第三章 鈴の音、ひとつ。

朝。
リビングは今日も戦場である。

「ママー! カナタが牛乳こぼしたー!」
「ちがう! リンネがしっぽで倒したんだよ!」
「ヒマリ、パンくわえたまま寝ないの!」

(……この家、毎朝がサバイバル)

私はテーブルの下でパンくずを狙いながら、
「またやってる」と思っていた。
だって人間って、どうして毎日同じことで騒げるの。
まるで修行僧。

「もうっ、ドタバタしないで!」
ミサキが言いながらも笑っている。
その笑顔を見るたび、私は思う。

(あぁ、今度こそこの人を、幸せにしなきゃ)




その日、ミユウが学校から帰ってくると、
紙袋を抱えていた。

「ママー! これね、今日の家庭科で作ったんだ!」

袋の中には――小さな赤いリボン。
真ん中には、銀色の鈴がついている。

「猫の首輪? ミユウ、上手にできたね!」
「リンネにつけてもいい?」

ミサキは少し迷ったあと、笑ってうなずいた。
「……そうね。うちの子、だもんね」

(うちの子……!)

胸の奥がじんと熱くなる。
前世では“秘密”だった私が、
今は“家族のまんなか”にいる。

ミユウが首輪をそっとつけてくれた。
チリン――。

鈴が鳴った瞬間、
空気がすこし柔らかくなった気がした。

「リンネ! かわいい~!」
「なんか高級猫っぽい!」
「リンネ、モデルデビューする!?」

(それは遠慮しとく)

みんな笑って、
ミサキも目を細めている。

私は思う。
――この音こそ、“家族の証”。

夕方。
夕焼けがカーテンを染めるリビングで、ミサキは小さくため息をついた。

「……今日も、また叱っちゃった」

ミユウとカナタの喧嘩のあと、
散らかった部屋の中で一人、手を止める。
食器の音もテレビの声も消えて、
その沈黙がやけに重く感じられた。

リンネはテーブルの下から顔を出した。
静かに近づき、ミサキの足元にすり寄る。

「……リンネ?」

彼女の足に、リンネの小さな体温が伝わる。
まるで、「おつかれさま」と言っているように。

ミサキは思わず笑って、
床にしゃがみ込む。

「どうしてわかるの? 私が弱ってるときばっかり」

リンネは喉を鳴らしながら、ミサキの手に頭をこすりつけた。
その鈴の音が、ほんの少し震えて響く。

チリン――。

「……ありがとう」

ミサキがつぶやいた。
リンネはその言葉に、もう一度鈴を鳴らした。
(ううん、ありがとうはこっちのほうだよ)

窓の外では、沈む夕陽がやわらかく光っていた。
部屋の中は散らかっていても、
その空気だけは、確かに温かかった。


夜。
ミサキが食器を洗いながら、ふと空を見上げた。
窓の外には、春の星。

「ねぇ、リンネ。
 あの頃の私、ちゃんと生きてるよ」

ミサキの声が、
静かな部屋に溶けていく。

私は足元で丸くなり、
鈴を鳴らして答えた。

チリン。

(うん。ちゃんと見てるよ)




翌日。
ミユウが学校の「家族作文」で書いた。

> 『うちは6人家族です。
あたしと、パパママと、カナタと、ヒマリと、リンネ。
リンネは話せないけど、
鈴の音で笑ってくれます。
それが私たちの“おかえり”の音です。』



先生が涙をぬぐいながら読んだらしい。
(うん、わかる。私も泣く)




> 世界にたったひとつの鈴の音が、
今日も家族のまんなかで鳴っている。



チリン。
――それは、「ありがとう」の音。