみたいに。
「あなたが、持ってきてくれたの?」
ミケは短く鳴いた。
その瞳に映る光は、どこか懐かしく、
莉子の胸の奥に残っていた冷たい空気を少しずつ溶かしていった。
雨はまだ降り続いている。
でも、頬を伝う涙の方がずっと温かかった。
しばらくそのまま、莉子はミケを抱いたまま動けなかった。
小さな体の鼓動が、確かに伝わってくる。
その音を聞いているうちに、ふと心の奥に柔らかな光が灯ったような気がした。
やがて、雨が少しずつ弱まっていった。
空の隙間から、うっすらと夕陽が覗く。
オレンジの光がポストの赤を照らし、濡れた道に反射してきらめいた。
「……ねえ、ミケ」
莉子がそっと呟く。
「もう少し、ここにいてもいい?」
ミケは鳴かずに、ただ莉子の膝の上で丸くなった。
その姿は、まるで最初からそうするつもりだったかのように自然だった。
遠くで商店街のシャッターが降りる音がした。
夜が近づいている。
莉子はもう一度、母の手紙を読み返した。
何度読んでも、涙がこみ上げる。
でもその涙は、不思議と前よりもやさしかった。
ふと気づくと、ミケが立ち上がっていた。
莉子を見上げ、一度だけ鳴いて、ポストの方へと歩いていく。
その背中を見つめながら、莉子は胸の中で小さくつぶやいた。
「ありがとう」
ミケは振り返らない。
ただ、濡れた足あとを残しながら、静かにポストの前に座った。
その姿は、灯りの下でひとつの影のように溶けていく。
——その夜。
莉子は久しぶりに、机の上に便箋を広げた。
母の手紙をそばに置きながら、自分の言葉を書いていく。
おかあさんへ
まだたくさん話したいことがあるよ。
でも、今日はありがとうって言いたい。
ミケが、ちゃんと届けてくれたよ。
書き終えると、涙の跡でインクがにじんだ。
でも、そのにじみさえも美しく思えた。
莉子は封筒を閉じて、花のシールを貼った。
次の日、朝の光の中で彼女はその手紙をポストの前にそっと置いた。
ミケの姿は見えない。
けれど、風の音に混じって、どこかで小さな鈴の音がした。
それはまるで、「ちゃんと受け取ったよ」と言っているようだった。
春が近づいていた。
商店街の並木道には小さな蕾が芽吹き、風はまだ冷たいけれど、どこかに柔らかさが混じっている。
あの日以来、莉子はよくポストの前に立つようになった。
ミケがそこにいる日もあれば、いない日もある。
けれど、どんな日でも不思議と心は落ち着いた。
ポストの赤が、母の文字のように温かく感じられる。
放課後、制服のポケットに小さな封筒を忍ばせて、莉子はその場所へ向かう。
いつもの角を曲がると、
ミケが屋根の上で陽だまりの中に丸まっていた。
「今日もいるんだね」
莉子が微笑むと、ミケはゆっくりと伸びをして、軽い足取りで屋根から降りてきた。
尻尾をふる姿が、まるで「おかえり」と言っているみたいだった。
ポストの足元には、すでに一通の手紙が置かれていた。
淡いクリーム色の封筒に、震えるような文字でこう書かれている。
たかしくんへ
ごめんね。どうしても伝えたいことがあるの。
莉子は思わず顔を上げた。
誰が置いたのか分からない。
でも、封筒の端に少しだけ涙の跡のようなにじみがあった。
ミケはその手紙のそばに歩み寄り、くんくんと匂いを嗅ぐ。
次の瞬間、くわえて走り出した。
「ミケ!」
莉子は驚いて追いかけた。
ミケは路地を抜け、古いアパートの前で止まる。
二階の階段を軽やかに上り、ある部屋の前でぴたりと座り込んだ。
郵便受けには「たかし」と書かれている。
莉子は胸の奥がじんと熱くなった。
ミケはポン、と手紙をその郵便受けに落とした。
そして振り返ると、何事もなかったかのように階段を降りてくる。
「……本当に、届けるんだ」
莉子は呟いた。
ミケの背中は、小さな体で世界を繋いでいるように見えた。
その夜、莉子は父と食卓を囲んだ。
最近、少しずつ父も話をするようになった。
「今日は学校どうだった?」
「うん、普通。でも……ミケがね、人の手紙を届けてたんだよ」
「はは、あの猫は本当に不思議だな」
父の笑顔は、まだぎこちないけれど確かにあたたかい。
食後、莉子は自分のノートを開いた。
そこには母への手紙と並んで、知らない誰かへの言葉も書かれていた。
誰かが、誰かに想いを届けたい時。
ミケはきっと、その手伝いをしてくれる。
書きながら、胸の奥が少しだけ軽くなった。
⸻
数日後。
商店街にある古いパン屋の店先で、莉子は見覚えのある女の人を見かけた。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、小さなパンを並べている。
その目尻には、優しい笑いじわ。
「こんにちは」
莉子が声をかけると、女性は微笑んだ。
「まあ、あなた。ミケのお友だちなのね?」
「え?」
「よくうちの裏庭で寝ているのよ。あの子、ねえ、面白いの。たまにお客さんの落とした紙切れをくわえてきてね、まるで届けに行くみたいにしてるの」
莉子は思わず笑った。
「本当に郵便屋さんなんだね」
「そうね。昔からあの子はこの町を歩いて、誰かの手紙を運んでるって話があるの」
女性は空を見上げた。
「昔、私の息子にもあの子が手紙を運んでくれたのよ」
「息子さんに?」
「ええ。事故で亡くなった夫の字でね。信じられなかったけれど、その手紙を読んだとき、心の中の何かがほどけた気がしたの」
莉子は胸の奥が温かくなるのを感じた。
ミケは——本当に、奇跡を起こす猫なのかもしれない。
⸻
その帰り道。
夕暮れの商店街で、ミケがポストの上に座っていた。
沈みかけの陽が、彼の毛並みに金の縁を描いている。
「ミケ、今日はどこに届けるの?」
莉子が問いかけると、ミケはじっと彼女を見つめ、ポストの上からひとつの小さな封筒を落とした。
それは、見覚えのある文字だった。
——父の字。
莉子の心臓がどくんと跳ねた。
封を開けると、中には短い文が綴られていた。
りこへ
お母さんのこと、ずっと話せなくてごめん。
でもね、俺もずっと手紙を書いていたんだ。
ミケが届けてくれるって、信じて。
莉子は息をのんだ。
涙がこぼれそうになるのをこらえながら、封筒を胸に抱きしめる。
「……お父さん」
その瞬間、後ろから小さな足音が聞こえた。
振り向くと、父が立っていた。
恥ずかしそうに頭を掻きながら、
「その手紙、届いたか?」と笑った。
莉子は頷いた。
そして静かに言った。
「うん、ちゃんと。ミケが、届けてくれたよ」
父は少し空を見上げて、
「ありがとう」と小さく呟いた。
ミケは二人の足もとをすり抜け、ポストの上に跳び乗る。
夕焼けの光の中で、鈴が小さく鳴った。
——それはまるで、「これで、少し前に進めるね」と言っているようだった。
夜明け前の町は、息をひそめている。
商店街の灯りはすべて落ち、通りの隅にあるポストだけが、街灯に照らされて淡く赤く光っていた。
そのポストの前で、ミケが座っている。
風が彼の毛並みを揺らし、首につけられた小さな鈴がかすかに鳴る。
どこか遠くを見つめるように、ミケはじっと空を見上げていた。
——その姿を、莉子は見つけた。
眠れなかった。
昨日、父から届いた手紙を何度も読み返しては、涙が出たり笑ったりして、心が忙しかった。
窓の外に月が沈みかけているのを見て、ふと外に出てみたくなった。
気がつくと、足は自然とポストの方へ向かっていた。
「……ミケ?」
呼びかけると、ミケはゆっくり振り向いた。
いつものように短く鳴くと、尻尾をふって莉子の足もとにすり寄る。
「こんな時間に、どうしたの?」
ミケは答えず、ただ莉子を導くように歩き出した。
朝靄のかかった路地を抜け、古びた木の家の前で止まる。
玄関先の鉢植えには、小さな白い花が並んでいた。
その家の表札には「桐原」と書かれている。
「ここは……?」
ミケは静かに鳴くと、玄関先のポストに前足をかけた。
そのポストの中には、黄ばんだ封筒が一通だけ入っていた。
まるでずっと誰かを待っていたように。
莉子はそっと封筒を取り出した。
宛名はにじんで読めない。けれど、筆跡はどこか懐かしい。
「……これ、ミケの?」
ミケは目を細め、静かに座り込んだ。
その姿は、まるで答えの代わりのようだった。
封筒を開くと、中には丁寧な文字でこう書かれていた。
まさるへ
君と過ごした日々が、今も私の宝物です。
どうか、もしこの手紙が届いたなら——
私は君を恨んでなんかいないと伝えてください。
——桐原 美佐
莉子は息をのんだ。
“桐原”という名前——この家の人だ。
けれど、封筒の紙はもう何年も前のもののように色あせていた。
ミケが小さく鳴いた。
莉子の視線を導くように、彼は玄関の扉の隙間へと歩いていく。
「ミケ、入っちゃだめ……」
そう言いかけた瞬間、扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、白髪の老人だった。
杖をつき、少し驚いた顔をしている。
「……おや、ミケか」
声はかすれていたが、優しい響きがあった。
「君が、また来てくれたのか」
莉子は戸惑いながら頭を下げた。
「す、すみません……この手紙、ポストに入ってて……」
老人は封筒を見つめた途端、息を呑んだ。
震える手で受け取り、目を閉じる。
「……美佐、か」
しばらく、何も言わずに立ち尽くしていた。
ミケは老人の足もとに寄り添い、静かに鳴いた。
その音だけが、沈黙をやさしく包んでいた。
「この猫はね……」老人がぽつりと口を開いた。
「昔、妻が拾ったんだよ。雨の降る日に、ポストの下で震えていた。
“あの子、きっと手紙を届けに来たのよ”って、美佐は笑ってた」
莉子の胸が熱くなった。
ミケの小さな体には、そんな過去があったのだ。
「それからというもの、あの子は不思議と誰かの落とした手紙を拾っては、届けるようになってね。
妻が亡くなったあとも、ずっとそうしていた」
老人は目尻をぬぐい、ミケの頭を撫でた。
「まるで、美佐の代わりのように」
莉子はそっと微笑んだ。
——だから、ミケは今も手紙を届けるのかもしれない。
想いが届かずに止まったままの人たちのために。
老人は、開いた封筒の中身を見て、涙を浮かべた。
「ありがとう……本当に、ありがとう。
君が、またこの手紙を届けてくれたんだね」
ミケはその言葉に応えるように、静かに尻尾を振った。
⸻
帰り道。
東の空が少しずつ白んでいく。
莉子はミケを抱きかかえながら、歩いた。
彼の毛並みは少し冷たかったけれど、心の奥は温かかった。
「ねえ、ミケ。あなたの中には、たくさんの人の想いがあるんだね」
ミケは目を閉じた。
その瞳の奥に、一瞬だけ何かが映った気がした。
——母と、父と、笑い合う若い夫婦の姿。
そしてポストの前で、小さな子猫を抱く女性。
「……美佐さん」莉子は小さく呟いた。
風が吹き、どこからか白い花びらが舞い落ちる。
ミケの鈴がひときわ澄んだ音を立てた。
その音が消えたとき、
莉子の手の中のミケは、いつのまにかいなくなっていた。
「……ミケ?」
辺りを見回しても姿はない。
けれど、ポストの前には小さな封筒が一つ置かれていた。
莉子はそっと拾い上げた。
封筒には、たったひと言だけ書かれていた。
ありがとう。
それは、丸くて優しい文字だった。
たぶん——美佐さんの字。
莉子は胸に抱きしめ、目を閉じた。
静かな朝の空気の中で、どこからか小さな鈴の音が聞こえた。
それはまるで、
「想いは、いつか必ず届くよ」と告げているようだった。
春の風が、やわらかく頬を撫でた。
空は少し霞んでいて、まるで遠くの誰かが笑っているような、そんな優しい明るさをしていた。
商店街の桜並木がいっせいにほころび始めている。
朝の光を透かす花びらが、ゆっくりと舞い落ちるたび、町の色が少しずつ冬から春へと変わっていった。
ポストの前に立つ少女の姿があった。莉子だ。
新しい制服の袖には、まだ白い糸のほつれが残っている。
手には封のされていない便箋と、古びた万年筆。
「ねえ、ミケ。私ね、手紙を書こうと思うの」
ミケの姿はどこにも見えなかった。
けれど、春風が吹くたびに、小さな鈴の音が耳の奥に響く気がした。
まるで見えない場所から、「聞いてるよ」と囁いているように。
莉子は便箋を膝の上に広げ、深呼吸をした。
新しい紙の白さが、心の中のわずかな痛みをそっと照らす。
⸻
未来のわたしへ。
あの冬の日、ミケが手紙を届けてくれた。
あの時、私は世界が止まってしまったみたいに泣いてばかりだったけど、
それでもあの日から少しずつ、前を向けるようになった。
手紙って、不思議だね。
たった一枚の紙なのに、誰かの心を遠くまで運べる。
だから、もしこれからも悲しい夜が来たとしても、
そのたびに私は手紙を書こうと思う。
届かないと思っても、きっとミケが見つけてくれるから。
⸻
筆を置いた。
手の中の温もりが、少しずつ静かに広がっていく。
その時だった。
足もとに影が落ちた。
「……ミケ?」
見上げると、そこにあの猫がいた。
白と茶のまだら模様、少し丸まった耳。
ミケはまっすぐ莉子を見上げ、静かに前足を差し出した。
その仕草が、まるで「さあ、渡して」と言っているようだった。
莉子は笑って便箋を折りたたむと、ミケの前に差し出した。
「お願い、ミケ」
ミケは小さく鳴き、手紙をそっとくわえた。
そして、少しだけ後ずさって莉子を見つめる。
「行くの?」
ミケは、ゆっくりと尻尾を揺らした。
その毛並みが春の光を受けて、淡く金色に染まっていく。
まるで体そのものが光に溶けていくように。
「待って……」
莉子は思わず立ち上がる。
胸が痛くなる。
けれど、その痛みの奥に、あの夜ミケと過ごした時間の温かさが蘇った。
——初めて出会った冬の日。
凍えた手を舐めてくれたこと。
暗い部屋で一緒に丸くなって眠った夜。
そして、母の手紙を届けてくれたあの日。
すべてが光の粒になって、目の前のミケに重なって見えた。
「ありがとう、ミケ」
そう呟くと、風がひとすじ吹き抜けた。
桜の花びらが空へと舞い上がり、世界が淡い色に染まる。
ミケはその中で、最後に一度だけ振り返った。
その瞳は、春の光を閉じ込めたように柔らかかった。
鈴の音がひとつ鳴った。
——チリン。
ミケの姿はゆっくりと薄れていった。
それでも、莉子の胸の中には確かな温もりが残った。
それは悲しみではなく、感謝だった。
⸻
季節が巡った。
商店街のポストは、今も同じ場所にある。
ただ少しだけ新しく塗り直され、屋根には小さな鈴の形をした飾りがつけられていた。
町では、いつのまにかこんな噂が広まっている。
——悲しい手紙をポストに入れると、猫が届けてくれるらしい。
夕暮れ、ひとりの少年がポストの前に立っていた。
手には小さな封筒。
そこには拙い文字で、「天国のおばあちゃんへ」と書かれている。
少年がそれをポストに入れた瞬間、鈴の音がした。
チリン——。
振り向くと、白と茶の猫がいた。
子猫のように小さく、でもその瞳はどこか懐かしい。
猫は手紙をくわえると、静かに路地へと歩いていった。
風が吹き抜け、桜の花びらが一枚、少年の肩に舞い落ちた。
少年は笑った。
「行ってらっしゃい」
⸻
それから数年後。
莉子は町のはずれで、小さな手紙屋を開いていた。
木の看板には、手書きで「風と便箋」と書かれている。
店内には、便箋とインクの瓶、そして誰かが書いた小さな手紙たちが並んでいた。
棚の奥には、一枚の写真が飾られている。
ポストの前で微笑む少女と、膝の上の猫。
その猫の首には、小さな鈴がぶら下がっていた。
午後になると、子どもたちが遊びに来る。
「ねえ、ミケの話して!」と目を輝かせる子もいる。
莉子は笑って、あの日のことを少しだけ語る。
「ミケはね、人の想いを届ける猫だったの」
「本当に届くの?」と子どもが首をかしげる。
「うん。想っている限り、きっと」
その時、窓の外で鈴の音がした。
風が白いカーテンを揺らし、一匹の猫が窓辺に座っていた。
模様は違っても、瞳はあの時のミケと同じ色をしている。
莉子は静かに立ち上がり、机の引き出しを開けた。
中には、一枚の便箋が入っている。
ミケへ。
あなたが繋いでくれた手紙は、今も届き続けています。
だから大丈夫。
あなたの想いは、ちゃんと生きてるよ。
莉子は微笑みながら、その手紙を窓辺に置いた。
猫はしばらくそれを見つめ、やがて口にくわえた。
「——行ってらっしゃい、ミケ」
猫は静かに尻尾を振り、窓の外へ飛び出した。



