──練習後の体育館。


タオルを片付けていると、萌がちらりと私を見て、わざと明るい声をあげた。


「ねえ、翠ちゃん。これも片付けておいてくれる? 私、先輩に呼ばれてるからさ」


笑顔で言われれば、断れない。

胸の奥で小さなため息が丸くふくらむ。


(また、私か)


と、喉の奥まで来た言葉を飲み込む。

そのやりとりを見ていた、莉子が口を開いた。


「ねえ、それくらい自分でやれば?翠ばっかに押しつけてさ」

一瞬、空気が止まる。

萌は「なにそれ〜」と肩をすくめ、すぐに笑顔を貼り直した。


「冗談だって。ほら、急ぎで呼ばれてるの。ね、お願い」


私は小さく首を振って、場を収める。


「莉子、大丈夫。私がやるから」


波風を立てたくない気持ちが、また私を先に動かした。





一人でタオルを回収していると、不意に声が落ちてきた。


「遅くまで残ってんだな」


振り向けば、結城先輩が、差し入れの袋を片手に立っていた。

窓から差し込む夕陽が、先輩の肩口を細く縁取っている。

汗に濡れた前髪が額に貼りつき、息は少しだけ速い。


「今これ、もらったんだけど……チョコとクッキー、どっち好き?」

「え? あ、えっと……チョコです」


答えた瞬間、先輩はためらいなくチョコを差し出す。

指先が触れそうになって、息が止まった。

どきん、と胸の奥で跳ねる音が、耳の内側に響く。


(聞こえてないよね……)


自分の鼓動だけが大きくなって、体育館の静けさに滲んでいく気がした。


「ありがとう、ございます……」


かすれた声。

うまく笑えた自信がない。


『遅くまで残ってんだな』
ただそれだけの言葉。

けれど、見ていてくれたことがわかって、胸が熱くなった。

ほんの一瞬の会話なのに、何度も思い返してしまう気がした。





「わあ! 私も欲しい〜」


横から萌が顔を出した。

いつもの笑顔の角度、いつものトーン。

けれど袋の中は空だった。


「ごめん、中川さん。もうない」


先輩はそう言って、ポケットに手を突っ込み、ゆっくりとコート脇を歩き出す。

その背中はまっすぐで、夕陽の色を引きずりながら遠ざかっていく。

冷たく見えるのに、私の胸の内側には小さな温かさだけが残った。

指先には、さっきの距離感がまだ残像のように痺れている。





萌は笑顔を崩さなかった。

けれど、その瞳の奥に一瞬、苛立ちの影が走ったのを、私は見逃さなかった。

胸の奥がざわめく。

先輩の背中と、萌の表情。

その二つが重なって、心の中に小さな波を作り続けていた。