春の風が森を渡り、木々の間を揺らしていた。エマの家の小さな煙突からは、今日も白い煙が立ち上っている。リオはいつものように窓辺に座り、朝の光を浴びていた。穏やかな日だった。
「リオ、今日は森の奥まで行ってみようよ。」
朝食を終えたエマが、ぱたぱたと靴を履きながら言った。
「この前、おばあちゃんが教えてくれた薬草を取りに行くの。」
リオはゆっくり尻尾を揺らした。森の奥、そこには人がほとんど近づかない。けれど、魔力の気配が薄く漂っているのを、リオは感じていた。心配だった。だが、エマは無邪気に笑う。
「大丈夫。リオも一緒なら迷わないよ。」
そう言って、黒猫を抱き上げた。リオは思わず胸が温かくなる。あの日、自分の世界を灰に染めた手が、今はこの小さな少女に寄りかかっている。そう思うと不思議な気持ちだった。
森の奥へ進むと、空気がひんやりしてくる。木々の間を抜けるたび。薄い霧が足元を撫でる。
「これとね、…どれだっけ……?」
エマが草むらを覗き込んだ。リオはそばに座り、耳をピンと立てていた。風の音。鳥の声。そして…もうひとつ。微かな魔力の波動。リオの毛がふわりと逆立つ。それは昔、戦場で感じた敵意とは違う。ただ、近くに“魔力の残り香“を纏った何かがいるという気配だ。
「エマ…」
そう呼びかけたくても、声は「にゃあ」としか出ない。少女は草を掴みながら、無邪気に鼻歌を歌っていた。その時だった。
「パキッ…」
枝の折れる音が背後から響いた。エマが驚いて跳ねる。リオはすぐにエマの前に立ち、低く唸った。
「リ、リオ…?」
茂みが揺れ、黒い影が飛び出した。それは、狼だった。牙を剥き、空腹のせいなのか目がギラついている。野生の野獣に魔力の気配がない。ただの森の王者だ。しかし、エマにとっては十分危険だった。リオはエマの前に立ったまま、鋭い視線で狼を睨みつける。狼の背には古い傷跡が見えた。苦しみ、追われ、ここまで流れ着いたのだろう。リオは自分の境遇を重ねてしまった。殺したくない、でもエマを守らなければ、とリオの心が揺れる。かつて無数の命を奪った手には、今は爪しか残っていない。どうしようか迷っていたその時だった。
「ダメ……!」
エマが小さく叫び、リオの体に腕を回した。
「リオ、怪我しちゃう…!」
少女の声は震えていた。怖いはずなのに、リオを抱きしめて離さない。自分を守ろうとしてくれている、リオはそう感じた瞬間に、胸が強く締め付けられた。リオはゆっくりとエマの腕からすり抜け、一歩前に出た。狼が唸り、飛びかかってくる。それでも、リオはエマの前から退かなかった。逃げないその迫力に狼が一歩後ずさる。エマを守る、そう決意した瞬間に黒い影は風のように走り、狼の前に着地する。リオの瞳は淡い青色に輝いた。その視線に狼が怯む。戦わなくてもいい。ただ、わかってほしい。ここは守るべき場所だと。この人は守るべき人なのだと。リオが一声、鋭く鳴いた。
「…ッ!」
狼は大きく飛び退き、そのまま森の奥へ走り去った。エマはゆっくりと近づき、震える手でリオを抱きしめた。
「…怖かった……けど、リオ、ありがとう…。」
その声は涙で緩えていた。リオの胸の奥にじんわりと熱いものが広がった。「守ること。何も壊さずに、全部救うこと。」リオはその感覚をどれほど忘れていたのだろうか。家の戻ると、おばあちゃんが心配そうに出迎えた。
「エマ!森の奥まで行ったのかい?あそこは危ないと……。」
エマはしゅんと肩を落とした。
「ごめんなさい。でも、…リオが守ってくれたの。」
おばあちゃんは黒猫に目をやると、少し驚いたように眉を寄せた。だが、すぐにいつもの優しい笑みに変わった。
「そうかい。…やっぱりこの子は、ただの猫じゃないのかねぇ。」
リオは目を細めて「にゃあ」と一つ鳴いた。おばあちゃんの言葉は、どこか真実を見抜いているようだった。
その夜、リオは窓辺に座って月を見上げていた。狼の気配ではない。魔力を纏っている。魔力の波が森の向こうに漂っている。あの狼の傷が、導きのように思えて仕方がなかった。もしかして、自分を追ってるものがいるのだろうか。魔力の痕跡を探している。そんな気がした。けれど、背後から聞こえてくる少女の寝息が、その不安を静かに消していく。
「今はまだ大丈夫だ。」
リオはそっと目を閉じた。月の光が黒い毛並みを照らし、その姿はまるで小さな守護者のようだった。
「リオ、今日は森の奥まで行ってみようよ。」
朝食を終えたエマが、ぱたぱたと靴を履きながら言った。
「この前、おばあちゃんが教えてくれた薬草を取りに行くの。」
リオはゆっくり尻尾を揺らした。森の奥、そこには人がほとんど近づかない。けれど、魔力の気配が薄く漂っているのを、リオは感じていた。心配だった。だが、エマは無邪気に笑う。
「大丈夫。リオも一緒なら迷わないよ。」
そう言って、黒猫を抱き上げた。リオは思わず胸が温かくなる。あの日、自分の世界を灰に染めた手が、今はこの小さな少女に寄りかかっている。そう思うと不思議な気持ちだった。
森の奥へ進むと、空気がひんやりしてくる。木々の間を抜けるたび。薄い霧が足元を撫でる。
「これとね、…どれだっけ……?」
エマが草むらを覗き込んだ。リオはそばに座り、耳をピンと立てていた。風の音。鳥の声。そして…もうひとつ。微かな魔力の波動。リオの毛がふわりと逆立つ。それは昔、戦場で感じた敵意とは違う。ただ、近くに“魔力の残り香“を纏った何かがいるという気配だ。
「エマ…」
そう呼びかけたくても、声は「にゃあ」としか出ない。少女は草を掴みながら、無邪気に鼻歌を歌っていた。その時だった。
「パキッ…」
枝の折れる音が背後から響いた。エマが驚いて跳ねる。リオはすぐにエマの前に立ち、低く唸った。
「リ、リオ…?」
茂みが揺れ、黒い影が飛び出した。それは、狼だった。牙を剥き、空腹のせいなのか目がギラついている。野生の野獣に魔力の気配がない。ただの森の王者だ。しかし、エマにとっては十分危険だった。リオはエマの前に立ったまま、鋭い視線で狼を睨みつける。狼の背には古い傷跡が見えた。苦しみ、追われ、ここまで流れ着いたのだろう。リオは自分の境遇を重ねてしまった。殺したくない、でもエマを守らなければ、とリオの心が揺れる。かつて無数の命を奪った手には、今は爪しか残っていない。どうしようか迷っていたその時だった。
「ダメ……!」
エマが小さく叫び、リオの体に腕を回した。
「リオ、怪我しちゃう…!」
少女の声は震えていた。怖いはずなのに、リオを抱きしめて離さない。自分を守ろうとしてくれている、リオはそう感じた瞬間に、胸が強く締め付けられた。リオはゆっくりとエマの腕からすり抜け、一歩前に出た。狼が唸り、飛びかかってくる。それでも、リオはエマの前から退かなかった。逃げないその迫力に狼が一歩後ずさる。エマを守る、そう決意した瞬間に黒い影は風のように走り、狼の前に着地する。リオの瞳は淡い青色に輝いた。その視線に狼が怯む。戦わなくてもいい。ただ、わかってほしい。ここは守るべき場所だと。この人は守るべき人なのだと。リオが一声、鋭く鳴いた。
「…ッ!」
狼は大きく飛び退き、そのまま森の奥へ走り去った。エマはゆっくりと近づき、震える手でリオを抱きしめた。
「…怖かった……けど、リオ、ありがとう…。」
その声は涙で緩えていた。リオの胸の奥にじんわりと熱いものが広がった。「守ること。何も壊さずに、全部救うこと。」リオはその感覚をどれほど忘れていたのだろうか。家の戻ると、おばあちゃんが心配そうに出迎えた。
「エマ!森の奥まで行ったのかい?あそこは危ないと……。」
エマはしゅんと肩を落とした。
「ごめんなさい。でも、…リオが守ってくれたの。」
おばあちゃんは黒猫に目をやると、少し驚いたように眉を寄せた。だが、すぐにいつもの優しい笑みに変わった。
「そうかい。…やっぱりこの子は、ただの猫じゃないのかねぇ。」
リオは目を細めて「にゃあ」と一つ鳴いた。おばあちゃんの言葉は、どこか真実を見抜いているようだった。
その夜、リオは窓辺に座って月を見上げていた。狼の気配ではない。魔力を纏っている。魔力の波が森の向こうに漂っている。あの狼の傷が、導きのように思えて仕方がなかった。もしかして、自分を追ってるものがいるのだろうか。魔力の痕跡を探している。そんな気がした。けれど、背後から聞こえてくる少女の寝息が、その不安を静かに消していく。
「今はまだ大丈夫だ。」
リオはそっと目を閉じた。月の光が黒い毛並みを照らし、その姿はまるで小さな守護者のようだった。



