──練習試合の日。


いつもより少し早く集まった体育館は、独特の熱気に包まれていた。

相手校のユニフォームの色。

シューズが床を叩く音。ウォーミングアップの掛け声。

その全部に圧倒されそうになりながら、私は先輩マネージャーの隣で、スコアの練習をしていた。


「ここが相手の得点ね。で、この横がシュート決めた人の番号」

「は、はいっ……!」


必死でペンを走らせるけど、字は小さいし、欄からはみ出してしまう。


「……あれ?」


自分で書いた数字が読みにくくて首をかしげていると、横からふっと影が落ちた。


「なに書いてんの?」


顔を上げれば、結城先輩。

汗を拭いながら、自然な動きでスコア表を覗き込む。

近い。

思ったよりずっと近くて、息が止まりそうになる。


「す、スコアの練習してて……」

「ああ、なるほど。……字、ちっちぇーな」

「えっ!? ……やっぱり小さいですか?」


真っ赤になって答えると、彼はほんの少しだけ口元をゆるめて、小さく微笑んだ。


「いや、長谷川らしい。いい」

(私らしい……? 今、そう言った……?)


胸が跳ねて、呼吸が浅くなる。

距離が近すぎて、顔が熱い。

視線を落としてごまかそうとしても、斜め上からの気配が消えない。


「……ちゃんと追えてる。マジで」


不意に優しい声。

視線が合った瞬間、全身が固まった。

何か言わなきゃいけないのに、喉がきゅっと詰まって言葉にならない。

その様子を、周囲の部員たちがちらちら見ては、


「なんか雰囲気よくない?」

「え、やば」


と小声で笑っていた。

頬の赤みがさらに増して、ペンを握る指先が震える。

書き直そうとしても、頭が真っ白で字がまとまらない。


(落ち着いて……仕事、仕事……!)


焦れば焦るほど、意識は彼の言葉に引き戻される。


「長谷川らしい。いい。」


その一言が、何度も胸の中で反響していた。





試合が進むにつれて、体育館の熱はさらに増していく。

キュッと床を鳴らす切り返し、シュートの弧、ベンチから飛ぶ声。

私はスコア表を追いながら、タイムの笛を待ちつつ、未使用のボトルを確認していた。

白テープで「予備‐2」と書いたボトルを抱え、タイミングを見計らう。


(ちゃんと渡せるように……位置、ここでいいよね)


──タイム中。


ベンチに戻ってきた選手たちが一斉にボトルへ手を伸ばす。

結城先輩はスポドリを一気に飲み干し、空になったボトルを軽く振った。


「……なくなった」


その瞬間。

私が抱えていた『予備‐2』のボトルが、ひょいっと消える。


「え――」


気づけば、結城先輩の手の中にあった。

彼は飲み口を少し離したまま、ボトルを傾けて一気に流し込む。

喉が上下するのが、すぐそばで見えた。


「悪い。借りた」


さらっと返されるボトル。

差し出されたそれを受け取る指が震える。


(ほかにも予備はあったのに――わざわざ、私の?)


頭が真っ白になる。

顔から火が出そうで、目を合わせられない。

自分の胸の音が隣の人にまで聞こえてしまいそうで、怖かった。


「……助かった」


短くそう言って、汗を拭いながら何事もなかったかのようにコートへ戻っていく。

私は、返されたボトルを見つめたまま動けなかった。





──ざわめく声。


「今の見た?」

「結城、真っ直ぐ長谷川のとこ行ったよな」

「やっぱ、長谷川がお気に入りなんじゃね?」


クスクス笑い声、驚きのささやき。

視線が集まっているのが分かるのに、逃げることもできない。

胸が熱くなって、鼓動が止まらなかった。


(ど、どうしよう……。これって、私だけに……? それとも、ただの偶然……?)


自分に問いかけても、答えは出ない。

……さっきまで“予備”として抱えていたボトルは、もうただの水じゃなくなっていた。

指先に残る温度と、さっきまで結城先輩が飲んでいたボトルだ、という事実だけで意識してしまう自分が恥ずかしいのに、目を逸らせない。

視線を落としても、頬の熱は収まらない。

むしろ見られてしまったことで余計に意識してしまう。

周囲の声も、笑いも、ボールの音も、すべて遠くに霞んでいく。

心を奪ったのは、ほんの一瞬の出来事。

それなのに――私の世界は、その一瞬で、大きく揺れてしまっていた。