──春の朝。


真新しい制服の袖口をつまんで、私は校門をくぐった。

薄い冷気と、終わりかけの桜の匂い。

歩道に貼りついた花びらが、光をかすかに返す。

期待より不安が大きい。

今日から高校生活。

私を名前で呼ぶ人も、居場所も、まだない。

ローファーが砂利を鳴らすたび、鼓動がひとつ増えた。


(私、やっていけるのかな)


うつむいた視界の端で、白い花びらが靴の甲に留まり、小さく震えた。





数日前の入学説明会、同じ校門で私は段差につまずいた。

前のめりになった肩を、誰かの手が支える。


「大丈夫?」


逆光の中の笑顔。

目だけがやさしい色で私を捉える。

胸がきゅっと跳ね、


「……はい」


としか言えなかった。

名前も知らないまま、それでも夜になると何度も思い出した。


⸻最初のホームルーム。


出席番号順、私は窓際の後ろから二番目。

前の席の名札は「中川」。


「やっぱり! 後ろが長谷川さんだよね? よろしくね、(すい)ちゃん!」


太陽みたいな笑顔の中川(もえ)が振り向く。


「……うん。よろしく」

「部活どうする? 私、バスケ部の見学行く。マネージャー募集してるって。一緒に行こ!」


 曖昧に笑う私に、萌は「決まりね!」と明るく言った。抗う理由は、なかった。





──部活動見学の日。


体育館の扉を押すと、湿度と熱、音の層が一気に押し寄せた。

ボールが床を打つ乾いた音、コーチの指示、バッシュの擦れるリズム。

視線がひとりの選手を追う。

ミドルで受けた瞬間、空気が変わる。

跳躍が一拍、空中で静止して見え、次の瞬間ネットが揺れた。

遅れて広がる歓声。

私は呼吸のタイミングを外す。


(綺麗……)


その「綺麗」に、自分は含まれない。

体育館の端で手すりの冷たさを確かめながら、ただ見つめた。

萌はすでに他の見学者と馴染んでいる。

入部希望者に白い紙が配られる。


「書こうよ、翠ちゃん!」


背中を押され、私は名前を書いた。

長谷川翠。

黒い線が並ぶだけなのに、胸の奥がじんわり熱を帯びた。





──数日後、入部初日。


一年生が並び、自己紹介が始まる。


「長谷川翠です。よろしくお願いします」


声は少し震えたが、前に届いた気がした。

いくつかの頷きに、胸の渦が一瞬おとなしくなる。

顧問の紹介をはさみ、上級生へ。


結城煌大(ゆうきこうだい)です。二年。ガードです。よろしくお願いします」


その声で、全身に電流が走る。


──あの時の人だ。


校門で私を支えた先輩。

名前と顔と声が、ようやく一つに結びつく。

眩しい笑顔と、今の落ち着いた声色が、同じ線上に並んだ。


(どうしよう……)


胸の奥がざわつき、次の自己紹介が遠くなる。

何かできるわけではないのに、世界の輪郭が少し鮮やかになった。





この日は導線を覚えるだけ。

私は体育館の隅で先輩マネージャーの動きを目で追った。

ボトル台の並び、キャップの向き、ラベルの正面。

意味があるかは分からない。

ただ、手を動かしていたい。止まると考えが増えるから。

シュート音、笛、汗に混ざるスポーツドリンクの甘さ。

五感が埋まっていくほど、教室で感じた「自分だけ異物」の感じが薄れていく。


(私にも、できるかな)


萌はもう先輩たちと笑い合っている。

置いていかれたわけじゃない。

私の歩幅が、ただ小さいだけ。


⸻片付けの時間。


タオルを集め、ボトルを拭き、並べ直す。

さっきより手順が速い。

出入口に夕方の色が差し込み、床のワックスに光が伸びた。

顔を上げた瞬間、視線が重なる。

結城先輩。

ほんの一瞬で、彼はすぐに次の動作へ戻った。気のせいかもしれない。

でも、たしかにこちらをかすめた気がした。


(私なんか、見られるはずない)


そう思って下を向くのに、胸の熱は引かない。

外のドアの前で一拍止まり、夕風を頬に受ける。昼の熱が静かに引いていく。

校門へ続く通路には、朝より多くの花びら。

やわらかい感触が靴底に伝わる。

ポケットの中で手を握る。

冷たさと温かさの境目が、掌にくっきりあった。


(明日も、来よう)


怖い。

でも来たい。

二つの気持ちがぶつからずに並び、妙に心地よかった。

──その日から、私の毎日が、少しずつ変わっていった。



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