──翌朝。


机に教科書を広げても、文字が全然頭に入ってこない。

朝の教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。

黒板を拭く音、プリントを配る紙のすれる音、椅子を引く甲高い音。

誰かの笑い声。

窓の外ではグラウンドを走る掛け声。

全部が昨日までと同じなのに、その中で自分だけ取り残されているような気がした。

胸の奥に、小さな違和感が残っている。

勉強モードに切り替わらない、というだけじゃない。

まるで、自分の心だけが昨日のまま止まっているみたいだった。


(落ち着かなきゃ……)


鉛筆を握る指が、かすかに震える。

ページをめくっても、視線は同じ行を行ったり来たりするばかり。

頭に入ってくるのは、黒板の文字じゃなくて――昨日の「頭ポン」が、まだ鮮明に残っていた。

手の感触。

あの距離。

あの笑顔。


(あの顔……絶対、冗談じゃなかった。気のせい、じゃないよね……?)


自分で考えておいて、自分で慌てる。

胸がざわついて仕方がない。

頬の内側をそっと噛みながら、ノートの端を無意味にめくってごまかす。

前の席の子の話し声も、先生が入ってくる気配も、どこか遠くに聞こえる。

チャイムが鳴っても、姿勢を正しただけで、意識は半分以上ぼんやりしたままだった。





──休み時間。


「翠、なんか今日、顔赤くない?」


隣から身を乗り出してきた莉子が、じっと覗き込んでくる。

細い指先で、私のほっぺをつつくふりまでしてきて、思わず身を引いた。


「えっ!? そ、そんなことない!」

「うそ。さっきからぼーっとしてたし」


慌てて否定すると、莉子はふっと小さく笑って肩をすくめた。


「昨日の結城先輩、めちゃかっこよかったよね!翠、今、心臓ヤバいでしょ」

「なっ……! そ、そんなこと……!」


言いかけた声が裏返って、顔が一気に熱くなる。

机の下でスカートの裾を握りしめ、うつむくしかなかった。


(落ち着かなきゃ、ほんとに……)


図星を刺されたみたいで何も言えない。

胸の奥がじんじん熱くて、余計に言い返せなかった。


「ごめんごめん、いじってるわけじゃないからね?」


莉子が小声でつけ足す。


「なんか、嬉しそうだったからさ。……変なこと言われたら、ちゃんと言ってよ?」


覗き込む瞳は、からかいよりも心配の色が濃くて。

その優しさに、少しだけ呼吸がしやすくなった。





──体育館。


放課後、マネージャーとしての仕事に戻っても、鼓動は完全には元に戻らない。

タオルを並べていると、背後からひそひそ声が聞こえてきた。


「昨日さ……結城先輩、長谷川に……」

「頭ポンだろ? あれ、ガチっぽくね?」

「うわ、見てた見てた!」


笑いを含んだ声、驚いた声、面白がる声。

視線がちらちら向けられるのを感じて、思わず俯いた。

喉が渇いて、水筒の冷たさをぎゅっと握る。

胸がきゅっと縮んで、呼吸が浅くなる。

耳まで熱くなって、タオルを並べる手が微かに震えた。


(違う、あれは、その……たまたまで……)


言い訳が頭の中で空回りする。

けれど、うまく言葉にはできなくて、ただ黙って仕事を続けるしかなかった。

目の前のタオルの白が、やけに滲んで見えた。





──同じころ。


コートの端では、大和がいつもより荒々しい声を張り上げていた。


「もっと集中しろよ! そこルーズだって!」


ボールを叩く音も強く、パスを受ける手が少し乱暴になる。

ジャンプして着地するたび、床がいつもより大きく鳴る気がする。

額の汗を乱暴にぬぐい、歯を食いしばる仕草。

その瞳は、ちらり、ちらりと翠を追っていた。


(……見ないようにしろよ、集中)


自分に言い聞かせるように、さらに声を張る。

胸の奥で渦巻く苛立ちを押さえ込むように、ボールを拾い上げる指先に、無意識に力がこもっていた。

本当は知っている。

あのとき、一歩早く動けなかったのは、自分だということを。





──ベンチの美月。


スコアシートに視線を落としながら、笑みを浮かべたまま、ほんの一瞬だけ表情が固まる。

ちら、と視線の先には、タオルを並べる翠と、その向こうにいる煌大。


「……これ以上、踏み込まれたら困るんだけどな」


誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやき、タオルを丁寧に畳み直す。

目の奥にかすかな陰りを宿したまま、誰にも気づかれないように呼吸を整える。

視線は煌大に向けられていたが、次の瞬間には何でもないふうに逸らした。


(あの子は悪くない。わかってる。……わかってるけど)


胸の奥でざらりとした感情が、静かに身じろぎする。





──翠はまだ気づかない。


自分の頬が熱い理由を、「恥ずかしさ」の一言で片づけようとしている。

けれど周囲は、少しずつ理解し始めていた。

煌大の視線が、練習の合間やふとした瞬間に。

確かに、翠へと向けられていることを。