──朝の電車。


始業前のラッシュで、車内はぎゅうぎゅうに詰まっていた。

押し込まれるみたいに乗り込んだ私は、なんとか吊り革にしがみつく。

背中にも横にも人の気配。

制服の生地が触れ合って、息苦しいほど近い。

次の駅で、さらに人が押し寄せた。

押し寄せる波に、体がぐらりと揺れる。


「わっ……」


前のめりに引っ張られ、足元のバランスが崩れた、その瞬間。


「危ねっ」


低い声と同時に、ぐっと腕を引かれた。

背中に、しっかりとした腕の感触。

振り返ると、すぐ後ろに結城先輩がいた。


「危ないから、じっとしてろよ」


短くそう言って、私を庇うように前に立つ。

ほんの少し身じろぎしただけで、肩と背中が触れそうな距離。

制服の背中越しに感じる近さに、心臓が大きく跳ねた。

息が詰まって、吊り革を握る手がじんじん震える。


(……ど、どうしよう……今、結城先輩に守られてる……?)


顔を上げる勇気が出なくて、視線は床に釘付けのまま。

それでも意識だけは、全部、すぐ近くにいる人に向かってしまう。

──周囲のざわめき。


「今の見た?」

「結城が1年の子、庇ってた!」


小さな驚きと興奮が混じった声が、耳に入ってくる。

振り向けない。目も合わせられない。

私は俯いたまま、耳だけがじわじわと熱を帯びていった。





人混みの中、大和は拳を握りしめたまま動けなかった。

すぐ近くにいるのに、詰まった車内が、その一歩を許してくれない。

視線の先では、結城先輩が翠のすぐそばに立っている。

庇うような位置。

自然で、当たり前みたいな顔。

喉が詰まって、声も出ない。

横で友達が、


「やべー、今の!」


と小声で笑う。

その軽さが、やけに遠く、耳障りに響いた。


(……また結城さんかよ)


胸の奥がざらついて、じっとりとした汗が額を伝う。

握った拳に、爪が深く食い込んだ。





──電車を降りると。


混雑から解放されたホームで、私は大きな荷物を抱えていた。

部活で使う練習用のバッグ。

ユニフォームやビブス、水の入ったボトルまで詰め込まれていて、持ち上げるたびに腕が重くなる。


(今日、これ持ってくるって言ったの、私なんだけど……重い……)


階段を前に、思わず足が止まりかけた、その時。


「貸して」


結城先輩はそれだけ言って、私の腕からするりとバッグを奪い取る。


「えっ、でも……!」

「いいから」


短く、迷いのない声。

軽々と肩に担いで歩き出す背中が、当たり前みたいに前へ進んでいく。

そのすぐ横を歩く形になってしまって、言葉が出なかった。


(い、いいのかな……本当に……?)


ただ隣を歩くだけで、視線が集まっているのがわかる。

後ろからひそひそ声が追いかけてきて、背中がむず痒くなる。


「今の見た?」

「やばくない? 一年の子、カバン持ってもらってたよ」

「マネージャーの子でしょ?」


断片的な言葉が風みたいに耳に触れては、胸の奥に落ちていく。


(……結城先輩って、やっぱりすごい人気なんだな……)


そんな当たり前のことが、今はいつもより重く響いた。

その隣を歩く自分に、居心地の悪さと、小さな誇らしさが同時に混ざっていく。

うつむきそうになる顔を、必死にまっすぐ前へ向けた。





──通学路。


少し離れたところで、大和は友達と歩きながら、その光景を見ていた。


「なあ、今の見た? 完全に結城さんじゃん」

「長谷川ってさ、やっぱ結城さんのガチなんじゃね?」


軽口まじりの声が飛ぶ。

大和は無理やり笑って返す。


「さあな。知らねーよ」


そう言ってみせる声は、思ったよりも平坦に出た。

だからこそ、誰にも本音は気づかれない。

けれど胸の奥には、燃えるような嫉妬が渦巻いていた。

握った拳をポケットに突っ込み、爪が手のひらに食い込む。

笑い声に合わせて頷くたび、鼓動が耳の奥で不自然に響く。


(なんで、こういう時に限って、動けねーんだよ、俺)


飲み込んだ言葉が、喉の奥で重く残った。





──そして、美月の教室。


席に着いた途端、周囲の女子たちが一斉に盛り上がっていた。


「ねえ、さっきの電車で見た人いる?」

「結城、1年の子のこと庇ってたでしょ!やばくない?」

「かなりいい感じだったよね~」

「あの子誰?」

「男バスマネの長谷川って子じゃない?」

「うそっ! そうなの?」

「その後も一緒に登校してたよねー」

「カバン持ってあげたりしてた! 優しすぎでしょ」


楽しげに弾む声が、机の上で跳ねるみたいに広がる。

美月はノートをめくる手をほんの一瞬止め、視線を伏せた。

まぶたの裏に、さっき聞いた名前と、既に知っている顔が浮かぶ。

すぐに取り繕うように微笑み、何事もなかったようにページをめくり直す。

けれど胸の奥には、冷たい痛みが静かに広がっていた。


(噂になるのも、時間の問題か……)


小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で、そっと呟く。


「……やっぱり特別なんだ」


その言葉は、ノートの紙に吸い込まれるように消えていった。