◆ ◆ ◆
誰かを、ずっと前から捜している気がする――
◆ ◆ ◆
まず、猫が鳴いた。実にか細い声だ。
「起きろ、若造」
「う、うーん……」
寝ぼけまなこを乱雑に擦りながら、少年は言われるままにムクリと起き上がる。
なぜかズキンとする後頭部にそっと触れ、すると舌打ちがひとつ出てしまった。指先が触れたのは、たんこぶのような突起。どうやら撲られたらしいと瞬時に理解する。
「っテェなぁ。なんな――」
目を開けるとそこは、ただ闇のみが広がる空間であった。前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。不思議なことに、少年自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。
「――ここ、どこだ?」
まばたきを重ね眉を寄せ、少年は掠れた声で闇へ問う。
「はざまじゃ」
再度、猫がそう鳴いた。言葉の真意がわからないまま「はァ?」とその鳴き声を振り返る。
ポツンと一匹、線の細い黒猫が居た。暗闇に黒猫など何も見えなくてもおかしくはないのに、その黒猫は彼同様に薄ぼんやりと不可思議に発光している。
ビロードのように短く滑らかな毛艶。
まるでアメジストのように美しい薄紫色の双眸。
尖った三角形の耳。
ほんのりとピンク色の小さな鼻に、一本一本がピンとしたアンテナのように長い髭。
眉の辺りからも長く真っ直ぐな毛が二本ずつ飛び出していることまではっきりと見える。
「ヌシの力を、儂に貸せ」
「猫。ヒトの言葉、喋ってる」
少年はボソリと低い声で呟いたが、黒猫はわずかに両の目を細めたあとで同じことを繰り返した。
「若造、ヌシの力を儂に貸せ」
「あ……あぁ、あははっ。あぁこれアレか。流行りのAIの猫か! なるほどなっ」
「…………」
「へぇー、すげー高性能だなぁ。いやー、この技術の進歩はさすが日本人っつーかな。すげーリアル、マジで生きてるみたいに造るなぁ!」
自己解釈を進める少年。「あっはっは」とあぐら座りのみずからの左膝をバシバシと平手で打つ。
「ンなワケねンだよっ」
一転、少年は再度声を低くし笑みを消した。膝を打つのをやめ、眉頭と瞼を限りなく近付ける。
「なんなんだよマジで! ここどこだ、テメー何なんだっ!」
「儂はヌシに力を貸せと言っておるのじゃ。その返事を待っておる」
変わらず目を据え、淡々と言葉を投げる黒猫。その態度が少年にはひどく冷ややかに映り、言葉の数だけ少年の神経を逆撫でした。
「あのなっ、いきなり意味わかんねぇんだよ全部がわかんねぇ。万人がわかるように最初から説明しろ」
「簡単な話じゃて。儂にヌシの力を貸せと言うとろう」
「しかもそれな、人にモノ頼む態度じゃねぇかんな。頼むんならせめて頭下げたり下手に出――」
「――だめだよ、夜さまぁ」
少年の頭ごなしの文句を遮るようにして、黒猫の後方からひとつの人像が滲むように現れた。
「やっぱりさぁ。ちゃぁんと説明してあげなくっちゃ、話進まないよぉ」
「ガっ、ガキもいんのかよ!」
「ああーっ、ヒドイ! くぅ、ガキじゃないもぉん!」
ひたいの中央で分けた色素の薄い髪の毛をフワリと散らし、練りたてのパン生地のように柔らかそうな頬を両方ぷっくりと膨らませる少女。彼女は明らかに幼女であり、大人に見積もっても五歳程度だろう、と少年は推察した。
「いーい? まず、落ち着くためにも自己紹介からするね。あたしは『くぅ』。こっちは『夜さま』。王様と同じイントネーションじゃないと、夜さま怒っちゃうから。気をつけてねぇ」
幼女――くぅは、そうして夜さまと呼ばれた黒猫の小さな小さな肩に、それぞれ手を置いた。
くぅは、淡く薄い栗色の瞳をしている。
アイボリーのセーターはぼったりと膝下まで着てワンピース様にし、小さなその足にはつつじ色とたんぽぽ色の派手なボーダー柄靴下を履いている。その先端の真っ赤なエナメルの靴が、少年の印象に強く残った。
「それでぇ、おにーさんは?」
「え」
「おにーさんも自己紹介してよう」
今にもこぼれ落ちそうなまあるい瞳で彼を見上げる、くぅ。甘く首を傾げ、肉厚な頬をみずみずしく持ち上げた。
その笑みにどこか既視感を覚えた少年は、意固地に食ってかかる自身を冷静に省み、渋々と小声で名乗り出ることに決める。
「俺は、蘇芳。道端に倒れてたそいつを助けたら、なんか、急に気ィ失って」
顎でグイと夜さまを指す。同時に両手を広げ肩を竦め、「それで、こんなザマ」という言葉を含ませた。
「やはりな」
「は?」
しかし夜さまは「自分のせいで」ときまりが悪そうにすることなく、むしろ意地悪そうにその双眸をスイと細めた。
「のう、くぅ。アタリじゃったろ?」
「ええっ?! じゃあ夜さまぁ、ホントにこのおにーさんがぁ?!」
「ああ、まことじゃ」
「わぁい、やったぁ! よろしくねぇ!」
「なぁ、話がまったく見えねーんだけど」
「じゃあおにーさんは、今から『すぅちゃん』ねっ!」
「なあ――って。はぁっ?!」
◆
蘇芳は工業高校の二年生で、古い工場地帯のベッドタウンに生まれ育った。そこを、鉄錆と鈍色の街だと数年前から嫌煙している。
市内のアスファルトのほとんどは、工場から延々と無秩序に降り注がれる鉄粉で薄汚れている。しかし金属であるがゆえに、それが付着したアスファルトはキラキラと光って見えるのだ。幼いうちは「綺麗だね」などと興奮するが、大人になるにつれ次第にそれが公害だという現実に気が付いていく。
市内を走り回る大型トラックは、何十台と列なるようにして、鉄粉を降り撒く元凶である工場へ毎日毎晩続々と入っていく。しかし市そのものが工場の恩恵で成り立っている現状が、鉄粉を非難の的には決してさせない。公害はそうして、永く改善されぬままとなっていた。
冷たい雨が降り続いていた、晩秋のその夕刻。下校途中の蘇芳はいつもの道をゆったりと歩いていた。工場の煙突が偉そうに大きく見えるその国道沿いは、こんな雨の日ですら嫌気がさすほどキラキラと光る。
「この鉄粉も、いっそ雨に流されればいいのに」
ぼんやりとひとりごちた蘇芳。「そんなわけねーか」の嘲笑を透明ビニル傘で隠した矢先、その数歩先に異物を目撃した。傘の傾きを戻し注視すれば、それは一匹の黒猫だった。雨にうたれ、ぐったりと倒れているらしいと覚る。
「死骸、か?」
眉間を詰め、「縁起ワリーな」と視線を逸らす。黒猫の横を弧を描くように通り過ぎる。
国道を行くどんな車も、速度を上げて横を通り過ぎるばかりで停まる気配はない。天気のこともあり、歩行者は後にも先にも蘇芳しかいない。
「…………」
義務感から、ピタリと足を止めた。すれ違う間際、かすかに呻くような苦しげな声を聴いてしまったためだ。
しばし逡巡し、方向転換し二歩戻り、透明ビニル傘を黒猫へさしかけ、しゃがみ覗く。ビクリビクリと手足を痙攣させているかに見えた。冷汗を背に転がした蘇芳は、慌てて黒猫を抱え上げるために両手で触れる。その身体は目測どおり雨に湿り、冷えきっていた。「なんとかしてやらなければ」と心を決めたそのとき。
「――ヌシを待っておったぞ」
突然、黒猫はぱっちりとその両の眼を見開き、蘇芳と視線をかち合わせた。「えっ」の感嘆を漏らす間もなく何者かに後頭部を殴打された蘇芳の視界は、そうしてバツンと明かりを失った。
◆
「はあっ?! 演技ィ?!」
夜さまが倒れていた理由――それは、ただ蘇芳を捕まえるためという腹の立つほど単純明快なものであったと明かされた。そのために雨の中で行き倒れたフリをしていたのだと、夜さまは開き直るような態度で言い切った。
「寒かったでしょ夜さまぁ。もう大丈夫ぅ? 震え止まったぁ?」
「なに。これしきのこと大事ない」
「でっ?」
この場ののんびりとした空気に呑まれまいと、蘇芳は眉を寄せ鼻筋にいくつもの筋を浮かべ、二人へ怒気を向ける。その際に、撲られたであろう後頭部が再度ズキリと痛んだ。実行犯は十中八九くぅであろう。
「いい加減、ここがどこなのかハッキリさせろよっ」
「ドアとドアとの境じゃ。儂らは『狭間』と呼んでおる」
けろりとした態度で、夜さまはやはり淡々と答えた。ぐっと言葉に詰まった蘇芳の即興力は追いつかない。
「ちょっ、待て待て。その『ドア』って何だ。ドアっつーのは一般的に、開けたら別の部屋なり外に繋がる扉のことだろーが」
慎重になる蘇芳の表情は苦々しい。夜さまの薄いアメジストのような双眸を睨み続ける。
「時代を巡る扉――それが、儂の言っておる『ドア』じゃ」
世には、『時代の門』と呼ばれる一方通行の扉が存在しているという。それは各年ごとにひとつきり。用途は時代と場所を同時に渡るため。
その『ドア』は、一度開けてしまうと強制的にその中へ引き込まれ、無情にも勝手に閉まる。入ってきた『ドア』へ戻ることはできない。閉まると同時に、潜った『ドア』は同じ年のまったく別の場所へと移動してしまうらしい。
そして『ドア』の中に引き込まれた生物は、一旦『狭間』という黒い空間へ飛ばされ、後に出口となる『ドア』が出現。それを開ける以外出口はなく、しかしその『ドア』がどの時代のどの国に繋がるかは『狭間』から出てみるまで一切わからない。
「っつーことは」
左の口角がヒクヒクと引きつる蘇芳。
「すぐには家に帰れねぇっつーことか?!」
「然様。ものわかりが良いのは良いことじゃぞ、すぅ」
「『すぅ』って呼ぶなっ」
そう。現在『狭間』に居るということは、既に『ドア』を潜ってしまったあとだ、ということになる。蘇芳は絶望感をためらいなく真正面からぶつけられ、その衝撃に愕然とした。
「儂らはサガシモノをしておる。その手伝いを、ヌシに頼みたいと言っておるんじゃ」
「なんで俺だよ。帰せよとりあえず」
「すぐには答えられぬ。すぐにも帰れぬ。無駄に足掻くでない」
「ンだその言い方っ。帰す帰さねーはともかくとしても質問にくらい答えろや」
「まだ『その時』ではないゆえ答えられんのじゃ」
「時ィ?! 俺の自由奪っといて『答えらんねぇ』ってなんだ、ありえねぇだろ!」
「訪れし好機に、改めて答えてやろうぞ」
「すぅちゃん。あんまり急にたくさん訊きすぎると、頭パアンってなるよ」
「ンだそりゃ。ギャグ漫画かっ」
「……いやわかんないけど」
とりとめのないやり取りが区切りとなったか、ふと左側がほのかに明るくなったのが目の端に映り込んだ。全員でそちらへ顔を向ける。
「あーっ! 見て見て、夜さまぁ!」
「うむ。頃合いじゃの」
「あれが……」
まるで板状チョコレートのような形状。
左側に黒色の丸ノブ。
高さはおおよそ二メートル二〇センチ。幅は大人が二人並んで通れる程度――蘇芳らがしゃがみこんでいる場所から三メートルほど離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、まるで蜃気楼だ。
「次の『ドア』!」
「ふむ。では行くかの」
蘇芳の目の前を、くぅがタタッと駆けて行く。そのあとを、夜さまのシュルリと細長い尻尾が翻る。
「おい待て、まだ話は終わってねぇ!」
声量のみで二人を振り返らせる蘇芳。まるでしつけのされていない室内犬の威嚇だ。座り込んでいた両足を伸ばし立ち上がり、拳をふるふると震わせている。
「納得するような説明してからにしろ。じゃねーとあのドア、俺は潜んねぇ」
「そのようなことを言うとる場合ではない。この場で話せることはこれまでなのじゃ。ゆえに続きは外へ出てからぞ」
「大丈夫だってぇ。『ドア』潜り続けてればいつかは帰れるんだよ、すぅちゃん」
くぅがにっこりと無垢に笑む。かなり楽観的だな、と蘇芳は苛ついた舌打ちをした。
「ヌシは儂らに付き従う以外、身動きひとつとれぬのじゃ。ここでいま儂らとはぐれると、ヌシは死ねぬまま『狭間』でたった一人、生き続けることになろうて」
「は……はあ? 嘘だろ、マジかよ?」
「嘘をついても得にはならんでな」
どうやら夜さまとくぅの前では、反論も意固地も意味をなさないらしい。顎を引いた蘇芳は生唾を呑み、冷汗を流し、怨めしさを添えて夜さまへ問う。
「あ、あのさ」
「なんじゃ」
「大人しくアンタを手伝えば、いつかは絶っ対に帰れんだな?」
「ああ。必ず帰してやろうぞ」
迷いのない首肯、曇りのないまなざし。それに不思議と心の底で納得させられてしまう。
「ったく。しゃあねぇなぁ……」
溜め息とともに、マットワックスで整えていた赤茶けた髪の後頭部をワシワシと掻いて、蘇芳はようやく肝を据えた。
「一緒に行くことだけが、自分の時代に帰る一番の方法だな?」
「然様」
「わーった、いいよ。アンタたちを手伝ってやる。これで一旦『帰せ』とかはやめだ」
学ランのスラックスポケットに手を突っ込み、ゆったりと夜さまへ歩み寄る。
「ただし、外出たら俺の質問には答えてってくれよ。わかんねぇままってのが一番モヤモヤしてムカつくんだよ」
「ああ。だが儂らも未だわからぬこともあるゆえ、わからぬときはわからぬと申すでな」
「わーった。そういう協力もしろっつーことな?」
「理解が早いのは良いことじゃぞ、すぅ」
「だから。すぅって言うなっつーの」
「わーい! 改めてよろしくね、すぅちゃん!」
「だーかーらー、やめろってのっ」
蘇芳が丸ノブに手をかけ『ドア』を押し開ける。三者はそれぞれに歩み進む。すると運命の歯車が、カチッと音を立てて回り始めた。
駒は、すべて揃った。
◆ ◆ ◆
誰かを、ずっと前から捜している気がする。
眠りに落ちる前にいつもふと思い浮かべる誰かを、ずっと。
◆ ◆ ◆
誰かを、ずっと前から捜している気がする――
◆ ◆ ◆
まず、猫が鳴いた。実にか細い声だ。
「起きろ、若造」
「う、うーん……」
寝ぼけまなこを乱雑に擦りながら、少年は言われるままにムクリと起き上がる。
なぜかズキンとする後頭部にそっと触れ、すると舌打ちがひとつ出てしまった。指先が触れたのは、たんこぶのような突起。どうやら撲られたらしいと瞬時に理解する。
「っテェなぁ。なんな――」
目を開けるとそこは、ただ闇のみが広がる空間であった。前も後ろも左も右も奥行きすらもわからない。不思議なことに、少年自身の身体だけは薄ぼんやりと光って見えている。
「――ここ、どこだ?」
まばたきを重ね眉を寄せ、少年は掠れた声で闇へ問う。
「はざまじゃ」
再度、猫がそう鳴いた。言葉の真意がわからないまま「はァ?」とその鳴き声を振り返る。
ポツンと一匹、線の細い黒猫が居た。暗闇に黒猫など何も見えなくてもおかしくはないのに、その黒猫は彼同様に薄ぼんやりと不可思議に発光している。
ビロードのように短く滑らかな毛艶。
まるでアメジストのように美しい薄紫色の双眸。
尖った三角形の耳。
ほんのりとピンク色の小さな鼻に、一本一本がピンとしたアンテナのように長い髭。
眉の辺りからも長く真っ直ぐな毛が二本ずつ飛び出していることまではっきりと見える。
「ヌシの力を、儂に貸せ」
「猫。ヒトの言葉、喋ってる」
少年はボソリと低い声で呟いたが、黒猫はわずかに両の目を細めたあとで同じことを繰り返した。
「若造、ヌシの力を儂に貸せ」
「あ……あぁ、あははっ。あぁこれアレか。流行りのAIの猫か! なるほどなっ」
「…………」
「へぇー、すげー高性能だなぁ。いやー、この技術の進歩はさすが日本人っつーかな。すげーリアル、マジで生きてるみたいに造るなぁ!」
自己解釈を進める少年。「あっはっは」とあぐら座りのみずからの左膝をバシバシと平手で打つ。
「ンなワケねンだよっ」
一転、少年は再度声を低くし笑みを消した。膝を打つのをやめ、眉頭と瞼を限りなく近付ける。
「なんなんだよマジで! ここどこだ、テメー何なんだっ!」
「儂はヌシに力を貸せと言っておるのじゃ。その返事を待っておる」
変わらず目を据え、淡々と言葉を投げる黒猫。その態度が少年にはひどく冷ややかに映り、言葉の数だけ少年の神経を逆撫でした。
「あのなっ、いきなり意味わかんねぇんだよ全部がわかんねぇ。万人がわかるように最初から説明しろ」
「簡単な話じゃて。儂にヌシの力を貸せと言うとろう」
「しかもそれな、人にモノ頼む態度じゃねぇかんな。頼むんならせめて頭下げたり下手に出――」
「――だめだよ、夜さまぁ」
少年の頭ごなしの文句を遮るようにして、黒猫の後方からひとつの人像が滲むように現れた。
「やっぱりさぁ。ちゃぁんと説明してあげなくっちゃ、話進まないよぉ」
「ガっ、ガキもいんのかよ!」
「ああーっ、ヒドイ! くぅ、ガキじゃないもぉん!」
ひたいの中央で分けた色素の薄い髪の毛をフワリと散らし、練りたてのパン生地のように柔らかそうな頬を両方ぷっくりと膨らませる少女。彼女は明らかに幼女であり、大人に見積もっても五歳程度だろう、と少年は推察した。
「いーい? まず、落ち着くためにも自己紹介からするね。あたしは『くぅ』。こっちは『夜さま』。王様と同じイントネーションじゃないと、夜さま怒っちゃうから。気をつけてねぇ」
幼女――くぅは、そうして夜さまと呼ばれた黒猫の小さな小さな肩に、それぞれ手を置いた。
くぅは、淡く薄い栗色の瞳をしている。
アイボリーのセーターはぼったりと膝下まで着てワンピース様にし、小さなその足にはつつじ色とたんぽぽ色の派手なボーダー柄靴下を履いている。その先端の真っ赤なエナメルの靴が、少年の印象に強く残った。
「それでぇ、おにーさんは?」
「え」
「おにーさんも自己紹介してよう」
今にもこぼれ落ちそうなまあるい瞳で彼を見上げる、くぅ。甘く首を傾げ、肉厚な頬をみずみずしく持ち上げた。
その笑みにどこか既視感を覚えた少年は、意固地に食ってかかる自身を冷静に省み、渋々と小声で名乗り出ることに決める。
「俺は、蘇芳。道端に倒れてたそいつを助けたら、なんか、急に気ィ失って」
顎でグイと夜さまを指す。同時に両手を広げ肩を竦め、「それで、こんなザマ」という言葉を含ませた。
「やはりな」
「は?」
しかし夜さまは「自分のせいで」ときまりが悪そうにすることなく、むしろ意地悪そうにその双眸をスイと細めた。
「のう、くぅ。アタリじゃったろ?」
「ええっ?! じゃあ夜さまぁ、ホントにこのおにーさんがぁ?!」
「ああ、まことじゃ」
「わぁい、やったぁ! よろしくねぇ!」
「なぁ、話がまったく見えねーんだけど」
「じゃあおにーさんは、今から『すぅちゃん』ねっ!」
「なあ――って。はぁっ?!」
◆
蘇芳は工業高校の二年生で、古い工場地帯のベッドタウンに生まれ育った。そこを、鉄錆と鈍色の街だと数年前から嫌煙している。
市内のアスファルトのほとんどは、工場から延々と無秩序に降り注がれる鉄粉で薄汚れている。しかし金属であるがゆえに、それが付着したアスファルトはキラキラと光って見えるのだ。幼いうちは「綺麗だね」などと興奮するが、大人になるにつれ次第にそれが公害だという現実に気が付いていく。
市内を走り回る大型トラックは、何十台と列なるようにして、鉄粉を降り撒く元凶である工場へ毎日毎晩続々と入っていく。しかし市そのものが工場の恩恵で成り立っている現状が、鉄粉を非難の的には決してさせない。公害はそうして、永く改善されぬままとなっていた。
冷たい雨が降り続いていた、晩秋のその夕刻。下校途中の蘇芳はいつもの道をゆったりと歩いていた。工場の煙突が偉そうに大きく見えるその国道沿いは、こんな雨の日ですら嫌気がさすほどキラキラと光る。
「この鉄粉も、いっそ雨に流されればいいのに」
ぼんやりとひとりごちた蘇芳。「そんなわけねーか」の嘲笑を透明ビニル傘で隠した矢先、その数歩先に異物を目撃した。傘の傾きを戻し注視すれば、それは一匹の黒猫だった。雨にうたれ、ぐったりと倒れているらしいと覚る。
「死骸、か?」
眉間を詰め、「縁起ワリーな」と視線を逸らす。黒猫の横を弧を描くように通り過ぎる。
国道を行くどんな車も、速度を上げて横を通り過ぎるばかりで停まる気配はない。天気のこともあり、歩行者は後にも先にも蘇芳しかいない。
「…………」
義務感から、ピタリと足を止めた。すれ違う間際、かすかに呻くような苦しげな声を聴いてしまったためだ。
しばし逡巡し、方向転換し二歩戻り、透明ビニル傘を黒猫へさしかけ、しゃがみ覗く。ビクリビクリと手足を痙攣させているかに見えた。冷汗を背に転がした蘇芳は、慌てて黒猫を抱え上げるために両手で触れる。その身体は目測どおり雨に湿り、冷えきっていた。「なんとかしてやらなければ」と心を決めたそのとき。
「――ヌシを待っておったぞ」
突然、黒猫はぱっちりとその両の眼を見開き、蘇芳と視線をかち合わせた。「えっ」の感嘆を漏らす間もなく何者かに後頭部を殴打された蘇芳の視界は、そうしてバツンと明かりを失った。
◆
「はあっ?! 演技ィ?!」
夜さまが倒れていた理由――それは、ただ蘇芳を捕まえるためという腹の立つほど単純明快なものであったと明かされた。そのために雨の中で行き倒れたフリをしていたのだと、夜さまは開き直るような態度で言い切った。
「寒かったでしょ夜さまぁ。もう大丈夫ぅ? 震え止まったぁ?」
「なに。これしきのこと大事ない」
「でっ?」
この場ののんびりとした空気に呑まれまいと、蘇芳は眉を寄せ鼻筋にいくつもの筋を浮かべ、二人へ怒気を向ける。その際に、撲られたであろう後頭部が再度ズキリと痛んだ。実行犯は十中八九くぅであろう。
「いい加減、ここがどこなのかハッキリさせろよっ」
「ドアとドアとの境じゃ。儂らは『狭間』と呼んでおる」
けろりとした態度で、夜さまはやはり淡々と答えた。ぐっと言葉に詰まった蘇芳の即興力は追いつかない。
「ちょっ、待て待て。その『ドア』って何だ。ドアっつーのは一般的に、開けたら別の部屋なり外に繋がる扉のことだろーが」
慎重になる蘇芳の表情は苦々しい。夜さまの薄いアメジストのような双眸を睨み続ける。
「時代を巡る扉――それが、儂の言っておる『ドア』じゃ」
世には、『時代の門』と呼ばれる一方通行の扉が存在しているという。それは各年ごとにひとつきり。用途は時代と場所を同時に渡るため。
その『ドア』は、一度開けてしまうと強制的にその中へ引き込まれ、無情にも勝手に閉まる。入ってきた『ドア』へ戻ることはできない。閉まると同時に、潜った『ドア』は同じ年のまったく別の場所へと移動してしまうらしい。
そして『ドア』の中に引き込まれた生物は、一旦『狭間』という黒い空間へ飛ばされ、後に出口となる『ドア』が出現。それを開ける以外出口はなく、しかしその『ドア』がどの時代のどの国に繋がるかは『狭間』から出てみるまで一切わからない。
「っつーことは」
左の口角がヒクヒクと引きつる蘇芳。
「すぐには家に帰れねぇっつーことか?!」
「然様。ものわかりが良いのは良いことじゃぞ、すぅ」
「『すぅ』って呼ぶなっ」
そう。現在『狭間』に居るということは、既に『ドア』を潜ってしまったあとだ、ということになる。蘇芳は絶望感をためらいなく真正面からぶつけられ、その衝撃に愕然とした。
「儂らはサガシモノをしておる。その手伝いを、ヌシに頼みたいと言っておるんじゃ」
「なんで俺だよ。帰せよとりあえず」
「すぐには答えられぬ。すぐにも帰れぬ。無駄に足掻くでない」
「ンだその言い方っ。帰す帰さねーはともかくとしても質問にくらい答えろや」
「まだ『その時』ではないゆえ答えられんのじゃ」
「時ィ?! 俺の自由奪っといて『答えらんねぇ』ってなんだ、ありえねぇだろ!」
「訪れし好機に、改めて答えてやろうぞ」
「すぅちゃん。あんまり急にたくさん訊きすぎると、頭パアンってなるよ」
「ンだそりゃ。ギャグ漫画かっ」
「……いやわかんないけど」
とりとめのないやり取りが区切りとなったか、ふと左側がほのかに明るくなったのが目の端に映り込んだ。全員でそちらへ顔を向ける。
「あーっ! 見て見て、夜さまぁ!」
「うむ。頃合いじゃの」
「あれが……」
まるで板状チョコレートのような形状。
左側に黒色の丸ノブ。
高さはおおよそ二メートル二〇センチ。幅は大人が二人並んで通れる程度――蘇芳らがしゃがみこんでいる場所から三メートルほど離れた位置にぼんやりと浮かんで見える様は、まるで蜃気楼だ。
「次の『ドア』!」
「ふむ。では行くかの」
蘇芳の目の前を、くぅがタタッと駆けて行く。そのあとを、夜さまのシュルリと細長い尻尾が翻る。
「おい待て、まだ話は終わってねぇ!」
声量のみで二人を振り返らせる蘇芳。まるでしつけのされていない室内犬の威嚇だ。座り込んでいた両足を伸ばし立ち上がり、拳をふるふると震わせている。
「納得するような説明してからにしろ。じゃねーとあのドア、俺は潜んねぇ」
「そのようなことを言うとる場合ではない。この場で話せることはこれまでなのじゃ。ゆえに続きは外へ出てからぞ」
「大丈夫だってぇ。『ドア』潜り続けてればいつかは帰れるんだよ、すぅちゃん」
くぅがにっこりと無垢に笑む。かなり楽観的だな、と蘇芳は苛ついた舌打ちをした。
「ヌシは儂らに付き従う以外、身動きひとつとれぬのじゃ。ここでいま儂らとはぐれると、ヌシは死ねぬまま『狭間』でたった一人、生き続けることになろうて」
「は……はあ? 嘘だろ、マジかよ?」
「嘘をついても得にはならんでな」
どうやら夜さまとくぅの前では、反論も意固地も意味をなさないらしい。顎を引いた蘇芳は生唾を呑み、冷汗を流し、怨めしさを添えて夜さまへ問う。
「あ、あのさ」
「なんじゃ」
「大人しくアンタを手伝えば、いつかは絶っ対に帰れんだな?」
「ああ。必ず帰してやろうぞ」
迷いのない首肯、曇りのないまなざし。それに不思議と心の底で納得させられてしまう。
「ったく。しゃあねぇなぁ……」
溜め息とともに、マットワックスで整えていた赤茶けた髪の後頭部をワシワシと掻いて、蘇芳はようやく肝を据えた。
「一緒に行くことだけが、自分の時代に帰る一番の方法だな?」
「然様」
「わーった、いいよ。アンタたちを手伝ってやる。これで一旦『帰せ』とかはやめだ」
学ランのスラックスポケットに手を突っ込み、ゆったりと夜さまへ歩み寄る。
「ただし、外出たら俺の質問には答えてってくれよ。わかんねぇままってのが一番モヤモヤしてムカつくんだよ」
「ああ。だが儂らも未だわからぬこともあるゆえ、わからぬときはわからぬと申すでな」
「わーった。そういう協力もしろっつーことな?」
「理解が早いのは良いことじゃぞ、すぅ」
「だから。すぅって言うなっつーの」
「わーい! 改めてよろしくね、すぅちゃん!」
「だーかーらー、やめろってのっ」
蘇芳が丸ノブに手をかけ『ドア』を押し開ける。三者はそれぞれに歩み進む。すると運命の歯車が、カチッと音を立てて回り始めた。
駒は、すべて揃った。
◆ ◆ ◆
誰かを、ずっと前から捜している気がする。
眠りに落ちる前にいつもふと思い浮かべる誰かを、ずっと。
◆ ◆ ◆
