次の日、エマはベッドから立ち上がることも出来なかった。ベッドの上で小さく体を動かすのが精一杯なくらい衰弱していた。浅い呼吸の音だけが妙に響く。まもなく医者が到着し、静かに沈黙した後静かに首を振った。
「もう、…手がありません。」
リオは耳元で心臓が破ける音を聞いた。
「エマ、エマぁ…」
おばあちゃんが崩れ落ちた。自分を救ってくれた二人のこんな姿は見たくなかった。だからリオは駆け出した。森の深い深いところまで全速力で駆け抜けた。そして、ようやくリオの足はある一定の場所で止まった。ツタで隠れてしまっている小さな洞窟。その中には、一人の小柄な男がいた。リオがよく知ってる人物だった。
「なんだ?…ただの猫か…。」
この男がここに封印されていた闇魔法を蘇らせた者、そう確信した。魔法を使うには人の姿に戻らなくてはいけない。しかし、自分の罪と向き合い、受け入れなければならない。そして、何よりもまた自分の力で全てを壊してしまうかもしれない、それが一番怖かった。けれど、エマの苦しそうな顔が瞼の裏に浮かぶ。自分が壊した町、奪った命、そして守れなかった家族。それら全てを再び抱える覚悟をした。エマの苦しんでいる音が一番怖かったから。リオは心の中で唱えた。
「返してくれ、俺の体を。
俺の手を。俺の声を。俺の過ちを背負う、この体を。」
光の中から現れたのは、黒髪と静かな青い瞳を持つ青年。最強の魔法使いと呼ばれた頃と変わらぬ姿だった。

 「久しぶりですね、国王。」
大魔法使いリオは低い声そう言った。かつてリオを追放し、家族を奪った王はびくりと震える。
「なんだ、リオ……生きていたのか……。また、私のもとで働…」
「また、強大な力を欲したのですか?闇魔法にまで手を出すなんて…。」
王が何かを言おうとしたがリオはすでに呪文を唱え始ていた。
「すまない。家族を殺したことを怒ってるのか?それならもう、いいじゃないか。過ぎた話だ、見逃してくれ。な、頼むよ、リオ。」
リオが呪文を唱え終わると王の姿は消え、あたりには青色の炎の残骸と灰が舞っていた。月明かりに照らされ、灰もやがて消えた。

 急いでエマの元に戻った頃には深夜になっていた。
リオはエマのベッドの側に膝をついた。
「リオ……?」
エマが薄く目を開けた。その瞬間、リオの何かが決壊した。救いたい。それだけの願い。壊すのではなく、守りたい。その思いが胸の奥で光を呼び覚ました。
「……エマ。」
人間の声で呼ぶと、エマの瞼が小さく動く。
「だあれ……?」
意識が朦朧としているはずなのに、その瞳は真っ直ぐにリオを捉えていた。苦しそうな浅い呼吸を繰り返しながら。呪いの元凶は断ったはずなのに、闇魔法は進行を止めない。闇魔法に打ち勝つには、光魔法しかない。けれど光魔法は、理由があって禁じられている。光魔法は命そのものを差し出す魔法。成功すれば命を渡せるが、仮に失敗すれば相手の命を奪ってしまう。命の重さを直接扱う禁忌の魔法。誰も使おうとしない、使えない。この絶対的に最強な魔法は一般の魔力量では実現させるのも不可能だ。しかし、ただ一人。最強と謳われた魔法使いリオの魔力量だけは例外だった。
「君を救いに来たよ。…俺に君を守らせてほしい。」
震える手で、リオはエマの手をそっと握った。光魔法の詠唱を始める。体の奥から、魔力と命そのものがむけていくような感覚。視界が揺れ、全身が痺れる。痛みではない、純粋に命が抜けていく。その時、エマがリオの手を握り返した。
「……リオ、でしょ…?」
リオは息を呑んだ。猫としてしか知らないはずなのに。エマは迷いなく言った。
「リオの手はね、あったかいんだよ。おんなじ、手してる。」
リオはエマに向けてそっと微笑んだ。体が透けていく。
「ねえ、リオ。どこにも行かないで……。一緒って、言ったじゃん。」
涙が頬を伝う。落ちた涙が光の粒となってすっと消えた。
「エマ。君に……出会えてよかった。」
光が溢れ出す。眩しく、美しく、温かく、そして優しい光。エマの体から呪いが消えていく。リオの命が宿るかのようにエマの体の中に温かい光が広がっていく。リオの体はどんどんと薄くなっていく。
「やだ、やだよ。」
エマが涙を流しながら叫ぶ。最後の力でエマの頬に手を添えた。
「泣かないで。君の笑顔が…灰色に染まった僕の世界に色と光をくれたから。」
光の粒となって、リオの指がほどける。足元からゆっくりと、優しい春の風に乗るかのように散っていく。エマは涙の中で、必死に手を伸ばした。
「リオ……!ありがとう…!!」
リオの声だけが、春の朝の光に照らされ残っていた。
「ありがとう。君がいてくれたから、俺はもう…怖くない。」
最後の光が散った。部屋は静かになり、窓から差し込む優しい朝の光がエマの涙を優しく照らしていた。

 翌日、エマは奇跡のように目を覚ました。痛みも熱も、どこかへ消えていた。枕元には、黒い小さな毛が一筋だけ落ちていた。エマはそれを大切に胸に抱きしめた。そして、小さく祈るように呟いた。
「…またね、リオ。」
春の風がそっと吹き、部屋中にきらきらと光が舞った。それはまるで彼が微笑んでいるかのようだった。