──放課後の部室。


「ねえ、今日の水、お願いしていい?」


部室に入った瞬間、萌が当然のようにペットボトルを私に押しつけてきた。

まだキャップすら開けていない新品のボトル。

冷気が指先に伝わる。


「うん、わかった」


反射的に答えてしまう。

本当は「一緒にやろうよ」と言いたいのに、声が喉で丸まって消えていく。

断れない。

そういう性格だと、自分でもわかっている。

入部してまだ数日。

私たち一年の仕事は、タオルを並べたり水を用意したり、練習の補助ばかり。

覚えることは多いけれど、やること自体は難しくない。

最初は、萌と一緒に動こうって話していたはずなのに――。

気づけば、彼女は先輩たちと談笑したり、練習を横目にスマホをいじったりしていることが増えていた。

その間に自然と、水を入れるのも、タイマーを押すのも、雑巾を用意するのも・・・。

ぜんぶ、私の役目になっていた。


(・・・まあ、いい。私にできることなら)


小さく息を吐いて、言葉にならないため息を飲み込む。

手にしたペットボトルを抱えて、体育館へ向かった。





コートでは、先輩たちが真剣な表情でボールを追っていた。

パスの音。

ドリブルのリズム。

シューズが床を擦る乾いた摩擦音。

体育館全体が、熱を持ったリズムで動いている。

ベンチ脇に水を並べながら、私はふと手を止めた。

この音に包まれると、不思議と自分まで身体が熱くなる。

さっきまで部室で感じていた孤独感が、少しだけ和らいでいく気がする。

たとえ部員ではなくても、この空気の中にいられることが、嬉しい――そう思った。

そのときだった。


「ありがとう、長谷川さん」


不意に名前を呼ばれ、心臓が強く跳ねた。

驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは結城先輩。

体育館の光の中で笑う横顔が、あの日の記憶と重なる。

差し出したボトルを受け取るとき、指先がかすかに触れた。

ほんの一瞬。

けれど胸の奥で、はっきりと「どきん」と音がした。

結城先輩は気にする様子もなく、軽く笑ってから再び仲間の輪に戻っていった。

けれど――。

その笑顔と声は、熱を帯びて心臓の奥に残り続けた。


「え……」


息がもれた。

頬が一気に熱くなる。

耳の裏まで真っ赤になっていくのが自分でもわかる。

さっきまで冷たかったペットボトルの感触が、急に指にまとわりついて重くなった。


(いま……名前を呼ばれた?)


頭の中で何度も反芻する。

“長谷川さん”――ただそれだけの言葉なのに、特別な響きを持って胸に刻まれる。

マネージャーになってから初めて、先輩に呼ばれた私の名前。

たった一言なのに、世界が一瞬で色を変えた。





その後の練習は、まるで夢の中みたいだった。

ボールが弾む音も、コーチの笛も、遠くにあるように感じる。

私の意識は、結城先輩の姿を追ってばかりいた。

速いドリブル。

視線を鋭く走らせながらのパス。

跳躍の瞬間にふっと力を抜いて放つシュート。

どれも無駄がなく、自然で、でも確かに美しい。


(やっぱり・・・綺麗だ)


入部見学の日に感じたあの言葉が、また胸の中に浮かんでくる。

けれど今日はそれだけじゃない。

そこに“私を呼んでくれた声”が重なって、心臓の奥がずっとざわめいている。

萌が隣で「すごい! 今の見た?」「さすが結城先輩、エースって感じだよね!」と声を上げる。

私はただ頷くだけ。

声を出したら、胸の動揺まで零れてしまいそうで。


⸻練習後。


汗と熱気がこもった体育館で、私と萌はタオルを集めていた。

籠いっぱいになった布を抱える腕にずしりと重さがのしかかる。

でも不思議と苦じゃなかった。

――むしろ、心の中に燃える熱が支えてくれるようだった。


「翠ちゃん、ありがと! 私、先輩に話しかけてくるね!」


萌はそう言って、また先輩の輪に駆けていった。

私はその背中を見送りながら、胸の奥に手を当てる。

さっき呼ばれた“長谷川さん”という一言。

それは萌にも、他の誰にも聞こえていたはずなのに――なぜか私だけの宝物みたいに思えた。

夕方の光が体育館の窓を透かして差し込む。

埃がきらきら舞う中で、私はひとり、小さく息をついた。


(明日も・・・呼んでくれるかな)


そんな期待を抱く自分が、少し怖かった。

でも同時に、その怖ささえ甘くて、心の奥にそっと沈んでいった。

──その日、私は初めて「自分がここに居てもいいのかもしれない」と思えた。