高校の放課後の教室にはエモいという雰囲気だけが漂っていた。鼻を掠めるような匂いと甘酸っぱい匂いが辺り舞う。
 そのエモさを感じながら東山翔《とうやまかける》は横に座っている山田志保《やまだしほ》に視線を向ける。
 
 翔は自分の心を落ち着かせるため、一度心の奥底で深い深呼吸を吐いた。
 落ち着け。落ち着くんだ。いや、無理だ。こんな天使が横に座っているのに目を向けないなんてそれこそ罪だ。
 そんなことを感じている翔と違い反対的に志保は静かに読書をしていた。陽光が志保を照らす。照らされている志保は翔から見て天使のような存在に感じてしまう。どうして、感じてしまうのかは明白であり理解できやすい行動でもある。
 
 翔は――恋をしている。隣に座って静かに読書をしている志保に恋をしているのだ。
 不意に志保は翔の方に視線を向けた。それにより、翔は思わず目を逸らす。
 バレるところだった。ドクンドクンと歌っている心臓はやけに速く、まるで息切れをしているのではないかとも疑ってしまう。しかし、今はそんなことなど気にしている暇はない。横目で見ていたことがばれていなければ……。
 
「ねぇ君、さっきから私を見てるけど何か用なのかしら?」
 
 志保は至って普通の声で問う。の、だが翔にとっては聞きたい声であった。また聞きたくない声でもあったのだ。なんとも言えない打撃が腹に走る。翔はなんとか言葉を探し始める。しかし緊張という感情になってしまった翔には冷静さなんてあるわけがなかった。思考が固まった翔はしどろもどろになりながらもなんとか言葉を紡ぐ。
 
「いや、その、何の本を読んでいるのかなって……」
 
 やべー。絶対変な奴だと思われたよ。何をしているんだ俺は。
 
「へー。本当に?」
「うん。本当……だよ!」
 
 なんとか絞り出した言葉は怪しさ満開であった。戸惑っている翔の様子に志保は緊張の糸が解けたのか小さな笑みを零す。
 
「ふふ。そうだな〜、ほら今読んでいる本はこれだよ」
 
 そう言いながら本のタイトルを見せつけてくる。
 
「愛する人を忘れてしまっても。っていうタイトルだよ?」
 
 志保は翔に向かって優しい笑みを零しながら言う。
 しかし、翔はタイトルなど一切頭に入っていなかった。あるのは、可愛い笑みを溢している志保だけである。
 なんて可愛い笑みなんだ。って、今は違う。ちゃんと話を聞くんだ。
 志保は目を細め問う。
 
「話……聞いてる?」
「聞いてるよ。それは……もちろん」
「ふーん。じゃあさ、さっき言ったタイトル言ってみなよ?」
 
 意地悪な笑みで志保は翔を見つめる。
 
「えーと。愛する人を……」
 
 翔はそこで言葉が止まってしまう。えーと、なんだっけ、確か。
 
「はい、そこまでー! ちゃんと話聞いてないじゃん?」
「ごめんなさい。ただ、その、笑顔が素敵だなと思って」
 
 翔は思わず言ってしまう。翔の言葉を聞いた志保は耳を赤く染めた。意図せず出た翔の言葉に照れたのだろう。反応を隠すようにした表情と少しだけ高い声色が響く。
 
「初対面の人に、そんなことを言うのは間違っていると思いますけど!?」
 
 照れているのか声が一音ほど上がっていた。
 
「そうですよね。僕もそう思います」
「反省してる?」
「してます。めっちゃ、してます」
 
 どこか二人には高校生らしさがあった。照れているのをばれないようにしている志保と言えたことの嬉しさを隠している翔。
 それぞれが違う感情を持ち、幸せを感じる。たったそれだけのことが2人にとって幸せで大切なことだった。
 
 小さな蝋燭が消えるのは仕方がないこと、大きな蝋燭が燃え尽きるのは仕方がないこと。
 だから、運命が決まっているのも仕方がないこと。
 
 緊張が解けない翔は窓に視線を移した。綺麗で広がっている海。
 
 今……この時が幸せだ。