✳︎
「久城さん、休憩ルームの冷蔵庫に新作入ってるから取っていってね」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
「お疲れ〜」
わたしの勤める会社はかなりのホワイト企業に分類されるだろう。残業は月平均で20時間程度。異動後の引継期間も十分に設定されているから無理な残業もない。定時は18時。繁忙期以外は定時後1時間以内に退勤する社員が多く、今日もちらほらとパソコンが光っているだけだった。みなとみらいの支店から本社の人事部へ異動してきて約一ヶ月。少しずつ新しい業務と生活にも慣れてきたところだ。
直属の先輩である弓木さんから伝えられていた〝新作〟を冷蔵庫から取り出す。冷えた缶を鞄に入れて、社員証をかざして本日のお仕事は終わり。
今日も空が高い。帰り道、左肩に掛けたトートバッグの住人となった冷え冷えのアルミを思い起こす。それから脳内を支配するのは喜びや好奇心ではなく、一種の絶望とあきらめだった。
「……わたしは、試飲をするために入社したんじゃない」
誰もが憧れるような超大手企業。頭を動かして手を動かして、人脈をフル活用して勝ち取ったはずの内定だった。環境も人間関係も良好でなにひとつ不安要素はない。けれどわたしの心はずっと燻っている。このままで良いのだろうか、なんて。
「あ、そういえば」
思わず飛び出したひとりごとに、返事がなくて思い出した。今日はまたお気に入りの河川敷に向かうんだった。……わたしの頭がおかしくなくて、昨日の出来事が夢でなければ。ファンタジー世界の住人のような白猫がいる。
かわいくて丁寧で、どこか憎めない愛らしいみるくに会いに行こう。癒しを求めて、新作の麦酒を手にして。
✳︎
ぷしゅ、とアルミを鳴らすこの瞬間が世界でいちばんすき。退勤したその足で向かった河川敷、いつものベンチで鞄に忍ばせた缶を手に取った。
「ビールしか勝たん!」
ぐ、ぐぐ、と喉に炭酸をくぐらせてゆく。少し重ためでフルーティーな香りが残るのは弊社ブランドの特徴でもあった。冬に季節限定で販売するビールは比較的華やかで香り高いものが多いので、今回も同じ路線での開発になったのだろう。
「って、わたしも開発会議に参加したいんだけどな!」
わたしの勤める飲料メーカーは国内でもトップを争うリーディングカンパニーだ。20歳、お酒が飲めるようになって、はじめは苦手だったビール。一度飲めるようになってしまえば「とりあえず生で」以外の選択肢はなくなっていった。
そんななかですぐに訪れた就職活動シーズン。ビールを好きになったきっかけであり、今でもいちばん好きな銘柄を販売している会社を第一志望として、見事入社することができたのだ。
あれほどまでにビール愛を語って内定を得たのだから、当然にビールに関わる部署に配属されるだろうと思い込んでいた。営業から始めて、ゆくゆくはマーケティングへとそんな夢物語を描いていたのだ。
ただし、現実は。
「それでジュース部門配属ってなんなのよ!?!?」
炭酸は炭酸でも180度違う。自社のジュースはビールよりももっと前から親しんでいて大好きだ。けれど、わたしがこの会社を選んだ決め手はやっぱりビール。入社したからにはビールに関わるお仕事がしたかった、のに。
「にゃ。大変だねえ」
「わぁ!?出たぁ!?」
「失礼にゃ」
炭酸が弾けるその一瞬で、白猫はまたわたしの前に現れた。昨日と同じく、ぴょん、と擬音が付きそうなくらい軽やかに膝の上にやってきた。
「来てくれないかと思ったにゃ」
「来てって言ったのはみるくだよ。わたしに会いたかったの?」
「……別にそんなことないにゃ」
ふい、と顔を逸らしたみるく。ツンデレかい、可愛いかよ。
「なーこ、さっきからひとりごとばっかりだった」
「聞いてたの……?」
「にゃ」
えーん。油断していた。ここにはみるくがいるんだった。喋ることができるとっても不思議な白猫。なぜかアレルギー反応を起こさないふわふわにぎゅっと力を込めると、あからさまに嫌そうな顔をしながらも大人しくしてくれているツンデレなねこちゃん。
「……ひとりごとを聞いた上で、みるくはどう思う?」
「にゃ?」
ふつうなら、猫にお悩みなんて相談しない。けれどこの子には話したくなったのだ。そもそもひとりごとは聞かれてしまっているし。
澄んだ瞳をわたしに向けながら、声色に柔らかさを混ぜ合わせて問いを投げてきた。
「なーこ、好きなお仕事できてないの?」
「んー、そんなかんじ。働く場所が変わるから、あわせてこの近くに最近引っ越してきたんだけど……希望の部署には行けなかったの」
「好きなの、どんなお仕事?」
「これ。この飲み物に関わるお仕事」
左手に持っていたピンクオレンジ色の缶を指した。このシリーズのビールは女性人気も高い。味も見た目も女性に向けたマーケティングがなされている。
「なーこはビールが好きなんだね」
「そう、大好き。だけどね、最初に配属されたのはジュース部門だった。それから今は、人事部に異動になったの」
好きなことがしたくて、好きな会社に入社した。部署やチームが細分化されている会社で、希望通りにいかないことなんてわかっている。それに、周りの人間関係だって良好でなんの問題もない。けれどもどかしさは募るばかりで。
「社員もたくさんいる大きな会社で、わたしじゃないとダメなことってないんじゃないかなって……」
……女のお悩み相談に解決策はいらない。共感と欲しいことばの察知が最重要だ。「そんなことないよ」とか「なーこは頑張ってるし必要だよ」とか、そういう言葉が欲しいだけ。もらえるように誘導している。
自分の浅ましさは自分がいちばんよくわかっている。なんて滑稽なのだろう。
「……なーこは、きっと会社にも、配属された組織にも必要な人材にゃ」
膝の上でくつろぐ白猫は、ビー玉みたいなひとみをじい、とこちらに向けていた。
「……って、言ってほしいってわたしの顔に書いてあった?」
「さぁ」
わかりやすい猫ちゃんだ。わたしの欲しいことばを瞬時に汲み取った。棒読みと冷ややかな視線を送りながらも一応ことばにしてくれた。うん、なんともかわいい。
「……でも、あんまりよくわかんないけど、みるくはなーこのこと好きだにゃ」
「じゃあ、誰かと関わることが多い人事部は適任?」
「なーこ、すぐ言わせようとするにゃ」
「やっぱりわたし、言わせたい感あったんだ?」
「……にゃー」
都合が悪くなると途端にふつうの猫っぽく鳴くのもいじらしい。そしてたぶんこの白猫はわたしのことが好きだ。どこからか湧き出る自信がある。
「にゃ!」
「え!」
不意にみるくがわたしの膝から逃げた。犯人はたぶん、私のスマホ。ぶるぶると震えていた。
「あ、彼氏から電話だ。ごめんねみるく、わたしも乙女なの」
「…………」
「またね、みるく」
「……にゃー」
今日は金曜日。大好きな彼氏からの連絡は、夜空の星と同じくらい煌めいてときめく。るんるん気分でスマホを耳に当てたけれど、確かにあった着信はすぐに切れて、それから繋がらなかった。……なーんだ、残念。おうちに直撃してみようかな。
みるくと彼氏と会う金曜は、とっても素敵で癒しの時間だ。
「……みるく、陽織に会いたいにゃ」
ビールが大好きなOLとことばが使える白猫の出会いは、まだまだはじまったばかり。
-いったん、おわり!-


