──夜、自分の部屋。


ベッドに仰向けになり、薄暗い天井を見つめていた。

スタンドライトは消していて、机の上のデジタル時計だけが、ぼんやりとした数字を映している。

窓の外からかすかに車の走る音がするのに、この部屋の中だけ、切り離されたみたいに静かだった。

静けさに包まれているはずなのに、耳の奥では、自分の鼓動ばかりが響いている。

まぶたを閉じても、浮かんでくるのは同じ光景ばかりだった。


(……俺、どうしちまったんだ)


いつもなら一日の出来事なんて、眠ればすぐに忘れる。

余計なことを頭に残さず、翌日の練習や勉強に切り替えるのが当たり前だった。

無駄な感情に引きずられないこと。

それは、自分で選んで積み重ねてきたスタイルだった。

キャプテン候補だの、生徒会だの、周りが勝手に騒いでも、流されないように、どこかで線を引いてきた。

なのに今夜は違う。

どれだけ目を閉じても、長谷川の姿が勝手に浮かんできて離れない。

──ダンボールを抱えて、危うく転びそうになった小さな背中。

練習前のあわただしい廊下。

誰も気づかないみたいに素通りしようとしたあの瞬間、気づいたら手が伸びていた。

頭に、ぽん、と触れた。

ほんの一瞬だったのに、触れた感触と、驚いて俺を見上げた彼女の表情が、やけに鮮明に蘇る。


(あんな顔、誰かに見せたことあったか?)


思い返すほどに、答えは「ない」とはっきりしていく。


──電車の中。


押し寄せる人の波に押されて、よろけた肩を支えた。

小柄な肩が、押しつぶされそうになっていた。

誰かのバッグや肘が雑に押してくるその間に、彼女が紛れているのが、一瞬、妙に腹立たしく見えた。

腕を引いて、背中を支えた時、距離が近すぎて、心臓の鼓動がバレるんじゃないかと本気で焦った。

庇うのが当然だと、自分に言い聞かせたけど――

本当は、ただ守りたかっただけだ。

他の誰にも触れさせたくない。

そんな独占欲に似た感情が、一瞬よぎった。


(は? 何それ)


自分の中から出てきた感情に、思わず眉間に皺が寄る。

らしくない。けど、消えなかった。


──通学路。


重いバッグを奪い取ったのも、自然な動作のつもりだった。

マネージャーの仕事だからって、一人で全部抱え込もうとする顔を見ていたら、放っておけなかった。

でも、抱えたのは荷物じゃない。

ほんの少しでも彼女の負担を減らしたい、そんな気持ちが先にあった。

それが、考えるより早く体を動かしていた。

隣を歩くと、周りの視線が集まるのもわかっていた。

噂になることくらい、簡単に想像できた。

それでも、手を離そうとは思わなかった。


(……なんで、俺はあんなに必死になってんだ)


誰にでも優しくできる余裕はあるはずだった。

実際、今まではそうしてきた。

深入りしなければ、面倒な感情に振り回されることもない。

期待させず、期待もしない。

そうやって、一定の距離を保ってきた。

けれど長谷川のことになると、その線は簡単に越えてしまう。

気づけば視線で追っている。

雑用をしている背中、スコアを書いている指先、水を配りながら少しだけほっと笑う横顔。

声を聞けば安心して、少し笑ってくれるだけで胸が高鳴る。

そんな感情に振り回されている自分を、もう誤魔化せなかった。


(俺……あいつのこと――)


心の中で言葉を途中まで出して、いったん飲み込む。

けれど、もう戻れないところまで来ているのは、自分が一番わかっていた。

自覚した瞬間、胸の奥で何かが決定的に変わった。

今まで誰にも抱いたことのない、本気の想い。

冷静でいることが当たり前だった自分が、彼女の前では何度も崩される。

練習中も、生徒会の話をしている時も、ふとした拍子に思い出してしまうのは、あの不器用な真面目さと、必死で食らいつこうとする眼差しだ。

それが悔しいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。

むしろ、嬉しくて仕方なかった。

心が勝手に動く。

笑顔を見たいと思う。

困っていたら助けたいと思う。

泣きそうな顔をさせたくないと思う。

その感情が揺るがぬものだと、もうはっきり分かってしまった。

どれだけ理屈を並べても、別の誰かを思い浮かべようとしても、全部無駄だと分かるくらいには。


──その夜、眠りにつくまで。


胸の奥で何度も、同じ言葉が繰り返されていた。


(俺は、長谷川翠が好きだ)


それを認めた瞬間、やっと深く息が吸えた気がした。

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