月のしずく、心の灯

第一章 雨の夜の来訪者
 その夜、東京はしとしとと雨が降っていた。
 冷たい十一月の雨が、細い路地のアスファルトを濡らし、街灯の光を淡く反射している。
 人影の少ない住宅街の一角、古びた木造の喫茶店『月のしずく』は、静かに閉店の準備をしていた。
 カウンターの中で、真柴夏生(ましば なつき)は、豆を挽くミルの音に耳を澄ませていた。
「ゴリゴリ」という音だけが、店内にやわらかく響く。
 時計は夜の九時を回っていた。
 客は、もう誰もいない。
 ポットに残ったコーヒーの香りが、わずかに漂う。
 ――この香りがなければ、たぶん、自分はここにいなかっただろう。
 夏生はふと、そんなことを思った。

 二年前、彼はサラリーマン生活を終えた。
 二十年勤めた会社での最後の一年は、記憶も曖昧なほど忙しかった。
 会議、報告書、取引先、数字、責任。
 いつしか、朝の電車で目を閉じることしか楽しみがなくなっていた。
 そんなとき、妻が出ていった。
「もう、あなたと話すことがない」と一言残して。
 そのとき初めて、自分の中で何かが崩れた。
 その後、母が亡くなり、古い実家を整理している時に、この喫茶店の鍵を見つけた。
 母が一人で切り盛りしていた店。
 小さな木の扉と、色あせたコーヒーカップの看板。
 もう何年も閉め切られたままだったが、扉を開けると、懐かしい匂いがした。
 古い木の香りと、少し湿った豆の香り。
 その香りに、なぜか涙が出た。
 ――あの日から、ここが自分の居場所になった。

 彼はゆっくり豆を挽き終え、棚に並ぶカップを眺めた。
 母が集めた様々な形のカップ。
 どれも少し欠けているが、それも悪くなかった。
「……さて、閉めるか」
 そう呟いて照明を落とそうとした時、
 ――カラン、と、ドアのベルが鳴った。
 夏生は驚いて顔を上げた。
 もう客は来ない時間だ。
 ドアの向こうには、誰もいない。
 いや、正確には――いた。
 濡れたアスファルトの上に、
 一匹の猫が、じっとこちらを見上げていた。
 黒と白のまだら模様。
 琥珀色の目が、暗がりの中で光を帯びている。
 まるで、長い旅の果てにようやく帰り着いたかのような表情だった。
「……お前、どうした?」
 猫は何も言わない。
 ただ、ゆっくりと一歩、二歩、扉の内側に足を踏み入れた。
「おいおい、閉店だぞ」
 冗談めかして言った夏生の声に、猫は小さく「にゃ」と鳴いた。
 その声は、妙に人間くさく、やわらかかった。
 猫はカウンターの下まで歩くと、くるりと丸くなって座り込んだ。
 雨に濡れた毛から、ポタポタと水滴が落ちる。
「……まったく」
 夏生はため息をつきながら、古いタオルを持ってきた。
 しゃがみこみ、そっと毛を拭いてやる。
 猫は抵抗せず、ただ静かに目を閉じた。
 その目の端に、小さな傷跡があるのが見えた。
 誰かに捨てられたのかもしれない。
 あるいは、どこかを旅してきたのかもしれない。
「お前、名前は?」
 猫は返事をしない。
 代わりに、ぴくりと尻尾を動かした。
 ホットミルクを出すと、夢中になって飲み始める。
 あっという間に飲み干すと、ゆっくり背伸びをしてからグルーミングを始めた。
「名前……そうだな、ミルク、ってのはどうだ」
 思いつきのように言うと、猫は小さく「にゃ」と鳴いた。
 それが、まるで「それでいいよ」と言っているようで、夏生は思わず笑った。

 その夜、彼はミルクを毛布にくるみ、カウンターの奥に段ボールを置いた。
 小さな寝床だ。
 ミルクはすぐにその中に入り、丸くなって眠った。
 ――不思議な夜だ。
 人間が来なかった代わりに、猫が来た。
 それだけのことなのに、店の中が少し明るく見えた。

 夏生はカウンター越しに、雨音を聞きながら一杯のコーヒーを淹れた。
 その香りに包まれていると、
 胸の奥に積もっていた重たいものが、少しだけ溶けていく気がした。
「ようこそ、ミルク」
 彼はカップを持ちながら、小さく呟いた。
 それは、誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。
 ――ただ、あの夜を境に、
 この店には、少しずつ新しい風が吹き始めたのだった。

第二章 コーヒーと心の温度
 翌朝、カーテンの隙間から薄い陽の光が差し込んでいた。
 雨は上がり、空気の中にわずかな冷たさと清潔な匂いが混ざっている。
 夏生が目を覚ますと、カウンターの向こうでミルクが伸びをしていた。
 白い前足を前に突き出し、背中をぐいっと反らせる。
 その動作のたびに、首につけた赤い毛糸の紐が揺れた。
「おはよう、ミルク」
 夏生が声をかけると、ミルクはまるで返事をするように「にゃ」と鳴いた。
 それが、店の朝の合図になった。

 夏生は窓を開け、空気を入れ替える。
 湿った木の匂いと、外から入り込む風の音。
 それだけで、この小さな店が世界のどこかとつながっているような気がした。
 豆を挽く。湯を沸かす。フィルターをセットする。
 ひとつひとつの動作に、まだぎこちなさが残っていた。
 それでも、豆の香りが立ちのぼる瞬間だけは、確かに自分の中に“生きている”感覚が戻ってくる。
「よし、今日もやるか」
 ミルクはカウンターの上に飛び乗り、まるで監督のように彼の手元を見つめていた。

 ――その日、店にはひとりの女性が入ってきた。
 昼過ぎ。
 外は明るいのに、彼女の表情はどこか影を帯びていた。
 長い髪をひとつに束ね、黒いコートのままカウンターに腰を下ろす。
「すみません……まだ、やってますか」
 か細い声。
 夏生は頷きながら、メニューを差し出した。
「ええ、どうぞ。おすすめはブレンドです」
「じゃあ、それを」
 注文を受けて豆を挽きながら、彼は横目で客を見た。
 女性は三十代前半くらいだろうか。
 化粧は薄く、目の下にうっすらと疲れの跡が見える。
「……静かですね、ここ」
 ぽつりと彼女が言った。
 夏生は微笑んだ。
「この通り、隠れ家みたいなもので。人通りも少ないですし」
「そういう場所、好きです」
 カップにコーヒーを注ぐと、ふわりと湯気が立ち上った。
「どうぞ」
 女性は両手でカップを包み、そっと口をつけた。
 その仕草に、ほんの少しの安堵が見えた。
「……おいしい」
「ありがとうございます」
 それからしばらく、沈黙が続いた。
 ミルクがカウンターの上を歩き、彼女の前にちょこんと座った。
 丸い瞳でじっと見上げる。
「猫……?」
「はい、ミルクって言います。昨日の夜、突然来まして」
「ふふっ、かわいい名前」
 彼女がそう言うと、ミルクは短く「にゃ」と鳴いた。
 その声に、彼女の口元がわずかにほころぶ。
 夏生はその表情を見て、胸の奥が少しあたたかくなった。
「猫の力って、不思議ですよね」
「ええ……そうですね」
 彼女はカップを見つめたまま、ゆっくりと続けた。
「私……最近、彼にふられたんです」
 夏生は驚かなかった。
 コーヒーを淹れる人間には、そういう告白を受けることが時々ある。
 沈黙の中で、誰かが心の蓋を少しだけ開ける瞬間。
「仕事も、もう嫌になっちゃって。朝起きるたびに、なんで今日が始まるんだろうって思ってました」
 夏生は黙って聞いていた。
 ミルクはそんな彼女の手の上に前足を置き、小さく喉を鳴らした。
「……あ」
 女性が声を上げる。
 ミルクはただ静かにゴロゴロと喉を震わせていた。
 その音が、小さな店の中で優しく響いた。
「不思議ですね」
「ええ」
 夏生も笑う。
「この子、何もしてないのに、話したくなるでしょう」
「ほんと……なんか、安心する」
 彼女はそのまま、ミルクの背中を撫でた。
 黒と白の毛並みが光を受けて、少しずつ乾いていく。
 まるで、心の中の濡れた部分まで一緒に乾かしているようだった。
 
――その日から、彼女は時々この店に来るようになった。
 名前は杉原梢(すぎはら こずえ)。
 出版社で働く編集者で、忙しい毎日の合間に、ふと逃げるようにこの路地を歩いていたのだという。
「ここだけ、時間が止まってるみたいなんです」
 ある日の午後、梢はそう言って笑った。
 ミルクはカウンターの上で丸くなりながら、片目だけ開けて彼女を見ていた。
「でも、止まってるようで、ちゃんと流れてるんですよ」
 夏生はそう答えた。
「コーヒーの湯気みたいに、ゆっくりと」
 梢は一瞬、驚いたように彼を見た。
「いいこと言いますね」
「昔は営業マンでしたから。言葉だけは覚えてるんです」
「ふふっ」
 梢の笑い声に、ミルクの尻尾がゆらりと動いた。

 その日、店を出る前に、彼女は言った。
「このお店とミルクに出会えて、よかったです」
 夏生は微笑んだ。
 それだけの言葉なのに、胸の奥に小さな火が灯った気がした。
 彼女が去ったあと、ミルクが彼の膝に飛び乗った。
 喉を鳴らしながら、顔をすり寄せてくる。
「……お前、見てたな」
「にゃ」
「そうか、ありがとな」
 ミルクはもう一度鳴き、
 まるで「まだこれからだよ」と言っているように見えた。

第三章 絵を描かない画家
 冬の朝の光は、どこか優しい。
 窓辺に射し込む陽の筋の中で、ミルクが気持ちよさそうに眠っていた。
 店の扉の上には、うっすらと結露がついている。
 外はまだ冷たい風が吹いていたが、店の中だけは、ストーブとコーヒーの香りで満ちていた。

 その日、店にやって来たのは初老の男性だった。
 グレーのハットにコート、手には古びたスケッチブックを抱えている。
 背筋は少し曲がっているが、眼差しには不思議な鋭さがあった。
「やってるかね」
 落ち着いた声だった。
 夏生は微笑みながらカウンターを指差した。
「どうぞ。寒いですね」
「ええ、寒い……この路地に、まだこんな店が残ってたとはね」
 男はカウンターの隅に腰を下ろし、ゆっくりと帽子を脱いだ。
 白髪が光を受けて淡く揺れる。
「ブレンドを頼もう。苦めで」
「かしこまりました」
 夏生が豆を挽きはじめると、男は店内を眺めた。
 木のテーブル、古いラジオ、棚に並ぶカップ、そして——カウンターの上で丸まっている猫。
「……猫か。こいつは店主よりも落ち着いてるな」
 夏生が笑った。
「名前はミルクです。雨の夜に、突然現れたんですよ」
「雨の夜に猫、か。物語の始まりみたいだな」
 男の声には、どこか懐かしさが混じっていた。
 カップにコーヒーを注ぐと、湯気の中に豆の深い香りが漂う。
 男は一口飲んで、静かに息を吐いた。
「うまい……こういう味は久しぶりだ」
「ありがとうございます」
 ミルクがその足元にやってきた。
 男は少し驚いたように見下ろし、「おや」と言ってしゃがみ込む。
「人懐っこいな。昔、うちにも猫がいたよ。黒猫だった」
「そうなんですか」
「ああ。だが、あいつはもうずいぶん前にいなくなった。絵ばかり描いてた頃の、若い日の話だ」
 夏生は少し目を細めた。
「絵を描かれてたんですね」
「いや、もう描かない」
 その一言が、静かに落ちた。
 店の時計の音だけが響く。
「描けなくなったんだ……ある日、突然ね」
 男はコートのポケットからメモ帳のようなものを取り出した。
 表紙は擦り切れて、角がめくれている。
「線が引けないんだよ。筆を握っても、腕が動かない。描く理由が、見つからなくなった」
 夏生は何も言わなかった。
 ただ、カウンター越しに男の前に小さなクッキー皿を置いた。
「サービスです。うちの猫も甘い匂いが好きでして」
 ミルクは男の膝の上に飛び乗った。
 男は一瞬驚いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「……おいおい、勝手に乗るのか。重くはないが、暖かいな」
 ミルクは喉を鳴らしながら、男の手に顔をすり寄せた。
 その瞬間、男の手が自然と動いた。
 指先が毛の流れをなぞる。
「……この感触、久しぶりだ」
 男はぼそりと呟いた。
「そうだ、猫ってのは、柔らかい線をしてる。あんな線が、もう一度描けたらいいのにな」
 夏生はその言葉を聞き逃さなかった。
 彼は静かにカウンターを拭きながら言った。
「描けると思いますよ」
「……何を根拠に?」
「この子が今、先生の上に乗ってる。それだけで十分です」
 男は少し黙り、そしてふっと笑った。
「……理屈じゃないのか」
「はい。うちの猫、理屈より空気を読むタイプなんで」
 男は声を出して笑った。
 その笑い声は、どこか若々しかった。

 ――その翌週、男はまた店に来た。
「今日は、紙を持ってきた」
 そう言ってスケッチブックを取り出す。
 夏生がコーヒーを淹れている間、男は静かにペンを走らせた。
 ミルクはカウンターの上からじっとそれを見ている。
 やがて、男が顔を上げた。
「……描けたよ。猫だ」
 夏生が覗くと、そこには小さな猫の素描があった。
 線は震えているのに、どこか優しい。
 その猫は、まるでミルクのように丸まって眠っていた。
「名前をつけよう」
 男は呟いた。
「“ひとすじ”……この線がまた描けた記念に」
 夏生は笑った。
「いい名前ですね」
「ありがとう。君のコーヒーと、この猫に感謝しないとな」
 ミルクはまるで理解したように、ゆっくりと瞬きをした。
 ――それが、絵を描かない画家が再び筆を握った日の出来事だった。

 数日後、男は小さなスケッチを一枚置いていった。
 メモにはこう書かれていた。
 『店主殿へ あの猫の線を描けたことで、
  もう少しだけ、生きてみようと思えました』
 夏生はその紙を受け取り、しばらく何も言えなかった。
 コーヒーの香りの中で、
 ミルクが足元にすり寄ってきた。
「……お前は本当に、不思議なやつだな」
 ミルクは鳴かない。
 ただ、彼の膝に顎をのせた。
 冬の光が窓から差し込み、
 その小さな背中をやさしく包んでいた。

第四章 父と娘とミルク
 春の気配が、ようやく街に戻ってきた。
 街路樹の先端に、小さな蕾がいくつも並んでいる。
 冬の間の冷たい風が、少しずつやわらかくなっていた。

 その朝、喫茶店「月のしずく」に郵便が届いた。
 差出人の名前を見た瞬間、夏生の指先が止まった。
 ――真柴美羽。
 封筒を見つめる。
 見覚えのある筆跡。
 娘の字だ。
 夏生は封を切るまで、しばらく時間がかかった。
 この三年間、一度も会っていない。
 離婚のあと、彼女は母親に引き取られ、大学を出てからは関西で暮らしていると聞いた。
 手紙は短かった。
 『お父さんへ
  久しぶりです。
  東京に仕事で戻ることになりました。
  もし時間があれば、お店に行ってもいいですか。
  美羽』
 便箋を握りしめたまま、夏生は長く息を吐いた。
 手紙の中には怒りも恨みもない。
 ただ、あの頃のままの、素直な文字。
 ミルクが足元にやってきて、
 まるで「いいじゃないか」と言いたげに、しっぽで彼の足を叩いた。
「……そうだな。来てもらおう」
 夏生は小さく笑い、カウンターを整えた。

 翌週の午後、扉のベルが鳴いた。
 音を聞いただけで、夏生の胸が強く打った。
 入ってきたのは、紛れもなく美羽だった。
 明るい色のコートを着て、少し緊張したような笑顔を浮かべている。
「……こんにちは」
「いらっしゃい」
 その言葉だけで、三年分の沈黙が少しほぐれた気がした。
「お店、素敵な感じね」
「母さんがやってた頃より、少しだけ整理しただけだよ」
「お母さんの匂い、まだ残ってる気がする」
 美羽はカウンターを見回した。
 その視線の先で、ミルクが丸まっている。
「猫?」
「そう。ミルクって言うんだ」
 ミルクはゆっくりと起き上がり、すぐに美羽の足元へ歩いていった。
「わっ、かわいい」
 美羽がしゃがむと、ミルクは彼女の膝に手を乗せた。
 喉を鳴らし、顔をこすりつける。
「人懐っこいね」
「この子は特別だ。不思議と、必要な人のところへ行く」
 美羽は少し目を細めた。
「お父さんにも、そうだった?」
「そうだな。お前がいなくなって、しばらく人と話すこともなかった。でも、この猫が来てから、少しずつ店に人が戻ってきた」
「猫が、人を呼ぶんだ」
「かもしれない」
 二人の間に、静かな笑みが生まれた。
 美羽はコーヒーを頼んだ。
 カウンター越しに、夏生が手際よく豆を挽き始める。
 シャリ、シャリと音がする。
 父が働く姿を、娘がまじまじと見るのは初めてだった。
「お父さん、手がきれいになったね」
「会社勤めの頃よりはな。あの頃はインクと汗の匂いしかしなかった」
「ふふ、確かに。昔、ワイシャツの袖、いつもくしゃくしゃだったもん」
「よく覚えてるな」
 ミルクがカウンターに乗って、二人の間を行ったり来たりした。
 お互いの沈黙を、うまくつないでくれているようだった。
 カップにコーヒーを注ぐと、美羽がそっと口をつけた。
「……優しい味」
「豆のせいじゃない。お前が飲んでるからだ」
 そう言った瞬間、夏生の頬が赤くなった。
 不器用な父親の言葉は、照れと後悔とが入り混じっていた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「昔、家で猫を飼いたいって言ったの覚えてる?」
「覚えてる。母さんがアレルギーで、駄目だって言ってたな」
「そう……でも、今になって思うと、あのとき猫がいたら、うち、もう少し明るかったかもね」
 夏生はカップを磨きながら、静かに頷いた。
「そうかもしれないな」
 話は、少しずつ過去へと戻っていった。
 母と娘の暮らし、離婚の日のこと、そして別々の道を歩いた年月。
 美羽の言葉の一つ一つが、
 長い間閉じていた記憶の扉を、やわらかく叩いていくようだった。
「お父さん、あのとき、なんで会社を辞めたの?」
「もう、何も感じなくなったからだ。朝起きて、夜帰って、それだけで一日が終わる。お前の誕生日も、運動会も、全部“仕事がある”で逃げてた」
「……うん、覚えてる」
 美羽はうつむき、指先でカップの縁をなぞった。
「でも、今はこうして話せて、よかった」
 ミルクが美羽の膝に飛び乗った。
 小さな身体が、彼女の胸のあたりで落ち着く。
 喉を鳴らす音が、二人の沈黙の間を埋めていった。
「猫って、不思議ね」
「そうだな。人の心をほぐす術を知ってる」
 夏生は静かにコーヒーを注ぎ足した。
 湯気が立ちのぼり、その香りが、まるで過去と現在のあいだをつなぐ橋のように広がった。

 夕方。
 美羽が帰る時間になった。
「また来ていい?」
「もちろん。ミルクも待ってる」
 美羽は笑い、ミルクの頭を撫でた。
「ありがとうね、ミルク。お父さんのところに来てくれて」
 その言葉に、夏生の胸が少し熱くなった。
 彼は小さく呟いた。
「……ありがとう、ミルク」
 娘の背中が角を曲がって見えなくなるまで、ミルクはじっとドアの前に座っていた。
 まるで、「また来るよ」と確かめるように。

 その夜、夏生は久しぶりに深く眠った。
 夢の中で、ミルクがテーブルの上を歩き、亡き母と美羽が笑っている光景を見た。
 目が覚めたとき、
 外では春の雨が静かに降っていた。

第五章 夢をあきらめた青年
 春の風が、街の空気をやわらかく包みはじめたある日。
 喫茶店「月のしずく」の扉が、ゆっくりと開いた。
 入ってきたのは、
 黒いリュックを背負った若い男性だった。
 髪は少し伸びていて、目の下にはうっすらと影がある。
「すみません……やってますか」
「ええ、どうぞ」
 店主の夏生がうなずくと、
 男はおずおずとカウンターの端に腰を下ろした。
「……ブレンド、ください」
「かしこまりました」
 手際よく豆を挽く音が、静かな店内に響く。
 男はその音に、少しだけ肩の力を抜いたようだった。
 ミルクが、椅子の下から顔を出した。
「にゃあ」
 男は驚いたように目を見開いた。
「猫、ですか」
「ええ、この店の看板娘です」
「……かわいいですね」
 ミルクは男の足元をくるりと一周してから、迷いもなく彼の膝の上に乗った。
「え、ちょ、ちょっと……」
「気に入られたようですね」
 夏生が笑う。
 男はどうしていいかわからず、ぎこちなくミルクの背を撫でた。
 その指先が、少し震えていた。
 コーヒーの香りが漂う中、男はぽつりとつぶやいた。
「僕……仕事、やめてきたんです」
 夏生は手を止めず、ただ静かにうなずいた。
「夢があって上京したんです。音楽の仕事がしたくて。でも、結局何もできなくて。気づいたら、三十手前でバイトだけして……それでも、うまくいかなくて」
 彼は笑った。けれどその笑いは、少し壊れかけていた。
「だから、もう帰ろうかと思って」
 ミルクが喉を鳴らした。
 低く、深く、まるで「まだ終わってない」と言っているような音だった。
「……変な猫ですね」
「そうかもしれません。でも、この子、たまに人の心を読んでる気がするんです」
 夏生がカップを差し出した。
「ブレンドです。熱いので気をつけて」
 男は両手でカップを受け取ると、ゆっくりと香りを嗅ぎ、口をつけた。
「……あったかい」
 その一言に、夏生は微笑んだ。

 数日後、男はまた来た。
 名前は高橋翔太。
 高校の頃からギターを弾いていたという。
 ミルクは翔太の姿を見るたび、必ずカウンターに飛び乗った。
 その姿を見て、常連たちも自然と笑顔になった。
「猫に好かれる人って、心がやわらかいんだよ」
「そうかな……僕、自分のこと、ずっと弱い人間だと思ってました」
「弱い人が悪いわけじゃないさ。弱さを知ってる人ほど、やさしくなれる」
 夏生の言葉に、翔太は少し目を伏せた。
「僕、音楽、もうやめようと思ってたんです。でも……この店に来てから、なんかまた弾きたくなって」
「いいじゃないか。弾けばいい」
「でも、誰も聴いてくれないですよ」
「ミルクがいるじゃないか」
 その言葉に、翔太は思わず吹き出した。

 ある日、夏生が提案した。
「この店で、小さな音楽会をやってみませんか」
「えっ?」
「翔太くんのギターで。ここにはコーヒーと猫と、静かな空気しかないけど、それでも聴きたい人はきっといる」
 翔太は迷った。けれど、ミルクが足元で鳴いた。
「にゃあ」
 まるで背中を押すように。
「……やってみます」

 春の夜、店の灯りを少し落として、
 小さなステージがつくられた。
 翔太は椅子に腰かけ、ギターを抱えた。
 指先が少し震えている。
 客は十人ほど。
 夏生、美羽、常連客たち、そしてミルクが見つめていた。
 最初の一音が響いた。
 柔らかく、どこか懐かしい旋律。
 川沿いの夜風が、窓の外を通り過ぎる。
 その音は、まるで「まだ遅くない」と誰かに語りかけているようだった。
 演奏が終わると、
 店内には拍手が静かに広がった。
 翔太の目に、涙がにじんだ。
 ミルクが彼の足元にすり寄り、喉を鳴らす。
「……ありがとう」
 その言葉は、猫に向けてだけでなく、過去の自分へも向けられたものだった。

 数か月後。
 翔太は再び音楽を続けることを決め、小さなライブハウスで演奏するようになった。
 ときどき、「月のしずく」に顔を出す。
「おかげで、少しずつ人が来るようになりました」
「それはミルクのおかげですよ」
「そうですね。あの子、僕の恩人です」
「“恩人”じゃなく、“恩猫”だよ」
 二人が笑うと、ミルクがカウンターの上でのびをした。
 まるで、「それくらい当然だ」と言いたげに。

 その夜、夏生は閉店後にひとりカウンターを磨きながら思った。
 人は、誰かに救われることで、また誰かを救えるようになる。
 それは、猫でも、コーヒーでも、たとえ小さな存在でも、確かに人の心を動かす。
 ミルクは椅子の上で丸くなっていた。
 その寝息が、店中に静かな温もりを満たしていた。

第六章 忘れない猫
 春の陽射しが、川面にきらめいていた。
 喫茶店「月のしずく」の扉が開くたび、少し湿った風と一緒に、花びらが舞い込む季節だった。

 その日の昼下がり、店のベルが小さく鳴った。
 入ってきたのは、小柄な老婦人だった。
 白い帽子をかぶり、両手に布のバッグを提げている。
 その歩き方はゆっくりで、どこか頼りない。
「いらっしゃいませ」
 夏生が声をかけると、老婦人はきょろきょろと店内を見回した。
「……ここ、昔はパン屋さんじゃなかったかしら?」
「いいえ、もう十年以上喫茶店ですよ」
 老婦人は首をかしげて、困ったように笑った。
「まあ、そうなの。私、昔この辺りに住んでたのよ」
「そうでしたか。よかったらどうぞ、奥の席が空いてます」
 老婦人は「ありがとう」と言って席に着いた。
 バッグの中には、古いアルバムが覗いていた。
 注文を聞くと、彼女は少し考えてから言った。
「ミルクティーをお願いできるかしら」
 夏生は笑った。
「もちろん。うちの猫と同じ名前ですよ」
「まあ、猫ちゃん? どこにいるの?」
 カウンターの影から、ミルクがするりと現れた。
 老婦人の足元に近づき、そのまま静かに膝の上へと飛び乗った。
「あら……!」
 驚く老婦人の手を、ミルクは頭でやさしく押した。
「まぁまぁ、なんてかわいいの」
 その瞬間、彼女の顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
 それは、長い間忘れていたような表情だった。
 ミルクティーを出すと、老婦人は湯気を見つめながら、ぽつりと話し始めた。
「私ね、昔、猫を飼っていたの」
「そうなんですか」
「白くて、ふわふわで、やっぱり“ミルク”って名前だったのよ」
「偶然ですね」
「ええ。あの子、私が結婚した年に拾ったの。主人が転勤族でね、あちこち引っ越したけれど、どんな町でも、ミルクだけは一緒だった」
 ミルクが彼女の膝の上で丸くなった。
 老婦人はその毛並みに指を通しながら、遠い記憶の中を歩いているようだった。
「でも、あの子がいなくなってから、私はずっと何かを探している気がするの」
「何をですか」
「……思い出、かしら。覚えているようで、少しずつこぼれていくの。このあいだもね、家の鍵を冷蔵庫に入れていたのよ」
 夏生は静かに頷いた。
 彼女が“認知症”であることに、すぐ気づいた。
 けれど、言葉には出さなかった。
 ミルクだけが知っているように、彼女の膝の上でじっとしていた。

 それからというもの、老婦人――花村静子(はなむらしずこ)は、毎日のように店に来るようになった。
 午前十時になると、川沿いをゆっくり歩き、店のドアを開ける。
 ミルクが駆け寄り、まるで「お帰りなさい」と言うように鳴く。
 その光景が、店の“日常”になっていった。

 ある日、静子がいつものように座ると、アルバムを取り出して見せてくれた。
「見て。この子が昔のミルク」
 写真には、若いころの彼女と、白い猫が写っていた。
 猫は、今のミルクに驚くほど似ていた。
「……同じ顔だ」
 夏生がつぶやくと、静子さんは微笑んだ。
「そうでしょ? だからね、はじめてこの店に来たとき、ちょっと泣きそうになったの」
 ミルクが、その写真に鼻先を寄せた。
 静子はそっとその頭を撫でた。
「不思議ね。もしかしたら、あの子がもう一度会いに来てくれたのかもしれない」
 夏生は何も言わなかった。
 ただ、胸の奥で、“そうであってほしい”と願っていた。

 数週間後、雨の日の午後。
 静子は姿を見せなかった。
 その日だけではなく、次の日も、その次の日も。
 夏生の胸に、小さな不安が残った。
 近所の常連客に尋ねてみると、「昨日、救急車が来てたよ」と誰かが言った。
 夏生は傘を持って、静子の家を訪ねた。
 玄関の前には、郵便物が溜まっている。
 近所の人の話によれば、病院に運ばれたらしい。

 翌日、病院を訪れると、静子はベッドで穏やかに眠っていた。
 小さく痩せた体。
 しかし、その顔はとても安らかだった。
「……ミルク」
 夢の中で呼ぶように、彼女はそう呟いた。
 夏生はミルクの写真を見せると、彼女の唇がほのかに動いた。
「……帰ってきたのね」
 その微笑みは、春の光のように静かに広がっていった。
 静子が亡くなったのは、その二日後だった。
 彼女の娘が店に立ち寄り、静子が大切にしていたアルバムを渡してくれた。
「母は、あの猫の話ばかりしていました。“また会えた”って、何度も言ってました」
 夏生はアルバムを胸に抱いた。
 ミルクがその膝に飛び乗る。
「そうか。ちゃんと会えたんだな」
 ミルクはただ静かに喉を鳴らしていた。

 夜。
 閉店後の店内で、夏生は一人アルバムをめくった。
 若い頃の静子さんと、白い猫の写真。
 その姿が、今のミルクと重なって見えた。
 人は、誰かを忘れていく生き物だ。
 けれど、心に残った優しさは、
 形を変えて、また誰かのそばに寄り添うのかもしれない。
「ありがとう、ミルク」
 ミルクはカウンターの上に乗り、ゆっくりと目を閉じた。
 まるで、“忘れないよ”とでも言うように。

第七章 名前を呼ぶ夜に
 夏が近づいていた。
 川沿いの柳が風に揺れ、夕暮れが店のガラスにやわらかく映り込む。
 その日の「月のしずく」は、静かだった。
 常連たちが帰り、時計の針が午後七時を回ったころ、扉のベルが一度だけ鳴った。
 入ってきたのは、中年の男だった。
 スーツの上着を脱ぎ、少し乱れたシャツ。
 髪に白いものが混じり、目の奥には、長い夜を越えてきたような影があった。
「……まだやってますか」
「ええ、どうぞ」
 男はカウンターの隅に腰を下ろした。
 注文を聞くと、低い声で言った。
「ホットコーヒーを」
 夏生が豆を挽く音だけが響いた。
 しばらく沈黙が流れたあと、男がぽつりとつぶやいた。
「この辺、変わったな」
「昔、来られてたんですか?」
「ええ。十年前まで、この近くに家があった」
 ミルクが足元に寄ってくる。
 男は気づかずにカップを見つめたままだったが、小さな鳴き声に顔を上げた。
「猫……?」
「はい。この店の住人です」
 ミルクは迷いもなく、男の膝の上に飛び乗った。
 男の表情が一瞬だけゆるむ。
 けれど、そのすぐあとに、深い息が漏れた。
「……重さが、懐かしい」
 コーヒーをひと口飲んだあと、男はゆっくりと話し始めた。
「子どもがいたんです。女の子で、七歳でした」
 夏生は言葉を挟まなかった。
「去年、事故で……交差点で信号待ちをしていて、車が突っ込んできた。ほんの数秒、手を離しただけでした」
 男の声は、途中で途切れた。
 ミルクは膝の上から動かず、ただ喉を鳴らしていた。
 「妻は、それからずっと僕を責めて。いや、責められて当然なんです。あの日、僕がもう少し早く気づいていれば……」
 夏生は静かにカップを磨きながら、その痛みを受け止めていた。
「今は、奥さんと?」
「離婚しました。もう何も残ってない」
 その言葉に、ミルクがゆっくりと男の胸に顔を押しつけた。
 男は驚き、息をのんだ。
「……どうしたんだ」
 猫はただ、小さく鳴いた。
「にゃあ」と。
 それはまるで、
 “あなたはまだ、生きてる”と告げるような声だった。

 それから、男は何度か店に通うようになった。
 名は矢沢浩一(やざわこういち)。
 無職になって一年。
 昼は家にこもり、夜だけふらりと街を歩く生活だったという。
「この店に来ると、なぜか少し呼吸ができる気がする」
「それはミルクの魔法ですね」
 夏生の言葉に、浩一はかすかに笑った。
「猫のくせに、人の心に土足で入ってくる」
「それがあの子の特技なんです」

 ある夜、
 浩一はポケットから小さな写真を取り出した。
「これが、娘です」
 そこには、笑顔の少女が写っていた。
 ミルクがその写真に鼻先を寄せ、ひとつ、小さく鳴いた。
「お前も、わかるのか」
 浩一の声が震えた。

 ある日、夏生が提案した。
「よかったら、この店で娘さんの好きだった曲をかけませんか」
「音楽を……?」
「ええ。うちの店の常連の翔太くんが置いていったCDがあります。優しい音ですよ」
 店内にギターの音が流れた。
 穏やかで、悲しみを包み込むような旋律だった。
 浩一は目を閉じた。
 音の波の中で、娘の笑い声が聞こえる気がした。
「……この曲、あの子が好きそうだ」
「じゃあ、今日からこの時間の“店のテーマ”にしましょう」
 ミルクが足元で丸まり、静かに尻尾を揺らしていた。

 夏の終わり。
 浩一はある夜、
 店の扉を開けて、少しだけ明るい顔で入ってきた。
「仕事が決まりました」
「それはおめでとうございます」
「子どもたちにギターを教える仕事です。あの子が、音楽好きだったから……」
 夏生は笑った。
「きっと喜んでますよ」
 ミルクがカウンターに飛び乗り、浩一の手の甲に鼻を寄せた。
「ありがとう、ミルク」
 浩一は涙をこぼしながら笑った。
「もう、あの子の名前を呼べるようになった」
 店の外では、蝉が最後の声を絞って鳴いていた。
 空には、ほんの少しだけ秋の月が顔を出していた。

 その夜、閉店後。
 夏生はミルクを抱き上げ、窓の外の月を見上げた。
 「なあ、ミルク。お前がこの店に来てから、いろんな人の心が動き出したな」
 ミルクは静かに目を細めた。
 「……もしかしたら、お前は、“誰かの想い”の続きなのかもしれない」
 夜風がカーテンを揺らした。
 その音はまるで、
 遠い誰かが「ありがとう」とささやいているようだった。

第八章 月のしずくの灯
 秋の夜は早く冷えた。
 川沿いの木々が赤く染まりはじめ、喫茶店「月のしずく」の窓にも、風がすき間から入りこんでカーテンを揺らしていた。
 ミルクはその日、朝から少し様子がちがっていた。
 いつもなら開店前に夏生の足元をくるくると回って「早く扉を開けて」とせがむのに、その日はカウンターの奥で、じっと外を見ていた。
「……どうした、ミルク」
 声をかけても、耳だけがぴくりと動いた。
 その目は遠い何かを見ているようで、夏生は胸の奥がすこしざわついた。

 夜になって、常連の浩一が来た。
 あの娘の写真をいつも持ち歩いている男だ。
 彼もまた、ミルクの変化に気づいた。
「今日はおとなしいですね」
「ええ、なんだか外を気にしているようで」
 浩一はコーヒーを飲みながら、窓の向こうにちらちらと舞う落ち葉を見た。
「この子、もしかして……どこかで待っている誰かがいるんじゃないですかね」
「誰か?」
「そう。人でも、猫でも。ほら……人も猫も、心に帰る場所を持ってるでしょう」
 その言葉が、夏生の心に残った。

 春が、思ったよりも早く来た。
 雪解けの水が川を満たし、柳の芽がうすい緑をのぞかせる。
 喫茶店「月のしずく」の前にも、チューリップの蕾が顔を出していた。
 いつもと同じように、夏生は朝の仕込みをしていた。
 挽きたての豆の香りが店内に広がり、やわらかな陽射しが差し込む。
 だが、その足元に、いつもの白い影が見当たらなかった。
「……ミルク?」
 店の奥をのぞいても、カウンターの下を見ても、
 あの白い毛並みはどこにもいない。
 胸の奥が、少しだけ痛んだ。
 ミルクは年齢のわりに元気だったが、このところ眠る時間が長くなっていた。
 夏生はエプロンを外し、店の外に出た。
 川沿いの道を歩くと、桜の花びらが風に舞っていた。
 その向こうで、白い小さな影が見えた。
 ミルクだった。
 ベンチの上で、春の陽を浴びながら、静かに眠るように座っていた。
 夏生はゆっくりと近づき、膝をついた。
「……ミルク」
 その毛並みはまだあたたかく、胸のあたりで、かすかに呼吸があった。
「お前、こんなところで昼寝か」
 ミルクはうっすらと目を開け、夏生を見上げた。
 その瞳の奥には、やさしい光があった。
 まるで「ありがとう」と言うように、喉の奥で小さくゴロゴロと鳴らした。
 そして、そのまま、春風の中で、静かに目を閉じた。
 ――その夜、店は閉めた。

 夏生は小さな箱を用意し、ミルクのそばに花を添えた。
「ありがとう、ミルク」
ただ静かに、祈るようにその姿をずっと見つめていた。

 翌朝。
 夏生は川沿いに小さな木の札を立てた。
 そこには、こう刻まれていた。
『ここに、やさしい猫が眠っています。
  どんな時も、そばにいてくれた猫です――』
 風が川を渡り、桜の花びらが一枚、静かにその上に落ちた。

 時が流れた。
 三年後、「月のしずく」は少しだけ形を変えていた。
 喫茶スペースの奥に、子どもたちが自由に絵本を読める小さな“図書コーナー”ができた。
 壁にはミルクの写真が飾られ、その下に、子どもたちの描いた猫の絵が貼られている。
 新しい常連の中には、
「この店に来ると、なんだか落ち着くんです」
 そう言って笑う人が増えた。
 夏生はカウンター越しにコーヒーを注ぎながら、心の中でつぶやく。
 ――あの日のミルクが、この場所にまだ生きている。

 夜。
 店を閉めたあと、夏生は窓の外の月を見上げた。
 相変わらず、川は静かに光を映している。
 そのとき、不意に、カウンターの上から「コトン」と音がした。
 見ると、飾っていたカップが少し揺れていた。
「……おい、ミルク?」
 冗談めかして言いながら、夏生は笑った。
「あっちでも、ちゃんとホットミルクを飲んでるか?」
 風が吹き抜け、店の中にほのかなミルクの香りが漂った。

 ――猫は言葉を話さない。
 けれど、猫がくれる沈黙には、人を立ち上がらせる力がある。
 どんなに悲しい夜も、その静かな体温が、心の奥で灯をともす。
 “愛”とは、もしかしたら――
 その灯を、誰かに渡していくことなのかもしれない。

(了)