──放課後の体育館。


練習が終わり、片付けをしているときだった。


「長谷川、タオル取って」

「はい!」


いつも通り返事をして手渡したけれど――。

そのまま自然に距離を取るように、少しだけ視線を逸らした。

ほんの小さな仕草。

けれど、美月、大和、莉子、そして煌大は気づいていた。


(……翠、なんか違う)


直接口にすることはないけれど、どこかぎこちない。

数日間、そんな空気が続いていた。

練習中も、視線が合えばすぐ逸らしてしまう。

ボトルを渡す手が少し震えて、
「ありがとう」と言われても笑って誤魔化すだけ。

まるで透明な壁ができたみたいに、
同じ空間にいても、心だけが遠く離れていく気がした。





──ある日の夕暮れ。


部活を終えて片付けをしていた私の腕を、不意に掴む手があった。


「えっ……結城先輩!?」


驚いて振り向くと、そのまま壁際まで押しやられていた。

近い距離。

逃げ場はない。

結城先輩の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いてくる。

夕日のオレンジが瞳に映り込み、息が詰まるほど近かった。


「……お前、俺のこと避けてるだろ」


低く落とされた声。

いつもの柔らかさが消えていて、胸がぎゅっと締めつけられる。

でも私は、動揺を見せまいと、笑顔を浮かべて答えた。


「そんなことないですよ」


声が震えないように、ゆっくり息を整える。

心の奥では、嘘だって自分でもわかっていた。

この距離が怖くて、期待して、また怖くなる。

どうしたらいいのか、わからなかった。

その言葉とともに、柔らかく優しい笑みを残す。

そして、さっと身をかわして歩き出した。

体育館の床に響く足音が、やけに遠く感じる。





後ろに残された煌大は、その場に立ち尽くしたまま。

追いかけることもできず、ただ拳を握りしめる。


(……なんで、そんな笑顔で……)


夕暮れの光に溶けるように、彼の表情には焦燥がにじんでいた。

誰よりも近くにいたはずの距離が、
今はもう、手の届かない場所に変わっていた。

体育館の外では、蝉の声が弱々しく続いていた。

窓の向こうの空が、ゆっくり群青に沈んでいく。

その中で煌大は、何度も深呼吸を繰り返した。


(俺……何してんだろ)


怒りでも悲しみでもない。

ただ、どうしようもない悔しさが胸の奥に広がっていく。

あの笑顔を守りたいと思っていたのに、
今の自分は、その笑顔から一番遠いところにいる。

彼女が出ていった扉を見つめたまま、煌大は小さく唇を噛んだ。





一方そのころ、体育館の裏を歩く私の足も止まっていた。

夕風が頬をなで、少しだけ冷たかった。


(……本当は、避けたくなんてなかった)


胸の奥で呟く声は、誰にも届かない。

それでも、振り返ることはできなかった。

すれ違う想いが、静かに夜へと沈んでいく。