──放課後。


体育館の倉庫へ向かう廊下。

私は両腕で大きなダンボールを抱えていた。

視界のほとんどが段ボールでふさがれて、足元は頼りない勘だけ。

それでも「大丈夫、大丈夫」と心の中で繰り返しながら、一歩ずつ進む。


「よいしょ……あと少し……」


そう呟いた瞬間、段ボールの底がぐらりと傾いた。

バランスを崩した足が、ほんの少し床の段差にひっかかる。


(わ、ど、どうしよう――)


つまずいた拍子に、腕の支えが外れた。


「わ、わぁっ!」


制服の袖が宙を切り、箱の中身が一気に飛び出す。

ノート、ビブス、練習着、テーピング、雑巾――色んなものが床いっぱいに散らばった。

しゃがみ込んで、慌てて拾おうと手を伸ばす。

けれど焦りすぎて、掴み損ねたノートを自分でさらに遠くへ滑らせてしまった。

視線が痛いほど突き刺さる気がして、顔がじわりと熱くなる。


──その時。


「おいおい、大丈夫か」


背後から伸びた長い腕が、すっと床のノートを拾い上げる。

その動きは驚くほど自然で、落ち着いていて、周囲のざわめきが一瞬だけ薄れた。

顔を上げると、結城先輩が立っていた。


「ゆ、結城先輩……」


喉がきゅっと鳴って、声が震える。

結城先輩は片手でノートを差し出しながら、もう片方の手を私の頭に、ぽん、と軽く乗せた。


「気にすんな。誰だってやったことあるよ、こういうの」


ただ、まっすぐこちらを受け止めるみたいな声音。

そして、普段の“余裕の笑み”じゃなかった。

思わず息をのむくらいの、優しくて、愛おしそうな笑顔。

心の奥がじんわり温まって、同時に胸がどくんと大きく跳ねる。

時間が一瞬止まったみたいで、体育館から漏れる音も、廊下の気配も、全部が遠のいた。

息をするのも忘れてしまいそうで、私はただ、見上げることしかできなかった。





──ざわめきが戻ってくる。


「今の、見た?」

「結城先輩、頭ポン……!」


部員たちの視線が一斉に集まり、空気がざわざわと波立った。

誰かの小さな悲鳴みたいな声や、押し殺した笑い声が、やけに耳に残る。


「ちょ……やば……」


近くにいた莉子が、ぽつりと漏らす。





──少し離れた場所。


大和は立ち尽くしていた。

手に持っていたボトルケースを握りしめる指先に、余計な力がこもる。

胸の奥に広がったのは、焦りとも苛立ちとも言えない感情だった。

さっきまでただのちょっとしたハプニングだったはずの光景が、一瞬で意味を変えてしまったような気がする。


(……なんで、俺じゃなくて……)


本当なら駆け寄って、笑って拾って、いつもみたいに、さりげなく助けることができたはずなのに。

気づいたときには、もう結城さんの手が伸びていた。

唇を噛んでも、その思いは消えなかった。





──美月の横顔。


周囲からは、いつも通り穏やかに笑っているように見えた。

けれど、その唇からこぼれた小さなつぶやきは誰にも届かなかった。


「……あんな顔、初めて見た」


胸の奥に、鋭い痛みが走る。

誰よりも近くでみてきたはずなのに、今の煌大の表情は、自分に向けられたことがなかった。

指先がかすかに震えて、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。





──煌大の胸中。

自分でも驚くくらい自然に、身体が動いていた。

散らばるノートが目に入った瞬間には、もう足が向かっていた。

頭をぽん、とした時、込み上げたのは“守りたい”という感情。


(……俺、今、何やってた……?!)


廊下を離れながら、心臓がやけにうるさい。

さっきの自分の顔を思い出して、思わず前髪に手を通す。

いつものように余裕ある表情を崩さなかった。

けれど胸の奥では――

言葉にならない思いが、確かに芽生えていた。





──翠は気づかない。

ただ、散らばった荷物を抱え直しながら、胸の鼓動が止まらないことに戸惑っていた。


(え?! 何これ!? なんで……なんで、結城先輩が私に……)


さっき触れた手の重みが、まだ頭に残っていた。

視界の端で、先輩たちがひそひそと笑っているのが見えて、ますます心臓が暴れ出す。

顔を上げる勇気が出なくて、翠はうつむいたまま、震える指先でノートをぎゅっと抱きしめた。


 ̄ ̄