──あれから1週間。


朝の電車で結城先輩に守られてから、胸の鼓動はずっと落ち着かなかった。

思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。

背中を支えられた瞬間の体温。

「じっとしてろよ」と低く響いた声。

荷物をひょいと持ち上げて、前を歩いていく横顔。


(……どうしよう)


顔を合わせるのが恥ずかしくて、気まずくて……。

気づけば、目を逸らしてばかり。

声をかけられる前に距離を取ったり、視線が合いそうになると慌てて別のところを見てしまったり。

部活でも、まともに視線を合わせられない日々が続いていた。

なのに、意識すればするほど、逆に存在感は増していく。


⸻ 昼休み。


莉子とお弁当を食べていた教室のドアが、突然ざわついた。


「結城先輩……!」


前の方の席から、誰かの小さな声。

そちらを見ると、結城先輩が立っていた。

空気が、一瞬で変わる。


「長谷川いる?」


自然な口調で、バスケ部の後輩に尋ねる。

一気に教室がざわめき、視線が集中する。

名前を呼ばれたわけじゃないのに、「長谷川」が自分なのはわかっていて、心臓を握られたみたいに苦しくなりながら、私は席を立った。

横で莉子が「行っておいで」と小さく背中を押してくれる。


──廊下。


結城先輩は、私を見つけてふっと表情を緩める。


「今度の練習試合の準備、頼める? 大変なら平野と一緒でもいいし」

「は、はい! ……大丈夫です!」


緊張で声が上ずった。


「そっか、助かる」


短く言って、ほんの一瞬だけ、優しい目をした。

その視線に胸が高鳴る。


「……あ、それと」


ポケットから紙パックのフルーツオレを差し出す。


「これ好き? 俺、甘いの苦手なんだよ。自販機でボタン押し間違えた」


そんな言い訳みたいな言葉と一緒に、軽く笑って渡される。

両手で受け取ると、指先が触れそうになって、胸の鼓動が跳ねた。


「え……あ、ありがとうございます……」


か細い声でそう言うのが精一杯だった。

去っていく背中を見送る間も、教室はざわついたまま。


「見た?」

「フルーツオレ!」

「いや絶対あれ……」


誰かが小さくつぶやいた。


「……あれ、絶対わざとだよな」


わざわざ用件を作って、会いに来た。

そのことは、私にも、周囲にも伝わっていた。

だから余計に――胸の鼓動が止まらなかった。





──放課後。


昇降口を出ると、大和くんが待っていた。


「翠ちゃん! 一緒に帰ろ」


いつもより少し強い声音と、まっすぐな目。

私は少し戸惑いながらも、頷いた。


「うん……」


靴箱のあたりでひそひそ声が聞こえたけれど、聞こえないふりをして外に出る。


──夕暮れの道。


校門を抜けると、空はオレンジ色に染まり始めていた。

並んで歩くアスファルトに、二人分の影が長く伸びる。


「なあ、翠ちゃん」

「なに?」


呼ばれて振り向くと、大和くんは足を止めていた。


「俺、本気だから」


立ち止まった大和くんの声は、まっすぐで揺るがなかった。

赤く染まる夕日の中で、彼の影が長く伸びている。

その真剣さに射抜かれて、私は息をのんだ。


「今すぐ答えろとは言わない。でも覚えてて。俺は絶対、翠を振り向かせる」

「や、やめてよ……そういうの……」


照れ隠しのように言いながらも、心臓は乱れていた。

からかいじゃないことはわかる。

笑って受け流そうとしたけれど、大和くんの瞳が真っ直ぐすぎて、言葉が詰まる。


「冗談じゃねーから」


そう言い切る声は、いつもより低く、胸に重く響いた。





──その帰り道。


告白めいた言葉を聞いたあとでも、隣を歩く大和くんは、わざと何でもない話を続けてくれた。

テストのこと、練習試合のこと、くだらない動画の話。

気まずくさせまいとする優しさが伝わってきて、余計に胸が苦しくなる。

私の心は、上の空だった。

頭の中に残るのは、夕焼けに照らされた彼の真剣な瞳。

そして、それに重なるように浮かんでくるのは――結城先輩の横顔。

フルーツオレを差し出した時の、あの少しだけ照れたみたいな笑み。


(……どうしたらいいの)


足は前に進むのに、心は置いてきぼりのまま。

大和くんの「本気」と、結城先輩への「特別」が、胸の中でぶつかり合う。

揺れる気持ちを抱えながら、私は夕暮れの帰り道を、一歩ずつ踏みしめて歩いていった。


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