目が覚めた僕は朝から憂鬱であった。それはサラリーマンが月曜日の出社に気分が落ち込むのと同じような感覚であろう。しかし今日は月曜日ではなく日曜日。本来であれば休日のためテンションが上がる曜日であるのだが、今日だけは違う。
 今日この日は桜花くんが小林くんに告白する日なのだ。僕の好きな人が僕じゃない人に告白をする日。それにもかかわらず僕はその告白現場に同行しなければならないのだ。理由こそわからないが、桜花くんがどうしても来てほしいというので行くしかない。

 「はぁ。」

 僕は大きなため息をついてから、パン屋の開店の準備を行う。いつも通り台をアルコールで消毒し、床をモップできれいにしていく。それが終わると入口の扉を拭き上げ、外の掃き掃除を行う。ある程度の掃除が完了したら朝食を食べるために二階へ向かう。

 「酵汰?今日何かあるの?」

 そう声をかけてきたのは母親であった。やはり親という生き物はすごいものだ。普段と何も変わらない生活を送っていたというのに僕の変化に気づいたのだから。

 「な、なんで?」
 「なんでって、見てればわかるわよ。……無理してない?」
 「…してないよ。ご飯食べてくる。」

 僕はそれだけ告げると、急ぎ足で二階に駆け上がった。


■ ■ ■ ■ ■


 店内のアナログ時計は気がつくと、二本の針が重なり天井を向いていた。桜花くんとの約束の時間は13時であり、駅までの時間と着替えなどの準備を考えるとそろそろアルバイトを切り上げなければならない。

 「お母さん、僕用事があるんだけどそろそろ上がっても大丈夫?」
 「大丈夫よ。なに?新しい本でも買いに行くの?」
 「う、うん。そんなところ。」
 「気をつけていってきなさいね。」
 「ありがとう。」

 母親と簡単な会話を終えると僕は自室へと戻る。着替えのためだ。今日はデートではないため服装は前回のように気を使う必要はない。ただ所持している服の種類は増えていないため、前回と同じカーディガンにロンT、黒スキニーを着ることにした。しかしこれだけでは流石に寒いと考え、上には出して洗濯しておいたダッフルコートを羽織ることにした。
 全身鏡の前で軽くバランスだけ確認し、軽く胃に何かを入れるためにリビングへ向かう。冷蔵庫の中を確認するも特にめぼしいものがなかったため、一階へ降り惣菜パンを一つ貰うことにした。

 「きんぴらごぼうのパン一個もらっていい?」
 「いいわよ。」
 「ありがとう。じゃあ行ってきます。」
 「はーい。気をつけてね。」

 僕は惣菜パンを手にすると、そのまま店を出て駅へと向かう。時間的には割と余裕があるため、パンを頬張りながらゆっくりと歩くが、これからのことを考えるとパンの味なんてしない。
 今日は桜花くんが小林くんに告白するんだ。きっとそれは成功する。そうなれば桜花くんは僕に話しかけてくることはないだろう。パン屋に来てくれることもなくなるだろうし、教室で声をかけてくれることも、雑に僕の手を取って何処かに連れ去ったりもしないだろう。そしてもう一緒に花壇で花を見ることもないだろう。
 そう考えるとパンの味を感じることなんてできないし、気分はどんどん沈んでいく。それに比例するように歩幅が小さくなり、徐々に歩く速度も遅くなる。

 「酵汰?大丈夫か?」

 僕の後ろからそう声が聞こえ咄嗟に振り返った。そこにはいつも通り黒髪短髪で黒のスクエア型メガネが似合う桜花くんの姿がそこにはあった。

 「お、おはよう…」
 「うん、おはよう。それで大丈夫か?どこか痛いのか?」
 「…大丈夫だよ。」

 きっと桜花くんは随分前から僕の後ろにいたのだろう。そうでなければ心配をするような声掛けはしてこないからだ。それならもっと前から声をかけてくれれば良いものを、なぜ声を掛けてくれなかったのだろう。いや桜花くんはもう僕に声を掛ける必要がないんだ。今日桜花くんは小林くんと付き合い始めるはずだ。そうなれば僕はもう不要になるのだからそれは仕方がないことだ。

 「…本当に大丈夫か?」
 「うん。大丈夫。桜花くんこそ大丈夫なの?なんて告白するか考えてきた?」
 「え?」
 「…え?」
 「あ、いや、セリフってことだよな?あぁ。うん。だ、大丈夫。」

 本当に大丈夫なのだろうか?なぜ桜花くんがこんなにも歯切れの悪い言い方をしたのかは気になるところだが、僕にそれを掘り下げるほどの元気は残っていない。しかし桜花くんはなぜ僕を今日の小林くんとのデートに僕を誘ったのだろうか?結局桜花くんはその理由を教えてはくれなかったが、「行きます」と言ってしまった以上行くしかない。
 が、今はそんなことよりこの空気感をどうにかする必要がある。桜花くんは僕の隣りに来たのはいいのだが、おそらく告白のセリフを考えていなかったであろう桜花くんはその後喋らなくなってしまった。そうなれば僕から話しかけるしかない。

 「きょ、今日はどんなデートに行くの?」
 「え?あぁ…あまり何処かに行くとかは考えてなくて…」
 「そうなの?小林くんは何処に行きたいのかな…。小林くんはサッカー部だからいっぱいご飯が食べられるところとか、どこか身体を動かせる所が良いんじゃないのかな?」
 「…酵汰はご飯いっぱい食べたかった?」
 「な、なんで僕の話になるのさ。」
 「いや…この間のデート、もっと食べたかったのかなって…。」

 なぜか今日の桜花くんはいつもより少しだけもどかしい気がする。小林くんに告白するのに緊張しているのだと思う。だと思うが、なぜ僕を話題に出すのか理解できない。

 「…あの時食べたパスタとピザで僕はお腹いっぱいだったよ。」
 「そうか。なら…良かった。」
 「…………緊張してるの?」
 「…うん。してる。」
 「そりゃそうだよね。でも桜花くんなら大丈夫だよ。確約はできないけど…。」
 「…おう。」

 そんな会話を続けていると駅に着いた。しかし僕はここであることに気がつく。僕はここで何をすればいいのだろうか?桜花くんと小林くんのデートを尾行し続ける一日になるのだろうか?

 「酵汰!酵汰は今日は何時ごろまで大丈夫なの?」
 「と、特に時間の縛りはないけど…」
 「なら、最後まで待っててくれる?酵汰に伝えたい。」

 伝えたい?告白の結果をだろうか?つまり僕は好きな人から別の人と付き合うことになったことを直接聞くことになるということか。それは…きついな。
 ふと駅方面に顔を向けると、近くのベンチに小林くんが座っているのが見えた。このままでは小林くんに桜花くんと僕が一緒にいるのがバレてしまう。そうなる前に僕はこの場から離れなければならない。

 「…桜花くん、僕はあっちらへんから見守っておくから、その…頑張ってね。」
 「…おう。」

 僕はそれだけ言うと桜花くんとは離れ、ベンチが見える位置に移動した。ここからでは二人の会話までは聞こえないが、様子を確認すること自体はできる。桜花くんは小林くんが座っているベンチに近づくと、何も躊躇することなく小林くんの隣りに座った。その後ベントに座ったまま二人は仲良く数分間話し続けた。

 そして桜花くんが小林くんの頭を撫で、抱き合った。

 僕は悟った。告白が成功したことを。二人が付き合い始めたことを。そして僕の恋が終わりを告げたことを。
 僕はこれを喜ばなければならない。桜花くんに協力すると言ったあの日にはすでに想像していた光景だ。桜花くんが小林くんのことを好きなことがわかって、桜花くんは同性が好きなんだと。だったら僕にもチャンスがあるんじゃないかと。そんな淡い期待を心の何処かで思っていたのかもしれない。
 視界が揺らいでいく。わかってる。僕は今泣いているのだ。二人を祝わなければいけない。でも僕は二人を心から祝うことができない。桜花くんに協力すると言ったのに最後は結局何もできず、僕はただ泣くだけ。
 あぁ苦しい。目眩がする。今すぐこの場からいなくなりたい。それなのに桜花くんは告白の結果を伝えに、僕の方へ向かって歩いてくる。その表情は決意の固まった表情で何やら神妙な面持ちだ。桜花くんが僕に告白の結果を伝えに来るんだ。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 僕が気が付いたときには走っていた。涙を流しながら人にぶつかっても、足がもつれて地面に倒れ込んでも、僕はそれらを一切気にすることなく走る。僕は逃げ出したんだ。現実を受け止めることができずに、ただただ桜花くんから告げられる言葉を聞きたくなくて逃げ出した。

 「ここで逃げ出したら、僕が桜花くんのことが好きって言ってるようなもんじゃないか。」

 しかしすでに行動に移してしまったものはしょうがない。いやもうとっくの昔に桜花くんにはバレていたのかもしれない。桜花くんはきっと手伝いをした僕への最後のお礼として先週デートをしてくれたのだろう。

 「あぁ、終わったんだ。」

 僕は後ろを振り返ることはなかった。


■ ■ ■ ■ ■


 家に帰り僕は二階へ続く階段を駆けあがると、自室へと逃げ込んだ。部屋には鍵をかけ、そのままベッドにダイブをする。止まらない涙に加え、嗚咽するような泣き声を布団にくるまることで必死に音を殺した。
 付き合えるだなんて一ミリも思っていなかった。いやそもそもそんな感情は無く、出会ったときはただ友達になれればいいやくらいの感覚だったのに、今では僕の心をすべて占領するくらい好きな人になっていた。

 「こんなことなら気持ちだけでも伝えておけばよかった。」

 そう呟くと部屋にノック音が響いた。普段なら近づいてくる足音で誰が来たのか分かっていたはずなのに、そんな音は一切耳に入らないほど僕は泣いていたのだ。

 「酵汰…大丈夫?」

 声の主は母親だった。想定よりも早い帰宅に、帰宅後はただいまも言わずに自室に籠る息子を見て、様子を見に来たのだろう。しかし今の僕には母親の声に答える気力などない。返事をしない僕に母親はそれを悟ったかのように語り始めた。

 「…酵汰。扉は開けなくていいわ。そのままでいいから聞いてちょうだい。前にも言ったと思うけど、親っていうのはね、子どもの笑顔が見れればなんでもいいの。親は子どもを笑顔にする義務がある。でもこれは泣くなって言ってるわけじゃない。泣きたいほど、もう他のことがどうでもいいと思えるほど辛いことがあったら、子どもは親を頼ってほしいの。子どもの力になれることが何よりも特別で何よりも幸せなの。
 ここ最近の酵汰を見ていれば分かるわ。きっと私たち親に相談できないほど一人で何かを抱え込んでいたのよね?それがどんな内容なのかは聞かないわ。酵汰が話したくなったらその時に教えてちょうだい。でもそんな状況も知らない母親だけど、酵汰に言えることがあるわ。
 酵汰。頑張ったわね。」

 母親はそう告げると、ゆっくりと部屋の前から移動した。それを聞いた僕は更に涙を流し、気が付いたときには眠りについていた。


■ ■ ■ ■ ■


 目が覚めると部屋は真っ暗だった。僕はゆっくりとベッドから立ち上がり部屋の電気を点ける。部屋の壁に掛けてあるアナログ時計は22時を指していた。僕が14時に帰ってきたことを想定するともう8時間も寝ていたことになる。疲れがたまっていたのだろうか。よく眠ったようだ。
 ふと視線を扉に向けると、床と扉の隙間から一枚の紙が差し込まれているのが目に入った。その紙を拾い上げ僕はその紙に書かれている文章を読む。


—酵汰

 もう眠っているようだから手紙を置いておきます。
 扉の前にご飯と飲み物を置いておきました。
 少しでも元気が出たら食べてください。
 食べ終わった食器はまた扉の前に置いててもらえれば大丈夫です。

 明日からの学校とお店の手伝いはお休みしましょうか。
 学校にはすでに連絡入れておきましたので、明日からの一週間は休んでいいわよ。
 行きたくなったら行ってもいいけど、無理はしないこと。
 勉強も大事だけど、今は休むことに専念すること。
 それに酵汰は頭がいいから、勉強の心配なんて私たちは一切してないわ。

 お店は何とかなるから気にしないで。
 もし手伝いたくなったら、手伝ってくれるのはありがたいけど、
 今は全部忘れてゆっくりと何かに向き合う時間にしてください。

 あと、一応泣いて疲れちゃっただろうから、
 水分補給としてポカリを何本か置いておきます。
 足りなくなったら、紙にほしいもの書いて置いておいて。

 私たちは酵汰が元気になってくれることを待ってます。

お母さんより—


 手紙を読み、ゆっくりと部屋の扉を開ける。廊下は暗く、明日も朝早くから仕事がある二人は既に就寝しているらしく、この家からは無機質な換気扇の回る音しか聞こえない。僕はトレーに乗っている白米と卵スープと野菜炒めとポカリ数本をトレーごと部屋の中に入れた。
 ここまで気を遣わせてしまって申し訳ないと感じつつも、トレーを机の上に乗せ、両手を合わせる。そういえば昼は総菜パン一個しか食べてないことを思い出し、それなりに空腹だと思っていたのだが、食事を前にしても食欲がわかない。

 「あれ?」

 少しでも胃に何か入れた方がいいと思い、箸を取ろうとするもなぜか手がおぼついて、上手く箸を持つことができない。心なしか手が震え、何もしていないのに息があがっているような気がする。

 「寒い…?でも熱いような気もする…。」

 徐々に意識も朦朧としてきた。僕はとりあえず水分だけでも取ろうとポカリの入ったペットボトルのキャップを開け、数回に分けて喉に流し込む。冷たい液体が食道を通り、胃に落ちていく感覚がわかる。僕はその感覚に安堵を覚えたのか、ベッドにたどり着くことなく、その場に倒れ込み、意識を手放した。