夜明けの鐘が鳴る響くに戦はもう終わっていた。リオの魔法が、空を赤く染め、炎の雨を降らせ、地を割り、敵軍を一夜で沈黙させたからだ。戦地にはリオ一人、煙のような魔力の残滓が漂うのみだった。それでもリオは、勝利の実感を持てなかった。守るために戦ったはずの手が、魔法が、あまりにも多くの命を奪ったからだ。彼はただ静かに呟いた。
「これで、国は安らぐのか…。」
胸の奥に重たい疲労を抱えたまま、リオは愛する家族の待つ町へ続く道を進む。石畳の道を進む音が奇妙に響く。いつもなら聞こえるはずの楽しそうな声も、笑いも、何一つ聞こえてこなかった。
 門の前に立つ兵士たちは、リオを見るなり一歩、もう一歩下がった。瞳には恐怖が宿り、しかしその中には罪悪感も感じられた。リオは眉をひそめた。
「…どうしたんだ。俺だぞ。ただ、自分の町に、家に帰って来ただけだ。」
その言葉に兵士たちは黙って俯いた。その場から音が失われたように、沈黙だけが町を覆っていた。
 奇妙な感覚に包まれつつも、我が家が見えてきた。家の扉を開けた瞬間、異臭と冷たい風が吹き抜けた。部屋の中は荒らされ、家具は倒れ、花瓶は落ちて割れていた。その下に枯れた花が顔を出していた。家族の名前を呼ぶ。答えはない。家族の姿を探していると、ふと机の上に紙が置いてあるのに気がついた。端が焦げたように黒ずみ、また赤黒い何かが付着し、幼い筆跡で一行だけ書かれていた。
「ぱぱ、どこにいるの。たすけて。」
また冷たい風がリビングを吹き抜ける。震える指先の間から紙が飛び、目の前を舞った。紙が裏返る。そこには、みんなで撮った家族写真が写っていた。彼は我に帰り、愛する者の姿を探す。初めて娘が立ったリビング、妻と一緒にご飯を作ったキッチン、どこにも見当たらない。最後の希望を乗せ、ベッドルームの扉を開ける。異臭が鼻腔をくすぐった。月明かりが窓から差し込む。彼は目を見開いた。愛する物はそこにあった。変わり果てた姿で横たわっていた。彼は静かに近づく。声をかけても、肩を揺すっても、返事はない。閉じられた瞼は開くことはなかった。愛した物を抱きしめる。すると、かつて妻だった物の手に、小さな紙が握られていることに気づいた。
「逃げて」
ただ一言それだけが書かれていた。風が窓を叩く音が、遠く、悲鳴のように響く。その瞬間、全てを悟った。
王が命じたのだと。敵軍を一人で片付けるような強すぎる魔法使いは、国を脅かす存在になる。それなら、家族ごと消してしまえと。その命令に町の人々は逆らえなかったのだ。彼が守った国も、彼が救った人々も、裏切った。命を奪ってまで守ろうとした全てが。
リオの胸の中で何かが崩れた。崩れたそれは静かな音を立てて、心の底で粉々に割れて散った。怒りも、悲しみもない。ただ、空っぽになった。彼は握っていた拳の力を開いた。掌の上に淡く青い光が浮かぶ。それは彼が戦で使った、一夜で敵軍を壊滅させた魔法の残滓。世界を癒すため、国を守るため、人々を救うための光だった。リオはそれを見つめながら、かすかに笑った。
「癒す?守る?救う?…一体何を?誰を?」
彼の足元の砂がざわめく。風がうねり、空が鳴る。抑えていた魔力が、ひとつ、またひとつと体外へ解けていく。溶け出していく。石畳の上を青い光が這った。家々の屋根が照らされ、世界は青く満ちていく。
「これで…終わりだ。」
その呟きは祈りのようにも聞こえた。風が叫ぶように吹き荒れ、地面が震え、空の星々が一瞬でかき消される。青い光が町を包み込み、形あるものがひとつ、またひとつと溶けていく。悲鳴はなかった。ただ、静かな風音だけがあった。光は全てを覆い、そしてゆっくりと消えた。
 気づけばリオは地に膝をついていた。周囲には灰が舞い、こげた匂いが漂っている。握りしめていた杖が砕け、粉のように散っていった。
「俺は……何を、したんだ…」
指先から血のような魔力が溢れ出し、地面に落ちるたび、周囲の音が消えていった。風が遠くの子供の笑い声を運んだ。幻のように優しい声だった。その音が、リオを我に返した。リオは立ち上がった。残った力を胸の中に集める。それは攻撃するためではない。防御するためでもない。それは罰の呪文だった。
「この身が再び誰かを傷つけることがないように、いっそ、人の身を捨てよう…。」
光が彼を包み込む。炎のようでありながら、雪のように冷たい光。視界が滲み、音が消え、世界が遠ざかった。
 やがて、静寂だけが残った。瓦礫の上に小さな黒い影が一つ。それは震えるように息をした。空が白み始める。風が吹き抜け、灰を運び去った。黒い影は焦げた町を背にゆっくりと歩き出した。その足音は、やがて森の中へと消えていった。
 償いの旅はここから始まった。