──休日、図書館近くのカフェ。


窓際の席に並んで、翠と大和はノートを広げていた。


「ここ、こうやって解いた?」


大和がペン先で問題を示す。


「うん、でも途中でわかんなくなって……」


翠が小さく答えると、大和はスラスラと説明を続けた。

その声は落ち着いていて、隣にいる翠の肩から少し力が抜ける。

翠にとって、大和と一緒にいる時間は不思議と安心できるものだった。

一方の大和は、真剣にノートを見つめる翠の横顔に、胸を熱くしていた。


「翠ちゃんってさ、やっぱ頭いいよな。すぐ理解するし」

「そんなことないよ。大和くんが教え方うまいから」


翠が照れ隠しの笑みを見せると、大和は一瞬息を呑む。

それは自分に向けられた微笑みでありながら、どこか「感謝」だけに見えてしまった。

休日のカフェは、穏やかなざわめきに包まれていた。

コーヒーの香りと、ページをめくる音。

外の並木道では、春の風がカーテンをそっと揺らしている。

そんな空間の中で、二人だけの時間がゆっくり流れていた。


(こうして並んでるだけで、少し心が落ち着く……)


翠はペン先を見つめながら、ふとそう感じた。

隣にいると安心できる――けれど、その安心の奥には、別の人の影がかすかに揺れている。

大和はそんな翠の横顔を、何度も見ないようにしていた。

見てしまえば、心の奥がざわつくから。

それでも、視線は自然とそちらへ引き寄せられてしまう。

グラスの中の氷が、静かに音を立てる。


(今、何を言えばよかったんだろ)


大和はノートの文字を見つめたまま、答えを探していた。

自分の想いを伝えたいのに、口を開けばこの空気を壊してしまいそうで。

翠もまた、胸の奥に小さな罪悪感を抱いていた。

優しく笑う大和に向かって、「ごめんね」と言いたかった。

でもその言葉を出せば、きっと戻れなくなる気がした。

だから二人は、何も言わなかった。

ただノートを開いたまま、夕陽が傾くまで静かに座り続けた。

しばらく静かな時間が流れたあと、大和が口を開く。


「俺さ、翠ちゃんと一緒に勉強できて、ほんとに嬉しい」


その言葉に、翠は少し驚いた表情を見せ、やがて切ない笑顔を浮かべた。


「……優しいね、大和くんって」


胸に刺さるその一言。

大和は気づいた。


(今の笑顔……俺に向けられたものじゃない。俺への想いじゃなくて、ただ“優しさ”に対する返事だ)


大和は笑顔のまま、ほんの少しだけ視線を落とした。

喉まで出かかった言葉は、グラスの氷に当たる微かな音に紛れて消える。

彼はペンを持ち直し、静かに頷いた。


──ノートに向かう二人。


数式は進むのに、互いの心に残った感情は解けないままだった。


──