──朝から、心臓が落ち着かなかった。


昨日の電車での出来事。


「危ないから、じっとしてろよ」


背中を庇ってくれた結城先輩の声が、何度も頭の中で繰り返される。

あの時の距離、腕の力、制服越しに感じた温度。

思い出そうとしなくても、勝手に蘇ってしまう。


(……なんで、あんなことを私に……)


考えるたびに顔が熱くなる。

昨夜はほとんど眠れず、布団の中で何度も寝返りを打った。

目を閉じれば、電車の揺れと「じっとしてろよ」の声ばかりが浮かんできて、天井を見つめたまま朝を迎えてしまった。


「……寝不足……」


小さく呟きながら鏡を見ると、ほんの少しだけ目の下に影があった。

でも、心臓の高鳴りだけは、妙にくっきり元気なままだった。





教室に入った瞬間、ざわざわとした空気が肌を刺した。

机に座っているクラスメイトだけじゃない。

廊下からのぞき込む他クラスの生徒、わざわざ見に来たような上級生の姿まで。

視線が一斉にこちらへ向かっているのが、はっきりわかった。


(え……なに……?)


椅子を引こうとした瞬間、ひそひそとした声が耳に届く。


「ねえ、長谷川って昨日の電車の子だよね?」

「結城先輩に守られてたって!」

「やばくない? てか普通に可愛いじゃん」

「写真撮ってた子いたよね?」


私の名前と「結城先輩」という単語が、何度も混ざり合って飛び交う。


「ち、違っ……!」


慌てて否定しかけて、思わず口をつぐむ。

何がどう“違う”のか、自分でもうまく言えない。

その仕草にまた笑い声が起きて、胸がぎゅっと縮んだ。


(悪いこと、してないのに……)


教科書を開く手に少し力が入り、ページの端がくしゃっと折れた。





「翠、なんか今日顔赤くない?」


隣に座った莉子が、いつもより少しだけ慎重な声で覗き込んでくる。


「昨日の結城先輩、マジでかっこよかったらしいじゃん。今も思い出して心臓ヤバいでしょ?」

「ち、ちがっ……! そんなんじゃないから!」


必死に否定するけど、声が裏返ってしまう。

自分でも説得力がないのがわかって、余計に慌てた。

莉子は「ふふ」と少し笑ったあと、今度は真剣な目で問いかけてきた。


「ねぇ、翠は結城先輩のこと、どう思ってんの?」


心臓がドクンと跳ねた。

答えようとしても、すぐには言葉が出ない。

さっきまで教室中の視線を浴びていたせいで、喉の奥がきゅっと詰まる。

小さく息を吸って、震える声でやっと言えた。


「……わかんない。でも……憧れっていうより、ちょっと違う気がしてきて……」


言葉にした瞬間、自分でも驚いた。


(今……何て言ったの、私)


口に出したその感覚が、胸の奥で何かをほんの少し動かした気がした。

ふわふわしていた気持ちが、輪郭だけ少し色づいたみたいで、余計に恥ずかしくなる。

莉子は一瞬目を丸くし、それからにっこり笑った。


「そっか。うん、それでいいと思うよ」


それ以上、無理に聞いてこなかった。

「困ったら言いなね」と、小さく一言だけ付け足す。

その優しさに、少しだけ肩の力が抜けた。





──同じ頃、2年の教室。


「結城ってさ、昨日1年の子庇ってたんでしょ?」

「電車で一緒だったって話、めっちゃ広がってるよ」


何気ない会話が飛び交う中、美月はノートをめくる手を止めた。

前に、煌大が見せたあの表情を思い出す。

頭に手を置いた、あの一瞬の顔。


(……あの子、やっぱり目立ってきた)


胸の奥で、小さなざわめきが広がる。

(煌大があんな顔をするなんて。……負けたくないな)


表情は崩さず、そっと唇を結んだ。

誰にも気づかれないように、ペン先を再び滑らせる。





──放課後。


教室に残った空気は、昼間より少し落ち着いているのに、噂だけはまだ残っていた。


「長谷川って、やっぱ結城先輩のガチなんじゃね?」


クラスの男子の軽い声に、周囲がまたざわつく。

大和は笑って「さぁな」と軽く返す。


「お前、長谷川と同じクラスだろ? なんか聞いてね?」

「マネやってるし、絶対なんかあるって」


好き勝手に飛び交う言葉。

大和は、冗談を受け流すみたいな顔で肩をすくめる。

けれど、机の下で握る拳には、強く力がこもっていた。

指先が白くなるくらい、ぎゅっと握りしめたまま。

胸の奥で渦巻くものは、もう隠しきれない。


(……絶対に振り向かせる)


心の中で、静かに、しかしはっきりと繰り返す。

結城さんに勝てる保証なんてない。

むしろ、比べれば比べるほど、差を思い知らされる。

それでも、譲れない想いがある。

翠ちゃんの笑顔を、誰よりも近くで見たい。

困っているとき、一番に気づきたい。

支えるのは自分だ――。

そう決めた瞬間、大和の瞳は、さっきまでの冗談めいた色を消していた。

窓の外の夕焼けが、その横顔を少しだけ赤く染める。


(負けたくねぇな)


心の中だけで呟き、もう一度拳を握り直した。