うちの猫が届けるものは

 私は猫が嫌いだ。気まぐれでわがままで、いつだって私の嫌なものだけを届けてくるから──。

「……柊ちゃんっ」
 私は思い切り声を上げた。しかしそのドアの奥から、返事は聞こえない。
「……おやつ、置いておくね」
 さっきまで気合いを入れて、思い切り大きな声を出していたくせに、返事が聞こえないだけで、その気合いはすっかりしぼんでしまった。
 私はキャットフードが乗っているお皿を兄の部屋の前に置いた。それから足音を立てずにそっと部屋を離れる。
 ああ、結局毎日この繰り返しだ。明日やろう、明日頑張ろうと思ったくせして、必ず諦める。いったい何回この繰り返しをすれば終わるんだろう。まるで先が真っ暗の宇宙にいるみたい。きらきらと輝いている希望の星はすぐそばに見えるのに必ずそのチャンスを逃す。私はとんでもない鈍感な人だ。
「小さい頃はこうじゃなかったんだけどなぁ……」
 私は昔の思い出にふけった。

 前はこんな関係ではなかった。楽しい思い出しかないと思う。
 私、千波(ちな)には兄の柊斗(しゅうと)がいる。(しゅう)ちゃんと呼んでよく懐いていた。柊ちゃんがいないと何もできなくて、そばを離れようとしなかった。柊ちゃんはそれを嫌がることなく、私を可愛がってくれた。
 幼稚園のときなんかは歴史アニメやドラマの真似事をして、遊んでいたっけ。
 小学生はカードゲームをしたり、夏休みはクーラーの効いた部屋で音楽を聴いたり、宿題をしたりした記憶がある。ユーチューブは好きな動画を見せてくれたり、お昼ご飯を作ってくれたりした。お母さんが隠した柊ちゃんのスマホを一緒に必死になって探すのが何よりも楽しかった。
 転機は柊ちゃんが中学三年生のときだった。高校受験で柊ちゃんは塾にこもることが多くなり、家に帰ってきても部屋に入って出てこないことが何度もあった。お母さんからも「邪魔をしないように」と釘を刺されて、気軽に話せなくなってしまった。
 高校受験が終わったあとも気まずくて話しにくかった。いつか仲直りしよう──。また一緒に遊ぼう──。そう思っていたはず。でも柊ちゃんとはもう趣味も話も合わないと分かった。柊ちゃんが高校生になったらもう大人の仲間入り。まだ小学五年だったの私とはあまりにも住む世界が違った。
 そうして、高校受験が終わったあともぐだぐだとして、あっという間に次は大学受験になった。今の私はもう中一だし、柊ちゃんの勉強時間を奪ってまで遊びたいとは思わない。お母さんも言わない。だいたい何を話せばいいのか。ほとんど、一緒にいたこともないからか、共通の話題なんてなかった。
 そして、私の飼っている猫はアユ。私が飼いたいと言い出したのだが、アユ本人は柊ちゃんの方が気に入っているらしい。私が食事係だが、アユは柊ちゃんが良すぎて、部屋から一歩も出てきてくれない。私は、柊ちゃんの部屋に入ろうとはできない。だって、勉強中かもだから。入ればいいのに、それができなくて、いつも部屋の前にお盆を置いて帰る。柊ちゃんと話す機会はこんなにあるのに。
 とにかく、アユは柊ちゃんのことが大好きなのだ。かと思えば、急に私に甘えてきたりする。本当、わけわからない。食べたくないものは食べない。たまに食べる。気まぐれでわがままだ。そして、いつも柊ちゃんとくっつけようとする。アユなりの気遣いかなと思うけれど、私や柊ちゃんにとっては地獄の雰囲気でしかない。お互いに喋らすに気まずそうに視線をかわすのみ。だから嫌いなのだ。猫が。アユが。……自分から、飼いたいって言ったのに。

 翌日。久しぶりに柊ちゃんと一緒におつかいに行くことになった。もちろん、アユのおやつを買いに行くためだ。
「……あ……」
 沈黙に耐えられなくて、頑張って話そうとはしたが、かすれた声しか出ない。しかも柊ちゃんには聞こえなかったようだ。
 今日こそはしっかり柊ちゃんと仲直りしよう。そう決めて、今日はわざわざ「私もおつかいに行く」と宣言したのだ。
 柊ちゃんは目的のおやつをひょいひょいとパックを二つ取った。カゴの中に入れてすたすたと歩き始める。
 ダメだ、このままじゃ、何も話さずにおつかいが終わってしまう。それじゃダメだ。
 ぐるぐる考えているうちにお会計も終わってしまった。買い物袋におやつを入れ、柊ちゃんは買い物袋を肩にかけた。
 私、何もしてない。何かしなきゃ。どうしよう。何を手伝えばいい?
「…………」
「…………」
 沈黙が続く。口がまったく動かない。体がこわばって震える。
 あっという間に家に着いてしまった。ああ、結局、何もできなかった。
 気まずい空気だけが、私に届いた。やっぱりアユは私の嫌なものしか届けてこない。

 その日の午後のことだった。
「……わあああああっっっ!!!!」
「……!?」
 突然柊ちゃんの部屋から叫び声が聞こえた。
 あわてて私は柊ちゃんの部屋のドアを開けた。久しぶりに柊ちゃんの部屋を見た。ずいぶん乱雑としている。床には抱き枕と赤本が積み上がっていた。本当、柊ちゃんは私がいないとゴミ屋敷になってしまう。そういうところは昔から変わらない。
 机の上にはマグカップが置いてあった。これでもかとなみなみに入れすぎたココアがおいしそうに湯気を立てる。柊ちゃんは昔からそういうクセがある。何が楽しいのか、私にはさっぱりだけど。
 柊ちゃんは私が部屋に入ったことにびっくりしているようだった。そこで私もびっくりする。あんなに怖くて入れなかった柊ちゃんの部屋に自分から入った。なんのためらいもなく。信じられない。
「あ……柊ちゃん、どうしたの?」
 久しぶりに話した私の声はびっくりするほど自信なさげだった。
「いや……アユが急に飛びかかってきて、俺の参考書、全部落としてきたんだよ」
 なんだ、そういうことか。さすがに高校三年にもなって、こんなに汚いことはないか。
 でも、久しぶりに聞いた声だ。声変わりが終わったのか、すごく低くなっている。顔立ちも大人っぽくなって、やっぱり違う世界にいるんだと実感した。
「それで、部屋がこんなことに……」
「いや、落とされたのは二冊だけ」
「……じゃあ大して変わってないじゃん!」
 ダメだ、柊ちゃんはやっぱり変わっていなかった。
「何が変わってないって?」
 ギロリとにらまれ、私はあわてて「大変申し訳ございませんでしたっ」と謝った。ああ、こんな目で見られたのもいつぶりだっけ。前はよく泣いていたのに、今はくすりと笑えるようになったな。
「みゃあ……」
アユが柊ちゃんになすりついた。そして私の方を見て、にんまりと笑った。もしかして、アユはまた私を気遣っていたのかもしれない。
「何してる? 早く手伝えよ」
「はあ? 汚くしたのは自分でしょ。もう、高三にもなったんだし、自分のことは自分でやれば?」
「ちっ。変わったな」
「そりゃ、変わります! あなたが変わらなさすぎなの!」
 ぶつぶつ言いながら結局私は手伝ってしまう。柊ちゃんと話すことができた。その喜びを胸に秘めて──。

「ちゃんと宿題してよね~」
「するよ、今から!」
 お母さんの声を聞きながら私は二階へあがった。
 ……あれ。ドアが開いてる。またお母さんが私の部屋に入ったのかな。本当、嫌になる。
 その時、私は机の上に何かのっていることに気づいた。
「私のマグカップ……?」
 なんでこんなところに? 今朝はしっかり洗って食器棚に戻したはず。
近づいてみると、そのマグカップは私ので間違えないようだった。カップの中になみなみと入れすぎだと思うくらいぎりぎりまでココアが入っていた。
「……っ!」
 思わず息を飲んだ。マグカップの中になみなみと入れすぎだと思うくらいぎりぎりまでココアを入れる人を私は知ってる。彼のクセはいつになっても変わらない。
「みゃお?」
 ふと下を見たらアユがいた。かわいらしい顔で私を見上げる。そしてほっぺを私の足になすりつけてきた。
 ふわふわの毛が暖かい。優しい温もりだ。
 それにしても、と思う。なんで直接渡してくれないんだろう。せめて、置き手紙くらい書いておけばいいのに。彼は照れ屋なのかもしれない。
 やっぱり私たちはぎこちない。お互いに不器用で、照れ屋で──。でも大丈夫。私は、私たちはまた歩き出せる。いつか昔のような日が来るから。 
 下を見ればアユはめずらしく私におやつのおねだりをしている。アユから愛されていたのは柊ちゃんだけじゃなかったんだ。そう気づいて、私はリビングに戻ってマグカップにココアを入れた。もちろん、なみなみに。向かう先は誰かの部屋。 
 今日も私は、一歩一歩、アユと一緒に踏みしめる。

 私は猫が大好きだ。気まぐれでわがままで、いつだって私の必要としているものだけを届けてくるから──。